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2008.07.15

宣雄・西丸書院番士時代の若年寄(2)

〔江戸幕府・中興の祖〕と呼ばれる吉宗(よしむね)は30年近くもその座にあって改革を推進し、62歳なったときに将軍職を、世子・家重(いえしげ 35歳)にわたし、最初にしたことは、23年間も老中をつとめた松平(大給)左近将監乗邑(のりむら 60歳 佐倉藩主 6万石)の罷免・隠居命令であった。
延享2年(1745)10月のことである。

近年の専横ぶりが、とがめられたのだということになっているが、同年の加増分の1万石の公収といい、役宅の即日引き払い令といい、田沼意次(おきつぐ)失脚時の没義道に近い扱いの前例ともいえる。

乗邑の実質後任ともいえるのは、翌3年(1746)5月に、西丸・老中から転じた松平(元越智)右近将監武元(たけちか 34歳 館林藩主 3万石)。

松平武元が本城へ転じたことで、西丸・老職を埋めるかたちになったのが、西丸・若年寄から引きあげられた秋元但馬守凉朝(すけとも 31歳 川越藩主 7万石)ある。

そういう人事異動もあり、長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳)が西丸の書院番士として出仕したときの若年寄筆頭は、4年前から同職にあった戸田淡路守氏房(うじふさ 45歳 大垣新田(野村)藩主 1万石)であった。

もちろん、初出仕したばかりの宣雄が、じかに若年寄筆頭と言葉をかわすようなことはないであろう。
しかし、人物の風評が戸田氏房の耳に入ることがなかったとはいえまい。
というわけで、実力者・淡路守氏房の個人譜をかかげながら、やり手の譜代大名の典型を見てみたい。

まず、戸田一族だが、三条家の末裔で、三河国戸田に住したので姓とした---と『寛政譜』にあるが、『旧高給領』には、三河では戸田は見当たらない。現在のどこなんだろう?
清康(きよやす)のころから意を松平に通じていたらしいが、今川勢の下にあった。
氏真(うじざね)の代に、家康方の旗色を鮮明にする。
とくに、氏房の祖の元である戸田氏光(うじみつ)は、母が人質としてとらわれている吉田城攻めにも軍忠にはげんだので、家康がわざわざねぎらったと。

一族には、肥前国島原7万7900石を領して長崎の守りを命じられた者もいるし、老中を務めた者もおり、支族は40家近いから、やはり、譜代の中ではかなりの勢力だったといえそうである。

氏房は、美濃国大垣藩主・采女正氏定の5男で、7歳で大垣新田(野村)藩主・淡路守氏成(うじしげ)の養子となった。

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家継への初見は12歳。
養父が歿したので(61歳)、家を継いだのは16歳。
若手譜代大名の出世コースのとば口である奏者番(そうじゃばん)になったのが34歳。

参照氏房より10年送れの延享4年(1747)に奏者番に任じられた美濃国郡上八幡藩主・金森兵部少輔頼錦(よりかね 35歳=当時 3万9000石)が、要路へ配慮する資金の捻出に、増税を領民へ課して一揆を誘い、その処理のまずさから所領召し上げのうえ、他家へ預けとなった件は、
2007年8月212日~[徳川将軍政治権力の研究] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)

戸田氏房は、金森頼錦と異なり、順当に出世の道をあゆんだ---というのも、『個人譜』にもある、享保10年(1725)7月28日(氏房 22歳)の殿中での処置が、幕閣の好感と賛嘆を呼んだのであろう。

享保十年七月二十八日、(本家の長兄の)戸田伊勢守氏長(うじなが 39歳)に代りて水野隼人正忠恒(ただつね)と同じく営に登りて婚姻を謝するのとき、忠恒狂気して毛利主水師就(もろなり 20歳 長府藩主 5万7000石)と刃傷に及ぶ。氏房速かにその刀を奪て狼藉を鎮(しず)む。

宣雄は、3歳だった銕三郎(てつさぶろう)に、教えたであろう。
「武士たるもの、みだりに刀を抜いてはならぬ。まして、殿中では、な。しかして、刀を怖れてはならぬ。むやみに刀をふるう者をたしなめる勇気を置き忘れるなど、あってはならぬ。戸田淡路守さまは、22歳の若さで、沈着になされた」
あたかも、現代の父親が、自社の経営陣の中で尊敬している仁の青年社員だったころの器量を語ってきかせて、男のあるべき姿をわが子にそれとなく教えるのに似ていないだろうか。

ちゅうすけからの問い合わせ】これまで、採り上げた幕臣の一家あるいは一門の『寛政譜』を、一覧性のために、A3に再構成したものを縮小して掲示していました。もちろん、読み取れるはずはなく、また、そうしていただくつもりもなく、ただ、話題の仁が一家・一門の中でどのあたりに位置していたかを感じとってていただくのが狙いでした。

こんど、これまでとおりのA案と、『寛政譜』復元本に近いB案をつくってみました。

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(A案 戸田氏房家の寛政譜)

_360_3
(B案 戸田氏房家の寛政譜)

A案のままでいいか、B案を新規に作成すたほうがいいか、コメントしていただけますか?
A案はすでに500家ばかりできていて、当方は苦役なしに活用できます。
 

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コメント

新規にB案を作成するのには大変な時間と労力を必要だと思います、今までに不都合はなかったのですからA案で500家分も出来上がっているのでしたら今までどおりで良いのではないでしょうか、新規を作成する時間と労力は又他のご研究に注ぐことができると思いますので。

投稿: みやこのお豊 | 2008.07.15 21:33

ちゅうすけさんのA案に対する狙いを理解できていなかった私です。B案の狙いも理解できていないと思うのですが、梅田望夫さんの「真摯に相手と向き合っていることさえ伝われば」というフレーズに後押しされて見当違いの一言を。
 普段は、ちゅうすけさんが超拡大して下さる本文中の『寛政譜』をみて記事を理解するのに精一杯です。ちゅうすけさんのA案に対する狙いまでは、あまり、思い至りませんでしたが、いわれて、そうであったかと気が付きました。
 B案の狙いは、 ほぼ、読めるサイズで『寛政譜』そのものを呈示して下さるということでしょうか。(ひらがなは読めますが、込み入った漢字は判読し難いときもあります。読める方法があるのでしょうか。この点、パソコン不案内)結論として、「みやこのお豊 」さんに賛成します。

投稿: パルシェの枯木 | 2008.07.16 00:58

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