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2008.05.12

高杉銀平師(3)

池波さんが、山田次朗吉師著『日本剣道史』(1925刊 復刻=再建社版 1960.05.20)を「不滅の名著」と激賞していることは、すでに報じた。

同書に刺激をうけた池波さんが、[明治の剣聖-山田次朗吉](『歴史読本』1964.6月号 のち『霧に消えた影』PHP文庫に収録)をものにしたことも文末の【参照】(2)に紹介しておいた。

明治の剣聖-山田次朗吉]は、『鬼平『犯科帳』シリーズの連載に先立つこと、4年である。
同小篇を構想するにあたって池波さんが参考にした資料は、大西英隆著『剣聖山田次朗吉先生』ほかであった。

それらの中に、一橋剣友会が刊行した島田宏編『一徳斎山田次朗吉伝』もあったとおもわれる。
というのは、同書が振り棒修行にふれているからである。

山田師の)道場には榊原(健吉)先生時代より伝来の樫の棒がありました。長さ5尺(1,5m強)、末口3寸5分位(10.5cm強)、先太なる八角に削り手元1尺(約30cm)の部分だけ丸く握れるように造られたものでした。

この振り棒は、千葉県君津郡富岡下郡大鐘(おおがね)生まれで、22歳だった次朗吉青年が、師と見込んだ榊原健吉に入門をゆるされるくだりに登場している。

「およし。剣術なぞではおまんまが食えねえから---」
何度も、とめた。
しかし、次朗吉はきかない。
あまり強情なので、ついに、
「よし。それじゃあ、そこにある振棒を十回も振ってごらんな」
見ると、そこに長さ六尺に及ぶ鉄棒があった。目方は十六貫余もあったというが、こんなものを、とても次朗吉が振りまわせるものではない。

16貫といえば、64キロ弱である。16貫は池波さんのいつもの早とちりのような気がする。16キロ(4貫目)なら、まあ、納得できないこともない。4貫だって米1俵分の重さである。
(じつは、ひそかに、4キロ(1貫目)だったのではないかと推論しているのだが)。

いずれにしても、榊原健吉師は老年になってもこの振り棒を毎朝軽がると100回振っていたという。

入門時に振り棒を振らせたのが、『剣客商売』の秋山大治郎であることは、ファンの方なら即座に了解であろう。
鬼平犯科帳』文庫巻5[兇賊]でも、高杉道場にも鉄条入りの振り棒があったと書かれている。
狡知(こうち)に長(た)けた土地(ところ)の悪党・〔土壇場(どたんば)〕の勘兵衛一味の悪行に---、

二十一歳の平蔵が、ついにたまりかね、高杉道場の同門・岸井左馬之助と井関禄之助に助太刀をたのみ、勘兵衛がひきいる無頼どもに十余人を向うへまわし、柳島の本法寺裏で大喧嘩をやったのは、その年(明和3年 1766)の十二月十日である。
こっちは三人で刃物はつかわず、高杉道場で使用する鉄条入りの振棒(ふりぼう)をもち出し、群(むら)がる無頼どもと闘(たたか)った。p206 新装版p216

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(横川東 緑〇=本法寺裏 赤○=高杉道場 橙=春慶寺 近江屋板)

兇賊]の初出は『オール讀物』1970年11月号、『剣客商売』の大治郎の道場に赤樫の振り棒があることが明かされたのは、[剣の誓約]が掲載された2年後の『小説新潮』1972年2月号だから、鬼平たちのほうが、一足先に使っている。

また、左馬や禄之助も携えて出動したらしいから、高杉道場には3本以上が備えられていたとわかる。
いっぽうの大治郎の道場は、開いたばかりだから、1本しかなかったろう。

こういう瑣末(ディテール)がどうして即座に比較できるか。じつをいうと、『鬼平犯科帳』も、『剣客商売』も、登場する全人物、町や村、橋や坂、神社仏閣、剣銘や武器、天候や花蝶風月、料理や菓子などを、膨大なデータベースに打ち込んでいて、あっというまに検索できるようにしているからである。
(このブログのアクセサーであるあなたも、第一ページ右欄の[検索]欄から「このプログ内で検索]を選択なされば、これまで入力ずみの1,278件から簡単に拾いだすことが可能)。

ついでだから、戦前刊の平凡社『日本人名事典』(193710.22)から、榊原健吉師の項を写しておく。
(同大事典には、なぜか、山田次朗吉師は収録が洩れている)

サカキバラケンキチ 榊原健吉(さかきばらけんきち) (1830-1894) 幕末の剣客。徳川氏累世の臣。天保元年十一月五日生る。友直の子。幼より剣術を好み、年十三にして男谷信友の門に入り直心影流を剣法を学ぶ。安政年間徳川幕府講武所を設くるや健吉に師範役を命じた。維新後静岡に移ったが明治十三年上京、下谷車坂に住し、専ら剣術の衰頽を憂ひ、六年撃剣会を創立して斯道の隆盛を図った。十一年八月上野公園に於て技を天覧に供し、ついで伏見宮の庭園に於て兜験の天覧を辱うするや、名声四方に聞え、内外入門するものが多かった。明治二十七年七月十一日歿、年六十五。(秋田)

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(榊原健吉撃剣会 『武芸流派大事典』新人物往来社より)

拙著『剣客商売101の謎』(新潮文庫 2003.3.2 絶版)に、池波さんは山田次朗吉師著『日本剣道史』のせめて通論だけでもと推しているその通論の一部を、当世流の言葉に置き換えて引用しているので、写してみよう。

「剣道が兵法と呼ばれた古(いにし)えより今日まで、幾多の変遷消長があったが、精細に事態をいうのはむずかしい。
けれども庶民が刀剣を腰に闊歩(かっぽ)する時代は、一消一長の屈伸はあっても撃剣の声はいたるところ絶えなかった。
足利氏が兵権をにぎったころから、この道の師範家はようやく定まり、流派も続出してきた。
刺撃(しげき)のみをこととした古風は一掃され、各派、剣理の考究に少なからず苦心した」

「すなわち、型と称するものが生まれ出たのである。
この型を平法と称する原則に基づいて、仕太刀、打太刀の順逆、利害を研究し、進んで敵手に打ち勝つ理法を案出した」

「この法式によっておのおの名称をつけ、家々の規矩準縄(きくじゅんじょう)とし、中には秘太刀と唱えてたやすく人には伝えないものを工夫して相伝と号した。
相伝を得た者はすでに師範の資格を備え、門戸を別に設けて一家をなすことができた。
これによって余技に達する者は、二、三の型を増減して、あえて名義を変えて一流を組織し、みずから流祖になる者が多い」

「だから詮ずるところ、流派を違えても実質は同じもの、流派は同じでも実質は異なるもの、あるいは同門から出ても個人の天賦(てんぷ)の特性によって技巧を異とするなど、一定一様ではない」

_100 秘太刀を授かることを免許皆伝ともいうが、これを主題とした池波さんの好短編が、[剣法一羽流](同題の講談社文庫の収録 1993.5.15)である。
初出は、『小説倶楽部』1962.11月号)。
同巧のオチが語られるのが『鬼平犯科帳』文庫巻12[高杉道場・三羽烏]。浪人盗賊・長沼又兵衛が、高杉銀平師のもとから伝書一巻を盗んで逃亡した。

_120 また、さまざまな流派名と秘剣をえがくのを得意とした作家が藤沢周平さんで、畏友の故・向井 敏くんが『海坂藩の侍たち -藤沢周平と時代小説-』(文藝春秋 1994.12.20)で勘定した剣技剣法は、「主人公側だけでも、驚くべし、五十に余」り、「これほど多くの剣技を扱った作家は他に例がない」らしい。
[邪剣竜尾返し]、[暗殺剣虎ノ眼]、[隠し剣鬼ノ爪]、[好色剣流水]などなど、題名を見ただけでも剣客ものファンは、手をださずにはいられない。

しかも、藤沢さんが書いた流派の直心流や無外流はいうよおよばず---無限流、雲弘流、空鈍流---なども、綿谷雪・山田忠夫編『武芸流派大事典』(新人物往来社 1969.5.15)に徴してみて、ほとんど実在していたと。

参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (1) (2) (4) (5) (6)


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コメント

>畏友の故・向井 敏くんが『海坂藩の侍たち -藤沢周平と時代小説-』(文藝春秋 1994.12.20)で勘定した剣技剣法は、「主人公側だけでも、驚くべし、五十に余」り<
凄い数です。その違いはどんなだったのでしょう。
今でも秘伝を継承している流派もありますね、
私が実際に演武を見たのは5,6流派位ですが。

投稿: みやこのお豊 | 2008.05.13 18:48

向井くんも持っていた、手持ちの『武道流派大事典』で確かめてみようかな---という気もしないではないんですが、いまのところは、鬼平にかかりきりで。

>その違いはどんなだったのでしょう。
山田治朗吉師は『日本剣道史』で、「大差ない」と断じてはいますが。

投稿: ちゅうすけ | 2008.05.14 07:55

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