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2008.05.11

高杉銀平師(2)

年譜を見ると、池波さんは、1967年(昭和42)3月に、上州へ取材旅行をしている。
めぐった所は、前橋、上原、前川、伊勢守墓所となっている。

3_130その年の『週刊朝日』の剣豪シリーズで、[上泉伊勢守]を担当したための取材であった。
表題の小説は、同誌4月28日号を含めて3週連載され、翌年、『日本剣客伝 上』(朝日新聞社)に収録、刊行された。

池波さん41歳の時の作品である---というより、剣客ものが書ける作家として、シリーズの書き手に選ばれたことのほうに注目したい。

というのは、1967年の『オール讀物』12月号に、はからずも、[鬼平シリーズ]執筆の所以(ゆえん)となる、[浅草・御厩橋](文庫巻1収録)を発表、これがきっかけとなって、ファンならとっくにご存じ、高杉道場で磨いた剣技に冴えをみせる主人公・長谷川平蔵---いわゆる鬼平が誕生しているからである。

参照】2006年4月12日[佐嶋忠介の真の功績] に、鬼平シリーズ誕生の裏話を記した。
つづいて2006年6月28日[長生きさせられた波津]も併読をおすすめ。

2_200[上泉伊勢守]が『週刊朝日』こ載ったころ、ぼくは仕事柄、米国のDDBというクリエイティブな広告代理店に入れあげていて、年に春秋2回ずつニューヨークへ取材にでかけていて、この作品は読んでいなかった。
講談社から出た【定本池波正太郎大成 26 時代小説 短編3】(2000.8.20)で初めて接し、池波さんの読み手をうならせる達者な芸に、あらためて感服した。
鬼平犯科帳』に入れあげるようになって10年近くが経っていた。

[上泉伊勢守]につられて、【---大成 26 時代小説 短編2】(2000.7.20)に収められている[幕末随一の剣客・男谷精一郎](『歴史読本』1962.2月臨時増刊号)と[明治の剣聖-山田次朗吉](『歴史読本』1964.6月号 のち『霧に消えた影』PHP文庫に収録)のを読み、鬼平および秋山小兵衛の剣技が、幕末・明治のこの2人の剣客に負っているところが多いことを発見した。

ついでなので、戦前の『日本人名大事典』(平凡社 1937,.5.15)の男谷精一郎の項を抜粋する。

オタニセイイチロー 男谷精一郎(おたにせいいちろう)(1810-1864) 徳川末期の講武所奉行。剣道に達し、幕末の剣聖と称せらる。名は信友。文化七年元旦に生る。男谷忠之丞の長子。二十歳の時小十人頭男谷彦四郎
燕斎の養子となる。団野真帆斎の門に入り、剣法直心影流、槍術鎌宝蔵院流を修め、平山行蔵に平法を学び、文政中本所亀沢に道場を開いていた。文学を嗜み、また書画を能くし、蘭斎、静斎の号があった。天保二年に書院番となり、のち徒士頭となる。
のち、先手頭となり講武所奉行となった。講武所の設置は信友の建議によるといふ。
文久二年従五位に叙せられ、下総守に任ぜらる。元治元年歿、年五十五歳。人となり温厚寛大、かつて家人を叱したことがなかった。

_360
(本所・男谷家=緑○ 斜向いの本多寛司家前が五郎蔵・宗平の煙草店〔壷屋〕、二之橋北詰が〔五鉄〕)

池波さんが山田次朗吉師著『日本剣道史』(1925刊)を「不滅の名著」として激賞していることも知った。
さいわいにも、同著は再建社による復刻版(1960.5.20)を秘蔵していたので、どの記述を、池波さんがどう換骨奪胎しているかまで察することができた。

ついでに記すと、男谷精一郎は、幕末、先手の組頭から講武所奉行に任じられている。
執筆時に池波さんもたしかめたはずの、本所の切絵図には、その屋敷も載っている。

寛政修諸家譜』は、小野次郎右衛門家について、こんな前書きを付している。

寛永系図に云、本(もと)は御子神(みこがみ 今の呈譜に神子上)と称す。忠明がときに外家の称によりて小野にあらたむ。今の呈譜に橘氏にして大和の住人・十市兵部大輔遠忠が後なりといふ。

Photo

十市〕---なにやら、かすかな記憶がある。
司馬遼太郎さんが徳川家康を描いた『覇王の家』(新潮文庫)だ。
明智光秀による本能寺の変の時、家康は、信長の秘書役・長谷川秀一の案内で堺に遊覧していたことは周知の史実である。
本多忠勝の提言で大和・伊賀越えをして危機を脱する経緯は、下記に。

【参照】2007年6月13日~[本多平八郎忠勝の機転] (1) (2) (3) (4) (5) (6)

覇王の家』から引く。

もしこの家康の脱出に、
「竹」
というこの人物(長谷川秀一)の温和な才覚人がいなかったら、きわめて困難な状態になつていたかもしれない。
彼は、その顔を利用した。まず彼はかねて懇意の大和の豪族で十市(といち)常陸介(ひたちのすけ)という男に使者を送り、家康が一行の中にいることはいわず、
--自分は三河の徳川殿までこの変報を知らせにゆく。どうか、道々を保してもらいたい。
と頼んだ。十市、筒井、箸尾(はしお)などといった大和豪族は、他国とちがい、奈良の社寺領の俗務を請負っていていつのほどにか武家化した連中で、家系が古く、その姻戚(いんせき)は隣接地の山城国(京都府南部)や伊賀国(三重県伊賀地方)などにも多く、十市からの依頼があれば、十市の顔を立てて保護してくれる家が多い。

_130 池波さん絶賛の『日本剣道史』は、小野派一刀流について、こう記述する。

小野次郎右衛門忠明の第二子忠常が嗣ぐところ。家督を受て三代将軍に奉仕した。忠常性質父に似て傲岸の風があった。故に格別の加恩もなく食禄素の侭で、精勤に対する報が無かったゆえでもあるまいが、一方技芸の自負心増長して狂を発した。寛文五年(1665)五十有余で歿して了った。
三代目次郎右衛門忠於(ただを)。忠常の嫡子でもっとも精妙と称されいた。この人の時にようやく小野派の型が大成されて、金甌無欠となったのである。忠於は四代、五代、六代の将軍に歴事して声誉すこぶる高かった。
正徳二年(1712)七十三で歿した。
四代は助九郎忠一、岡部某の子で小野の養嗣子である。
五代は次郎右衛門忠方。これで小野氏は絶えて系統は中西氏に伝わった。

_100_3 長谷川平蔵と先手組で同僚だった次郎右衛門忠喜は、六代目にあたる。

ちゅうすけ注】『週刊朝日』の[上泉伊勢守]は、5年後[剣の天地]との新題名のもとに大幅に加筆され、『山陽新聞』ほか10数紙の地方紙に連載、のち新潮文庫となった。

参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (1) (3) (4) (5) (6)

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