ちゅうすけのひとり言(20)
『鬼平犯科帳』は、人さまざまで、いろんな読み方をして楽しんでいる。
鬼平ファンと話しあっていて、その人が意外な切り口をしているのに、驚き、教えられることが多い。
それだけ、多彩で、奥深い魅力を秘めている小説といえる。
ぼくは、長谷川平蔵宣以(のぶため)が実在の人であったという点に力点をおいて---というより、平蔵を基点として、そこから徳川幕府の制度や江戸期という時代を透視することに余生の愉しみを見出している。
まあ、それというのも、いくつかの文化センターで[鬼平クラス]を5年も10年もつづけることになったために、レクチャーする材料を探して、結果的にそうなってしまったと、いえないこともない。
大の大人が、鬼平を語るなら、いささかでも史実に即して---と、おもったことも事実である。
もっとも、ぼくは歴史家でも郷土史家でもない。
小説を、できるだけ濃く楽しみたいと願っている一人にすぎない。
さて、2008年7月9日の[宣雄に片目が入った] (5)に、長谷川一門から、服部家(3050余石)へ養子に入った久太郎保貞(やすさだ)・主殿保弘(やすひろ)兄弟を紹介した。
長谷川一族と服部一門とのつながりは、納戸町の長谷川正相(まさすけ 4070余石)の長女が、服部中(あたる)保秋(やすあき)に嫁いだものの、次の当主に男子が得られなかったことによる。
徳川家に仕えた服部というと、ぼくたちは、伊賀国阿拝郡(あへこおり)服部郷の出て三河国へ来て、松平(徳川)清康(きよやす)・広忠(ひろただ)・家康(いえやす)に仕えた一族を、連想する。
とくに、家康の下で活躍した服部半三(はんぞう 『寛政譜』は、あるいは半蔵ともと)石見守(いわみのかみ)がよく知られている。
昭和28年(1953)。ぼくは学校をやっと卒業、関西の電機メーカーの宣伝部に勤め、仕事を覚えるために、小説を読むどころではなかった。
山田風太郎さん『甲賀忍法帖』(1958)、司馬遼太郎さん『梟の城』(1959)、池波正太郎さん『夜の戦士』(1963)を読んだのは、なにを隠そう、つい10年ほど前である。
だから、服部半蔵についての知識は、人からあきれられるほど少ない。
『寛政譜』で、
父に継いで東照宮につかへたてまつり、三河国西郡宇土城夜討の時、正成(半蔵)十六歳にして伊賀の忍びのものもの六、七十人を率ゐて城内に忍び入、戦功をはげます。
【参照】服部半蔵と宇土城
宮城野昌光さん『古城の風景 1』(新潮文庫) p121[上郷城]。
とか、
元亀三年十二月二十二日、三方ヶ原の役に供奉し戦功あり。浜松城にをいて御槍一筋を賜ひ、かつ、伊賀の者、百五十人を預けらる。
【ちゅうすけ注】この槍は、半蔵が開基した西念寺が秘蔵していると『四谷区史』(1934刊 1985復刻)にある。寺は、麹町から新宿区若葉町2丁目9。
などのくだりに、「へえ」とおもい、
(天正十年 11582)六月、和泉の堺より伊賀路を渡御の時従ひたてまつり、仰せうけたまわりて郷導したてまつる。
には、「さもありなん」と合点。
息・石見守正就(まさなり)は、なにか不都合があったらしく、その雪辱に大坂夏の陣に討死し、弟・正重(まさしげ)が後継するが、彼も大久保長安(ながやす)がらみの事件で領地を没収され流浪したのち、松平越中守定綱(さだつな)の臣となる。
ようするに、忍者の出世がねたまれたか、嫌われたのであろうか。半蔵の家系で幕臣として残ったのは5家。
服部の家名を示す織物の神を祭祀した呉服明神の神職で、半蔵の呼びかけで、家康の伊賀越えを助けた左兵衛貞信(さだのぶ)の系統の幕臣が5家。
織田信長(のぶなが)に仕えていて、徳川へ来た血筋のが3家。
そして、いよいよ、長谷川家から養子に入って服部一門になるのだが、掲げた家譜の2段目に記されているように、当家も服部郷の出であるが、祖・小平太保次(やすつぐ)は、足利義輝(よしてる)から信長に仕え、桶狭間では先陣となって今川義元の本陣へ討ちこんでいる。
信長の死後、家康の下へつき、合戦のたびに敵地の境を警衛すとあるから、やはり、忍びの配下をしたがえていたのであろう。
3代目の中保俊(やすとし)の時には3050余石の大身になっている。
服部を名のる幕臣ではもっとも大身で、この流れの服部家ほかに3家。
あと、今川方から徳川へ移った系統の服部が2家。
武田方からの服部が1家。
このあたりが池波さんの空想をさそったのであろうか。
綱吉の時に召されたのが1家は別として、こうしてみると、池波さんの忍者ものにもあるとおり、各戦国大名が情報収集や隠密作戦の手足として伊賀衆を雇っていたことがうかがえる。
その中でも、長谷川久太郎保貞が養子に入った服部は、半蔵家と並んで首領格だったとみえるのが興味深い。
【これまでの、ちゅうすけのひとり言へのリンク】
(リンクの仕方 各項の頭のオレンジ色の番号を)
[19 『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池波さん]2008.7.10
[18 三方ヶ原の戦死者---夏目]次郎左衛門吉信]2008.7.4
[17 三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照]2008.7.3
[16 武田軍の二股城攻め]2008.7.2
[15 平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日]2008.6.27
[14 三方ヶ原の戦死者リストの区分け]2008.6.13
[13 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗]2008.6.12
[12 新田を開発した代官の取り分---古郡孫大夫年庸]2008.5.9
[11 鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問]2008.4.28
[10 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さんの紀要への論文]2008.4.5
[9 長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』]2008.3.17
[8 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち]2008.2.15
[7 長谷川平蔵と田沼意次の関係]2008.2.14
[6 長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係]2008.2.13
[5 長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期]2008.2.8
[4 長谷川平蔵の妹たちの嫁ぎ先]2008.2.7
[3 長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁]2008.2.6
[2 煙管師・後藤兵左衛門の実の姿]2008.1.29
[1 辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した]2008.1.17
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