〔瀬戸川〕の源七(2)
七ッ半(午前5時)には、すっかり明るくなっている。
おまさ(10歳)は、その前に起きていたらしく、銕三郎(てつさぶろう 20歳)に手ぬぐいと新しい房楊枝、そして小皿に盛った食塩をわたした。
裏手の井戸で塩で歯を磨いていると、忠助(ちゅうすけ)もやってきた。
世話になった礼を言ってから、店の戸を支えている樫のつっかい棒を借りていいかと訊いた。
「なんにお使いに---?」
「素振りです」
家だと鉄条を埋めこんだ木刀を振るので、[盗人酒屋]にも一本、預けておくか、と考えた。
泊まった朝のためではない。もう、泊まることはないとおもっている。
店で騒ぎがあった時の備えである。
「銕お兄(にい)さん。何回、振ったのですか?」
汗を拭いてから、飯台に配膳された席へついた銕三郎に、おまさが訊く。
「300回ほど---」
「わたし、99までしか数えられないんです。おかしいでしょ?」
「なに、101から先は、繰りかえしみたいなものだから、すぐに覚えられます」
「お父(と)っつぁんもそういうんです。でも、銭は、100文(もん)ずつ山をつくって、その山の数をかぞえたほうが間違いがないとおもうんだけど---」
「それもそうだが、1両だと、100文の山が40もできてしまいますね」
「そんなに売り上げがあがる夜はないから、大丈夫です」
2人は笑った。
「こんど、壱拾とか弐千、参万の数字の漢字を書いてきてあげよう」
「む。この茄子(なす)の漬物の色合いは?」
白粥を梅干しで食べながら銕三郎は、茄子の漬物の一切れを箸で掲げる。
「茄子はお嫌いですか?」
「いや。色合いが、あまりに美しいから---」
「鉄釘を入れたのです。おっ母(か)さんから教わりました」
「梅干しの塩加減もいい」
「行徳(ぎょうとく)の、芳(よし)さんとこの塩窯(しおがま)の塩です。それもおっ母(か)さんが選んだものです」
「いい母上だったのですね」
おまさ が瞼(まぶた)を伏せた。
忠助が出かけると、おまさが裏2階から手習い帳と朱墨をもってきた。
おまさの名前の〔まさ〕の字の手本は、銕三郎が書いて与えた。
正、昌、匡、雅、政、斉、祐、聖
「おまさどのは、自分の名前の漢字として、どの字が気に入ったかな?」
「正です。とりわけ、くずし字が好きです」
【ちゅうすけのつぶやき】テレビの『鬼平犯科帳』の故・市川久夫プロデューサーからこんな秘話を聞いた。吉右衛門丈=鬼平で、梶芽衣子さんが演じているおまさ役のファンは多いが、彼女の本名は太田雅子なんで、ご当人は「おまさ」と呼ばれても、まったく違和感をおぼえないと。名実一致とは、まさに、このこと(笑)。
このほかに、おまさが自分で、家のまわりの町や橋や川の名を自筆していた。
北松代町、柳原町、清水町、亀戸(かめいど)町、柳島町、竪(たて)川、横川、天神川、新辻之橋、四ッ目之橋、御旅橋
(おまさの手習い帳の町名、川、橋など 赤○=〔盗人酒屋]
『近江屋板切絵図 東本所・亀戸』 )
めくると、
忠助、お紺おばさん、彦十のおじさん、瀬戸川のおじさん、瀬古、銕お兄さん、おかねちゃん---
銕三郎の視線に気づいたおまさが、手習い帳をひったくって、真っ赤になった。
「訊いていいかな。書いてあった瀬戸川---というのは?」
「京の人です。駿河の藤枝というところの川だとか。〔瀬戸川(せとがわ)〕のおじさんに教わりました」
「その次にあった、瀬古(せこ)は?」
「〔瀬戸川〕のおじさんが生まれたところだと---」
「京じゃなく?」
「京の〔狐火(きつねび)〕という人のところで仕事をしているんです」
「拙は、この駿河の瀬戸川という川を、馬でわたったことがあるのです」
「わぁ、馬で---乗りこなせるんですね」
「これでも、お上の旗本の子ですから」
「そうでしたね」
おまさが、黙りこんだ。
銕三郎は、〔瀬戸川〕という仁への興味を隠すつもりで言ったことが、おまさをしょげさせたらしいとわかり、いささか後悔した。
【参照】〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七 (1) (3) (4)
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