ちゅうすけのひとり言(18)
家康31歳、信玄52歳のときの三方ヶ原(みかたがはら)での対決は、家康の若さを示したともいえないことはない。
『寛政重修諸家譜』の諸家の記述を読んでいると、そうした感想にとらわれることが少なくない。
[ひとり言」 (17)で、8000の家康軍が左右に鶴翼(かくよく)の布陣を展開したと書いた。
対して、2万を越す武田方は、魚鱗(ぎょりん)の陣形を組んで、徳川側の中央突破を狙っていた。
池波さん『夜の戦士 下』(角川文庫 1976.5.10)p299 から引用する。
武田軍の陣形は、次のようなものであった。
先鋒部隊 小山田信茂(のぶしげ)
その右翼 山形昌景(まさかげ)
その左翼 馬場信春(のぶはる)
以上が第一部隊で、このうしろに第二線の部隊として内藤昌豊(まさとよ)と武田勝頼(かつより)が控えている。
そしてもその後方に、旗本にかこまれた信玄本陣があり、後尾を穴山部隊がかためていた。
どちらかといえば横にひろがった陣形ではない。そのかわり、信玄本陣までの、ふところが深いのである。
【ちゅうすけ注】先頭部隊の構えの左・右は、徳川方から見てのものであることは、言うまでもない。
戦端は、石の投げあいから始まったといわれている。
小半刻(こはんとき 30分)もたたないで、戦陣は大混乱となり、徳川勢は押しに押されていた。
その戦況を、徳川方の武将・夏目次郎左衛門吉信(よしのぶ 55歳)は、留守をまかされた浜松城の櫓(やぐら)の上で観察、
(このままでは、家康公があぶない!)
判断するや、家の子郎党を引き連れて、戦場へ。
夏目吉信の[個人譜]を現代文に置き換えながら、引く。
元亀三年(1572)十二月二十二日。三方ヶ原合戦のとき、吉信は浜松城の留守を守っているように命じられていた。合戦がはじまったので、櫓にのぼり、形勢をうかがっていると、味方は勝ち目がなく、家康が危ないとみて、ただちに馬に乗り、一族を従えて家康の傍らへ駆けつけた。
「殿。数をたのみとしている敵兵は、幾重にもなってつきすすんできております。見方の戦列は乱れに乱れ、軍令もとどいておりませぬ。一刻もはやく浜松城へお退(の)きになって、反撃のときをお待ちなさいますよう」
阿鼻叫喚の中、家康へ言上したが、
「城下に敵が侵入してきているときに、勝負を決めないで退いたなら、敵はますます勢いづき、浜松城へのしかかってこよう。そうなってしまっては、ここで退いたことがなんの意味もなくなってしまおう。
いまは、死を覚悟して敵にあたるよりほかあるまいが。討死しても本望というもの」
馬の鐙(あぶみ)をけって、敵陣へ討ちこもうとする。
吉信は、馬から飛びおりて、家康の馬の轡(くつわ)にとりつき、
「殿。御身をまっとうなさっておられれば、今後も機会はありましょう。お願いですから、ここのところはご帰城くださいまして、勝運がひらくのをお待ちください」
「されど、吉信。ここで退いても、敵兵が追いついてくれば、結果は同じではないか。討死するともいさぎよい名分が残ろうぞ」
「後を追ってくる敵は、私めの一族がここに踏みとどまって、決して追わせるものではございませぬ」
家康の馬の頭を浜松の方へ向け、その尻を刀の峰で思いきりたたいた。
驚いた馬は、浜松めざして疾駆した。
見とどけた吉信は、与力25.,6騎をしたがえ、
「家康、ここにあり!」
と、敵の注意を引きつけながら、敵中へ一団となって切り込み、ついに討たれた。
夏目吉信も、じつは死に場所と死に時を求めていたようである。
というのは、11年前に三河で一向門徒が家康に反逆したとき、門徒側に与(く)みした吉信は、野羽城にこもり、松平主殿助伊忠(これただ)に攻められたが、よく耐えた。
内通者がでて、けっきょく、吉信は捕らえられた。
吉信の人柄を惜しんで、助命を乞う者があり、伊忠が引き取った。
このときの恩に、吉信は家康の身代わりとなって報いたと、『寛政譜』の編者は見ている。
もちろん、吉信のこころの奥は、だれにもうかがえない。
(夏目次郎左衛門吉信の個人譜)
【つぶやき】夏目吉信のように、討死の状況がある程度うかがえる記述があるのに、長谷川紀伊守(きのかみ 37歳)正長(まさなが)と弟・藤九郎正久(まさひさ 19歳)の場合は、手がかりさえ記録されていないのは、[先祖書]に書かれていなかったからである(正長の墓は、焼津の信光院にある)。
もちろん、辰蔵(たつぞう 公式には平蔵宣義 のぶのり)だけを責めてはいけない。本家の主膳正鳳(まさたか 太郎兵衛正直の嫡子)にいちばん重い責任がある。
ついでにいうと、紀伊守の3男の末・栄三郎正満(まさみつ)にも、先祖を大切にせよ---といいたいが、彼は、焼津の林叟院の、正長の祖父か曽祖父にあたる法永(ほうえい)長者夫妻の墓石やら位牌を新装している。
この正満の養子になったのが、鬼平---平蔵宣以(のぶため)の次男・正以(まさため)であることは、たびたび述べた。
長谷川家の祖の祖---法永長者(生前は豊栄長者)が、司馬遼太郎さん『箱根の坂』(講談社文庫)に登場していることも、何回も指摘してきた。
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