高杉銀平師(4)
鬼平と左馬の、高杉銀平師ゆずりの一刀流の剣の妙技を、あますところなく活写しているのは、文庫巻11[土蜘蛛の金五郎]が第一とおもう。
月はあっても、犬の仔(こ)一匹見えぬ道であった。
江戸湾の汐の香が高い。駕籠が、会津屋敷の手前掘割りに架(か)かっている小さな橋をわたったときであった。
ふわりと---。
闇の幕を割ってあらわれた黒い人影が一つ。
(略)
提灯を切り落とされた山本医生を突き退(の)けるようにして、黒い影が駕籠の前に立ち、
「長谷川平蔵。出ろ」
(略)
「何者だ」
駕籠の垂(た)れをはねあげ、偽(にせ)の長谷川平蔵---すなわち、岸井左馬之助が、
「盗賊改方、長谷川平蔵と知ってのことか」
叱りつけるようにいって、悠然と、駕籠からでた。
「まいる」
本物が、ぴたりと正眼(せいがん)に構えた。
「む!」
ぱっと飛び下った偽者が、すかさず抜き合わせて。下段。
ともに、故高杉銀平(たかすぎぎんぺい)先生直伝(じきでん)の一刀流である。
「鋭(えい)!」
「応(おう)!」
本物と偽者の気合声(きあいごえ)が起ったと見る間に、幅(はば)二間(けん)の道で、猛烈な斬り合いがはじまった。
ここから先は、文庫p82 新装版p85 でつづきをお読みいただく。
いや、ファンなら、読むまでもなく、一部始終をありありと想起なさるはず。
この斬りあいのものすごさの結果には、後日譚(ごじつたん)がある。
例の、額から鉄片をこじりだすくだりである。
下をクリックしてお確かめいただこう。
【参照】2007年4月1日[『堀部安兵衛』と岸井左馬之助]
話は変わる。
高杉道場での稽古だが、テレビ版のVTRで見ると、どうも、竹刀でなく、木刀でやっているらしい気配である。
池波さんが「不滅の名著」と絶賛した山田次朗吉師著『日本剣道史』(1925刊 復刻版=再建社 1960.5.20)の、池波さんがその「通論(前文)」だけでも読んでほしい---と期待している文章から、関連箇所を現代風の文に改めて紹介してみる。
剣の教授法については、古くから木太刀(木刀)で稽古したのはもちろん、素面・素篭手(こて)であった。
そこへ、上泉信綱が柳生庄へ技を磨きにきたころ---戦国末期---袋撓(ふくろしない)の案出があり、うっかり勢いあまって木刀が身にあたって傷を負わせてしまう危険を避けるようになった。
その作り方は、今日のものとは異なっていて、三十から六十に裂いた竹を皮袋に包み、長さは3尺3寸(ほぼ1m)を定法とした。
柳生はこの上泉の発明を襲用して、その稽古はみな撓打(しないうち)として木太刀は使わない、
撓(しない)採用の弁ともとれる文が『本識三問答』にある。
他流には木太刀をもって剣術を教えている。木太刀は躰にあたる寸前で止めて、手には当てない。手の間際まで木太刀で詰めて、「はや、よく詰めたり」とほめておく。これでは、真の打ち込みの手ごたえを手がおぼえるはずがない。柳生流は「しなひ」で剣術をならう。撓だと、真剣の味わいが得られる。真剣はおしまずに打つ。撓もおしまずに打てるから、真剣とかわらない。(後略)
時代の趨勢は諸流とも次第に撓打ちに変わってきた。
というわけで、徳川200年を経ての高杉道場も、木太刀でなく竹刀を用い、素面・素篭手でなく、防具をつけていたと推察しているのだが。
もちろん、秘伝を伝える時には、真剣を使ったかもしれない。もっとも刃止めをほどこした太刀であったやもしれない。
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