明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)
明和4年(1767)の春---。
平蔵宣雄(のぶお)が西丸・書院番士として初出仕した寛延元年(1748)閏10月9日から、とりあえず、20年すすんで、銕三郎(てつさぶろう 22歳 家督後の平蔵宣以 のぶため)の青年時代。
【参照】そのちょっと前の銕三郎の活躍の思い出しは、下記の日記で拾い読みを。
2008年4月20日~[〔笹や〕のお熊] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
2008年4月26日~[ 〔耳より〕の紋次] (1) (2)
2008年4月29日~[〔盗人酒屋〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (6) (7)
2008年5月6日~ [おまさの少女時代] (1) (2) (3)
2008年5月10日~[高杉銀平師] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
2008年5月16日~[〔相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)
2008年5月28日~[〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七] (1) (2) (3) (4)
2008年6月1日 [名草(なぐさ)〕の嘉平]
2008年6月2日~ [お静という女] (1) (2) (3) (4) (5)
2008年6月7日~ [明和3年(1766)の銕三郎] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
聖典『鬼平犯科帳』には登場しない、〔五鉄〕の並び---本所・緑町2丁目にある高級料亭〔古都舞喜(ことぶき)〕楼の女将・お福(ふく 38歳=当時)、女中頭・お留(とめ 32歳=当時)、通いの座敷女中・お松(まつ 年齢未詳)とか、本所・五ッ目の〔盗人酒場〕の常連〔助戸(すけど)〕の万蔵(まんぞう 享年=35歳)の女房・お紺(こん 27歳)とむすめのおみね(6歳 のちに女賊として聖典に)など、ご記憶の方もあろう。
きょう、ぽっくり顔を見せるのは、お留である。あれから1年たっているから、年齢は33歳---女の厄齢(やく)の一つではなかったかな。
本所・出村町の高杉道場からの帰り、久しぶりに〔盗人酒屋〕のむすめ・おまさ(11歳)の手習いのすすみぐあいをみてやるつもりで、銕三郎は、本所・回向院うら、松坂町の〔紙屋〕弥兵衛方へ、手習い帖を求めに立ち寄った。
(本所西部 上部に〔紙屋〕、下部に高杉道場)
(〔紙屋〕弥兵衛 『江戸買物独案内』 1824刊)
【ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻8[流星]で、船頭の友五郎(ともごろう)を恐喝するために、かどわかされる〔飯富(いいとみ)〕の勘八(かんぱち)の隠し子・庄太郎(しょうたろう)が手代をしていた本所・松坂町1丁目の紙問屋〔越前屋〕卯兵衛は、『江戸買物独案内』の次ページの2軒の問屋名の合成である。
「おや。お久しぶりでございます」
買い物をしていたあく抜けた年増が、声をかけた。
「お留どの--でしたね。お子連れなので、見違えました」
そう受けた銕三郎に、お留(とめ 33歳)は、恥じらうような笑顔で、かたわらの女の子(12歳くらい)を前に押し出し、
「わたしのむすめのお絹(きぬ)と申します。お見知りおきくださいませ」
お絹は、背丈はおまさよりもすこし低めだが、顔立ちはお留に似て整っている。
ぺこりと頭を下げると、すぐに母親の後ろへ下がった。
(もう3年もしないで、男の子たちがさわぎだすだろう)
「ほう。こんな大きなむすめごがおありだったのですね」
銕三郎がお留に会ったのは、去年の春のおわりごろであった。
彼女が住み込みで女中頭をしていた料亭〔古都舞喜〕楼に賊が押し入った。
賊の中の一人が、淡いさくら色の手ぬぐいで鼻をかんだ。
それを、羽前(うぜん)・天童の近くの成生(なりう)村(現・山形県天童市成生)育ちのお留が、紅花染めと見やぶり、賊は〔初鹿野(はじかの)〕の音松と〔舟形(ふながた)〕の宗平一味と知れた。もっとも、逮捕にまではいたらなかったが---。
【参照】〔初鹿野(はじかの)〕の音松
〔舟形(ふながた)〕の宗平
銕三郎が買い物をすますのを待っていたように、
「お急ぎでなければ、そこらでお茶でも---」
お留は、このまま、別れがたい様子だった。
あのときの聞き込みの銕三郎の挙措が、役人らしくなかったのに、好感をいだいたらしい。
「いまは、すぐそこの、〔中村屋〕で女中をしております」
腰をおろすなり、お留がきりだした。
(料亭〔中村屋〕 『江戸買物独案内』 1824刊)
「ほう。〔中村屋〕といえば格も高く、拙ごとき、部屋住み身分の者には竜宮城みたいにおもえます」
「ご冗談を---」
「お留どのは、〔古都舞喜〕で女中頭をしていたほどの人だから、単なる座敷女中ということもなかろうが---」
「恐れいります。心得をさせていただいております」
「女中頭心得---ですか?」
「身にあまるお扱いをいただきましたのも、口をおききくださいましたさるお方のご威光でございまして---」
(「さるお方---」は、いずれ、〔耳より〕の紋次どのに聞けばしれよう)
「〔古都舞喜〕は、やはり、むつかしくなりましたか?」
「あの、両国米沢町の〔加納屋〕さんのことは---?」
「ちら---と耳にしたような気もするが、武家方の屋敷に住んでいると、町方のことはうとくて---」
(〔加納屋〕善兵衛が、男としてのことがすすまなくなって、手切れしたと〔笹や〕のお熊さんから聞いたが---)
「わたしは、このお絹を亀沢町の知り合いに預けて、住み込みで働いておりましたが、〔中村屋〕さんでは、この子もしっかりしてきているのだからと、いっしょの部屋をご用意くださり、母子でお世話になっております」
「それは、重畳。嫁に出すまでは、母子いっしょが、いちばん」
「じつは、お足をおとめしましたのは、ほかでもございません。覚えていらっしゃるでしょうか?」
声をひそめたお留は、〔古都舞喜〕楼でただ一人の通い座敷女中だったお松の名をだした。
通いだったせいで、賊が押し入ってきた夜には、2度とも居あわさなかったので、火盗改メも聞き込みをしなかった。
「そのお松さんですが、2度目の盗難があってから10日もしないで、ふいっと暇をとってしまったのです。
たまたま、人手が足りない日に、お松さんが住んでいることになっていた北森下町の裏長屋へ手伝いを頼みに行った若い者(の)が、そういう人はいないといわれて、きつねにつままれたように顔で帰ってきたのでございます」
火盗改メの役人も、あれきり見えなくなったから、そのことの申告もしないですましてきたが、
「長谷川さまのお顔を拝見して、ふと、おもしだしまして---」
「いいことを聞かせていただいた」
「ところが、五日ほど前になります。用があって両国橋をわたっておりましたら、西側からこちらへあるいてくるお松さんに出会いました。それで、とぼけて、北森下町にいまでも住まっているのかと訊きましたら、豊島町の裏長屋だと---。これで、火盗改メ方への申請は終わったということにお願いできますか?」
「よろしい。ところで、お留さん、いまのお住まいを訊いておいてよろしいですか?」
「昼間はこの子と、松坂町2丁目の吾平長屋におります。八ッ半(午後3時)からは〔中村屋〕です」
銕三郎は、お留のこの報らせを、火盗改メのいまのお頭・細井金右衛門正利(まさとし 63歳 廩米150俵)に告げる気はなかった。
(あの仁は、まったくの役人気質だ。お上から金子(きんす)が出ないと、何もしたがらない)
銕三郎は、とっくに見切りをつけていた。
【参照】細井金右衛門正利についての銕三郎の認識は、上記したリンクとダブるが、
2008年6月11日[明和3年(1766)の銕三郎] (5)
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