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2012.05.06

本城・西丸の2人の少老(5)

天明7年(1787)5月20日から4昼夜におよんだ幕政にたいする警鐘の乱打ともいえた江戸の打ちこわしを、蔵前の札差株仲間の店々と幕府の米蔵は、無傷でやりすごしたことになる。

これもじつは、事後の平蔵(へいぞう 42歳)の内省に芽生えた疑問のひとつであった。

平蔵によると、札差の店々が襲われて米蔵に被害がおよんでいないのはおかしい――事件の首謀者がそう踏んだための、蔵前の見逃しだったと見るのが順当とおもえてきたのである。

つまり、大坂の騒動と江戸のそれとは仕組まれたものではなかったか、と。
群集心理ということもあるから、江戸でおこったことの大半はその場のなりゆきごとであったろう。
しかし、こと、幕府の米蔵と蔵前の札差の見逃しには、裏がある――平蔵は、疑念を胸の奥ふかくしまいこみ、死ぬまで表にださなかったことのひとつがこれであった。


それはともかく、蔵前の札差株仲間の店々が被害にあわなかったのは、定行事の一人・〔東金(とうがね)清兵衛(せえぺえ 40歳すぎ)と先手・弓の組頭・長谷川平蔵のはからいによることはだれの目にもあきらかであったから、10人いる定行事の数人から、
長谷川さまに応分の謝礼を……」
この提案には、蔵宿約100軒が1軒も反対しなかったばりか、分担金は1店あたり3両(48万円)まで覚悟したらしい。

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大蔵前の諸寺と蔵宿 『江戸名所図会 塗り絵師:ちゅうすけ)


東金屋〕と森田町組の定行事〔板倉屋〕次兵衛がそろって東本所・三ノ橋通りの長谷川邸へ出向き、
「現金では長谷川さまのお名前に傷をつけることにもなりかねないから、なにかお望みのものをお洩らしいただきたく……」
神妙にうかがった。

「ほう、蔵前の蔵宿仲間一同がお礼をわれにくれるのか。本来なれば、警備にあたった西丸の徒士120名全員にといいたいところだが、それも公儀の掟てに触れることになる。どうであろう、革たんぽつきの槍棒100本では。もちろん、保管は蔵前の火消し小屋ということにし、次の打ちこわし騒動のときの警備武具とする――」
「それでは、長谷川さまの手元にはのこりませぬが……」

「われの手元へのこせば悪い噂がのこるだけよ。虎は死して革をのこし、武士は死して名をのこすという。そのたんぽ棒を、平蔵棒とでも名づけたら……?」

ただ、平蔵はもうひと言、つけくわえた。
「徒士組に休仕を手配してくれた本城の若年寄・井伊兵部少輔直朗(なおあきら 41歳 越後・与板藩主 2万石)侯と、西丸の同職・松平玄蕃忠福(ただよし 46歳 上野・小幡藩主 2万石)侯への謝礼はぺつだぞ。どこか、一風変わった料亭で一夕、接待をしな」

革たんぽつき槍棒は、1店あたり1分(4万円)の拠出であったらしい。
100本で25両(400万円)の商売を無造作に武具商〔大和屋〕へ振ってしまった平蔵の潔(いさぎよ)さに、初めて接した定行事〔板倉屋〕次兵衛は、
「お武家にも、大商人顔負けの豪胆な仁がいなさるんだねえ」
のちのちまで誉めそやしていたという。

〔大和屋〕が長谷川分の40本の請求書――10両(160万円)から2両(32万円)を差し引いたことは、〔板倉屋〕も〔東金屋〕も、おもいもしなかった。

100本の平蔵棒は明治まで、元旅籠町2丁目の成田不動の境内の火消し小屋に収納されており、慶応の打ちこわしのときに警護にきた徒士たちの手ににぎられた、と古老のいいつたえがのこっているが、明治の廃仏毀釈で行く方がしれなくなった。


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