« ちゅうすけのひとり言(18) | トップページ | 宣雄に片目が入った(2) »

2008.07.05

宣雄に片目が入った

「ご内室の加減はいかがかな?」

訊いたのは、老中・本多伯耆守正珍(ただよし 39歳 駿州・田中藩主 4万石)。
ところは、芝新橋・二葉町にある田中藩中屋敷の書院。

訊かれたのは、この4月に遺跡(400石)の継承を許された、長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳)。
家督と同時に小普請(こぶしん)入りし、まだ無役である。
隣にいるのは、奥右筆・植村政次郎利安(としやす 28歳 廩米150俵)。
4年前の延享元年(1744)10月に、24歳の若さで表右筆から奥右筆に抜擢され、隠居・家督掛(かかり)をうけもっている。

参照】2008年6月奥祐筆・植村政次郎安利(やすとし)は、2008年6月24日[平蔵宣雄の後ろ楯] (10)

今日のことは、植村利安から、
「ご宿老・本多侯から、私的なお招きゆえ、辰の口の役宅ではなく、中屋敷のほうへ参られよ---とのご伝言がありました。それがしにも同席せよ、とおっしゃられましたが、目付などに気取られぬように、くれぐれも、こころしてまいられたいとも---」
達筆で書かれて密封された手紙が、2日前に届いた。
無役の宣雄が老中の屋敷へ招かれたことも異例だが、無役の幕臣と同席というのは、政次郎利安のほうが奥祐筆の内規に触れかねない。
求職運動を受けたと小人目付らに邪推されてもしかたがない。
それを、あえて破ったところが本多侯らしい。

本多侯が、わざわざ、宣雄の妻・波津(小説での名)の病状を問うたということは、それなりの身辺調査が目付から御用部屋へあげられているとみてよい。

「お蔭をもちまして、一進一退がつづいております」
長谷川家の六代目当主・権十郎宣尹(のぶただ)がことしの1月にみまかったとき、宣雄は、急遽、寝たきりの波津との婿養子の届けを出し、遺跡相続の許しを、去月、月番老中・本多侯から申しわたされたばかりであった。

上村奥右筆のところの世継ぎの熊五郎(くまごろう)くんは、何歳かな?」
「3歳にあいなりましてございます」
長谷川うじのところは?」
銕三郎(てつさぶろう)と申します。上村どののところと同じ延享3年(1746)の生まれで、3歳に育ちましてございます」
「そろって、よき幕臣に育つよう」
「ありがとうございます」
宣雄上村は、声をそろえて礼を述べた。

長谷川うじは、今川どのの時代に祖先の居城でもあった、わが田中城を訪れたことは?」
「厄介の身分のとき、東海道を上って京都へ遊びに行く途中、藤枝宿から立ち寄らせていただきました」
「どう見たかな?」
「なにをでございましょう?」
「瀬戸川の水利じゃ---」
「大井川ほどに水量があれば、言うことはなかろうかと---」
「やはり、な」
瀬戸川も、けっこう川幅はあるのだが、上手(かみて)の村落が水田用水に引いてしまうので、夏の渇水期ともなると、下手(しもて)の田中藩の水田へは、十分といえるほどには、まわりかねていた。

_360_2
(茶色=東海道 橙〇=藤枝宿 赤○=田中城 青小〇=長谷川家の祖の館のある小川(こがわ)湊 水色・上=朝比奈川 中=瀬戸川 明治20年ごろの地図)

上手は、幕府領と掛川藩の領地である。
掛川藩5万石は、2年前の享延3年(1747)に、領主が小笠原内膳長恭(ながゆき 8歳=当時)から太田摂津守資俊(すけとし 28歳=当時)に替わっていた。

35年間も掛川藩を領していた小笠原家が、幼い長恭のときに国替えになった理由は、翌年、巨盗・浜嶋庄兵衛こと日本左衛門の犯行を処置しなかったといわれて、長恭が出仕を21日間とめられたことで、はっきりした。

_360ちゅうすけ注】浜嶋庄兵衛こと日本左衛門は、池波さん『おとこの秘図』(新潮文庫 1983.9.25)に主人公として描かれた徳山(とくのやま)五兵衛秀栄(ひでいえ 58歳=逮捕当時)が火盗改メのときに、京都町奉行所へ自首して逮捕された。
徳山家の屋敷神だった徳之山稲荷は、かつての屋敷跡(現・墨田区1丁目)に鎮座し、日本左衛門ゆかりの石碑もある。

話を本筋へもどす。

宣雄が呼ばれたのは、田中藩の新田開鑿の担当藩士に、宣雄をつなぐためであった。

宣雄は、知行地の一つ---上総国(かずさのくに)武射郡(むしゃこおり)寺崎(現・千葉県山武市寺崎)の220石の地を、300石以上の実収が得られるように暗渠を掘り、水路を導いた実績をもっていた。
しかし、そのことはほとんど話さず、田中藩の担当の侍の苦労話にことよせた手柄話に共感・感嘆することに徹した。
それが、藩士のばかりか、上村安利の好感を呼んだ。

参照】本多伯耆守正珍の個人譜 老中拝命のころ。

_360_3

軽い晩餐(ばんさん)を供され、2人は早ばやと辞去したが、往路と同様、帰路も別々だった。
目付への密告をおもんぱかってのことである。

門を出る前に、宣雄が上村利安に訊いた。
本多侯は、お若くお見かけいたしたが、じっさいはお幾つでしょうか」
「ご老職方のお齢は、機密でもないでしょう。本多侯は、酒井雅楽守(うたのかみ 忠恭 たたずみ)侯とおなじく、39歳におなりです」
「そのお若さで、ご老中とは---」
堀田相模守(正亮 まさすけ)侯は、37歳です」
「ほう---」
秋元但馬守(凉朝 すけとも)さまは32歳です」
「驚きました」

長谷川どの。どうぞ、お先へ。それがしは寸刻おいて、門を出ます。くれぐれも、まわりの目にお気をつけください」
「心得ました。では、お先にご無礼、つかまつります」


|

« ちゅうすけのひとり言(18) | トップページ | 宣雄に片目が入った(2) »

003長谷川備中守宣雄」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ちゅうすけのひとり言(18) | トップページ | 宣雄に片目が入った(2) »