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2008年8月の記事

2008.08.31

〔蓑火(みのひ)〕のお頭(3)

短編[白浪看板]は、『鬼平犯科帳』の連載に2年半先立つ、1965年(昭和40)の『別冊小説新潮』7月号に掲載された。
ご存じのように、長谷川平蔵が顔を見せる2番目の物語である。

(1番目の[江戸怪盗伝]は、その1年半前---1964年(昭和39)『週刊新潮』1月6日号に発表。のち、大幅に加筆されて『鬼平犯科帳』巻2[妖盗葵葵小僧]となった)

白浪看板]の主人公は、2代目・〔夜兎ようさぎ)〕の角右衛門である。
初代は、この項の前々回から登場させている角五郎

夜兎〕の2代目は、生後1年の赤子のとき、浜松で捨て子されていたのを、初代が拾い、江戸へ連れかえって、自分たち夫婦の子として育てた。

この項の前々回---明和4年(1767)の秋の場面では、初代は53歳、2代目・角右衛門が18歳であった。

7年後の安永3年(1774)、初代は、60歳で、女房・お(えい 51歳)と角右衛門(25歳)にみとられながら、畳の上で大往生をとげた。

そのとき、角右衛門に2代目〔夜兎〕の名跡(みょうせき---というのかなあ)がゆずられた。

[〔蓑火みのひ)〕の喜之助の項に、〔夜兎〕の親子を登場させたのは、書いている[明和4年(1767)の銕三郎]に関連があるからである。

角右衛門が先代にしたがい、初めて仕事(つとめ)をやったのは、明和四年十二月のことで、四谷御門前の蝋燭問屋〔伊勢屋〕九兵衛方へ押し入り、九百八十三両余を強奪(ごうだつ)した。
このときは、角五郎、角右衛門以下九名で押しこみ、盗賊どもは、いずれもそろいの紺地に白兎を染め抜いた筒袖の仕事着に紺股引、紺足袋といういでたちで、黒頭巾をすっぽりかぶっていたのだが、主人夫婦から家族、店の者までしばりあげてしまった---([白浪看板])

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(四谷御門前の蝋燭問屋〔伊勢屋〕のモデルの〔越後屋〕
『江戸買物独案内』 文政7年刊 1824)

いかにも、昔かたぎな仕事(つとめ)着スタイルである。
さすがに、池波さんも、古めかしすぎるとおもったのであろう、1ページほどあとに、

先代が死んだときから、角右衛門は、白兎を染めぬいたそろいのコスチュームを廃止することにした。(同)

昔かたぎ風をとりさげさせている。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻1[老盗の夢]で、大女おとよとの新生活を夢見た〔蓑火みのひ)〕の喜之助が、生活資金稼ぎのために仕事復帰を志して江戸へ下ってきて、最初に訪れたのが、2代目〔夜兎〕の角右衛門の盗人宿・鳥越の松寿院門前の花屋であったのも、先代からの付き合いを考えると、とうぜんといえよう。

この蝋燭問屋〔伊勢屋〕の事件のときの火盗改メを調べてみると、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)と気があった見回り同心・横山時蔵(ときぞう 31歳)が組下にいた、先手・鉄砲(つつ)の9番手組頭の遠藤源五郎常住(つねずみ 51歳 1000石)は、その独断専行がとがめられて、9月10日に解任されていた。

相役だった鉄砲の13組の曲渕隼人景忠(かげただ 享年=63歳 400石)も、病床にあったが、6月17日に公けに喪を発している。 

後任には、なんと、かの、本多采女紀品(のりただ 53歳 1000石)が再任された。

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(本多采女紀品の個人譜。上段末行がそれ)

【参照】2008年2月10日~[本多采女紀品] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 
2008年2月20日~[銕三郎、初手柄] (1) (2) (3) (4)

銕三郎が、さっそくに、表六番町の屋敷へ伺候して、助手を申しでたことはいうまでもないが、そのやりとりは、改めて、のちほど。

つづいて、9月22日に、助役(すけやく)として、鉄砲の14番手の組頭・荒井十大夫高国(たかくに 58歳 廩米250俵)が拝命した。

参照】2007年5月29日[宣雄、小十人頭の招待
2007年6月8日「布衣(ほい)の格式」
2007年12月13日~[宣雄、小十人頭の同僚] (4) (5)

さらに、10月23日に、鉄砲の4番手の長山百助直幡(なおはた 56歳 1350石)も任じられた。
この日の『徳川実紀』から引く。

先手頭長山百助直幡、このところ盗賊多ければ、組の与力同心等引ゐて、昼夜をわかたず巡警し、あやしき者は召とらへ、町奉行に引渡すべしと命ぜらる。

このまま読むと、火盗改メには裁判権がないようにも感じられるが、「昼夜わかたず」とか「町奉行に引渡せ」は、火盗改メ発令時の『実記』の常用文言であるから、さして重く受けとることはない。 

ま、大なり小なりの盗賊が、跋扈していたことは間違いない。

さて、盗賊たちから神さまのごとくに崇(あが)められいた〔蓑火(みのひ)〕の喜之助だが、『鬼平犯科帳』文庫巻1[血頭の丹兵衛]p98 新装版p104 では、丹兵衛になり代わって、芝口2丁目の書籍商・〔丸屋」徳兵衛方で模範演技をしてみせた喜之助が、「血頭丹兵衛」と焼印をうった木札を置いてくる。

もちろん、置かないと物語がうまくはこばないことはわかるが、いかにも、古風なふるまいではある。

ここで、舞台は、雑司ヶ谷の〔橘屋〕の離れへ飛ぶ。

銕三郎が、宿直(とのい)番のおに、珊瑚の髪飾りをわたしている。
もちろん、2人が、抱きあったあとである。

「やっと、自分で稼げたので---」
「無理しないでくださいね」

いまでは、2人の営みも、それぞれにその日の刺激的な役をふり、演技者となって役をこなしながら、すすめている。
きょうは、嫁(ゆ)き遅れている齢上おんなと、若くていなせな鳶---という役をふった。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』 口絵 イメージ)

は、
「ややができてしまったら、どうしてくれます?」
さも、こころ細げに鼻にかかった甘え声で言う。
「そうなったら仕方がない。おっばいの片方をややにゆずるよ」
銕三郎もこころえて、伝法に応えたものだ。

他愛もない遊びだが、新鮮な歓びが湧く。

参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭 (1) (2) (4) (5) (6) (7) (8)

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2008.08.30

〔蓑火(みのひ)〕のお頭(2)

「分際(ぶんざい)も忘れて、〔蓑火みのひ)〕のお頭(45歳)と、〔夜兎ようさぎ)〕のお頭(53歳)を、つい、比べっちめえましたが、これは、酒の味を比べるようなもんで、甘口ごのみの人もいれば、辛口でなけりゃあというご仁もおいででやす。〔蓑火〕のお頭をたとえれば甘口、対する〔夜兎〕のお頭は辛口でしょうか。人が寄るのは〔蓑火〕のお頭のほうでやす」

八ッ半(午後3時)といえば、〔盗人酒場〕の亭主・〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)は夜の酒客の仕込み前で、手がすいていたからか、いつになく饒舌であった。
独りむすめのおまさ(11歳)が側で聞き耳をたてているのも気にしていない。

蓑火〕の喜之助の配下には、手練(てだ)れの小頭(こがしら)が3人いるとも洩らした。
筆頭は、〔大滝おおたき)〕の五郎蔵(ごろぞう 29歳)どんという、6尺(180cm)近い大男。
(このときおまさは、20数年後に、この〔大滝)の五郎蔵と結ばれることになろうとは、つゆ、おもわないで、父・忠助の話を聞き流していた)。

蓑火〕のお頭が5尺2寸(155cm前後)と小柄なだけに、五郎蔵どんは目立つ。
五郎蔵どんの出身は、秩父(ちちぶ)の大滝村と聞いたこともあるような気もするが、表向きは、近江国犬上郡(いぬがみこうり)の大滝村と。
上総国(かずさのくに)夷隅郡)(いすみこうり)下大多喜(しもおおたき)村という人もいる。

2番手の小頭が〔五井ごい)の亀吉(かめきち 28歳)どん。
上総国市原郡(いちはらこうり)五井の生まれ。
五郎蔵どんが無口でやや辛口なのに対して、口がまわり気もよくまわるやや甘口。

3番手が〔尻毛しりげ)〕の長吉(ちょうきち 27歳)どん。美濃国(みののくに)方県郡(かたがたこうり)尻毛(しっけ)村の出なのだが、毛むくじゃらで、尻の穴まで毛でおおわれているというので、長吉の名とあわせて、みんなから、「尻毛」を「しっけ」でなく「しりげ」と呼ぱれてまった。

「〔尻毛〕とは、おもしろい」
長吉どんの引きで、〔蓑火〕一味に入った〔酒々井(しすい)〕の市之助(いちのすけ 33歳)というのが同郷の若者で、一味の人たちの話をよくきいたものです」

ちゅうすけ注】忠助が上総国印旛郡(いんばこうり)酒々井の生まれであることは、2008年5月3日[〔盗人酒屋〕の忠助] (5)
2008年5月8日[おまさの少女時代〕 (3)
酒々井(しすい)〕の市之助は『鬼平犯科帳』文庫巻14[尻毛の長右衛門]p58 新装版p60

参考】酒々井町Wikipedia

「毛むくじゃらの〔尻毛〕の長吉---あの男かな。もちろん、尻の毛は見てはいませぬが---」
「ほう。お会いになりやしたか?」
「夏のはじまりのころ、箱根・芦ノ湯村へ行ったとき---」
阿記(あき)お姉(ねえ)さんが亡くなったときですね」
おまさ が脇から口をはさんで、忠助ににらまれた。

どんの話をきいて、いまおもいあたったのですが、多摩川の六郷の渡し舟で、煙草をすすめたくれた仁が、〔蓑火〕の頭だったようです。供は、指の背にまでむしゃむしゃと毛が生えていたから、あれが、〔尻毛〕の長吉だったのかも」

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(六郷の渡し場 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

参照】2008年7月25日[明和4年(1767)の銕三郎] (9)

「〔蓑火〕とおもわれるご仁は、人のこころを繭綿でつつみこむような人柄でした」
「それそれ。配下の荒くれ連中が、この人のためなら命を投げ出しても---とおもうらしいんで」
「上に立つ者の、徳の一つです」

蓑火〕の喜之助には、あまり知られていないが、いい軍者(ぐんしゃ)が2人、ついているのだそうな。

どちらも「通り名」に「畑」の字があるので、〔蓑火〕の2反田(にたんぼ)と呼ばれている。

男のほうは40歳、喜之助と同郷で、上田の神畑(かばたけ)村(現・長野県上田市神畑)の大庄屋の妾が産んだ子で、田兵衛(でんべえ)---いいかげんな名をつけられたものである。

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(信州・上田在 神畑=青〇 明治20年ころ)

おんなのほうは甲州・八代郡(やつしろこうり)中道ぞいの中畑(なかばたけ)村(現・山梨県甲府市中畑)の木こりのむすめ---〔中畑〕のお(りょう 28歳)。

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(甲府市中畑=青〇 明治20年ころ)

中畑は、2006年2月28日まで東八代郡中道町内にあった。
中道町

_150_2田兵衛が火で、おが水とも、たとえられている。
とびぬけた美貌のおは、じつは男いらず---つまり、おんな同士で睦みあう変わり者なのである。(絵は歌麿『婦人相学十躰』部分 お竜のイメージ)

火と水の軍者が編みだした案から、〔蓑火〕が選びとるので、ほとんど、狂わないのだと。

以前に軍者をつとめていた〔舟形ふながた)〕の宗平(そうへい 50すぎ)が、新興の〔初鹿野はじかの)〕の音松(おとまつ 40すぎ)に乞われて去ったあとを、「2反田」がたちまちにうめた。

軍者は、若いほど、時代を見抜く目があり、新手をかんがえだすものである。

参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭 (1) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

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2008.08.29

〔蓑火(みのひ)〕のお頭

「待ちわび、待ちわびて---って感じがよく出てますでしょ? きのう、きょうあたり、あたしの顔にもでてるって、お(えい 35歳)さんが、冷やかすんですよ」
甘えた声で、目をきらきらさせながら、お(なか 33歳)が、絵草紙をつきつけた。
雑司ヶ谷の鬼子母神脇の料理茶屋〔橘屋〕の、いつもの離れ屋である。

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(北斎『ついの雛形』部分 イメージ)

が宿直(とのい)の5の日の夜を、2回ばかりつづけて抜かした銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)へ、恨みごとをぶつけている。
若い恋人に嫌われたくないために、強くは言わない。

「それより、さっき話しかけた、〔みのひ〕とかいう客のことを、もうすこしくわしく聞かせてくれないか」

銕三郎の言葉づかいも、いつからともなく、持ちあじだった丁重さが失せ、情人(いろ)めいてきている。
としては、自分が独りじめしているみたいで、それも嬉しい。

銕三郎がうながしたのは、10日ばかり前にきたという4人づれの客のことである。

「だから、言いましたでしょ。先(せん)に若さまに頼まれてた、それらしい仲間とおもえたんです」
4人づれは、男3人と大女であった。

参照】2008年8月14日[〔橘屋〕のお仲] (1)

50すぎの小男が、〔ようさぎ〕と呼ばれていた。
もうひとりの、〔みのひ〕という小男のほうは、40代半ば。
40前後で、上方弁を話す大女が、お千代

参照】お千代は、生前、夫の〔伊賀(いが)〕の音五郎が、まさかのときには〔蓑火〕を頼れとすすめておいた。そうしたら、大女の好きな〔蓑火〕がほおってはおかなかった。『鬼平犯科帳』巻1[老盗の夢]p157 新装版p166

まだ10代のおわりとしかおもえないのは〔ようさぎ〕の息子の角右衛門

千代に江戸見物をさせるために下(くだ)ってきていた〔みのひ〕が、おもいついて、〔ようさぎ〕親子を招いたらしい。
「女将さんがやっておいでの〔すすきや〕でもよかったのですが、それではご祝儀になりませんから---」
話しぶりからして、息子・角右衛門が、いよいよ、仕事(つとめ)の門出というのを祝って、2人を上座にすえての振るまいらしかった。
「そこまで察したところで、座を外してくれ---といわれ、部屋を出されました」

「あとで、おさんに訊いたら、〔すすきや〕って、本郷台地はずれの根津権現門前町の有名な料理屋のことではないかって。おさんと同じ名の人が女将さんなんですって。これで全部---。最初は、着たままで---ひんめくって」

翌日。

高杉道場の帰りに四ッ目通りの〔盗人酒屋〕で、亭主・〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)に、〔みのひ〕と〔ようさぎ〕という者のことを訊いてみた。
銕っつぁん。どこで、その名を?」
「どこって---小耳にはさんだので---」
「お耳に入ったのなら、はっきりお話したほうがよろしいでやしょう」

みのひ〕は〔蓑火〕の喜之助(きのすけ 45歳)のお頭だと。
盗人の世界では、神さまみたいに崇(あがめ)られている頭目とも。

100なぜというに、まっとうな盗賊なら守らなければならない三つの戒律(おきて)---、
一 盗まれて難儀゛するものへは、手を出すまじきこと。
一 つとめをするとき、人を殺傷せぬこと。
一 女を手ごめにせぬこと。
 (短篇[白浪看板](『にっぽん)怪盗伝』角川文庫より)
をきちんと守っているばかりでなく、何十人と仕込んできた配下の者たちにも守らせている金箔(きんぱく)つきのお頭である。

おきてを守ったおつとめということにかけては、〔ようさぎ〕、すなわち〔夜兎〕の角五郎お頭も人後(?)に落ちないが、配下を仕込んだ員数では、〔蓑火〕のお頭には、とうていおよばない。

あっしも、もっと若ければ、〔蓑火〕のお頭に頼んで一味に加えていただきてえ、とおもっとるぐらいである。あっしより、2つほどお若いのでやすがね。年齢じゃあねえんで。品格ちゅうもんで。

「あっしゃ、あの世界からは、もう、すっきりと足を洗っとるから、おもっとるだけでやすがね。で、お会いになったのでやすか?」
「いや、小耳にしただけ---なんでも、上方から、江戸見物にきているとか」
銕っつぁん。それはおかしい。〔蓑火〕の一味は、江戸でも大きなおつとめをいくつもやっていやす。江戸は知りつくしておいでのはずでやす」
「お千代とかいうおんなに、江戸を見物させているのだそうです」
「ちょっと。銕三郎っつぁん。水くさいですよ。お会いになったのでやしょう?」
「鬼子母神にかけて、会っていませぬ」
「ははん。道理で、お疲れぎみのようすなんだ」
「なにが言いたいのですか?」

そのとき、2階から手習い草紙をもったおまさがおりてきた。
(てつ)おっ師匠(しょ)さんのの字、書けました。って字も---」

参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

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2008.08.28

〔物井(ものい)〕のお紺(2)

「おさんの悩みにも、こころが動かされます」
銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)が洩らした、剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 22歳)と、〔物井(ものい)のお(こん 28歳)の色ごとの経緯(ゆくたて)に、お(なか 33歳)がため息まじりの感想をもらした。

雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕の、おが宿直の夜にいつもあてられている離れの部屋である。

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(鬼子母神脇の料理茶屋〔〔橘屋〕忠兵衛)
参照】2008年8月8日[ちゅうすけのひとり言] (22)

雑司ヶ谷からは、江戸湾はかなり遠い。
だから、秋、陽がおちるとともに、冷気が、にじむようにひろがる。
松虫たちが鳴ききそっている。

銕三郎とおは、薄物ごしに肌をあわせている。
枕元には、いつものことながら、婀娜(あだ)っぽい姿態を描いた絵草紙がひろげられていた。

「いちど、そこが悦びを究(きわ)めると、ほかの男の人の指でもそうしてみてもらってたしかめてみたくなるく気持ちも、わかるんです」
「おも、そうか?」
「以前は---嫉妬(や)けます?」
「いまは、違うのか?」
「あなたと、こうなってみて、躰の触れあいだけではないって、わかりました」
「うん---?」
「言葉です。いえ、言葉と言ってしまってはいけない---、いまの、あなたの『うん---?』とか、『ここだね---? こうか---?』といった問いかけに、とたんに反応してしまうんです」
「うれしいことを言ってくれる」
「でも、ほんとうにそうなんですもの。手妻(てづま)のようなささやき---」
の背が反(そ)りはじめた。

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(歌麿『葉奈婦舞喜』部分 イメージ)

有明行灯(ありあけあんどん)の灯芯がチリチリと音をたてた。
薄着に腕をとおしただけで、ひももつけないおが、けだるそうにのろのろと立ってゆき、灯油を足した。
明かりをうけて薄着から透けた、おの躰のまるみのある線に、銕三郎は、目を細めている。
(すこし太ったようだ。胴のくびれも少なくなっている。ここの水があっていたんだ)

「もう、眠るだけなんだから、消しては?」
「いいえ。秋の夜は長いのです。躰、拭きます? 手桶、もってきましょうか?」
「あとで、いい」

灯芯をあげたのか、部屋の明るさがすしこし増した。
前をかきあわせながら戻り、横に添うと、ぱっと開いて、抱きついた。
「それで、岸井さまとおさんは、どうなるんですか?」
銕三郎の乳首をふくむ。
「〔名草なぐさ)の嘉平(かへい 50前後)爺(と)っつぁんが、おをどこかへ、引き込みに入れて、引き離すようだ」
「うーん」
唇を離し、
「おみねちゃんとかって子はどうなるんです?」

「おみねは足利に送られて、〔法楽寺ほうらくじ)〕の一味で、所帯持ちのところへ預けるとか---」
「うちの、お(きぬ 12歳)は、運よく、あなたのお母上に面倒をおかけしましたが---おみねちゃんは7歳でしょ。可哀そう---」
「可哀そうは可哀そうなんだが、おんな好きの〔法楽寺〕の直右衛門(40がらみ)が、おとの出事(でごと 性交)の現場をおみねに見せていなければいいんだが---」

ちゅうすけ注】22年後の寛政元年(1789)のことだが、『鬼平犯科帳』文庫巻4[おみね徳次郎]p214 新装版p224 で、おみねをたいそうな男好きに仕込んだのは自分だと、〔法楽寺〕の直右衛門嘉平に告げている。

「どういうことです?」
「おは、これまで、おの見ているところで、濡れ場を演じてはいまいな」
「それはなかったと、おもいます」
「いつだったか、おは見馴れていますから---って言ったろう?」
「このことの現場ではありません。手をつないだり、腰に腕をまわしたりってぐらいのことです。どうして?」

参考】2008年8月3日[〔梅川〕の仲居・お松] (3)

「大人の出事を見た子は、このことに早熟(ませ)る」
言われてあれこれ考えはじめたが、おもいあたることでもあったのか、銕三郎にのしかかった。
「いや、いやです」

参照】[〔物井(ものい)のお紺] (1)
2008年4月29日~[〔盗人酒屋〕の忠助 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
2008年7月22日[明和4年(1767)の銕三郎] (6) 

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2008.08.27

〔物井(ものい)〕のお紺

さん。おさんのお目付(めつけ)は、どうなっているのですか?」
ささやくように、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)が、〔盗人酒場〕のあるじ・忠助(ちゅうすけ 45歳前後)に訊いた。

さん〕という呼びかけは、〔たずがね)〕の忠助のほうから、そうしてくれと言いだしたのである。
長谷川さま。お付きあいがはじまって、もう1年とちょっとになります。忠助どのの、ご亭主どのと言われるたびに、首をすくめておりました。こんごは、さんにしてください」
「拙のほうも、長谷川先生はくすぐったいから、っつぁんにしていただけますか」
「ようございます」
そういう経緯(ゆくたて)があっての、「さん」である。

(こん 28歳)は、去年、〔盗人酒場〕で突然死した〔助戸(すけど)〕の万蔵(まんぞう 享年=35歳)の女房である。
亡夫の納骨に足利在へ行ったきり、1年も戻ってこなかった。
ひょっこり帰ってくると、銕三郎の剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 22歳=当時)とねんごろになってしまった。

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(国芳『葉奈伊嘉多』口絵 部分 お紺のイメージ)

足利に滞在していた1年間、おんな好きの大盗・〔法楽寺ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 40がらみ)の情婦になっていたらしい。
酒と甘いものに目がなかった亡夫・万蔵からは得られなかった性戯をすっかり仕込まれ、おんなとして完熟させられたのである。
男なしではすまされない躰に、仕上げられていた。

直右衛門がいない江戸での、間にあわせの相手に、かつて知り合った、初心(うぶ)な左馬之助が選ばれている体(てい)であった。

直右衛門から伝授された秘技を、左馬之助に教えこむ悦(よろこ)びもあった。
性戯にかぎらない、人は教えるときに、軽い優越感をおぼえるものらしい。

直右衛門がおの浮気を知ったら、ただではすますまい。
の躰に未練があれば、左馬之助のほうへ危害をくわえよう。
左馬の若さと活力への嫉妬もはたらく。

参照】2008年7月19日~[明和4年(1767)の銕三郎] (3) (6)

剣友の危険を見かねた銕三郎が、忠助に話して、おを隠してもらった。

ところが、きょう、左馬之助が高杉道場を休んでいた。
気遣った銕三郎が、左馬が寄宿している押上村の春慶寺の離れを訪ねた。

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(高杉道場 春慶寺 尾張屋板[北本所]札分)

いつもの調子で、
左馬さん、おれだ」
と戸障子をあけると---

---あられもない光景。

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(国芳『江戸紫吉原源氏』口絵 部分 イメージ)

さすがの銕三郎も、われにもなく動悸が高まり、さっと戸障子をしめて、忠助の店へやってきたという次第である。

「たしかに、おさんだったのですか?」
「間違いない」

忠助は、おまさが使いからまだ帰っていないことを見とどけてから、
「じつは---」
は、1年前のおではなく、〔法楽寺〕一味の〔物井(ものい)〕のおとなってしまっているのだと。
隠れ家は、千駄ヶ谷の名刹・仙寿院の総門前で、〔名草なぐさ)〕の嘉平(かへい 50がらみ)爺(と)っつぁんがやっている風雅な茶店〔蓑安(みのやす)である。

そこで、店を手伝いながら、〔法楽寺〕からの指令を待っている。
法楽寺〕に、たっぷり仕込まれたおは、引き込みに使われるはずである。

が、春慶寺がそうとは思えない。
春慶寺の親寺で、6丁(650m)ほど東の柳嶋橋のたもと、妙見堂と星下(ほしくだ)り松で名高い法性寺がねらいではなかろうか。

ちゅうすけ注】日蓮宗・春慶寺の親寺・法性寺(現・墨田区業平5-7-7)は、『鬼平犯科帳』文庫巻1[唖の十蔵]で、小野十蔵同心たちが〔小川おがわ梅吉(うめきち 40がらみ)と〔小房こぶさ)〕の粂八(くめはち 30男)

「しかしねえ、っつぁん。信心深い〔法楽寺〕のお頭(かしら)が、お寺さんをお盗(つと)め先にするような罰(ばち)あたりなことをなさるとは、かんがえられないのですよ。ここはひとつ、わたしにおまかせください。嘉平爺(と)っつぁんに、しかと確かめてみます」

それから数日して、忠助銕三郎に打ち明けたのは、おが、〔名草〕の看視の目をくぐって左馬の部屋へ行ったのは、強くて初心(うぶ)な若い男の躰がほしくなったからだったと。

名草〕の嘉平が言ったそうな。
「お頭も、罪なことをなさる。男ひでりが我慢できなくなるまでに仕込まれてしまった女盗(にょとう)には、引き込みの役なんざ、つとまりっこありませんや。潜入先の男とできて、情を移してしまいかねません」

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(北斎『喜能会之故真通』 小だこ「親方がすむとまたおれがこのイボでさねがしらからけつの穴までこすってこすって気をやらせたうえでまた吸いだしたるよう」)


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2008.08.26

若き日の井関録之助(5)

長谷川先輩。やりましたねえ」
井関録之助(ろくのすけ 18歳)が、感嘆の声をあげた。

今戸の〔銀波楼〕を出て、今助(いますけ 20がらみ)に送られて今戸橋をわたり、浅草金竜山下瓦町の竹屋の渡し場から対岸の三囲(みめぐり)稲荷社の参道への舟着きへ。
水戸殿の下屋敷の前を通って、源森川に架かる枕橋ぎわの〔さなだや〕で、蚤(のみ)そばが茹であがるのを待っているときである。
さいわい、夕刻前で、ほかに客はいなかった。

ちゅうすけ注】〔さなだや〕は、『鬼平犯科帳』文庫巻2[(くちなわ)の眼]p7 新装版p7、同[妖盗葵小僧]p141 新装版p149 巻12[いろおとこ]p30 新装版p32 に登場。また、短篇[正月四日の客](『にっぽん怪盗伝』角川文庫に収録)にも。

先刻、〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 58歳)が寄こした紙包みを銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)がひらくと、元文1両小判が光っていたのである。

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(元文1両小判 ほぼ原寸 『日本貨幣カタログ 2006』より)

「2分(2分の1両)が、たちまち、倍の1両になって返ってきたのだから、すごいや」
「ばか。いじましいことを言うでない」

ちゅうすけ注】1両は4分。1分は4朱。1朱は250文=ただし、鬼平のころには375文前後。

ちようど、そばがきたので、しばらくは、たぐることに専念した。
「うまかった」
これは、蕎麦湯をすすりながらの銕三郎が歎声。

箸を置いた録之助が、
「先輩。ここは、わたしが払わせていただきます」
「16文で、大きくでたな。その腹に巻いた銭箱から払うのだったら、ついでにこの小判をくずして、借りた2分をとってくれないか。利息はつけないぞ。彦十(ひこじゅう 32歳)どのに使い賃をわたしたり、忠助(ちゅうすけ 45歳前後)どののところも払いもたまっているのでな」
「〔盗人酒場〕の呑み代は、おまさ(11歳)さんの手習い師範料で棒引きではなかったんですか?」

参照】おまさの手習い師範料 2008年5月3日[おまさ・少女時代] (3)

「師範料といえば、〔木賊〕の若い衆への師範料も、半分貰うぞ、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)どのところの支払いもとどこおっておるのでな」
「先輩。あれは、半分と言わないで、全部、おとりください。わたしには、用心棒料があります」

銕三郎は、背をただして録之助に、
「そうではないぞ、。〔木賊〕の林造どのとの話はついたが、われわれが振り棒で殴った者たちの怨みはそう簡単に消えるものではない。の代稽古料のほとんどは、あの者たちとの飲み食いに消えるとおもっておいたほうがいい」
「励みます」

「それからな、言いにくいことだが---お(もと 31歳)どのとの、なにのこと、鶴吉坊に気づかれてはおるまいな」
「ないとおもいます」
「まさか、裸で睦みあっているのではなかろう?」

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(北斎『ついの雛形』部分 イメージ)

「------」
「やっぱり---そんな姿態でやっていては、たちまち、気づかれる。6,7歳の子といえども、町方の子はそういうことには鋭いものだ。幼いころに大人の色事を見てしまった子は、ぐれやすい。くれぐれも隠して行うんだな」
「気をつけます」

「別々の部屋に寝ているんだろうな?」
「お鶴吉坊がひとつ部屋に、わたしはその隣の部屋に---」
「部屋は2つしかないのか?」
「いえ、全部で4つ---」
「それでは、3人とも別々の部屋にすることだ。そして、睦むのは、鶴吉坊からいちばん離れた部屋にしろ」

録之助の父親が、吉原の河岸女郎と心中して30俵2人扶持の小禄の家をつぶしたのは、このときから6年後のことである。

ちゅうすけ注】池波さんは、『江戸切絵図』は主として、最初に手に入れた〔近江屋板〕を愛用していた。で、くだんの〔さなだや〕を〔近江屋板〕で確認したら、なんと、源森川(北十間堀ともいう)の河口には、中堤をはさんで、源森橋と枕橋がかけられている。
〔尾張屋板〕は源森橋・枕橋ともいう---として1橋だけ。現在は枕橋の1橋。
このあたりは、時間をかけてさらに文献をあたってみたい。

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(赤○=〔さなだや〕)

[若き日の井関禄之助] (1) (2) (3) (4)

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2008.08.25

若き日の井関録之助(4)

長谷川先輩。今夜、お付きあいください」
「なんだい? が奢ってくれるのかい?」
銕三郎(てつさぶろう 22歳)が大仰に驚いてみせたので、齢下の井関録之助(ろくのすけ 18歳)が照れた。
高杉道場の井戸端である。

30俵2人扶持のご家人の脇腹に生まれた録之助の懐は、いつもピーピーであった。
剣術の筋のよさを認めた高杉銀平先生も、録之助の家庭の事情を汲んで、束脩(そくしゅう 月謝)は大目に見てくれている。

_100「〔万屋〕が、小梅村の寮へ生活費をとどけてきたついでに、わたしの用心棒料を2ヶ月分、前払いしてくれたのです」
「1ヶ月1両2分の約定だったから、3両!」
「生まれて初めて、3両という大金を手にしました。もっとも、小判は1枚だけで、あとは元文1分金6枚と明和5匁銀がごっそりでしたが---」
「ばか。〔万屋〕が気をきかせたのだ。が大きい金で支払ったら、相手方が出所を疑うよ」
「あ。なるほど---。これも、長谷川先輩が交渉してくださった賜物です。奢らせてください」
(右の写真:1分金 『日本貨幣カタログ 2006』より ほぼ原寸)

参照】用心棒のことは、2008年8月15日[井関録之助] (3)

「奢りは、この次でいい。まず、高杉先生への束脩をお納めしろ。それから、1分金を2枚、貸してくれ」
「先生には、これまでの分として、2分(2分の1両)包むつもりです。長谷川先輩の2分は、はい、いま---」
録之助が汚れた袴の紐をほどき、帯を解いて腹に巻いたさらしの中から1分金を2枚とりだして銕三郎へわたし、また、着なおす。

「なんだか、暖まっちまっているぜ、この1分金---」
「あったかだろうと、冷たかろうと、1分金は1分金として通用しますから---」
「あたりまえだ。明後日、稽古がおわったら、顔を貸してくれ」

今戸の香具師(やし)の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう)のところへの使いは、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 32歳)に頼んだ。
林造は、今戸橋北詰で、女房のお(ちょう 50歳)に、料亭〔銀波楼〕という店をやらせている。
ならびの名亭〔金波楼〕とともに、けっこう繁盛しているのは、おの人なつっこい人柄による。

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(〔嶋や〕のモデル〔金波楼〕 『江戸買物独案内』)

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻4[五年目の客]p47 新装版p49 「気のきいた板前がいて、ちょいとうまいものを食べさせてくれるので」平蔵がひいきにしている〔嶋や〕のモデルが〔金波楼〕である。
〔嶋や〕は、巻4[血闘]p141 新装版p150 、巻6〔大川の隠居]p210 新装版p221 にも登場。
巻22[迷路]p46 新装版p43 では店主・亀次郎、女将・おと明かされる。
〔金波楼〕のたたずまいは、ブログ[大人の塗り絵 わたし彩の江戸名所図会]の小林清親画[浅草・神田あたり]でうかがえる。

世間で怖れられている仁とはとてもおもえないほど、温和で痩身の林造に、銕三郎は意外なおももちがした。
長谷川銕三郎と申す若輩です。お初にお目にかかります」
「〔銀波楼〕の亭主・林造です。わざのお越し、ご苦労さま」
「こちらは、道場で同門の、井関録之助うじです。日本橋・室町〔万屋〕方の頼みで、小梅の寮の用心棒となられました」
「ほう。それはそれは---で、ご用の筋は?」

銕三郎は、懐から紙包みをだし、林造の前へ押しやり、
「先日、小梅村で、小さな子どもと戯れていた、こちらのお若い衆たちを、いたずらをしていると見誤り、ちょっとした出入りをしてしまいました。普段、道場で使っている振り棒がお若い衆にあたったようにもおもわれます。つきましては、お詫びかたがた、お見舞いといいますか、医者代を持参いたしました。いまだ、部屋住みの身であり、金策に手間どり、今日になってしまいました。ご寛恕のうえ、お納めいただれば、かたじけのう---」
2人して、頭をさげる。

そのさまをじっと見ていた林造は、
「医者代と申されましたか? なんの、なんの。うちの若い者どもは怪我などしておりません。これはお引きとりくだされ」
紙包みを押し返してきた。
柔和な表情だが、目は冷たく光っている。

「それでは、お頭(かしら)からお許しをいただけたと、安堵してよろしゅうございますか?」
「もちろん」
「では、改めて、お若い衆たちの酒代というには少額ですが、お納めくださいますよう---」
「そういう名目なら---」
ぽんぽんと手を打つと、先日の今助(20がらみ)が脛(すね)と右手首にさらしを巻いてあらわれた。さらしの下は湿布薬らしい。

林造今助の耳になにごとかささやき、ふたたびあらわれた今助は、手に紙包みをもっていた。
長谷川さんとやら。これは、うちの若い者とお近づきになったしるしに、一杯おやりいただく酒代です。ただ、うちの若い者たちは、いま、手いっぱいの仕事をかかえており、ごいっしょできないのが無念です」
「ありがたく、頂戴いたします」
銕三郎は、ごく自然な手つきで紙包みを懐へしまった。

「ところで、長谷川さんとやら。お使いになった振り棒というのは、どういう武器ですかな?」

「武器ではありませぬ。剣術のための素振りの棒です。早く申せば、樫(かし)の太めの棒に鉄条を添えて重くしたものです。これを毎朝、300回、500回と振ることによって、腕の筋が鍛えられます」

「なるほど。その振り棒のあつかい方を、うちの若い者たちに、師範していただくわけにはまいりませんかな」
「こちらの、井関どのなら、それだけの余裕もあるかと---」

「では、井関さんを、長谷川さんの代稽古ということで来ていだきましょう。振り棒は、井関先生のほうで5本ほどあつらえてください。代金は、お持ちくださったときに---。師範料は、長谷川大先生ともで、月2両ということでよろしいかな?」

[若き日の井関禄之助] (1) (2) (3) (5)

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2008.08.24

若き日の井関録之助(3)

「〔万(よろず)屋〕どの。いかがでしょう、そういうわけだから、この井関うじを、鶴吉坊の用心棒ということで、寮につめさせては?」
銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)が、横の井関録之助(ろくのすけ 18歳)を目でしめして言った。
相手は、日本橋室町の茶問屋〔万屋〕の主人・源右衛門(げんえもん 46歳)と、内儀・お(さい 41歳)である。

源右衛門夫婦が、誘拐(かどわか)されかかった鶴吉を救ってもらったお礼にことよせて、2人を店に近い浮世小路の蒲焼屋・〔大坂屋〕へ招いたのである。

〔大坂屋〕の亭主・金蔵は、うなぎを腹開きにして串を打ち、タレをつけて焼きあげる上方風の蒲焼調理法を江戸へ持ちこんで、好き者たちのあいだで人気を高めている。
それまで、武家の多い江戸では、切腹を連想する腹開きを嫌っていた。

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(左の〔春木屋〕に、「丑の日元祖」とある。この丑の日は、年に4回ある11月の土用のことと。ただ、『万葉集』に大伴家持(やかもち)の歌で「石麻呂(いしまろ)に吾(われ)物申す夏痩せに吉(よ)しというものぞ武奈伎(むなぎ)とり食(め)せ」という歌があるので、夏痩せ回復説も捨てがたい)

内儀・おが同席したのは、浅草・今戸一帯を地盤にしている香具師(やし)の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 58歳)に鶴吉の誘拐しを依頼したことがバレ、林造から、銕三郎が火盗改メに報らせるせる前に、口止めしておいたほうがいい---とすすめられたからである。

「用心棒のお手当ては、いかほどで---?」
「そうさな。食い扶持はそちら持ちということで、月1両2分、年18両、3年ぎめ---ということでは、いかがかな、内儀どの?」
「よろしゅうございましょう」
は、誘拐しの罪で入牢か遠島になるよりは---と、承諾した。
1両2分は、いまの貨幣価値に換算すると、22万円ほどになる。税や社会補償費を引かれない、まるまる手に入る金高である。
録之助は、夢かとばかりに、頬がゆるみっぱなしになった。
30俵2人扶持の下層ご家人の、しかも脇腹に生まれた録之助にとっては、宝の山へ入ったほどの待遇・手当てであった。

井関うじの用心棒の件と、誘拐しの罪は別です」
その言葉にうなずいた源右衛門が、用意しておいた金包みを、銕三郎の膝もとへすべらせた。
「〔万屋〕どの。とり違えていただいては迷惑千万」
金包みを押し返し、
「これからも、もし、鶴吉に危害を加えるようなことが企まれたら、ただちに火盗改メへ報らせるということです。さように、お心得おきいただきたい。いや、本日は、ご馳走にあいなりました。蒲焼は上方風もなかなかの風味ですな」
ついと、立ち上がった。

けっきょく、おには、執行猶予がつけられただけだったのである。
心労はかかえたままである。
これの心労が、おの寿命をちぢめたのかもしれない。

帰り道、井関録之助が、銕三郎に深ぶかと礼を言った。
長谷川先輩。なんとも、はや、かたじけのうござりました。命が救われたおもいです」
「武士たるものが、大げさに言うでない。それだけのことをしてのけたのだから、とうぜんの報酬だ」
「それだけのことをなさったのは、長谷川先輩のほうです。それなのに、金包みを、なぜ、押し返されたのですか?」
銕三郎は、にやりとへ、
「あれを受けとると、あとの仕事がやりにくくなる」
「あとの仕事といいますと---?」
「〔木賊〕の林造とのかけひきだよ」
「はあ---?」
「いまに、わかるさ。それより、よ。おどのを可愛がってやるんだよ。自分だけ愉しんでないで---」
「------?」

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(歌麿『小松引』部分 イメージ)

の師範をうけてから、急にいっぱしの性戯を体得したような気分になり、先輩面(ずら)してみたい銕三郎であった。
若い男は、性のことについては、師範しだいということらしい。
にいわせると、
「単純なところが、可愛いのです」

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(清長 柱絵 『梅色香』部分 イメージ)

[若き日の井関禄之助] (1) (2) (4) (5)


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2008.08.22

若き日の井関録之助

長谷川先輩。お願いがあります」
防具をつけた井関録之助(ろくのすけ 18歳)が、竹刀(しない)の柄革(つかがわ)をたしかめていた銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)へ、頭を下げた。

録之助は、高杉道場では、銕三郎の1年後輩である。
家は、30俵2人扶持の貧乏ご家人の、しかも、妾腹の子なので、長男ではあるが、嫡子とはいえない。
それだけに、剣で身をたてる決意をしていて、入門して2年たらずなのに、腕はめきめきとあがっていた。
背丈も、4歳上の銕三郎とどっこいどっこいのところまで伸びている。

「なにかな?」
「立会いを、最初の一番だけ、勝たせてください」
「つまり、負けてくれと---」
「ぜひに---」

銕三郎は、道場のあちこちに目を走らせた。
他の門弟たちは、いつもどおりに稽古にはげんでいる。

横川に面した通りの格子窓に、6歳ぐらいの男の子がかじりついて覗いていた。
そのうしろに30歳を出たばかりの地味な顔立ちのおんながいた。

(ははーん。左馬(さま 22歳)さんがいっていた、めのいいおんなというのは、あのおんななのだな)


道場では、先輩、後輩の序列がきびしいから、銕三郎も、あえて敬称をつけない。
1年でも、1ヶ月でも、入門が早ければ 、先輩なのである。
もっとも、年齢が大きく差があるときは、敬称をつける。

「わざと負けるわけにはいかぬ。そんな稽古をしたら、高杉先生(55歳)にお目玉をくらう。しかし、おれが勝たないことはできる。そのつもりでかかってくることだ」

このところ、銕三郎は、5の日の夜を、家の所要で、雑司ヶ谷の〔橘屋〕を行くのを一夜欠いたので、気分がいらついている。

蹲踞(そんきょ)の姿勢から、2人は稽古試合に入った。
数組が竹刀をおさめて板壁にそって正座し、2人の戦いぶりを見学しはじめた。
銕三郎の剣技は、門人たちのあいだでも、それだけ暗黙のうちに認められている。

面の鉄桟の奥の録之助の目は、怒りに燃えて光っていた。
め、必死だな。それほど、格好のいいところを、大年増に見せたいのか)

銕三郎は、自分と大年増のお(なか 33歳)との情事のことは、念頭から消している。
ふと、そのことに気づいて苦笑した瞬間、録之助の竹刀が小手に飛んできた。
受け損なった。

「それまで!」
判定したのは、岸井左馬之助であった。
いつのまにか、審判役を買ってでていたらしい。

(ま、ここは、録めに華をもたせておいてやろう)

試合をつづける気の失せた銕三郎は、竹刀を引き、礼を返し、面をとった。
録之助の満面に喜びが浮かんでいる。

格子窓の少年も、手を打って、録之助をたたえていた。
その後ろで、大年増が録之助にうっとりした視線を向けている。

井戸端で汗を拭いていると、少年と手をつないだ大年増が業平橋のほうへ行くのが見えた。楽しげに話しあっているようであった。

っつぁん。好きそうな顔で、なにを眺めている?」
左馬之助が並んでいた。
「いつからだ、めが、あの母子と知りあったのは?」
「母子ではない。乳母のお(もと)さんと、育てている鶴吉だ」

法恩寺前の蕎麦屋〔ひしや〕で、銕三郎左馬之助が、蕎麦をたぐりながらの会話である。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻1[本所・桜屋敷]で、15年ぶりに再会した平蔵宣以(のぶため)と左馬之助が、湯豆腐で熱い酒を飲み交わして懐古談とおふさの近況を話しあった、あの〔ひしや〕p60 新装版p64 である。

左馬が、録之助とお鶴吉の出会いの経緯(ゆくたて)を話してくれた。

井関の家は、本所・北割下水と向いあっている。
高杉道場へは、横川の北端に架かる業平橋をわたり、土手を川沿いに南に2丁(200m)ほど歩く。

鶴吉を育てているのは、業平橋東詰の斜(はす)向いの大法寺(現・江戸川区平井1丁目へ移転)裏・小梅村に建っている、〔万屋〕所有の小じんまりとした寮(別荘)である。

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(北本所出村町の高杉道場と小梅村の〔万屋〕の寮 近江屋板)

鶴吉は、日本橋・室町の大きな茶問屋〔万屋〕源右衛門(40歳=当時)が、女中・おみつ(19歳=当時)に産ませた子である。

いうまでもなく、源右衛門は、〔万屋〕の家つきむすめ・お(さい 35歳=当時)の、奉公人あがりの婿養子である。
は、15年ものあいだ子ができなかったくせに、源右衛門とおみつを許さなかった。

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(緑○=池波さんが茶問屋〔万屋〕源右衛門のモデルにした広告
『江戸買物独案内』文政7年 1824刊)

みつと乳飲み子の鶴吉は、小梅村の寮に逼塞、月に1度ほど、内儀・おの目を盗んで通ってくる源右衛門を待って暮らしていた。

そんな生活は、1年ともたなかった。
みつが血を吐いて不審死をしたのである。
が毒殺したとの蔭の声もあったが、噂は金の力でもみ消された。

それからは、乳母のお鶴吉をひっそりと育てることになった。

は、本所・中ノ郷瓦町の瓦焼き職人の、目立たない無口なむすめで、父と同じ職場の職人へ嫁(と)ついだ。

町名をみてもわかるとおり、火を使う瓦小屋は、町家から離れた、大川の上手(かみて)の橋場や向島の川辺や、大川へそそぐ源森川ぞいに多い。

20年ほど前、将軍・吉宗の意をうけた町奉行・大岡越前守忠相(ただすけ 1万石)の触れで、延焼を少なくする瓦屋根が奨励され、瓦の需要がふくらんでいた。

もっとも、瓦屋根は重いので、柱を藁屋根や桧皮(ひはだ)葺きの倍の太柱を使わないともたないから、建築費がかさむといって、しぶる家も多かった。

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(北本所の瓦師 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

世帯をもって3年とたたないうちに、亭主が瓦焼き小屋の火事の消火中に、くずれ落ちた屋根の下敷きになって負った大火傷がもとで死に、その衝撃で流産した。
伝手(つで)があって、鶴吉の乳母として雇われた。

生活費は、〔万屋〕からとどいていた。

ちゅうすけ注】このあたりのことは、『鬼平犯科帳』巻11[雨隠れの鶴吉]にくわしい。

いたずらざかりで怖いものしらずの年ごろの6歳の鶴吉が、野良犬にちょっかいをだし、はげしく吠えられた。
どうすることもできないおが、鶴吉を背にかばって、おろおろしているところへ、高杉道場から帰りの録之助が通りかかり、棒で野良犬の眉間を打って追い払ったことから、つきあいが始まった。

録之助の家は、30俵2人扶持の最下級に近いご家人で、しかも脇腹の子ときているので、家にも居場所がない。
とうぜん、居心地のいい、おのところに入りびたりになる。

おみつの怪死後、足の遠のいた源右衛門に代わってあらわれた強いお兄(にい)ちゃんの録之助---ということで、鶴吉もなつききっている。

しかし、録之助は、考えることの半分はおんなとの性のことという18歳。
も、30をすぎたばかりのおんなざかりである。
ましてや、夏の夜は暑くて寝苦しい。

男とおんながそうなるのに、13という年齢差など、ひとっ飛びで越えてしまう。
鶴吉の寝息を気にしながら、どちらからともなく、触れあい求めた。

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(栄泉『春情指人形』 口絵部分 イメージ)

「いつからだ?」
「1ヶ月ほど前から」
蕎麦をたぐり終わり、蕎麦湯をすすりながら、左馬之助が教えた。
銕三郎が、なにか思案しはじめた。

[若き日の井関禄之助] (3) (4) (5)

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2008.08.21

〔橘屋〕のお仲(8)

「叔母上。申し送った件についての、甲府勤番から調べ書が参りました」
納戸町の於紀乃(きの 68歳)の許(もと)へ、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)が報告にきている。

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(市ヶ谷・納戸町の長谷川久三郎(隠居・於紀乃)邸)

於紀乃の甥で、9年越し、勤番支配という要職を勤めている八木丹後守補道(みつみち 54歳 4000石)への添え状を乞うたとき、
銕三郎どの。探索の実(みの)りは、かならず、報らせてたもれ。面白うて、久しぶりに、なんだか、わくわくくしてきたぞえ」
念を入れられた。

参照】2008年8月18日[〔橘屋〕のお仲] (5)

伝太郎は、きちんとやってくれたかや?」
伝太郎とは、丹後守補道の、元服前の幼名である。

従五位下の爵位をもつ甥を、幼名で呼び捨てにできるのは、もっとも縁近い叔母なればこそ。
いま54歳の甥・丹後守補道も、於紀乃の中では、自分が長谷川久三郎正誠(まさざね 享年=69歳 4070石)に嫁(とつ)いできた49年前の、5,6歳のあどけない姿が、まず、おもいうかぶのだ。

「さすが、叔母上の一筆がものを言いました。古府中(甲府城下)あるすべての印伝革の細工所をくまなくお調べくださいました」
「勤番支配として、そんなことは、あたりまえのことじゃて。して、盗賊どもは捕縛できたのかや?」
「いえ。このたびの調べは、前に申しあげましたごとく、盗人が用いた印伝革の細工所を見つけるためで---」
「見つけたのであろう?」
「はい。穴切(あなきり)社の参道ぞいに店をかまえている〔穴切屋〕惣右衛門という店が注文を受けておりました」

於紀乃は、膝をのりだして、顔をしかめた。
動くと、膝痛がおきるのであった。
痛みが鎮(しず)まるまで待ち、
「その店は、注文者のところと名を手控えていたであろうが---」
「偽(いつわ)りの村と、名でした」

「なんという、間の抜けたことを。考えてもみやれ、銕三郎どの。その注文者が、注文をだしたきり、引きとりにこなかったらどうするつもりだったのじゃ。前金でもとっておいたのかえ?」
「いいえ。さいわい、注文者は、引き取りにあらわれて、すんなり支払いました」

歯のない口での言葉だけに、なかなかに聞きとりにくいが、銕三郎は、要領よく意味を汲みとっている。
ただ、力むたびにつ唾(つばき)が飛ぶので、すこしずつ引いている。
その分、於紀乃が膝を気にしながらにじみでる。

「ええい、じれったい。つまり、まんまと、取り逃がしてしまったのかや?」
「伯母上。5年前のことです」
「5年前? 伝太郎が勤番支配として古府中へ行かしゃったのは、9年も前でありましたぞい」

「盗人のことが分かったのは、つい、先だってのことで---」
「ほんに、そうじゃった。銕三郎どのは、これから、どう、手をお打ちなさるお積もりじゃ? まさか、これで幕引きにするつもりではなかりましょ?」

「もう一度、八木丹後さまへ、添え状をいただけましょうや?」
「おうおう、いくたびでも書きましょうとも---」
「このところの、人の出入りを調べていただこうとおもいます」

銕三郎は、於紀乃には打ちあけなかったが、甲州路の関所---勝沼から1里(4km)ほど江戸寄り---靍瀬(つるせ)の女改めの関所に注目している。
女賊・おが江戸から呼び戻されたとして、この関所を通りぬけないためには、駒飼(こまかい)か笹子峠の手前の阿弥陀宿あたりの盗人宿にひそんでいるとみたのである。

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(甲州路 勝沼--(靍瀬関所)--駒飼・阿弥陀
岸井良衛『五街道細見』青蛙房の付録地図より)

そのあたりを、八木丹後守の配下に調べてもらいたかった。

ちゅうすけ注】パラすと、銕三郎のねらいは外れていた。〔初鹿野(はじかの)〕一味がもうけていた盗人宿は、なんと、富士川ぞいの身延に近い角打(かどうち)であった。このころ、盗賊たちとの知恵くらべには、銕三郎も、まだ、およばないところもあったのである。

銕三郎どの。こうしてはどうかの。銕三郎どの自らが甲府に出張られては? この結末を見るためなら10両(ほぼ150万円)でも、20両(300万円)でも、惜しょうはない。冥土へは持っていけない金じゃもの。わらわが払いますぞえ」

銕三郎
の頭に、肉(しし)置きのよくなってきたおの躰がうかんだ。
(いま、5の日ごとの師範を中断するわけにはいかない)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分 お仲のイメージ)

「すぐには、かないませぬ。いずれ、お願いにあがります」
が消えると、代理として行けそうな〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 32歳)と〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)の、どちらが適役か、思案をはじめていた。

参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (7)

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2008.08.20

〔橘屋〕のお仲(7)

「お父上には、感動いたしました」
(なか 33歳)がいつもの部屋で、早くも帯を解きながら、団扇で風を入れている銕三郎(てつさぶろう 22歳)に言った。

膳がさげられ、水菓子(くだもの)の冷やした真桑瓜(まくわうり)が終わったころあいに、〔橘屋〕忠兵衛(ちゅうべえ 50がらみ)が女中頭・お(えい 35歳)を伴ってあらわれたときのことである。

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(雑司ヶ谷 鬼子母神脇の料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛
『江戸買物独案内』第3編 飲酒の部 文政7年刊 1824)

どの。今宵は、久しぶりに、舌にはこの上なき贅沢、胃の腑には常にないほどの苦役を課させていただいた。厚くお礼を申し上げる」

参照】長谷川平蔵宣雄と〔〔橘屋〕忠兵衛のなれそめは、2008年8月4日[〔梅川〕の仲居・お松] (4)
忠兵衛が手をふってそれをさえぎりながら、おに、平蔵宣雄(のぶお 49歳 先手頭)の馬、内妻・(たえ 42歳)の駕籠の手配を言いつけた。

そのときである、宣雄が、おに向かって言葉をかけたのは---。

「おどの。実(じつ)の入ったご給仕、かたじけのうござった。奥ともども、礼を言わせていただく。は、もちろん、残しておきます。ついては、の父として、ひと言、つけ加えさせていただきたい」

もだが、銕三郎も緊張した。

「奥のを見る目ももっともなれど、わしは、いささか、異なった見方をしており申す。この機会だから、聞いてくだされ。のこれまでの乏しいおなご歴を仄聞するに、のほうから口説いた例はござらぬげな---。いずれも、おなごの側から持ちかけてきていたと、察しております。これは、わしにはなかった、の、徳でござる。男がおなごを口説けば、それだけ、弱みを見せもし、握られもするわけで、失脚のタネもそこからはじまることが多いようiにも---。おどのとすれば、に、ほかのおなごが言い寄ってはと---心配でもあろうが、そのような浮わついた男には育てなかったと、父は信じており申すゆえ、安心して、よろしゅうに師範してやってくだされ」

これで、忠兵衛には、銕三郎とおが公認となり、銕三郎には、釘を一本さしたも同然であった。
結果、こうして、あの部屋が、早やばやとあけられもした。

もっとも、銕三郎は、14歳のときの三島宿の本陣・〔樋口〕伝左衛門のみちびきでお芙沙と出会えたのも、父の気くばりと納得できたのだが---。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ

ちゅうすけは考えるのだが、もし、平蔵宣雄ときわめて親しい仁が、
「どうして、あのような科白(せりふ)を---?」
と問いつめたら、たぶん、宣雄はこう、答えたろう。
「嫁取り寸前の若者は、ふつう(常識人)なら、30おんなには手をださない。切れるときに苦労するからな。しかし、は、切れるときのことはおもんぱかることなく、おんなというものを究(きわ)めておこうと、夢のようなことに賭けたのであろうよ。究(きわ)めても究(きわ)めても、究(きわ)めつくせるはずのないものを---。しかも、困ったことに、気性だとて躰だとて、一人ひとり、千差万別だしね」

銕三郎が、父・宣雄のおもうとおりに存念してのことであったかは、思案の外であるが---。
ま、おを有頂天にさせたことだけはたしかである。

寝着をまとったおは、栄泉をひらいて、銕三郎に微笑みかけている。
「さあ、こんどは、さんが感じさせてくださる番ですよ」

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(栄泉『艶本 ふじのゆき』中扉 部分)

銕三郎横山時蔵(ときぞう 31歳 火盗改メ・遠藤組同心)は、ニ之橋をわたったいつものお(くま 44歳)の茶店〔笹や〕の縁台ではなく、橋の手前、東詰の軍鶏(しゃも)なべ屋〔五鉄〕の入れこみに落ちついている。

甲府勤番支配の八木丹後守(たんごのかみ)の署名入りの探索覚え書がとどいたが、他聞をはばかるため、〔笹や〕ではまずいと銕三郎が、ひるどきがおわって客がいない〔五鉄〕へ案内したのである。
三次郎(さんじろう 17歳)が気をきかせて、冷酒(ひや)と軍鶏の肝の砂糖醤油煮を2人の前にはこんできた。
銕三郎が、横山同心に酌をする。

長谷川どのは、お顔が広いですな」
「〔初鹿野はじかの)〕の音松(おとまつ)つながりで、馴染みになりました」

参照】2008年4月18日[十如是(じゅうにょぜ)] (3)

「その〔初鹿野〕ですが---」

甲府からの探索次第を概略すると、八木丹後守の命をうけた町奉行所の同心たちが、城下の印伝商12軒をのこらずあたってわかったのは、5年前に、〔穴切屋〕惣右衛門方が受けたあつらえ仕事が、それと判明した。
注文が変わっていたので、店主も番頭も職人も、よくおぼえていた。

まず、印伝袋。
大きさは烏帽子(えぼし)ほど。ただし、うるしを塗る前の鹿革の内張りに、くさり帷子を網目をずらして二重に縫いつけ、それを印伝革で蔽い、口を組紐で閉めるようにしてくれと。

使い道を訊くと、採掘した水晶を入れる袋なので、水晶の根の角が袋の革を裂かないためのくさり帷子の内張り
だと、川窪村の山師・松吉と名乗った小男が説明。

「水晶の入れものに、印伝はもったいない」と言うと、「ほかの山師の品より上質に見せて売値を高めるのだ」と笑った。

小男は、背丈5尺1.2寸(1m55cm前後)、小顔でこれという特徴なし。齢のころ40がらみ。
くさめが癖らしく、注文にきたときも、縫いあがった品を受け取りにきたときも、淡黄紅色の手ぬぐいを、あわてて鼻にあてたのがおかしかった。

_100指つき手袋ともで4両2分の仕立て賃は、すべてを、いまどき珍しい元禄2朱金で支払った。(図版は弘文堂『江戸学事典』より)

奉行所は、さっそくに、甲府から北へ2里(8km)ばかりの川窪村へ人をやったが、そのような人物が住んだ気配はなかった。

(適当なつくりごとでごまかすことの多い役人の覚え書にしては、事実をかなりつかんでいる。八木丹後守さまの朱筆がなんども入って、贅肉がとれたな)
銕三郎の感想だが、口にはしなかった。
いえば、横山同心も役人の一人だから。

横山さま。小男は、〔初鹿野〕の軍者・〔舟形ふながた)〕の宗平(そうへい)に間違いありませぬ」
「手前も、火盗改メのご本役・細井さま組のお役宅で、引継ぎの覚え書を読ませていただき、そうおもいました」

「咄嗟の嘘には、逆を言うのが「〔舟形〕の癖の一つのようです。住まいを訊かれて、甲府の北の川窪村と答えたのは、逆の南---富士川ぞいか、鎌倉街道ぞいのどこかに、盗人宿があるからでしょう」
「ほう。役宅へ戻ったら、甲州の絵図をたしかめて、勤番支配どのへ、再度の探索を申しこんでみます。この軍鶏の肝の煮つけし絶品ですな」
「江戸側での調べは、元禄二朱金に両替した店でしょうか」

参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (8)

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2008.08.19

〔橘屋〕のお仲(6)

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(弘化期近郊図・部分 青〇下=長谷川邸 上=鬼子母神)

「奥方さま、ようこそ、お運びくださいました」
〔橘屋〕忠兵衛(ちゅうべえ 50歳がらみ)が、迎えの辞を述べた。

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(料理茶屋〔〔橘屋〕忠兵衛 『江戸買物独案内』)

案内されたのは、銕三郎(てつさぶろう 22歳)と、ここの女中・お(なか 33歳)が睦みあっているほうの離れの部屋であった。

(父上と忠兵衛どのとは、しめしあわせておるのであろうか)
銕三郎は、忸怩(じくじ)たるおもいだったが、顔にはださなかった。
宣雄忠兵衛もそしらぬふりをしている。
(役者は、むこうのほうが上だからな)

茶菓を運んできたのは、女中頭・お(えい 35歳)であった。
忠兵衛が、お宣雄(のぶお 49歳)と内妻・(たえ 42歳)に顔つなぎした。
長谷川さま。おは、ここへ来て、もう、13年になります。それがお初にお目にかかるということは、それだけおわたりにならなかったわけですぞ」
「参った。公務多忙でな」
「はやく、銕三郎さまに室をお迎えになり、家督を譲り、忙しさから解きはなたれれば、しばしば、おわたりになれますものを---。 銕三郎さまも、もう、お一人前でしょう。いっそ、雑司ヶ谷あたりに別屋でもお設けになれば、奥方さまも、駕籠ではなく、歩いておわたりいただけます」
忠兵衛どのの申されることよ。わしもそうしたいが、お上の勤め、なかなかに手ばなれできかねて---のう」
「人間、おもいきりが肝心ですぞ。おたがい、50の坂にさしかかっております。命の財布にのこっておるのは、わずかな小銭ばかり---」
「ごもっとも---」

そこへ、おとお(ゆき 22歳)が酒肴と膳を運んできた。
長谷川さま。奥方さま。こちらが、お引きあわせいただいたおです。若いほうはお。以後、ご入魂(じっこん)に---」
どの。その節は、ご厄介をおかけし、申しわけなかった。世間の狭いわしのこと、頼るところは、どのしかなくての」
「よくぞ、この忠兵衛をおもいだしてくだされた。うれしゅうございましたぞ」
「おどのと、おどのと申されたか。銕三郎めがえろう世話になっておるようで、かたじけない。奥。その方からも、お礼を---」

(さすが、父上。ここでは先任のおの名を先にお呼びになった)

銕三郎の母です。不束者(ふつつかもの)ゆえ、こんごとも、よろしゅうに、導いてやってくだされませ」

忠兵衛が、おと目でしめしあわせて、
「手前は、所要がごさいますので、のちほど、またうかがいます。ひとまず、失礼を。おがお給仕させていただきます」
出ていった。
もつづく。
女中は、おだけがのこった。
軽い笑顔をたやしてはいないが、おの内心は、緊張しきっていた。

宣雄に酌をしていると、が、
「おどの。なんにも用意ができませなんだので、失礼ながら、わたくしが20代の終わりごろに仕立てた、いまの季節のものですが、よろしければ、普段着になと、お召しくだされ」
風呂敷に包んだままのものをさしだす。
の念のいったこころづかいに、おは緊張から安堵(あんど)に気分を切り替え、お礼を述べるべきであったが、一瞬、絶句していた。
おもいもかけなかった事態だったからである。
座敷での客のあれこれには、臨機応変、すばやくあわせてきていたのに、あまりにも、嬉しすぎた。
言葉よりも、嬉し涙のほうが先に応じた。

「もったいないことでございます。おこころづかいにお応えする、お礼の言葉も存じません。ただ、もう、嬉しゅうございます」
は、こぼれる涙を手巾でおさえるのに精一杯。

「母上。拙からもお礼を申します」
銕三郎が、代わりに、深ぶかと頭を下げた。
「なにを申すのですか、銕三郎。そなたが不甲斐なくて、おどのに浴衣の一枚も買ってさしあげられないから、母が、代わりに---」
「しかし、母上。拙はまだ部屋住みの身でございますれば---」
「バカをお言いでない。両番筋(すじ)には、父子そろってお役におつきになっているお家もあります。銕三郎がもっとしっかりしていれば---」
宣雄がたしなめる。
「これ。奥。せっかくのご馳走を前にして、に発破(はっぱ)をかけては、おどのも給仕がしにくかろう。それぐいらでおいて、箸をつかいなさい」

も、平静にもどり、鮎の塩焼きに箸をつけかけると、おが、
「奥方さま。骨抜きをいたします」
新しい箸で身をほぐし、尾から骨をするりと抜く。
宣雄の分もそうして、橙(だいだい)をしぼる。

「ついでに、も、骨抜きに---いや。それは困るぞ。おどの」
銕三郎が苦笑し、座がくつろいだ。

「このお部屋へ入りましたとき、香が炷(た)かれているのに気づきました。先日、銕三郎の着物から匂ったのと同じような香気と、いま、合点しました。伽羅(きゃら)とは異なり、清涼な感じがふくらんでいるやにおもいます。おどの、なんという香木でしょう?」
の問いかけに、おは、密会の現場を見られたかのように、赤らんだ。

「寸間多羅(すまたら)とかいいまして、ずっとずっと南の海にあるスマトラとかいうジャガタラ国の島の香木だそうでございます。オランダの船で長崎へ運ばれたものと聞きました」
「なんだか、食がすすむ感じの香りですね」
「こちらは、屋号が〔橘屋〕なので、香りも酸っぱさ基調に、選んでいるのでございましょう」

「おどの。むすめごの---おさんでしたか。もし、よろしければ、長谷川の屋敷へおあげになって、作法などを身につけさせる気持ちがおありでしたら、そう、おっしゃってください」
「あの---」
「あと、5年も経てば、お嫁入りの年齢でしょう。長谷川のところで行儀作法を仕込まれたとなれば、商家でも迎えてくれましょう」
「おこころづかい、重ねがさね、たとよえもないほど、うれしゅうごさいます。このこと、本人とも相談の上、お願いにあがることにもなろうかと---」
「そのときの身請け人は〔橘屋〕さんに---」
「はい。そのように---」
まるで、きまったように笑顔のお

「おどの。長谷川のような直参は、町方から嫁を迎えることはかないませぬ。わたくしも村方(ざいかた)の出ゆえ、いまだに婚姻がみとめられませぬ。さいわい、銕三郎だけは、嫡子として書留められましたが---。町方のおんなが産んだ子は、ふつう、嫡子には認められがたいのです。武家方への養子には行けます。お含みおき、くださいますよう」
は、一瞬、虚脱したような目で、を見つめた。
銕三郎さまのお子を産んでもいい、ということ? それとも、妾として認める、ということ?)

「それから、母の口から言うのもなんですが、銕三郎は下の人には慕われるのですが、齢上のおんなの人は別にして、上から目をかけられる術(すべ)が得意ではないようなのです。おどの。時折は、そのほうの師範もしてやってくださいませ」
銕三郎は、おと見合って、まばたきをくりかえした。
姉がやんちゃな弟を見るような目で、おは微笑んでいた。
困った、といった表情になったのは、宣雄だった。

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(青〇=スマトラ島 鬼平のころに江戸で刷られた万国全図の部分 山下和正さん『地図で読む江戸時代』 柏書房 1998.10.15)

参照】[〔橘屋〕のお仲] (1)  (2) (3) (4) (5) (7) (8) 

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2008.08.18

〔橘屋〕のお仲(5)

今夜も、〔橘屋〕の離れの部屋には、香が炷(た)かれていた。
銕三郎(てつさぶろう 22歳)と、この料理茶屋の女中・お(なか 33歳)が話しあっている。
の躰に月のものが訪れているので、裸にはなっていない。

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(『栄泉あぶな絵』[青すだれ])

裸になっていない分、5日前に見た春本の姿態になっている。

「今宵は、出事(でごと 性交)の匂いはのこるまいに---」
「いいえ。男とおんながひとつ部屋へこもっているだけで、そのことをしなくても、その匂いが畳や座布団に忍びこんでしまうから、鋭いお客さまはおわかりになる、とお(えい 35歳 女中頭)さんがおっしゃるのです」

「印伝(いんでん)の手がかりが、実(み)をむすぶとよろしいのに---」
は、自分が観察したことが、自分を殺(あや)めようとしていた賊の逮捕にひと役買いそうなので、きょうの出会いが交合抜きでも、気分がこころもち高ぶっている。

「あれ抜きだと、おのお脳(つむ)は、とりわけ冴えるようだから、これからも、抜きで逢うかな」
「そんなの、いやです。でも、いまの言い方だと、あたしが、まるで、色きちがいみたいじゃないですか」
「わたしは色ごと好きじゃないなどと、自分で言うおんなは、大うそつき者さ。おが、色ごとが大好きなので、拙は、学びのすすみが速いと、喜んでおる」
「よかった。あのことで、わたしの躰が芯まで悦(よろこ)ぶからこそ、お脳も冴えるのです。おんなは、子宮とお脳がじかにつながっているんです」

「塾の師匠がいつものたまう。青春の期間だけでも、あのことをかんがえさせない薬ができたら、学問はいまの100倍もすすむだろうって」
「それは、男の人にかぎりません。おんなも、そう。でも、そんな薬ができたら、世の中が100倍、つまらなくなります」

の、他愛もないたわ言を聞きながしながら、銕三郎は、父・平蔵宣雄(のぶお 49歳)が、20年近く前に家督相続をいっしょに許された16人の中に、本多なんとやらという仁が、甲府勤番で、まだ、あちらに勤めているように父から聞いたのをおもいだしていた。

あくる日の夕刻、晩飯のあと、
「父上。いつだったかお聞きした、〔初卯の集い〕とやらは、まだ、つづけておられますか?」
〔初卯の集い〕とは、幕府から遺跡継承の許しを申しわたされた4月3日のその年(1748)、9日後に寛延と改元され、その年がたまたま卯年にあたっていたので、験(げん)をかついで命名したもの。

参照】2008年6月30日~[平蔵宣雄の後ろ楯] (15) (16)

「わしを含めて10人のうち、倉林どのと田村どのが亡くなられ、いちばん若い米津どのもずっと伏せっておいででな。それに、甲府勤番の本多どのが、今年は都合がつかなかった。あの仁がみえないと、会が陽気にならなくて---」

ちゅうすけ注】
倉林五郎助房利(ふさとし) 宝暦4年(1754)6月20日卒 34歳
田村長九郎長賢(ながかた) 宝暦6年(1756)12月26日卒 28歳
米津昌九郎永胤(ながたね) 明和4年(1767)11月24日卒 36歳

「その本多さまに頼みごとがあ.るのですが---」
銕三郎が、盗賊一味が鉄菱を入れていた印伝の袋と指つき手袋のことで、甲府の印伝をあつかっている店々を探索する願いをごとを、本多作四郎玄刻(はるとき)に頼みたいのだと告げると、
「なにを、たわけたことを---」
宣雄が笑った。
「は---?」

「納戸町の於紀乃(きの 68歳)伯母がおられるではないか」
於紀乃伯母ご?」
「しっかりせい。伯母ごの実家()は小川町一ッ橋道の八木家じゃ」

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(小川町一ッ橋道(現・白山通ぞい神田神保町あたりの八木邸))

「あッ。甲府勤番支配の八木丹後(守)さま---」
「そうじゃ。本多どのには、勤番支配さまから命じていただけば、公務になろう」

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(八木十三郎補道の寛政譜 叔母が長谷川久三郎正誠に嫁す)

於紀乃は、八木十三郎補道(みつみち 盈道とも 54歳 4000石)の父の妹、すなわち叔母で、納戸町の大身・長谷川讃岐守正誠(まさざね 3年前に享年69歳 4070石)に嫁(か)し、2男1女をもうけ、なお健在であった。

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(紀伊守正長の三男が立てた長谷川家六代目・正誠『寛政譜』)

つまり、於紀乃から甥・補道へ一筆添えてもらえ、ということである。

銕三郎は、さっそく、納戸町の広大な屋敷に於紀乃を訪(おとな)い、頼んだ。
於紀乃は、68歳にもかかわらず、膝痛のほかはしっかりしており、甥・補道あての達筆の添え状をたちまちのうちに、したためてくれた。
銕三郎どの。探索の実(みの)りは、かならず、報らせてたもれ。面白うて、久しぶりに、なんだか、わくわくくしてきたぞえ」
歯がほとんどないふわふわ声で、つばきを飛ばしながら言った。
銕三郎は、ここでも、退屈老人を喜ばす術(て)を心得ている父・宣雄の配慮に学んだ。

ちゅうすけ注】のち、平蔵宣以が質屋の隠居たちの老人力を活用したのも、この日の教えを生かしたともいえようか。2007年9月21日[よしの冊子(ぞうし)] (20)

銕三郎は、自分の依頼状に於紀乃叔母の添え状をつつみこみ、火盗改メ・横山同心へわたした。
盗賊探索の手だてのひとつ---という形をとり、継(つなぎ)飛脚(幕府の公用飛脚)に託すように手配してもらったのである。


その月の最初の5の日も、泊まりのおのところへ出かけるつもりでいたところ、前日の朝、父・宣雄に言いつかった。
「明日の夕食は、雑司ヶ谷の〔橘屋〕で摂るから、そのつもりでおるように。母もいっしょだぞ。忠兵衛どのにはすでに、通じてある」
「母上も---でございますか?」
「なんじゃ、その言い方は---のほうがお添えものなのじゃ」

一日、銕三郎は落ち着かなかった。
を、父母に観察され、もし、
(あのおんなと、今後、一切、かかわってはならぬ)
と命じられたら、困ったことになる---と悩んだ。
からは、まだ、手ほどきを受けはじめたばかりある。
剣術でいえば、竹刀のあげおろしを教わったぱかり。
これまでは荒っぽい我流にすぎず、文字どおりの独りよがりであったことを、おもいしりはじめたところなのに。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分 お仲のイメージ) 

免許皆伝とまではいかなくても、せめて、序二段目あたりまではすすみたい。
しかし---。
とくに、母・(たえ 42歳)の目が怖い。
阿記あき 逝年25歳)に会い、その気性を認め、2人のあいだに産まれた於嘉根(かね 3歳)の、これからの身のふり方にかかわっているだけに、気になる。

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(歌麿『針仕事』部分 阿記のイメージ)

阿記は、芦ノ湯村でも筆頭の湯治宿のむすめで、おっとり・しっかりと育っていたが、おは、出羽の貧しい農家の子で、10代から働きづめできている---しかも、11歳も齢上---の目にどう映るか?)

その日が来た。

参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (6) (7) (8) 

【参考】久三郎系統の長谷川家についての既稿分。
2006年5月22日[平蔵の次男・正以の養子先
2006年5月23日[正以の養父
2006年5月24日[正以の養家
2007年6月1日[田中城の攻防] 
2007年8月8日[銕三郎、脱皮] (4)
2007年10月11日[田中城しのぶ草] (19)
2007年10月25日[田中城しのぶ草] (23)
2008年2月28日[南本所・三ッ目へ] (6)
2008年7月4日[ちゃうすけのひとり言] (18)
2008年7月9日[宣雄に片目が入った] (5)

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2008.08.17

〔橘屋〕のお仲(4)

「紅花の手ぬぐいの小男が、印伝(いんでん)革でつくった指つきの手袋をはめた手で、おなじく印伝革製の大ぶりの袋から鉄菱(てつびし)をつかみだしては、間合いをはかりながら廊下板に置くと、手下のひとりが金鎚で軽く打っていたのです」
恐怖にふるえながらも、お(なか そのときはお とめ 32歳=当時)は、しっかりと目にとめていたのである。

「えらい! よくも見据えていてくれた。で、印伝革と、なぜ、わかったのかな?」
銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)は、おの観察眼をほめて、いい気にさせた。
ほめられたほうは、口が軽くなって、ついでに、いろんなことをおもいだす。
「あれって、鹿皮からつくるのですよね? でも、甲州でつくった細工ものだけが印伝と呼んでいいことになっているんですってね」

が口をとがらせるようにして話したところによると、おだったおが19のときまで育った出羽(でわ)国村山郡(むらやまこおり)成生(なりう)あたりでも、鹿皮をなめしたものを売るのを生業(なりわい)としていた家々があったが、「しし皮」と呼んで、「印伝」とは呼べなかった。

「甲州の鹿皮細工師たちが、甲府勤番支配をつうじてお上(かみ)に働きかけ、地場特産品としていたのかもしれないな。勤番支配だった叔父が、2年前、逝ったので、裏の経緯(いきさつ)が訊けない」
銕三郎は、おにいいわけをした。
このあたりの按配が、ますます冴えてきている。

「叔父さまが勤番のお頭だったなんて、すばらしい。あたしなんかには、もったいないような若さまなのですね」
「親類は親類でしかない。おだって、わが家の親類と寝ているつもりではあるまい? 拙との出事(でごと セックス)を堪能しているんだろう?」
「わかりきったことを聞かされると、お仲は悲しゅうなります。命の恩人である若よりほかに、寝るはずがないではございませんか」

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(栄泉『古能手佳史話』部分 イメージ)

ところで、このブログは、小説でもなければ、エッセイでもない。
鬼平犯科帳』への理解を深め、より面白く読むための手引きをめざし、終着は何年先になるか知れないが、未完の巻24『誘拐』を補筆して、おまさ(39歳?)を救出する予定にしている。

_120だから、そのためなら、何をぶちこんでもいいとおもっている。
28年前---1980年10月号から68回---つまり5年8ヶ月、ある月刊誌に『日本の老舗』を連載した。1回1店で68店。雑誌の経営母体が変わって、連載は中断となった。
68店のうち、東京に現在する15店は『江戸の老舗』(誠文堂新光社 1982.6.9)として刊行した。刊行日がたまたま満52歳の誕生日で、52冊目の自著となった。

閑話休題。

連載の中に、甲府市の〔印伝屋〕を取材したものがあるので、抜粋・引用したい。
火盗改メに関係なとはいえない江戸のある制度に触れている。

『大菩薩峠』と甲府
少年の頃の、ヒリヒリと胸が焦げるような読書の快感を、いままた、楽しんでいます。

50歳前後の男性の方なら、宿題や試験を気にしながら『怪傑黒頭巾』や『神州天馬峡』を読みふけった少年時代の体験をお持ちでしょう。

いま、私を30数年前に連れ戻したのは、富士見書房が『時代小説文庫』と銘うって刊行を始めた中里介山の未完の大作『大菩薩峠』(全20冊)です。
幼なかった頃には、第4巻あたり(同文庫の1冊目)までしか読んでいませんでしたので、この機会にと思い立ちました。

さすがに、宿題や試験はありませんが、大人にはヤボ用という邪魔ものがあります。心ならずもそれを無視しながら読みつづけるわけですから、胸のヒリヒリがよみがえるわけです。

改めてこの大作を読んでみると、少年時代には洞察がとどかなかった部分があまりにも多くて、いまさらながら驚いています。

桑原武夫さんが『大菩薩峠』(文庫)2冊目の解説に述べている、日本人意識の3層---ーつまり、最表層の西洋文化の影響を受けてか近代化した部分(作中では駒井能登守に代表される)、次の儒教的な日本文化の層(机竜之助に試合に負けて死ぬ八王子同心---宇津木文之丞の弟、兵馬に代表される)と、その下のドロドロとよどんだ土俗的な層、といった見解にも興味がありますが、登場してくる諸人物の描き方にも感心している始末なのです。

『大菩薩峠』そのものにこだわっていると、今回の老舗---印伝屋にいつまでたっても到達しませんから、適当に切りあげましょう。

しかし、『大菩薩峠』の第8巻から第15巻あたりまでは、甲府が舞台になっています。
〔印伝屋〕も甲府でつづいてきた老舗です。

甲府について、第14巻(同文庫では10冊目)に---

甲斐国(かいのくに)甲府(こうふ)の土地は太古(おおむかし)は一面の湖水であったということです。

---湖では人間がすめまいと、稲積地蔵(いなづみじぞう)尊が2人の神様と相談して、山の一角を蹴破って水を富士川へ落とし、瀬立不動(せだてふどう)様が川の瀬を均(なら)して水が滞(とどこお)らないようにしたというのです。

2人の神様とは、蹴作(けさく)明神と穴切明神です。
そういう名の神仏がいまも残って祀(まつ)られているのですから、甲府の湖底説はほんとうのことなのかもしれません。

ちゅうすけ注】穴切大神社
蹴作はgoogleで検索できない。ご存じの方はご教示を。

太宰治は作家らしい直感で---

甲府は盆地である。四邊、皆、山である(略)。大きい大きい沼を、掻乾(かいぼし)して、その沼の底に、畑作り家を建てると、それが盆地だ。もっとも甲府盆地くらゐの大きい盆地を創るには、周囲五、六十里もあるひろい湖水を掻乾しなければならぬ。(『新樹の言葉』)

---と、その形容をかつての湖底と表現しています。
つづいて、「派手に、小さくも、活気のある」「ハイカラな文化の、しみとほってゐる」町と、ほめあげてもいます。

さて、先に名前をだした駒井能登守は甲府勤番支配です。
徳川家康は甲府を直轄領として、小普請(こぶしん)組から五百石以下、ニ百石以上の旗本をニ百人。勤番として送りこみました。
別に与力が二十騎と同心が百人。彼らの上に立ったのが勤番支配で『大菩薩峠』に---、

ニ千石高の芙蓉間詰(ふようのまづめ)であります(中略)。御役地(おやくち)は千石で本邸は江戸にあって住居は甲府に置く(第十一巻『駒井能登守の巻』)

ちゅうすけ注】甲府勤番の士として、長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳=当時)といっしょに遺跡相続をゆるされた中の一人が、本多作四郎玄刻(はるとき 21歳 200石)を2008年6月30日~[平蔵宣雄の後ろ楯] (15) (16)

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(甲府勤番・本多作四郎玄刻の個人譜)

柳営補任』は、勤番支配とはせず、勤番頭の呼称をつかっている。玄刻のときの頭は、長谷川讃岐守正誠(まささね 53歳=当時 4070石 長谷川宣雄の従兄)

〔印伝屋〕の小冊子には、「四百年の伝統を誇る由緒ある袋物」とあります。
四百年といえば、武田信玄(1521~73)の時代です。
そういえば、信玄袋というのもあります。もっとも、信玄袋は明治中期から流行したもので、信玄弁当を入れたための命名です。
三つ重ねの信玄弁当も『嬉遊笑覧』(文政13年刊)によると、「もと甲州より出たる雑話の説によれば、信玄の作りし物にあらず」だそうです

江戸の火事羽織を加工
明治維新と大震災と大空襲で、家伝の史料をほとんど失っている東京の老舗の取材に苦労してきた私は、十三代つづいている地方都市の老舗というので大いに期待して中央本線に乗り込みました。

ところが、甲府市中央三丁目---旧甲州街道沿い八日町の〔印伝屋〕の上原勇七ご当主に会って最初にいわれたのが、
「昭和二十年七月六日の空襲で家も店も蔵もみんな焼けて、史料がないのです」

唯一の手がかりは、上原家が天文十一年(1542)の信玄の諏訪攻めにより、信濃の永明(えいめい)村上原(現・茅野市)から甲府へ移ったということ。

初代上原勇七が印伝を家業としたのは江戸中期からということですが、その前から鹿革細工(主として、甲冑の吹返 ふきかえし、冠板 かんむりいた、胸板 むないたなど)に従っていたとするとうなずけます。

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(甲冑の鹿革を用いた部位)

延喜(えんぎ)五年(905)---古今和歌集ができた年に「信濃国から緋革(あけかわ)五張、上野(こうずけ)国からは緋の革十五張」が朝廷に献上されています」(井戸文人『日本嚢物(ふくろもの)史)』大正5年刊)

もっとも、当時、日本で革といえば鹿のそれを指し、延喜式には鹿の皮の産地として、伊賀、尾張、遠江(とおとうみ)、伊豆、甲斐、相模(さがみ)、武蔵、上総(かずさ)、常陸(ひたち)、信濃、陸奥(むつ)、出羽、能登、因幡(いなば)、出雲(いずも)、美作(みまさか)、備前、備中、安芸(あき)、阿波、伊予の二十一ヶ国があけられていますから、鹿革加工が信濃の特産だったとはいいきれません。

また、〔印伝屋〕につながる印伝革は、『三田村鳶魚(えんぎょ)・江戸生活事典』(青蛙房)の「印伝の皮財布」の項に---

印伝皮(注:正しくは革の字をあてる)は、甲州の名産です。甲州から江戸へ出したものです。
今も甲州には印伝屋が軒を並べてあります。
江戸の火事羽織は皮の羽織です。火消屋敷或は外大名の皮羽織があります。それの古いのが皆甲州へ年々沢山行っております。彼方で印伝の法を伝えるというのが甲州にあります。
それは皮羽織は多年着ているから皮が柔らかくして、いつまで経っても皮がきれなくて、財布や何かに極くよろしいのです。

明治二十五年から約一年四ヶ月、『朝野新聞』に連載された『徳川制度』は、『江戸町方の制度』と改題されて新人物往来社から出版されています。これによりますと、当時の消防の組織は、

消防  定火消
    方角火消
    町火消
    諸大名自家自衛の火消
の四種類゛ありのました。

定火消は、宝暦元年(1751)に八組に減じられた旗本による消防隊です。
半蔵御門外(弓)
溜池霊南坂上(鉄砲)
御茶の水(弓)
八代洲河岸(鉄砲)
市ヶ谷左内坂上(弓)
飯田町九段坂上(鉄砲)
赤坂御門外(弓)
駿河台(鉄砲)
と、江戸城をめぐる要所要所に常駐し、役宅を構え、頭(かしら)一人に与力六騎、同心三十人が任命されていました。

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(定火消の革羽織の組別の文様)

頭は四千石以上の大身旗本です。同心以下は平常は弓箭(ゆみや)や鉄砲の術を習ったのです。
彼らに、革羽織、革股引、革頭巾が支給されました。
革頭巾や革羽織には、それぞれの組の印が染め抜かれていました。

さて、たびたび大火に逢って消火に従事し、水を浴び、火に焙(あぶ)られると、羽織も股引もたちまち破損し退色します。
そうしますと、頭から。引き換えといって新品が支給されますが、古いほうを返却するわけではないのです。で、古顔にもなってくると、枚数もたまります。新旧二枚を残して、あとは売りとばして金に替えたものです。これを革替えといって、余禄としたものです(『江戸町方制度』)

---なぜ新旧二枚ずつ残したかといえば、炎の加減を見て、
「今日は水をかぶりそうだぞ」
と判断したら古い羽織をひっかけて出動し、遠くで観戦の日には新しい羽織ででかけるためです。

天保年間(1830~43)で革衣装一式は約五両(注:1両=15万円換算)だったといいますから、頭の出費はたいへんだったでしょう。

方角火消も消防夫は茶色の革羽織を着ました。
いろは四十八組の町火消も革羽織を用いたと『守貞漫稿』にあります。

そうしますと、古革羽織の量は相当のものだったのではないでしょうか。
(後略)

「お。早速に、古府中(甲府)の印伝屋をあたらせてみるよ。なにか、手がかりが得られそるかもな」

ちゅうすけ注】江戸で印伝を扱っていた袋物問屋は『江戸買物独案内』(文政7年刊 1824)では、上段左の〔伊勢屋〕がそのことを記す。下段左の〔舛屋〕は、火事羽織などの受注を謳っている。

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(上段左=〔伊勢屋〕印伝 右=〔菱屋〕 下段左〔舛屋〕火消羽折
『江戸買物独案内』 文政7年刊 1824)

池波さんは、上段右の〔菱屋〕を『鬼平犯科帳』巻19[引き込み女]に借用。p270 新装版p279 おまさの旧友の女賊・おが引き込みに入り、養子で当代の彦兵衛に駆け落ちをもちかけられる悲恋ものに仕上げている。

鬼平犯科帳』で袋物問屋が登場する話は、巻2[妖盗葵小僧]で、弟を婿にやった先の若嫁が葵小僧(あおいこぞう)に犯されて腰の動きを合わせたことを恥じて心中されてしまう、実家の兄〔吉野屋〕治兵衛p121 新装版p134 を初めとして10篇ほどある。

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(国芳『枕辺深閨梅』口絵 部分 葵小僧のイメージ)

巻21[男の隠れ家]---芝・宇田川町の〔吉野家〕の当代に成り上がったものの、家付き女房に頭があがらないために、偽侍姿で街を歩いてうっぷんばらしをしている清兵衛と盗賊〔玉村たまむら)〕の弥吉の友情話が、現代の若い男たちを風刺しているようで、ぼくは気に入っている。

参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (5) (6) (7) (8) 
  

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2008.08.16

〔橘屋〕のお仲(3)

「ご亭主。〔初鹿野はじかの)〕一味の動きは、まだつかめませぬか?」
銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)が問うと、〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)は、頭(こうべ)をふって、
「ぴくりとも網にかかってこないのですよ。〔名草なぐさ)〕の嘉平(かへい 50男)爺(と)っつあんも、〔樺崎(かばさき)〕の繁三(しげぞう 35歳がらみ)どんも、あちこち手くばりはしているんですがね」

参照】〔名草〕の嘉平。〔樺崎〕の繁三 2008年8月11日[〔梅川〕の仲居・お松] (10)

逆に、
長谷川さま。〔初鹿野〕一味がここから上手(かみて)の緑町にあった料亭〔古都舞喜(ことぶき)〕楼を襲って引きあげるときに、廊下に鉄菱(てつびし)を撒いたとおっしゃいました。あれから、江戸なり近隣で、鉄菱をまいた盗賊に襲われたところはないか、火盗改メの、ほら、お親しい同心さん---」
「横山(時蔵 31歳)どの」
「そう、その同心さんに訊いてごらんになってくださいませんか」
と言ったものである。
(これは、1本、取られた。さすがは、〔法楽寺ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 40がらみ)の名軍者(ぐんしゃ)だっただけのことはある)

参照】2008年4月18日[十如是(じゅうにょぜ)] (3)

銕三郎は、本所・相生町4丁目の大身旗本・本多備後守忠弘(たたびろ 40歳 書院番第5組々頭 7000石)の辻番所であった。
そこで、火盗改メ・遠藤組横山同心を待った。

参照】2008年8月12日[〔梅川〕の仲居・お松] (11)

ほどなく、見廻り中の横山同心が、汗をふきふきあらわれた。
2人そろって、いつものように、弥勒寺(みろくじ)前で後家のお(くま 44歳)が一人でやっている茶店〔笹や〕の縁台に座った。

茶と手製の串団子を給仕したおが、
長谷川の若よ。お(とめ 33歳)さんに飽いたら、いつでも言っとくれ」
「気長に、静かに、待っていてください」
「きっとだよ。ところで、横山の旦那は、お酒(ささ)のほうがよかったんでは? 呑めない長谷川の若につきあうことたぁないんだよ」
「まだ、見廻りがのこっているんでね。渋茶でけっこう。それより、おしぼりをくれないか。汗がひどいのだ」
「なんなら、裏で行水をするかね? 背中をながしてやるよ」
「いや。けっこう。女房一人をもてあましておるんでね」
「その若さでかい? 精を分けてあげてもいいんだよ」

がひっこんだところで、鉄菱を撒く一味のことを切りだした。
見込みどおりの返答が返ってきた。
半年前に、中仙道の深谷宿の芸妓の置屋が月末に料亭から集金したばかりの800両余を持っていかれたとの届けが、八州取締出役(しゅつやく)からだされていた。
さらに、3ヶ月前にも、甲州路の都留郡(つるこおり)大月村の庄屋・駒橋善兵衛方が襲われ、金納分の323両奪われたと、石和(いさわ)支配所から古府中の甲府勤番所へ届けがあがっていた。
どちらも、閉じ込められた部屋の前の廊下に鉄菱が撒かれ、報らせが遅れたのだと。

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(青小〇 上=中仙道の深谷宿 下=甲州路の大月村)

横山どの。鉄菱などというものは、どこの鍛冶屋もほとんど造ってはいないでしょう。近隣の鍛冶屋をあたらせれば、注文主が割れるのでは?」
「そのとおりです。触れをだしたが、手がかりはでてきませんでした」
「すると、どこで大量につくっているのでしょう?」
「たぶん、かかりきりの鍛冶屋が、一味の中にいるのでしょうよ」

横山同心と別れてから、銕三郎は、深谷と大月のかかわりをかんがえてみたが、結論は一つしかでなかった。
初鹿野〕一味が、甲州へ潜もうとしていると。

月末の新月の晩、銕三郎は〔橘屋〕の離れにいた。
昼間の熱気が部屋にのこってい、庭の夾竹桃のいまがさかりの花の匂いが、香の香気にまざって部屋まで流れていた。
今夜は、お仲の躰にさわりがあるため、話をかわすだけなのに、香は控えめに炷(た)かれていた。
蚊やりも煙を立てている。

〔古都舞喜〕楼での賊たちの鉄菱の撒き方の手順をおもいだすように頼んだ。
「あっ。そう言われますと---」
が、なにかをおもいだしたふうであった。

参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (4) (5) (6) (7) (8) 


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2008.08.15

〔橘屋〕のお仲(2)

「お(きぬ 12歳)と離れて、鬼子母神(きしもじん)さんのそばで、こうして、安心して働けていることが、ふしぎにおもえるんですよ」

雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕に4つある離れ座敷の一つで、香を炷(た)きこめ、蚊やりの煙をたなびかせながら、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)と同衾しているお(なか 33歳)が、しんみりした声でうちあけた。

宿直(とのい)の当番の夜である。

女中頭・お(えい 35歳)が、お銕三郎のあいだがらを心得ていて、嫁を迎える前の若い男に、おんなのからだのツボの悦(よろこ)ばせ方を会得(えとく)させるのが、30代後家たる者のつとめだと、春本まで貸して、けしかけたのである。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[夏の夜] イメージ)

たっぷりと念をこめた行為を終えて、躰の熱気をさましていると、母性が帰ってくるのは、すぐそばの、鬼子母神の女神・訶梨帝(かりてい)の功徳であろうか。

ものの本にこうある(抜粋)。

きしもじん鬼子母神】 「きしぼじん」とも読む。インドに由来する女神で、サンスクリット語では、「ハーリティ」。
もとは暴悪で、他人の子を奪い取って食らう悪鬼であったが、のちに仏の教えを聞いて懺悔し、仏弟子となり、子授け・安産・子育ての善神となった。左手に児を抱き、右手に吉祥果(きちじょうか)と呼ばれる果実(いっぱんにザクロ)を持つ天女形。とくに日蓮宗で盛んに信仰される。

雑司ヶ谷の鬼子母神は、『鬼」という字の最上部の「ノ」を除いている。仏に帰依したから、鬼の角が取れたのだと。

_150「おどのの父親は---?」
「死にました」
「立ち入って悪いけど、いつごろ?」
「おが2歳のとき---」
「おは21だったのだね」
「はい」

「それから、ずっと、おは、働いてきた?」
「あの子をあずけて---おんなが一人で子育てするのって、たいへんなんです」
「そうだろうと、おもう」
「どうしても、男の人がかかわってくるんです。でも、どの人も、ご自分が楽しむことが、まず、先に立って---」
「------」
「あなたは別」
「拙のような、羽織の1枚も買ってやれない部屋住みの男で、すまないとおもっている」
「ふしぎなんですが、銕三郎さまとは、齢が11も離れているのに、なんの思惑(おもわく)も先ばしらせることなく、安心して、睦み合えるんです」
「姉はいなかった拙だが、姉をかばいながら甘えるって、きっと、こういう気分なんだろうな---とおもえてきている」
「ほんと、なんの気がねもなく、生(き)のままで---」

「さ、丁をめくりました」
(丁とは本のページの2ページ分のこと)
「ここを、こう、持ちあげて、そこへあなたが、こう、入り、こう、抱いて---」

「剣術と似ている。剣も、相手の仕掛けに、こちらも息と躰(たい)をあわせ、ここぞというときに撃つ---」
「あ、撃って、そこ、撃って---もっと---」

400_270_2キャプション 昔高田四ツ家町に住せし久米といへる者、一人の母に孝あり。家元より貧しく孝養心のままならぬをなげき、つねに当所の鬼子母神へ詣し、深くこのことを祈りしに、寛延二年の夏思いつきて、麦藁をもて手遊びの角兵衛獅子の形を造り、当所にて商いしに寛延ニ年(1749)の夏、ふと思いつきて、麦藁もて手遊びの角兵衛獅子の形を造り、これを当所にて商いひしに、その頃はことに参詣多かりしかば、求むる人夥しく、つひにこの獅子のために身栄え、心やすく母を養ひたりとぞ。至孝の徳、尊神の冥慮にかんひしものなるべし)

「お頼みしてよろしいでしょうか」
「なに?」
「これ---鬼子母神さんの境内の店屋で売っている、すすきでつくったみみずくなんです。それと、名物の飴。おにとどけてやってくださいませんか?」
「雑司ヶ谷ということがバレるから、拙の参詣みやげということにしていいかな」
「そうでしたね---」

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻23 長篇[炎の色]p98 新装版p97に、この「木莵(みみずく)の玩具(おもちゃ)」が登場していることは、鬼平ファンならとっくにご存じ。

「幸い、お(まつ 30歳前)が江戸を離れたことは、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 32歳)どのが新宿まで尾行(つ)けて、甲州路をのぼって行ったことは、たしかめてある。しかし、〔初鹿野(はじかの)〕一味の主だった者たちが江戸を去ったかどうかは、まだ、はっきりしないのだ」
「いつになったら---」
「もう、しばらくの辛抱だとおもうよ。いま、盗賊仲間のうわさを、〔盗人酒屋〕の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)どのが集めておるから」
銕三郎の指を口にふくみ、舌でちょろちょろ舐(な)めながら聞いている。
座敷客の応接で鍛えられ、2つのことが同時にきちんとできるようになっている。
(剣術遣いなら、二刀流の遣い手だな)

「月末も来ていただきたいのですが、あたしの躰のつごうが生憎(あいにく)なんです。お逢いしてお話しするだけで、よろしければ---」
「たぶん、参れるとおもう。そうするように、つとめよう」
「うれしい」
「覚えておくよ。新月のころなんだね」
「月初めの5の日には、お迎えできます」

参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 

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2008.08.14

〔橘屋〕のお仲

 とのい(宿直)の日がきまりました。
 女中がしらのおえい)さんが気をきかせてくださって、はなれば
 かり、5の日をあててくださいました。
 こんどの25日、夜、五ッ半(午後9時)に、一ノ鳥居でおまちしています。
 いさいは、そのときに。

〔橘屋〕の女中となったお(なか 33歳)からの町飛脚便をもらった銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの平蔵)は、母・(たえ 42歳)に、当日は外泊になると告げておいた。

ちゅうすけ注】町飛脚とは、江戸府内を配達区域としている飛脚便。もちろん、京、大坂にもあった。

夫・平蔵宣雄(のぷお 49歳 先手・弓組の組頭)から、阿記(あき 25歳=享年)を失った痛手もあろうから、しばらくは大目にみてやるように言われていたは、どこに泊まるのかだけ訊いた。

「〔橘屋〕になるとおもいます」
「雑司ヶ谷の?」
「さようです」
「それでは、着るものを改めないといけませんね」
「店が閉まってからですから---」
「朝、帰るときの人目があります。いいえ、銕三郎のためではありません。貧相な客を泊めたとおもわれては、〔橘屋〕さんの品格にさしさわります」

母と、そういうやりとりがあったことを、宿直の部屋にあてられた離れの1室で、おに話すと、
「いいお母上ですこと。じつは、あたしのほうでも---」
女中頭・お(えい 35歳)の言葉を再現した。

長谷川さまの若となら、わたしたちの寮でより、離れ部屋でのほうが、悦(よろこ)び声も漏らせるでしょう。でも、出事(でごと 性交)の匂いをのこさないこと。お客さま用の離れですからね。蚊やりとあわせて、香を炷(た)きこめなさい」

(それで、香の匂いがつよいのか。そういえば、芙沙(ふさ 25歳=当時)の家でも香が匂っていた。おんなを高ぶらせるのも、この香りなのかな)

参照】2007年7月17日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]

「男を堪能したことのある30代のおんなが、10日も出事を欠くと、気分の揺れがお客さまのあつかいにでがちだから、うちでは、情人(いろ)とのことは大目にみているのです。つぎに逢う瀬まで、こめかみに梅干を貼らなくてもいいように、たっぷり、悦(よろこ)ばせていただいてきなさい、って」

「なんだ、バレていたのだな」
「最初の日。ほら、お(ゆき 22歳)さんという若い女中(こ)が、『お客さまが情人(いろ)になってしまえば、いいってこと---』とかなんとか言ったでしょう。あのとき、あたしがあなたのほうをちらっと見たので、おさんは合点したんですって」
「おんな同士の勘は、そういうふうに働くのか」

酒と肴が用意されていた。
肴は、蕨(わらび)の煮付け。
銕三郎に盃をもたせてすすめ、自分も受ける。
「む。これは---」
うなる。
「あく抜きしておいて、鯵(あじ)を煮た汁(つゆ)で煮ているのです。お味がよく滲みていますでしょ?」
「これほど美味しい蕨は初めてだ」

「板長さんが、夜は長いからって、特別に手くばりしてくださいました。蕨は、このあたりで採れたものですが。働いているおんなの気持ちを、こんなに察してくださるお店は初めて。〔中村屋〕さんへは、もう戻りたくありません」
「お(きぬ 12歳)のこともあるな」
「今夜は、おのことは忘れさせて」

「おって名にも慣れたかな?」
(とめ)って名が捨てられて、ホッとしています。貧しい羽前(うぜん)の5人目の子でしたから、もう、留まれってことで、つけられたんです。まあ、(すて)でなかっただけ、助かりました」

名を変えただけで、変身といえるほどではないが、これまでの自分との縁が切れ、新しい自分になれたとおもえるのも快感のようでもあった。

「そうだったのか。富(とめ)ではあまりに欲どおしいから、留の字をあてたのかとおもっていた」
「お幸せなお方」

風呂敷から絵草子をとりだし、銕三郎の横にぴたり寄りそい、開く。
春本であった。

「おさんが貸してくださったのです。しっかり、睦んできなさいって---」

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(『栄泉あぶな絵・青すだれ』)

「着物の下、どんなふうになっているのでしょうね?」
「想像もつかない」
「女中頭のおさん、こんなことも言ってくれました。長谷川さまの若は、まもなくお嫁をお迎えになるころだ。おんなのからだのツボというツボと、その耕し方を伝授してあげるのが、まだ汁っけたっぷりの30代後家のつとめなんだから---師範しながら、自分の悦(えつ)も深めなさい、って」
「手ほどき、よろしゅうに---」
「嫁取りは、いつですか?」
「来年秋あたりの、初目見(おめみえ)後かなあ」
「じゃあ、師範は1年かけて---」

ちゅうすけ注】銕三郎の初目見は、明和5年(1768)12月5日で、久栄(小説の名)との婚儀はその前の中秋。

本を変える。

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(北斎『多満佳津羅』)

「2人きりなのだから、着たままでなくてもいい」
「着ているから、それをめくったり、ひん剥(む)いたりで、高まるのでしょ?」
「そうかもな。本は、ゆっくり愉しむとして、拙の願いごとを先に聞いてほしい」
「はい。あたしのお願いごとは、そのあとで---」

「ここは紀州さまのご本陣だから、紀州藩の方々のほか、吉宗(よしむね)公にしたがって柳営に入り、直臣に取りたてられた方々も見えるであろうが、その中でも主だった方たちの名を手びかえおいてくれまいか。これは、べつに、とくにというのではないが---」
「お客さまのことは、外に洩らしてはならない決まりなんですよ」
「だから、密かに、それも、できたら---でいい」
「あなたのお役に立つのなら、こころがけます」

参照】2008年8月4日[〔梅川〕の女中・お松] (4)

「大事なのは、これから頼むほう。盗賊一味がくることはあるまいが、まさかに、それらしいのがきたら、人相、風体(ふうてい)を覚えておいてほしい」
「それは、あたしたち親子の敵でもありますから、かならず---。では、こんどは、あたしのお願いごとの番です」

春本を開いて、
「この絵のようになさってみてくださいな」

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(北斎『させもが露』[好色の後家])

「この本、なん丁あるのかね」(丁は2ページ)
「型は、おもて48手、その裏---」
「ひゃぁ、一刀流の組み太刀の型より多い---」
「この道は、それだけ多岐で、奥が深いってことです。覚悟して、師範をお受けなさいませ。ほっ、ほほほ」

参照】[〔橘屋〕のお仲] () (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

そのお仲とは、2年ほどなじんだろうか、ある日、ふと消えた。
客に退(ひ)かされたときいたが、探す術(すべ)はなかった。


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2008.08.13

ちゅうすけのひとり言(23)

8月3日(日曜日)の午後は、5年ごし続いている、静岡のSBS学苑パルシェの[鬼平講座]の勉強日であった。

_8この日のテキストは、『鬼平犯科帳』文庫巻8[明神の次郎吉]。

主題は、「親切、感謝、思いやり」。
(唯一、存続している[鬼平クラス]のリポートは、7月6日から始めたばかり。7月6日分←クリック)

テキストの講義に入る前に、過去すべての[鬼平クラス]でやったことのないものを配布・解説した。
クラス20名の中で、『寛政重修諸家譜』に氏名が載っているお目見(おめみえ)以上の幕臣・大名と同姓の人---14名分の『諸家譜』である。それも、このプログ”Who's Who"にしばしば引用している、一覧性を高めるために、手づくり再編成したものである(例として、駿州・田中城から逃れて浜松の徳川傘下入りして、三方ヶ原で討死にした長谷川家正長の末弟が潜んだ郷---瀬名氏の一部を掲出)。

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(読むためではなく、一覧性を確かめるための掲出)

20名中14名という異例の高率は、お察しのとおり、静岡だからである。維新で徳川家は駿河へ帰され、幕臣たちも減禄・移住した。
で、親類・縁者、学友、先輩・同僚・後輩の中に幕臣の末裔が数多くいるはずだから、そのよすがに---という意味での『寛政譜』配布であった。
女性受講者で結婚前の旧姓を申し出てきた人には、締め切りなしでいつか渡すと約す。

こうすることで、長谷川平蔵にいささかでもつながる史実がたぐれるかも、と思ったのである。

追記】早速に、八木家長谷川家の姻戚関係が見つかった。結果は、8月18日[〔橘屋〕のお仲] (5)を乞うご期待。

さて、テキスト。

まず、A4のカラー・コピー5葉。

うち2葉は、建築設計家・知久秀章さんの手なる〔五鉄〕関係のもの。

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(〔五鉄〕店内のパース)

参照】もう1葉、〔五鉄〕の見取り図は、2008年2月25日[盟友・岸井左馬之助] (2)←クリック

知久さんに、全篇から〔五鉄〕についての記述を40項以上採集し、渡して想像図を描いてもらったのだが、実は、知久さんは幕臣ゆかりの人であり、『鬼平犯科帳』巻11[]などに登場している元盗賊の頭・〔帯川おびかわ←クリック)〕の源助にかかわりあいが深い。
長野県下伊那郡阿南町帯川に、遠州街道への関所の遺跡が残っている。
この関所の責任者が知久家であった。

カラーコピー配布したのは、テキスト[明神の次郎吉]で、岸井左馬之助が〔明神(みょうじん←クリック)の次郎吉を、感謝をこめてもてなしたのが〔五鉄〕であったから。
今後、『鬼平犯科帳』を読み返していて、篇中に〔五鉄〕が登場したら、この店内を連想してリアル感を味わってもらうため。

もう一つのロケーションである[春慶寺←クリック 呼び出したリストの中の「岸井左馬之助と春慶寺」←クリック] には、11月8日(土)の鬼平ウォーキングで参詣することにしている。
(この回にかぎって第2土曜日なのは、第1日曜日が連休にあたっており、上京・帰静の列車が混むと予想したのと、日曜日はウォーキング後の懇親会食場が少ないため)。

カラーコピーの1葉は、〔明神〕の次郎吉が骨休めしている実家のある下諏訪(=緑○)から追分経由、日本橋までの中仙道と甲州路。左の小青〇=次郎吉がうなった♪「エエ、笠取のォ、鴉(からす)がカァと鳴くときは---
の長久保→芦田間の笠取峠。

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右の小青〇=次郎吉が宗円坊を葬った妙音寺(みょうおんじ)のある小田井。(岸井良衛さん『五街道細見』(青蛙房 付録地図より))。

道中物は、作家も地図を見ながら書いているので、読み手にも地図がほしい。
この篇のばあい、なぜ中仙道なのかというと、池波さんは20歳前の若いころ、休みになるとたちまち、出かけていたのが中仙道ぞいの山々であったから。

それともう一つ、沓掛を出したかったとも思われる。
長谷川伸師の戯曲の代表作の一篇が『沓掛時次郎』で、池波さんとすると、師の温顔をおもいうかべながら、次郎吉を歩ませたのかも。

クラスでは、自分の中に規律をもっている男---時次郎は、ハードボイルドの股旅ものかもと解説。

小説家として立ってからの池波さんは、東海道ぞいをしらべて歩くことが多かった。信玄・家康まわりを実地にあたるためである。
その論拠の一つは、『鬼平犯科帳』に登場する盗賊で、〔通り名(呼び名)ともいう〕で、江戸を除いて、最も多いのが静岡県(←クリック)。

もう1葉は、春慶寺と〔五鉄〕の位置関係を示す北本所の切絵図。

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押上の春慶寺←→〔五鉄〕は、片道2km以上ある。これを左馬之助は、大八車に次郎吉を乗せて往復したわけだ。道順は、上切絵図の横に流れているに2筋の川のうち、春慶寺を出ると、上のほうの横川ぞいに高杉道場の前を通って竪川(たてかわ)にぶつかったら北辻橋を右(西)にわたり、ニッ目ノ橋東詰の〔五鉄〕へ。

クラスでは、岸井左馬之助の純な恩返しの気持ちを、鬼平がおもいやりでやさしくつつむ友情について言及。
それとも一つ---池波さんの人生観でもある、「悪いことをしながら、善くおもわれたい」という矛盾した生き物である人間ということにも。

参照】これまでの主題一覧
) [辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した]
) [煙管師・後藤兵左衛門の実の姿] 
) [長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁]
) [平蔵の3妹の実態とその嫁ぎ先
) [長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期]
) [長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係]
) [長谷川平蔵と田沼意次の関係]
)  [吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち]
) [長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』]
10) [吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さん
     の紀要への論文]
11) [鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問
12) [新田を開発した代官の取り分---古郡孫大夫年庸]
13) [三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗]
14) [三方ヶ原の戦死者リストの区分け]
15) [平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日]
16) [武田軍の二股城攻め]
17) [三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照]
18) [三方ヶ原の戦死者---夏目]次郎左衛門吉信]
19) [ 『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池   
    波さん]
20) [長谷川一門から養子に行った服部家とは?
21) [あの世で長谷川平蔵に訊いてみたい幕臣2人への評言
22) [『江戸名所図会』の挿絵[雑司ヶ谷 鬼子母神]に描かれて   
    いる女性参詣人


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2008.08.12

〔菊川〕の仲居・お松(11)

〔舟形ふながた 50歳がらみ)〕の一党を、江戸から去らせる手妻(てづま 細工)があります」
銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)が言った。
たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)が長身をのりだし、
「ほう。どのような---?」

首領・〔初鹿野はじかの)〕の音松(おとまつ 35,6歳)の愛妾の一人であり、引き込み役をやっているお(まつ 30歳前)に大恥をかかせ、入りこんでいた柳橋の料亭〔梅川〕に居られなくする、忠助の案が大あたりしたばかりである。

忠助がやっている〔盗人酒場〕は、昼下がりなので、客はいない。
銕三郎に、耳もとでささやかれた忠助が、
「ぷッー」
吹きだした。
「失礼しました。いや、みごとな案とおもいます」
「ご亭主が認めてくださったのだから、手くばりしてきます」

銕三郎が現われたのは、竪川にかかるニ之橋(ニッ目の橋ともいう)北詰、大身旗本・本多備後守忠弘(たたびろ 40歳 書院番第5組々頭 7000石)の辻番所である。
そこで、火盗改メ・遠藤源五郎常住 つねずみ 51歳)組の横山>(時蔵 31歳)同心を待った。

参照】2008年8月10日[〔梅川〕の仲居・お松] (9)

ちゅうすけ注】本所・相生町4丁目に面した本多邸について、『鬼平犯科帳』巻12[見張りの見張り]p118 新装版p124 に「五郎蔵夫婦と宗平の家は、本所・相生町四丁目の裏通りにめんしている。道をへだてた北側には、大身旗本・本多家の宏大(こうだい)な屋敷の土塀(どべい)であった」

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(青〇=本多邸 寛司とあるのは江戸後期図だから。 当時=備後守忠弘)

火盗改メの役宅になっている麻布竜土材木町の遠藤お頭の屋敷を訪れた翌日、本所・尾上町の料亭〔中村屋〕で会った2人は、たちまち、意気投合した。

横山同心は、両番の家柄で出世が約束されているような銕三郎なのに、気取りがなく、わけへだてなく丁寧に応対する人柄に感激した。
そのころ、お目見(めみえ)以上の家格のほとんどの幕臣だと、30俵2人扶持の同心などにこころを開かなかった。
彼らにすれば、そのあたりの下級の者と真面目に付き合うより、上に顔を売ることのほうが大事だったのである---というのも、七代将軍・吉宗の幕政改革で、家格よりも能才登用の道がひらかれたからである。
才能などというものは、表から見通しにくい。
ひろく顔を売っておけば、だれかが推薦してくれるという算段なのである。

銕三郎は、自信があるのか、欲がないのか、そういうことに恬淡としていた。
話のついでに、おんなのことをだしてみたら、はっきりとは言わないが、経験はどうやら、町方育ちの---それも、先方から誘われてのことにかぎられているらしい。
おんなが見抜いているのであれば、これほどたしかな証(あか)しはない---横山同心の評価である。

先手組の同心なんて、火盗改メなどというのは手当がでているうちだけの職務---と割り切って適当にやっている輩(やから)が多いのに、横山同心は、毎日、真面目に担当区内を見回っている。
そこが銕三郎の気に入った。
盗賊の手口についても、かなり勉強している。

それで、3日にいちどの割で、本多邸の辻番所で待ちあい、ニ之橋をわたって弥勒寺斜め前のおくま 44歳)の茶店〔笹や〕で休む。

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(青〇=本多邸の左上角にある□が本多家の辻番所)

それなら、最初から〔笹や〕で待ちあわればよさそうなものだが、銕三郎の友たちということで、お横山同心にまで粉をかけはじめたので、閉口して、かならず2人つれだってでお茶を喫することにしたのである。

それと、同心は見廻り中、辻番所を通るときには、
「遠藤組同心、横山、見廻り」
と声をかけるきまりになっていた。
それなら、待ちあわせに顔を見せておいたほうが辻番所の日誌にのこる。

きょうは、打ち合わせを辻番所ですませた。
案を聞いた横山同心は、
「うまくひっかかるといいですな」
笑いながら合点した。

銕三郎はその足で両国橋を西へわたり、米沢町2丁目西路地の仕舞屋(しもたや)の表から、
紋次どのはおられるか?」
と声をかけた。
紋次(もんじ 23歳)は、『読みうり』--いわゆる瓦版の記者---本人のいうところでは〔ネタ集め人〕である。

【参照】2008年4月28日~[〔耳より〕の紋次] (1) (2)

翌日に売り出された『読みうり』は、

美人女盗(にょとう)の玉門、糞(くそ)まみれ
居たたまれずに、江戸から逃げだす

腕っこきの美人盗賊・お杉(26歳)が、柳橋の高名の料亭に仲居に化けて潜入していることを、火盗改メ・遠藤組の某同心(31歳 今後の捜査のためにとくに名を秘す)が探りだした。
市中見廻り中、両国広小路ですれ違った女が、手配中の女賊・お杉の似顔絵にそっくりだった。
尾行(つ)けて、入っていった柳橋の高名料亭をつきとめた。
お杉は座敷名で、生まれた武州・大里郡(おおさとこおり)の村での名はお定(さだ)。

とはいえ、証拠がなければ召し取れない。白洲でシラをきられたらせっかくの逮捕が水の泡。拷問などしようものなら、人権無視と、正義の味方を気どった『読みうり』などがウルサく騒ぐ(当紙ニ非ラズ)。
女の背後には凶悪な一味が牙をといで高名料亭への押し込みを練っているに違いない。、某同心は一計を案じた。

お杉が好物の、下谷・長者町の京菓子司 〔永田因幡大掾(じょう)〕の黄粉おはぎに目をつけ、黄粉に朝顔の種を挽き粉をまぶしたおはぎを、囮(おとり)客にもたせて料亭へ。案の定、お杉はおはぎをねだった。
ひと晩に5個も食らったからたまらない。

ピーピー、ザーザー、白い尻(けつ)から、とめどなく下水が流れ出る。看板仲居だから店は休めない。26にもなったおんながおむつをあてがって座敷へ出たが、おむつごときでふせげるものか。陰門を汚しておむつからあふれたでた下水が、客のお膳に散ったからたまらない。店はクビ、一味からは責めにられて江戸を売る始末。

匿名の某同心談。「お杉とつなぎ(連絡)をつけに来たものたちは、盗人宿は調べがついた。仕事に動いた途端にご用だ」
一味の一斉逮捕もまじか。

この『読みうり』は大当たり。なんといっても、美人のおむつ姿というのが好奇の空想をくすぐった。
読み手とすれば、おだろうとお杉だろうと、名前なんかどうでもいいのである。

とともに、〔笹や〕のお熊のような町内放送局が、「店は〔梅川〕、お杉ことお松」---と耳から耳へ。
醜聞(スキャンダル)の脚は、駿馬よりも速い。
そうなると、広いようでも、江戸は狭い。

〔盗人酒屋〕では、この『読みうり』を中にして、忠助彦十ひこじゅう 32歳)、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 35歳)、〔樺崎(かばさき)〕の繁三(しげぞう 35歳前後)、おまさ(11歳)、お(12歳)が大笑い。

おまさとおには、岸井左馬之助(さまのすけ 22歳)が読んでやった。

「それにしても、30歳近い大年増を、26歳とは---っつぁんも人が悪い」
左馬之助がひやかすと、
「おんなは、若いほど、人目を引くって、紋次どののすすめでね」

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(栄泉『すすみなか』 お松のイメージ)

銕三郎が舌をまいたのは、おを暗示する美女の大首絵とは別に、京菓子舗 〔永田因幡大掾〕と両国米沢町の〔橘屋〕のお披露目(ひろめ 広告)がちゃんと紙面をかざっていたこと。
紋次兄(あにい)、ちゃっかりして稼いでいる。

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(菓子舗〔橘屋〕と〔永田因幡掾〕のお披露目(広告))

しかし、銕三郎は、なぜか、こころがはずまない。おがここにいないからである。

【参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) 

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2008.08.11

〔菊川〕の仲居・お松(10)

それから6日後---。

浅草・柳橋の料亭〔梅川〕で、2人の客が、座敷仲居・お(まつ 30歳前?)の酌を受けている。

村夫子然とした50男を、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)が見たら、〔名草なぐさ)〕の嘉平(かへえ)と指摘するはずである。

が料理と酒をはこんできたとき、とつとつと話しかけたものだ。
「お(てい)さんが、こんな立派な店で働いとるちゅうようなこたぁ、下石原村のもんは、だあれもしってはおらん。えろう、出世なさった。村の自慢だがや」
というのが、おの生まれた村での名らしい。
いまの盗賊仲間はだれも知らない幼な名で「お」と呼びかけた嘉平を、いまのおの元・おは、すっかり、信用してしまった。

嘉平は、下野(しもつけ)国足利郡(あしかがこおり)名草村の出のはずだが、この日は、武蔵(むさし)国大里郡(おおさとこおり)熊谷宿はずれ・下石原の村人と称している。

もう一人の、商家の番頭ふうにつくった35歳前後の男は、足利の在の出の〔樺崎(かばさき)〕の繁三(しげぞう)だが、この日は、深川・熊井町の水油仲買店の番頭と名のった。

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(深川熊井町の油仲買人 『江戸買物独案内〕』1824刊)

「熊谷あたりが、おさんのような麗人の産地とは、知りませんでしたよ」
如才のないお世辞づかいも、いかにも商人らしい。

繁三の横には、深川・佐賀町の銘菓店〔船橋屋織江〕と刷った化粧紙をかけた箱が2個置いてある。

参照】2008年8月9日[〔梅川〕の仲居・お松] (8)

4,5杯差されたおのお---おでとおす---が、箱に目をとめ、
「あら。〔船橋屋〕さん」
「黄粉(きなこ)おはぎですよ。わたしゃあ、あの店の黄粉おはぎに目がなくてねえ。それで、久しぶりで嘉平さんとお食事ができるというので、おみやげにと、求めてきたんです。〔船橋屋〕さんは羊羹(ようかん)が名代だが、わたしゃあ、黄粉おはぎのほうが数段、おいしいとおもっていますのでね」
「わあ。あたしと同じに、お舌の肥えた人がいたんだ」
「おや。おさんもですか。舌が肥えているのか、下(した)が越えているのかはともかく、黄粉おはぎは絶品ですよねえ。わたしゃあ、店が近くだから、また買えばいい。一箱は、おさんに進呈しましょう」
「いただいちゃってよろしいのかしら? いいえ、遠慮はいたしません。とっても嬉しい。ありがとうございます。今夜が愉しみ」
「ご相伴したいものだ」
「なにか、おっしゃいましたか?」
「いえ、いえ」

樺崎〕の繁三は、じつは、きのう、熊谷から帰ってきたのである。

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(中仙道・熊谷宿あたり 下石原村は熊谷宿の先 『五街道細見』付録)

Photo
(中仙道 熊谷-久保嶋間の街道ぞいの村々 岸井良衛『五街道細見』)

熊谷まで出かけたのは、もちろん、おの生家を内偵するためである。
ついでに、熊谷なまりも仕入れてきて、〔名草〕の嘉平に、半日かけて伝授し、それから、〔梅川〕へ乗り込んだ。
店には、同郷だから、おをつけてほしいと、前もって指名しておいた。

が、〔梅川〕を辞めざるをえないような大失策を演じたのは、嘉平繁三がきた、翌日の座敷であった。

朝から下痢で、半刻(はんとき 1時間)おきに厠(かわや)へかけこんでいた。

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(北斎 下痢に悩むお松のイメージ)

店へはおむつをあててでた。
ところが、客に配膳したとき、派手な音とともにおむつからあふれ、裾からながれだしたのである。

引き込みがしくじったために、〔舟形ふながた)〕の宗平(そうへえ)は、〔梅川〕への押し入りの企みをあきらめた。
には、しばらく、温泉へでも行って、養生してこいと命じた。

下したのは、食べた黄粉おはぎだけではなかったのである。
孕(はら)んでいたお頭の子まで、流してしまっていた。

「ご亭主。〔船橋屋織江〕の黄粉おはぎに仕掛けをしたとはわかっているのですが、黄粉に何をまぜたのですか?」
「朝顔の種を石臼で挽いて、くちなしで黄色に染めたのです」
忠助が答えたのは、銕三郎が初めて耳にする、朝顔の種の薬効だった。
「便秘がちだったおなのに、みごとに効きすぎましたね」
「効きすぎってこたあありません。座敷でど派手にやるところまで、企んだとおりでしたよ」

のおはぎ好きか推(お)して、ひと晩のうちに5個入りの1箱全部を食べきることも想定していたらしい。

おはぎ1個でも、ひどい下痢になるほどの薬効が秘められているというのに、5個も食べたのだから、効くとともに、その分がすべて水っ気となってくだるのだから、たまったものではない。

「最初は、いまごろ咲いているドクダミの干したのを、煎じて飲ませようとかんがえたものの、飲ませる手立てをおもいつきませんでした。鳶尾根(えんびこん)は薬種(くすりだね)問屋で買わないと手に入らない。足がそこからつきそうで---」
「鳶尾根って?」
「菖蒲(しょうぶ)に似た花の根ですよ」
「詳しいんですね」
「おまさの死んだ母親・美津(みつ 享年=26歳)も便秘がちで、いつも家の薬箱にあったんですよ。朝顔の種はきつすぎてちょっと危険でもありましたが---。
ほんとうは、南蛮仕入れの千菜(センナ)がほしかったのです。しかし、長崎へ行っても手に入るかどうかって薬草ですからね。
ま、こんどのことは、長谷川さまが、おの、〔船橋屋織江〕の黄粉おはぎ好きを探索してくださったおかげです」
「つまり、おどの自身が自分の命を---」
「おって?」
忠助(ちゅうすけ)は問うてから、銕三郎の顔を見た。

「おどのの、〔橘屋〕での名です。しかし、〔初鹿野(はじかの)〕の一味が、江戸でのおつとめをあきらめて去れば、おどのは、おに戻れるわけですね」
銕三郎は、あらぬほうに目をやって答えた。
「まだ、油断は禁物です。しかし、困っている人を助けるって、気分のいいものですな。繁三さんも嘉平爺(と)っつぁんも、いい気分だって笑っていましたよ」
忠助銕三郎も、おが、〔初鹿野〕の音松(おとまつ)の子を流したことまでは、気づいていない。

おまさ(11歳)が訊く。
「おさん(12歳)、また、〔中村屋〕さんへ戻っちまうのですか?」
「事は、まだ片づいたわけではない」

参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (11)

ちゅうすけからのお願い】熊谷近郊の鬼平ファンの方---熊谷なまりのつもりでしゃべっている嘉平の言葉つきを、正調・熊谷弁に書き換えてください。


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2008.08.10

〔菊川〕の仲居・お松(9)

「ほう。おは、黄粉(きなこ)まぶしのおはぎが好物ですか。それはおもしろい」
(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)が、了見(りょうけん)ぶかげに応じた。
告げたのは、そのことを睦みの合間にお(とめ 33歳)から聞いた、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)である。
四ッ目通りに近い〔盗人酒場〕の昼さがりで、店をあける時刻ではないから、客はいない。
(12歳)についておまさ(11歳)もお使いにでもでているのか、姿が見えない。

午前中にお---いや、すでにお(なか)を名のっている彼女を、雑司ヶ谷・鬼子母神の境内脇の料理茶屋〔橘屋〕へ送りこんでの帰りであった。

〔橘屋〕の座敷女中のうち、頭(かしら)のお(えい 35歳)とお(ゆき 22歳)は〔橘屋〕の脇にある寮住まいとのことで、おもそこに1室をあてがわれた。
ほかの8名ばかりのおんなたちは、亭主持ちで、通いである。

「おさん。わたしたちが順番に2人ずつ、母屋と離れに当直(とのい)をします。番は5日でひとめぐりです。盗人除(よ)けのためですが、別に男衆も2人ずつ当直していますから、おんな衆のばあいは、ねずみ除けですね」
「食事は、3食とも、調理場のとなりでいただきます」
「お非番は、月に1日ずつ」

「お客さまとの情事(いろごと)は、きびしく禁じられています。情人(いろ)とのそれは、お仕事にさしつかえないかぎり、べつにかまいません」
(昨夜までのお)が、視線を銕三郎へ走らせたのを、おは見逃さなかった。

「お客さまが情人(いろ)になってしまえば、いいってことですね」
若々しく、肌もつやつやしているおが、銕三郎をちらりと見て、おにたしなめられ、小舌をちょろりとだす。

銕三郎と2人きりになると、おのおがささやいた。
「泊まりの夜を、飛脚便で報らせますからね」

-ややこしいから、これからは、おでとおすことにしたい-。

火盗改メ方のお頭(かしら)・遠藤源五郎常住(つねずみ 51歳 1000石)への連絡がついたと、父・平蔵宣雄(のぶお 49歳 先手・弓の8番手の組頭)が言ってくれたのは、その夜であった。
「いつにても、役宅にしている麻布・竜土町の屋敷へ参られよ。吟味与力・堀川喜之進(きのしん 42歳)どのが応対してくださるとのことであったぞ」

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(緑○=役宅にもなっている麻布竜土材木町・遠藤源五郎常住の屋敷 約800坪)

「あすにでも伺ってみます」
「〔橘屋〕へは、うまく納まったか?」
「寮に入れていただけました」
「それは重畳」
それきり、父は、おのことには触れなかった。

翌日、銕三郎は、麻布竜土材木町の遠藤邸へ出かけた。
榎坂をのぼって飯倉町から六本木通りを経て、麻布谷町の使番・安倍兵庫信盈(のぶみつ 44歳 1500石)の広い屋敷の角を左におれ、大番組屋敷の辻番所を通りぬけ、さらに左におれると、遠藤家の長屋門に達する。

ちゅうすけ注】安倍兵庫信盈の3世代前の一族が、『雲霧仁左衛門』(新潮文庫)のときの火盗改メ・安倍式部信旨(のぶむね 先手・鉄砲の15番手組頭 1000石)。

門番に辞を乞うた。

控えの間へ通され、しばらく待つと、太りぎみの堀川与力が、首をふりふり、現われた。
歩くときに、腕のかわりに肩を小さくゆするのが癖になっている。
月代(さかやき)あたりからだしているとしかおもえない、甲高(かんだか)い声だ。
鬢も薄くなりかかっている。
「われらになにか、頼みごとがあるやに伺っておりますが---」
相手は初目見(おめみえ)前の若者とはいえ、両番の家柄で、先手組頭の嫡子である。
堀川与力としては、精一杯の敬意をこめた言葉づかいをしている。

銕三郎は、大伯父であり、前の火盗改メのお頭・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 58歳 1450石 から)のところから、去年、本所・緑町の料亭〔古都舞喜(ことぶき)〕楼を襲った〔初鹿野(はじかの)〕の音松(おとまつ 30歳すぎ 大男)と、その軍者(ぐんしゃ)で小男の〔舟形(ふながた)〕の宗平(そうへえ 50歳がらみ)という賊の一件書を引き継いでいるかどうかを訊いた。

「われらが組が火盗改メを仰せつかったのは、昨年(1766)の9月8日付です。同年6月18日に、長谷川さま組(先手・弓の7番手)から引き継いだのは細井金右衛門正利 まさとし 59歳=当時 弓の5番組組頭)さま組でした。
たぶん、麹町坂下(の細井邸)役宅のほうにあるのではございますまいか?」
「いや。その一件書のことではないのです」
「と申されると---?」

賊が〔初鹿野〕一味であることを見破ったのは、〔古都舞喜〕楼で女中頭をしていた者だが、その後、尾上町(現・墨田区本所1丁目)の料亭〔中村屋〕へ職を変えたが、その者が3日前から、店のほうへなんの連絡もしないで行方(ゆくかた)しれずになっている。

「これが1年前の『読みうり』ですが、どうも、紅花の手ぬぐいを見破ったのがその者と知れ、賊が命を狙っているとのきざしがあって、身を隠したようです」

差し出された『読みうり』に、さっと目をくれて、
「事件から1年も経って、というのが、なんとも解(げ)せませぬな」
「お頼みは、その者のことではないのです。その者の居所を突き止めるため、賊が〔中村屋〕へ手を出すのを防いでいただきたいと---」
「行方しれずになったその者と、長谷川どのとのおかかわりあいは?」
「大伯父・長谷川の手伝いで、一件を調べているときに---」
「その者の名は---?」
「お、です」
「齢は?」
「どうして、その者のことを---? お願いしているのは、〔中村屋〕への手くばりですが---」
「あは、ははは。あいわかり申した。さっそく、あのあたりの担当している同心をさしむけます。ただ、組はいま、細井どのの組が捕らえた火付け犯の再吟味を上つ方から命じられ、証拠の調べなおしやなにかで人手がたりません。どこまで手くばりできるかは---」
「何分とも、よしなに」
(早くも責任逃れの口実をしつらえたな)

「で、ご担当の同心の方のお名は?」
横山時蔵(31歳)です」
「いま、横山さまは?」
「見廻りにでております」
「お組屋敷は、小石川・伝通院前でございましたか?」
「さようだが、帰宅の時間は、その日によってまちまちでしてな」
「よろしければ、明日の四ッ(午前10時に、〔中村屋〕でお待ちしていると、お伝えください」

のことは、わざと、伏せておいた。
(たずがね)〕の忠助になにか上策があるようなので、火盗改メに乗りだしてこられては劣(まず)かろうとおもったからである。

(さて、午後は雑司ヶ谷へでも廻って、お---いや、おの勤めぶりでも眺めてみるか。
おとといの夜、あれほど励んだのに、もう、33歳の底のしれないあの躰を恋しがっている。おれって奴は---)

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(歌麿 蚊帳の中のおんな 部分 お仲のイメージ)

雑司ヶ谷はあきらめ、午後からは高杉道場へ顔をだし、井関録之助(ろくのすけ 18歳)と5番、稽古に励んだ。
銕三郎より4歳齢下の録之助は、2年前、16歳で入門してきたが、筋がよく、このところ、めきめきと腕をあげている。

録之助が、井戸端で汗を洗いながしながら、ボヤいた。
長谷川先輩。今日はいつもと違い、荒っぽくて、怖かったですよ」

参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (10) (11)


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2008.08.09

〔菊川〕の仲居・お松(8)

音羽町8丁目の料理茶店〔長崎屋〕の風呂場である。

「ごいっしょにいかがですか?」
(とめ 33歳)に誘(いざな)われ、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)は共湯(ともゆ)をした。

町の銭湯の混浴が禁じられたのは、このときから20数年後である。
ただ、武家方には内湯があり、銭湯へは行かない。

_360
(司馬江漢 町の混浴図 左の男がむすめにセクハラを)

(おれという男は、おんなといっしょに風呂へ入ることになる定めのようだ)

_16014歳のときには、三島で訪れたお芙沙(ふさ 25歳前後=当時)が、そこの内湯で背中を流してくれた。
初めての体験であったが、あれ以来、風呂とおんなが、ひと揃いになったようだ。
(いや、悪い組みあわせではなく、学而塾の悪友たちに告げたら、背中をどやされるだろうが、そういう仕掛けになってきている---ということだ) (歌麿『入浴美女』)

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ

18歳のときには、芦ノ湯村は、離れ屋のひろびろとした湯船で、阿記(あき 21歳=当時)が背中をあずけてきた。
阿記は、夫との縁切りをするために、実家へ帰ってきたのであった。
あの湯治宿〔みょうがや〕の湯舟に比べると、ここのは、湯殿もせまく、おと2人だと、身動きもままならない。
この店を利用するおんなづれの客なら、この狭さをよろこぶのだろうか。

参照】2008年1月1日~[与詩(よし)を迎えに] (12) (13)

21歳のときには、お(しず 18歳=当時)と、夕立で濡れた着物を浴室で脱ぎ、下帯と湯文字姿のお互いを笑いあって、けっきょく、なるようになってしまった。
と2人きりの風呂場であった。

参照】2008年6月2日[お静という女] (1)

ここでは、女中に案内されたので、これまでの風呂づかいとは感じが異なった。
微妙にこだわりがある。
のほうは町方暮らしで、他人に見られての混浴も馴れっこだった。

_250
(栄泉『ひごずいき』部分 お留のイメージ)

だからおは、豊かになりはじめている肉(しし)置きを平気で見せつけて、躰を拭いてでていった。

見るともなく見ていた銕三郎は、
(30おんなの肉置きに、捕囚(とりこ)になりそうだな)
予感を下腹に感じ、おが浴衣をはおってでていくまで、湯桶から出られなかった。

が京都へ去ってから1年ぶりに人差し指と中指を立てた分をこなした後なのに、もう、きざしていたのである。
手桶でなまぬるい水を汲み、浴びせたが、2,3杯では、効かない。
水をふくんだ手ぬぐいを掛けて、治(おさ)める。

_230_2

蚊帳の中からおが、
「あなた。ここ、このまま、泊まることもできるそうですよ。晩の食事が要るのなら、早めに言えって---」
これまでの[長谷川]さまが、[あなた]に変わっている。
「なんどきだろう?」
「七ッ(午後4時)すぎでしょ」
「いまから雑司ヶ谷へ行くと、七ッ半(午後5時)だな。ちょうど、客どきで忙しくなる---」
「泊まって、明日の四ッ(午前10時)ごろに伺うのは?」

(都合で、明日に延びた)と認(したた)めた〔橘屋〕忠兵衛あての手紙を、店の老僕に託した。

「おどの」
「もう、おどのはおやめください。おって言ってください」
「では、お。拙は五ッ半(午後9時)まではいっしょにいられるが、泊まるわけにはまいらぬ。明日、また、迎えにくる」
「そんな。夜中に殺し屋がきたらどうしてくれます?」
「その心配もあったな。では、屋敷への使いも頼もう」
「ついでに、早めの夕食を言ってきます」
は、いそいそと、降りて行った。

夕食のあと、
「おの生まれとか、癖(くせ)とか、信心とか---なんでもいいから、覚えていることを話してください---くれないかな」
銕三郎に躰をあずけたまま、おがぽつりぽつりと語ったのをまとめると、中山道・熊谷在の農家の次女にうまれ、伝手(つで)があって亀戸(かめいど)の蕎麦屋の小女をふりだしに、あのあく抜けた面立ちなので、世話する男たちが絶えず、料亭〔越前屋〕などを経て、〔古都舞喜〕楼へ---といった経路を話していたが、どこまでが真実かわからない。

_300
(亀戸の料理舗〔越前屋〕 『江戸買物独案内』 1824刊)

ちゅうすけ注】上掲・左の〔玉屋〕は、『鬼平犯科帳』巻2[妖盗葵小僧]でこの賊に凌辱された料亭〔高砂屋〕の若女房おきさ(27歳)の実家である。p159 新装版p168 なお、おきさは離縁ののち巻18[蛇苺]p80 新装版p83 なお、聖典では池波さんはぼかすために亀戸天神前としているが、史料によると裏門脇。生簀からあげた鯉料理が有名だったが、現存していない。

どこで〔舟形ふながた)〕の一味へ加わったかも想像がつかない。

参照】2008年4月19日~[十如是(じゅうにょぜ)] (3) (4)

黄粉(きなこ)おはぎに目がなかったことは、はっきりしている。
「深川・佐賀町の有名菓子舗〔船橋屋織江〕は、羊羹が名代だけど、あたしは黄粉おはぎが絶品だとおもうな」
そういって、しばしば通っていたと。

_300_2
(菓子舗〔船橋屋織江〕  『江戸買物独案内』 1824刊)

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻8[白と黒]p206 新装版p217 に登場する〔船橋屋〕伊織はこれがモデル。
巻10[犬神の権三]p27 新装版p28 でおまさとおしげが入る北大門の〔船橋屋〕は支店。川柳に「船橋をわたってきたと杜氏(とうじ)いい---杜氏(菓子職人)が船橋屋で修行しましたと、自分を売り込んでいる句。
蛇足ながら、いま葛餅で有名な亀戸〔船橋屋〕はつながらない。地下鉄新宿線[木場]北側の〔船橋屋〕は縁者。

それから、便秘で困っていたとも。

「黄粉おはぎが大好物とな」

あいまをみて、銕三郎は、〔橘屋〕忠兵衛が提案していたことを、おに告げた。
それは、人別にかかわることであった。

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(中仙道 沓掛宿のあたり 『五街道細見』より)

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻8[明神の次郎吉]で、〔明神(みょうじん)〕の次郎吉が心臓発作の宗円坊を看取るのは、沓掛から諏訪寄りの小田井宿-追分宿間の前田原。次郎吉が歌う♪エエ、笠取のォ、鴉がカアと鳴くゥときは---の笠取峠は、さらに諏訪寄りの、長久保-芦田間の峠。

生まれた土地を、羽前(うぜん)国村山郡(むらやまこおり)成生(なりう)から、仮に、信濃(しなの)国佐久郡(さくこおり)沓掛(くつがけ)村とすること。
名を、軽井沢から「お軽(かる)」「お沢(さわ)」、中仙道・追分宿(おいわけしゅく)と軽井沢宿(かるいさわしゅく)の中間だから「お仲(なか)」---あたりから選ぶか、自分でつけたい名があったらそれを決めておくこと。

「こうして睦(むつ)みあっているときに、どの名でお呼びになりたいですか?」
「お、かな」
「それ、あてつけ?」
「そう、とるのか。では、お
「あたしも、あなたのこのたくましいのが、いつも中へ入ってくださっているつもりで、おに---」

6ッ半(午後7時)をすぎると、さすがに、隣や向いの部屋にも2人連れ客が入り、薄壁らしく、隣部屋の気配は、ほとんど察しがつく。
銕三郎とおは、かすかな闇の中で声をひそめ、くっつきあっている汗ばんだ肌と肌で、お互いのこころをたしかめている。

2人に、夜は、甘く、長かった。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分 お留のイメージ)

【参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (9) (10)  (11) 


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2008.08.08

ちゅうすけのひとり言(22)

このところ、[ちゅうすけのひとり言]が多すぎるようだ。

第1回は、2008年1月17日であった。
こんなふうに書き出している。


これは、まったくの独り言である。

史実の長谷川平蔵宣以(のぶため)と、小説の鬼平を調べていて、ふと生じた疑問や、こうではないか---と思いついたことを、だれにいうともなく、呟いている、そのメモみたいなものと言っておく。

だから、無責任な発言である。
ちゅうすけ自身だけが興味をもったことに、すぎない。

いつ書き留めるという計画も、ない。折りにふれて、呟く。


こうして、『鬼平犯科帳』をよりおもしろく読むための、雑記メモというか、注釈というか---そんなつもりで始めた。ところが、ちゅうすけの雑端(ざっぱ)な体質にもっとも適していたらしく、7ヶ月のうちに21回も書いてしまった。
月3回のペースである。
(色変わりの番号クリックで、その回へ)

) [辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した]
) [煙管師・後藤兵左衛門の実の姿] 
) [長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁]
) [平蔵の3妹の実態とその嫁ぎ先
) [長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期]
) [長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係]
) [長谷川平蔵と田沼意次の関係]
) [吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち]
) [長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』]
10) [吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さんの紀要への論文]
11) [鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問
12) [新田を開発した代官の取り分---古郡孫大夫年庸]
13)) [三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗]
14) [三方ヶ原の戦死者リストの区分け][
15) [平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日]
16)) [武田軍の二股城攻め]
17) [三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照]
([18) [三方ヶ原の戦死者---夏目]次郎左衛門吉信]
19)  [『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池波さん]
20) [長谷川一門から養子に行った服部家とは?
21) [あの世で長谷川平蔵に訊いてみたい幕臣2人への評言

今日の[ひとり言]は、雑司ヶ谷の鬼子母神脇にある料理茶屋[橘屋]である。

_100_2鬼平犯科帳』の2篇にこの店が登場していることは、すでに8月2日の【注】で明らかにした。
そのとき、秋山小兵衛の30歳代を描いた長篇『黒白』(新潮文庫)にも描かれていると付け加えておいた。

こんなふうに描かれている。

雑司ヶ谷は、有名な〔鬼子母神(きしもじん)〕で知られている。
ここの鬼子母神堂は、近くの法明寺(ほうみょうじ)の支院で、本尊の鬼子母神は、
〔求児・安産・幼児保育の守護神〕
であって、江戸市中からの参詣(さんけい)が、四季を通じて絶えたことがない。
「---よって、門前の左右には貨食屋(りょうりおや)・茶店軒をつらね、十月の御会式(おえしき)には、ことさら群集絡繹(らくえき)として織るがごとし。風車(かざぐるま)、麦わら細工の獅子(しし)、水飴(みずあめ)を、この地の名産となす」
などと、物の本に記されている。

「物の本」が『江戸名所図会』であることはいうをまたない。
〔お会式〕でにぎわってい絵も載っている。

399_360
(雑司ヶ谷・お会式 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

参道に、米粒大に描かれている参詣人の70パーセントは女性である。

日本橋をわたる群集の絵だと、女性は10パーセントにすぎない。
鬼子母神よりも女性が多くえがかれているのは、芝居小屋街の葺屋町ぐらいである。
鬼子母神に女性の参詣者がいかに多かったか、これでもわかる。

とともに、『江戸名所図会』の長谷川雪旦(せったん)の絵が、写真のように、いや、写真以上に写実的であり、
史料的な価値が高いことがうかがえる。
『名所図会』の雪旦の絵は、江戸愛好者に、もっと研究されていいし、池波ファンなら、池波さんが雪旦の絵からロケーションの描写を創作していることにも目くばりすることだ。

別のブログ---[わたし彩(いろ)の『江戸名所図会』](←クリック)を立ち上げた理由もこれにつきる。
(クリックしてトップ画面があらわれたら、左欄のカテゴリーをずっとおりてゆき『江戸名所図会』巻之一~六までをクリックしてお楽しみいただければ幸い)。

_100そう、武芳稲荷社の前に、樹齢600年余という銀杏の巨樹がある。法明寺のご住職にお茶をごちそうになったとき、「夜、だれにも見つからないで、あの巨樹を抱いて願うと、子宝をさずかる---といわれています」との話を聞いた。
(ならば、背にして手をまわして願えば、流れますかな?)
などという失礼に質問は、もちろん、控えた。
「ご本堂の下に、隠居金七百両が埋蔵されているのでは?」
と冗談を述べたら、ご住職は、
「その金があれば、本堂の改築がらくにできるのですが---」
とお笑いになった。
はしょって引用をつづける。

ところで---。
この鬼子母神の境内と、
「目と鼻の先---」
にある料理茶屋・橘屋(たちばなや)・忠兵衛(ちゅうべえ)方の離れ屋であった。
橘屋は、鬼子母神の参道の一ノ鳥居より手前を西へ入ったところにあって、他の料理茶屋とは、
「格式がちがう------」
のだそうだ。
通りがかりの人が橘屋へ入って酒飯(しゅはん)をしようとおもっても、ていねいにことわられてしまうにちがいない。
橘屋を利用する客すじは、ほとんど決まってしまっている。
ひろい敷地には、藁屋根の、三間(みま)つづきの風雅な離れが四つほどあり、こみ入った談合や、隠れ遊びには、うってつけであった。

_100こういう料亭を、池波さんはどこからヒントを得て描写したか、興味のあるところである。

池波さんの料理旅館についてのエッセイ『よい匂いのする一夜』(講談社文庫)からモデルらしいところを探した。
狙い目は、離れ部屋である。
厳島の〔岩惣〕か、湯布院の〔玉の湯〕らしいような気がした。

泊まったことのある〔玉の湯〕と、ひそかに決めた。

池波ファン、鬼平ファンの方のご推察もお聞きしたい。

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2008.08.07

〔梅川〕の仲居・お松(7)

「ご気分がお悪いようなら、横になってお休みになるように、床をとりましょう」
2階の小部屋へ案内した女中は、心得顔に、さっさと床を延べ、
「このあたりは、蚊が多くて、しつこいんです」
片側がはずしてあった蚊帳の吊り手も、すっかりかけた。

座り場所が狭くなった銕三郎(てつさぶろう 22歳)とお(とめ 33歳)は、壁にくっつく。
腕と腕が触れあったが、そのまま、どちらも動かない。
「陽があると、目も休まりませんから---」
女中は雨戸もほとんど引いてしまった。
逢引き客のみだら声を外にもらさないための配慮らしい。

急に薄暗くなった部屋で2人は顔を見合わせた。
「すぐに、お茶をお持ちしますから---蚊帳に入ってお待ちくださいな」
こういう昼間の2人づれには馴れているといった感じで、女中は無表情で下りてゆき、すぐに、わざと大きな足音たててお茶と土瓶をこんできた。
「あら、まだ、お入りになってなかったんですか。お呼びがあるまでは、もう、まいりませんから、ごゆっくり、どうぞ。きょうは、ほかの部屋にはお客はいらっしゃっていません---」

「あの、気分が落ちついたら、汗を流せますか?」
とりようによっては、どうにでもとれる訊き方で、おが訊く。
「半刻(はんとき 1時間)後に、お使いになれるようにたてておきます」
女中は、わざと、おのほうをみないで答えて、降りた。

江戸川橋の舟着きで降り、舟(ふな)酔いしたらしいので、治(おさ)jるまでどこかで休みたい、とおが訴えたので、近くの木戸番にそういう店を尋ねて、〔長崎屋〕を教えられた。

「〔長崎屋〕って、西の果ての長崎の人でしょうか?」
「いや。この先の、板橋宿の手前にそういう名の郷(さと)があるのです」
「いつかもお話ししましたように、あたしって、羽前の成生(なりう)村(現・山形県天童市成生)からでてきて、本所、深川から外で暮らしたことがないものですから---」
「それでは、雑司ヶ谷などは、この世の果てかな」
「いいえ。鬼子母神さんには、おを身ごもったときにお参りしました。こんどのことも、鬼子母神さんのお引き合わせと喜んでおります」
話しながら、〔長崎屋〕にあがったのであった。

「失礼して、横にならせていただきます。こんなときに、舟酔いなどして、申し訳ありませんでした」
は、蚊帳へ入って帯を解く。
横になるには、帯が邪魔だ。
ついでに、着物も脱ぎ、
「襦袢も汗っぽくて---」
短い裾まわし一枚で横たわった。
上掛も使わない。
長谷川さま。お昼をお召しになるのでしたら、どうぞ。胃のぐあいがおかしいので、あたしはひかえます」

蚊帳ごしに、おの半裸の寝姿に見入っていると、頬を蚊が刺した。
ぴしゃりと平手打ちした掌に、血をいっぱいに吸った蚊がつぶれていた。
(こんなに吸われるほどに、おに見とれいたのか。剣術遣いとしては失格だな)
その仕草を見てていたかのように、
長谷川さま。そこでは蚊に襲われます。お袴をとって、中へお入りください」

銕三郎は、袴だけ脱ぎ、おに背を向けて横になった。
蝉しぐれに気づく。
「音羽のあたりだと、蝉も多いようですな」
「遠慮なさらないで、こちらをお向きください」
そうした。
目の前に、微笑んでいるおの顔と、豊満な乳房があった。

「お(くま 44歳)さんに叱られますね。でも、舟酔いでは仕方がありませんもの」
「おどのとは、用心棒とその雇い主だったということだけです」
「いいえ。ゆうべ、おさんに、すっかり聞かされました」
「あの人の妄想ですよ。あの晩、おどのは酔いつぶれいたのだから---」
「いいではございませんか。おんなから強請(ねだ)られるのは、男冥利というものでしょう?」

_
(国芳『逢悦弥誠』 お熊の酔いつぶれての妄想)

「いや、困る。おどのとは、天地神明に誓って---」
「あたしがおねだりしたら、どうなさいます?」
「おどのは、舟(ふな)酔いでは---?」
「それも生(なま)酔いと申しあげたら---鮒(ふな)酔いではなくて、鯉(恋)酔いだったら?」

ちゅうすけのつぶやき】『鬼平犯科帳』巻11[]p99 新装版p104 での、池波さんの駄じゃれ---
 「はい、なにしろ、お頭------」
 「叱っ。声(こい)が高い」
 「鮒(ふな)が安い」
 「うふ、ふふ------」
巻16[見張りの糸]p225 新装版p233 でも使われている。

参照】2008年4月23日][〔笹や〕のお熊 (4) (5) (6)

は、銕三郎の掌をとって、自分の乳房へあてさせた。
「赤子がさわっているように、やわらかく、もんでください---」
「いいのかな?」

「いっそ吸って---」
銕三郎がおおいかぶさって吸い始めると、背にまわした手で、たくみに帯の結び目をほどいて引きぬく。

吸いあったまま、いつのまにか、下帯だけにされていた。

裾まわしをとり、男の下帯も、もどかしげな指先がはずす。
男のものは、すでに巨砲だ。
仰角いっぱいに、反り返って---。

おんなの手がやさしく導き入れる。
おんなのものも、湧き、あふれ、燃えている。
双脚をあげて男の背で交差させる。
「あちらより、こちらは、11歳も若いのです」
「そちらより、拙は、11歳も若いのです」
「剣の腕も、こちらも、たのもしくて---」

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(栄泉『好色 夢多満佳話』 お留のイメージ)

寝転んで、話しあっていても、指は、お互いの芝生をもてあそんでいる。
おんなの芝生は、なお、湿っている。

「新しい敵をつくってしまった」
「なぜですか? 〔盗人酒屋〕の忠助さんに言われたように、これまでとは、すっぱりと縁切りです」
「そちらがその気でも、むこうが承知するか、どうか?」
「居所を知らないのですよ」
「捜すだろうな」
いちど躰があってしまうと、男の言葉づかいがいささかぞんざいになったことで、おんなは垣根が除かれたとおもう。
「〔橘屋〕に、逢いにきてくださいますか?」
「今日、〔橘屋〕の仕組みを見て、どうすれば密かに逢えるか、くふうしよう」
「きっとですよ」

芝生をつまんだり、引っぱったりしているうちに、その気が満ちてきた。
「舟の中で、舟饅頭は食べたことがないとおっしゃいましたが---」
「夜の辻君とも親しくなったことはない」
「丹精のし甲斐(がい)がありそう。まず、こう、いらっしゃいませ」
銕三郎が予想していたより、はるかに手錬(てだれ)であった。

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(栄泉『好色 夢多満佳話』 お留のイメージ)

参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (8) (9) (10) (11)

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2008.08.06

〔梅川〕の仲居・お松(6)

家へ帰ると、父・平蔵宣雄(のぶお 49歳 先手・弓の8番手組頭)の部屋には、まだ、灯がついていた。
「よろしゅうございますか?」
「入れ」

「〔橘屋〕のこと、ありがとうございました」
「引きうけてくれたか?」
「快く。信州・沓掛での武勇伝、承りました」
「はっ、ははは。若いころの無鉄砲ごとよ」
さりげなく、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)にあてつけている。

参照】2008年8月4日[〔梅川〕の仲居・お松] (4)

「〔橘屋〕は、父上、母上がとんとお運びにならないので、うらめしくおもっていると申しておりました。拙も伴い、近いうちに、ぜひおわたりくださいと---」
「虚言を申すな。(てつ)ともども---などと申すはずがない。のような若者に、分不相応な贅沢をおぼえさせてはならぬ---というのが、忠兵衛どのの口ぐせじゃからな」
「いえ。若いうちから、舌にほんものの味をおぼえさせないと、金と地位ができてからでは手遅れ、と申して---」
「やめよ。あそこの女中は、美女がそろっておることで評判じゃ。の魂胆は、読めておるわ」

「父上。火盗改メ方のお頭(かしら)の遠藤源五郎(常住 つねずみ 51歳 先手・鉄砲(つつ)の9番手 1000石)さまとは、親しくなさっておられますか?」
「遠藤どのの禄高はわが家の倍以上だが、わしのほうが3年ばかり先任だから、互いにそれなりの敬意をもっておつきあいはしておるが---」

ちゅうすけ注】父・長谷川平蔵宣雄の家禄は400石だが、番方(ばんかた 武官系)の最高位に近い先手組頭の役料は1500石格なので、足(たし)高1100石を支給されている(注;4公6民の率なので、手取りは440石)。
遠藤源五郎常住の家禄は1000石。したがって先手組頭としての足高は500石。
しかも、先手組頭は弓組が鉄砲組の上位の席順であるから、先任と弓組頭ということで、格は宣雄のほうが常住より上である。

「そういえば、なんとやらいう一味で、柳橋の料亭の〔梅川〕に、仲居となってもぐりこんでおる女賊のことがあったな」
「お(30歳前)です」
遠藤どのへの用件は、そのことか?」
「はい。遠藤組へお引きあわせいただければ、ありがたく---」
「考えておく。すっかり、探索が板についてきたようだが、遠藤どのは、いま、先任の火盗改メ・細井小右衛門元利(もととし 60歳 弓の5番手組頭 廩米200俵)どのの組が逮捕した火付け犯が、冤罪らしいということで、上のほうから再吟味を命じられ、忙しそうであるぞ」
「近いうちに、よろしく、お願いいたします」

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(遠藤源五郎常住の個人譜)

(そうか、お(とめ 33歳)も、美女の女中の一人になるのか。ひいき客がすぐにつくのであろうな)
自分の部屋で、昨夜のおの量感のある乳房や、酔って軽く開いた唇をおもいだし、床での男に対する姿態を想像しているうちに股間が熱くなってき、あわてて布団をかむった。
高杉道場での一刀流の組み型を、頭の中でそらんじているうちに、熱は鎮火した。

あくる日、北森下町ある学而塾の竹中志斉(しさい)へ、緊急の所要を申し出て、五ッ半(午前9時)に早退(び)きした。
竹中師は、白いあごひげをふるわせて、
長谷川。来たばかりではないか」
師の叱声を、ふかぶかと頭をさげてやりすごした。
(いまは、孔子孟子さまより、おの身の安全のほうが大事なのだ。義を見て為(なさ)ざるは勇なきなり---というのは、『論語』だったっけ)

竹中師がなげくはずである。
[子曰く、その鬼(き)に非ずして之を祭るは諂(へつらい)なり。義を見て為ざるは勇なきなり]
宮崎市定さんの『現代語訳 論語』(岩波現代文庫)の訳は、「子曰く、自分の家の仏(ほとけでもないものを祭るのは、御利益のめあてにちがいない。当然着手すべきは時にひっこんでいるのは卑怯者だ」
へつらいの祭祀と、実行力を対(つい)で並べているから、一度祭ったら、それを追い出すことはよほど勇気のいることである、こう、読むべきだと。

まあ、銕三郎自身、火盗改メになってから、おのれの口から「おれは学問はだめだが、探索・逮捕の実績にかけてはだれにも負けない」といった意味のことを吐いているが。

塾から弥勒寺(みろくじ)橋の舟着きまでは1丁(100mちょっと)もないが、もう1丁先の、茶店〔笹や〕へ、おを迎えに行かねばならない。
そこで、これからの手はずを相談---ということで、時間をたっぷりととったのである。

「よく、眠れましたか?」
(くま 44歳)が横から口をだした。
「熟(う)れおんなが2人、男っ気(け)なしで、よう眠れたかも、ないもんだ」
「だんだんに、怖さが身にしみてまいりまして---」
「今夜からは、大丈夫ですよ」
っつぁんが添い寝するのかえ?」
「殺し屋から遠のくってことです」

「おどの。われわれが弥勒寺の山門をくぐってしばらくしたら、おどのの包みを、三ッ目の通りを弥勒寺橋のたもとの舟つきまで持ってきてください。お寺参りに、大きな荷は似合わないのです」
「ほいきた。けどよう、この熟れおんなに大きな荷も似合わないねえ」
つぶやくが、銕三郎はとりあわない。
それどころではない。
賊一味の見張りがきているかどうかを確かめるのに精一杯であった。
「では、おどの。拙が先に出ます。一拍(いっぱく)おいてから、つづいてください」
「大丈夫でしょうか。ご一緒ではいけないのですか?」
「山門の陰で見張っていますから、ふだんの顔で歩いてください」
「まるで、芝居だね」
は、ひとりでおもしろがっている。

塔頭(たっちゅう)・竜光院の横の脇門から2人が出ると、舟着きには、七五三吉(しめきち 24歳)が舟で待っていた。
銕三郎が先に乗りこみ、おに手をさしのべたところへやってきたおが、
「ようよう。道行きのご両人ッ」
はやす。
赤らめたおは、わざとのようによろけて銕三郎にすがりつく。
たっぷりとした感じの乳房が、もろに胸にあたった。
どきりとした銕三郎が、身をひく。
舟が大きく揺れた。
それでまた、おがすがりつく。
こんどはその肉づきいいニの腕をつかんだくせに、
(だらしないぞ)
自分を叱る。

「日本橋川から、江戸川を遡って---」
「承知しやした」
七五三吉の棹さばきはもみごとなものだった。

_250_2強い陽ざしのうえに、川面からの照り返しがあるので、おが手ぬぐいをかむった。
紅花染めのではなく、ふつうの豆しぼりであった。
「ご新造さん。真っ昼間だから、舟饅頭に間違える者(の)はおらんでやしょうが---」
七五三吉が茶々を入れた。
「こう、ですかえ?」
が手ぬぐいの端をくわえて、夜鷹の媚態をとって、銕三郎に流し目をくれる。

「そちらの方の経験が、まだ、ないもので---」
わざと困惑したおもむきで、銕三郎が応じた。
「経験がなくっても、入れば、極楽へお連れします。若い小むすめなんて、そこいらの空き地の遊び場ていどの腰づかい」
は、本気ともふざけともつかない科白(せりふ)を吐き、嫣然と笑いかけた。
銕三郎は目のやり場にこまったが、それならいっそと、おを見返す。

耳には、竹中志斉師の声が追っかけてきている。
「子曰く、吾は未だに徳を好むこと、色を好むが如き者を見ず」
(子曰く、異性に関心の深い人間ばかりで、修養に心がける人間はさっぱりいないものだ--『現代語訳 論語』 同前)
(えーい、学んで時に之を習う、亦(ま)た悦(よろこ)ばしからずや---だ。なにを学ぶんだか。色かも---)

も、さすがにはしたないとおもったか、おがはこんでくれた風呂敷包みをほどいて、中をあらためている。
舟は、大川へでた。
七五三吉の櫓(ろ)さばきはあいかわらず、達者だった。

日本橋川へ漕ぎ入り、江戸橋をくぐった。
見上げたおが、
「お江戸へ出てきて13年になりますが、このお橋を川から見上げたのは初めてです。なんだか、素肌を覗いたようで、親しみを覚えます」
「橋は、日本橋、一石橋、常盤橋、神田橋、一橋橋、俎板(まないた)橋---と、まだまだくぐりますから、たっぷり味わってくだせえ」
(まるで、おが味わってきた男の素肌の数のことを言っているみたいだ)
銕三郎の連想は、とんでもないほうへ飛ぶ。

船河原橋から江戸川へ入ると、両岸とも武家屋敷で、塀ばかりが目立ち、道にも人影がほとんどない。
とうぜんのことだが、尾行(つ)けている者も見あたらない。

石切橋をくぐったとき、銕三郎が声をかけた。
「おどの。まもなく、音羽(おとわ)です。そこで舟を下ります」
「おなごりおしいこと。たのしゅうございました」

江戸川橋のたもと・桜木町の舟着きで、こころづけをはずみ、七五三吉と別れた。

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(緑○=江戸川橋の舟着き すぐの町が音羽9丁目 通りの上手は護国寺 池波さん愛用の近江屋板切絵図)

九ッ(正午)近かった。
一刻(2時間)ほども舟にゆられていたことになる。
長谷川さま。ちょっと舟酔いいたしました。申しわけありませんが、少し、休んで行ってよろしゅうございましょうか?」
「それは、いけない。どこか、船宿か茶屋でもさがします」

音羽町9丁目は、江戸でも有数の猥褻(わいせつ)な地区で、その種の店にはこと欠かなかった。

ちゅうすけ注】音羽町9丁目の岡場所は、『鬼平犯科帳』巻7[隠居金七百両]p42 新装版p44 で辰蔵阿部弥太郎がよく遊んだ。
巻2『仕掛け人・藤枝梅安・梅安蟻地獄』(講談社文庫)[闇の大川端]p269 新装版p267 に姿を見せる、大女の女房・おくらにやらせている半右衛門の料理茶屋〔吉田屋〕があるのも、9丁目である。
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【参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (3) (4) (5) (7) (8) (9) (10) (11)


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2008.08.05

〔梅川〕の仲居・お松(5)

南本所・二ッ目通りの弥勒寺(みろくじ)の山門前で、お(くま 44歳)がやっている茶店〔笹や〕に、身を隠したお(とめ 33歳)母子(ははこ)の着替えや身のまわりの品をつつんだ大風呂敷をはこびこんだ銕三郎(てつさぶろう 22歳)と岸井左馬之助(さまのすけ 22歳)は、お(きぬ 12歳)とその荷を伴って、四ッ目通りの〔盗人酒屋〕へ向かった。

を連れだすとき、おが毒づいた。
「なんだい、なんだい。熟(う)れおんな2人だけがのこされるんじゃないか」
「生憎(あいにく)と、若いむすめが好みなんですよ」
「青い実は、渋いだけだよう。引きかえ、熟れおんなの甘美さときたら---」
「熟柿は鴉(からす)の宝もの」

〔盗人酒屋〕は、いつもより看板を早め、板戸を閉めて、3人を待っていた。
飯台に置かれた冷酒(ひやざけ)とこんにゃくの炒り煮を、彦十(ひこじゅう 32歳)が、もう、つまんでいる。

雑司ヶ谷の料亭〔橘屋〕忠兵衛方でおを雇ってくれることになったと、銕三郎は〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ)だけに、目で知らせた。
知っている者が少ないほど、秘密が洩れにくいとおもったのだ。

気ばしをきかせて、おおまさ(11歳)が2階へ連れあがる。

さんから聞きました。松坂町の吾平長屋の差配には、話がとおったそうですね。明朝六ッ半(午前7時)にでも、差配に立会ってもらい、主だった荷をはこびだし、竪川にもやっている七五三吉(しめきち 24歳)の小舟にのっけて大川へ出ちまいます。大川へ出れば往来している舟にまぎれこめるから、めったに行方がわかるものじゃ、ありません」
「大川からは?」
「小名木(おなぎ)川へ入り、六間堀を横につっきって竪川へ戻る。そのまま四ッ目之橋下の舟着きへ、って寸法です」
「知恵も、そこまでまわると、たいしたものだ」
真正直な左馬が感心している。

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(南本所・深川 赤○=松坂町の 吾平長屋 青点々=舟のコース。上=大川 右=竪川 左=小名木川 横=六間堀 四ッ目の橋は下(東)枠のさらに下)

「その七五三吉どのは、信用できますか?」
銕三郎が訊く。
「もとは、あっしの子分みたいな男でして---小網町の奥川筋船積問屋〔利根川屋〕の船頭あがりです」

参照】七五三吉は、『鬼平犯科帳』巻4[おみね徳次郎]p213 新装版p223
女賊おみね 徳次郎

「それは重畳。荷運びが終わったら、拙に貸していただけませぬか?」
「どうぞ」
「では、四ッ(午前10時)に、五間堀の弥勒寺橋のたもとでもやっているように言ってください」
「どうするのだ?」
左馬
「〔笹や〕からおさんを、前の弥勒寺の境内へ入れ、塔頭(たっちゅう)・竜光院側の脇門から五間堀の舟へ、というわけ」
「その先は?」
「大川」
「それはわかっている」
「あとは、舟の舳先(へさき)に訊いてくれ」

日本橋川から江戸川へ入り、護国寺あたりまで行くつもりだな、と忠助は察した。

「ご亭主。柳橋の〔梅川〕のおのほうはどうしたものでしょう? 父上に、いまの火盗改メのうち、遠藤源五郎常住(つねすむ 51歳 1000石)さまにつないでいただこうかとも、おもっているのですが---」
遠藤源五郎常住は、千葉党から織田豊臣を経て徳川についた。その分、家柄を誇っている向きがある。とはいえ、遠藤一門の末のほうではあるのだが。

「火盗改メ方になにをお頼みになるのですか?」
「それは、遠藤お頭(かしら)と相談して---」
「いま少し、お控えになってください。おさんの身が落ちついてからでも遅くはありません。ところで、火盗改メのお頭はもうお一方(ひとかた)のほうが先任では?」
「よくご存じで---。細井金右衛門元利(もととし 60歳 廩米200俵)さまですが、このお方は、頼りにできませぬ」

参照】細井金右衛門元利は、2008年6月11日[明和3年(1766)の銕三郎] (5)
2008年6月12日[ちゅうすけのひとり言] (13)

参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (3) (4) (6) (7) (8) (9) (10) (11)

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2008.08.04

〔梅川〕の仲居・お松(4)

雑司ヶ谷の鬼子母神(きしもじん)への道をとりながら、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)は、昨夜の忠助ちゅうすけ 45歳前後)の気くばりをおもい返していた。

じつにあざやかなものであった。

「中村屋〕へは、これっぽっちの手がかりも、もちこんではなりませんぜ。このまま黙って、消えること。これを守らないと、命はないものとおもいなされ。とりわけ、〔中村屋〕へおさんのことで口をきいたお方---どういうお方かは存じませんが、今夜かぎり、ご縁をお切りになること」

(なるほど。お(とめ 33歳)ほどのおんなを、男が放っておくはずがない。〔中村屋〕へ世話をしたのも、松坂町の家を手当てしてやったのも、その男なんだろう。さすがに忠助どのは目のつけどころが鋭い。苦労人とは、ああいう人を言うのだな)

しきりに感心しながら、〔(たずがね)〕の忠助が盗賊〔法楽寺ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 40がらみ)の軍者(ぐんしゃ)だったということも、かんたんに納得した。

(〔初鹿野はじかの)〕の音松(おとまつ 37歳)の軍者・〔舟形ふながた)〕の宗平(そうへえ 49歳)と、〔法楽寺〕の元軍者・忠助の機略・謀略合戦だ。
これは観戦するに値(あた)いする。
が、難儀なのは、おれがその渦中にまきこまれてしまっていることだ。
ま、なにごとも経験---)

考えごとにふけってばかりいたわけではない。
尾行のありなしをたしかめるために、なんども横道へはいったり、通りぬけかけから別の道へ出たりした。
尾行(つ)けられてはいなかった。
昨夜の今日なので、〔中村屋〕へはまだ手がまわっていないようだった。

けやき並木の長い参道のとっかかりの手前を左に折れたところにある、料亭〔橘屋〕は静かなたたずまいであった。
まだ、五ッ(午前8時)だというのに、門から玄関までの石畳には、もう、水が撒(ま)かれている。

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鬼子母神 法明寺 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

おとないをつげると、すぐに座敷へ通され、しとやかな所作(ものごし)の若い女中が茶をすすめて、下がった。
待つほどもなく、50歳がらみで、見るからに貫禄のある主人・忠兵衛(ちゅうべえ)が現われた。
長谷川さまの若と、ひと目でわかりました。お若いころの平蔵(宣雄 のぶお)さまにそっくりでございますからな」
宣雄からの書簡を差しだすと、その場で開封して読んだが、表情はいささかも変えない。
「お申し越しの儀、承知いたしました」
よろしく---と頭をさげた。

「つかぬことを伺わせていただきますが、このおなご衆と若とのおかかわりは?」
銕三郎は、火盗改メをしていた大伯父のかかわりで、盗賊に入られた北本所の料亭〔古都舞喜(ことぶき)〕楼の聞き込みから、賊の1人が紅花染めの手ぬぐいを持っていたことに女中頭・おが気づいたこと。
そのことが『読みうり』に載って賊に知れ、いまは両国橋東詰、尾上町(現・墨田区両国1丁目)の〔中村屋〕へつとめ替えをしているおが賊に命をねらわれているのだと、手短に話した。

忠兵衛は、上得意をもつ高級料亭の主人らしく、わかりが早かった。
「そのおなご衆は、賊の一人とおなじ、羽前・棚倉藩、小笠原佐渡守長恭 ながゆき 28歳 6万石)さまのご領内の出身ということでございますな。では、当家へきてもらう前に、別の人別のあれこれを創らぬとなりませんな」

参照】小笠原長恭と大盗・日本左衛門の関係は、2008年7月6日[宣雄に片目が入った] (1)

「そういうものですか?」
「わたしのところのような商いのおなご衆は、座敷でお愛想口が多くなりがちでございます。どんなはずみで、羽前生まれということ洩れるやもしれません。
そうだ、当家の女中頭・お(えい 35歳)は、信州・北佐久郡(きたさくこおり)沓掛村の生まれです。そこはずっと天領で、御影(みかげ)のご代官所のお支配ですから、ご藩主のご交替年などに気をくばることもございません。
の従妹ということにして、信州言葉は、おいおい、習うこととにすればよろしいでしょう」

「どうして、沓掛のようにところのことにお詳しいのですか?」
長谷川さまのご当代がまだ、家をおつぎになる前で---若はお幾つでございますか?」
「22歳になります」
「それでは、若がお生まれになる前ですな。手前も、まだ、ここを継いでおらぬ身軽な時分で、世間を学ぶためと称して中仙道を道中しておって、ひょんなことから、沓掛宿で騒動にまきこまれたのを、長谷川さまに助けていただいたのでございます」

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(広重『木曾街道 沓掛駅』)

「父からは、聞いておりませぬが、そういうこともあったのですか」
「ほかに---なにか?」
「東海道の倉沢で海女(あま)に見染められたとか---」

参照】宣雄の倉沢での艶聞は、2008年1月12日[与詩(よし)を迎えに] (24)

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(歌麿『歌まくら』 海女のイメージ)

「存じませんが、あの気風(きっぷ)と剣さぱきでは、お若いころは、おなご衆が放ってはおかなかったでしょう。ふっ、ふふふ」
「まだ、なにか、ご存じですか?」
「いやいや。若いときの恥は、だれにもあることで、墓場へ入ってから、一人で冷や汗を拭(ぬぐ)っておればよろしいのです」

の家が見張られているようなので、衣類があまり持ち出せないのだと言うと、忠兵衛は、座敷着は四季にお仕着せがあるから、おしゃれを気どらなければ、当座の私服があれば間にあおうと。
「とは言っても、おなご衆は、着るものがなぐさみみたいなものですから、つらいでしょうがね」

長谷川家が赤坂から越してから---ということは、足かけ18年にもなるのだが---、
平蔵さまは、とんとお越しくださらないのです。若から、つよく、おすすめおきください」
つたえます、と言って辞去した。

の身のふり方がきまったことよりも、父・宣雄の隠された別の顔を知って、帰りの足は軽かった。

途中、二ッ目の橋(二之橋ともいう)の通りの弥勒寺前の茶店〔笹や〕へ寄り、女将のお(くま 44歳)に、今夜ひと晩、お母子を泊めてほしいと頼むと、
「かまわねえけど、用心棒も泊まるのかね?」

参照】2008年4月22日~[〔笹や〕のお熊] (1) (2) (3) (4) (5) (6)  

「泊まったら、おどのとできてしまうのですよ」
「あたしの方が先口だよ」
「先陣あらそいは、軍法に違(たが)います」
「ばか、こけ。へっ、へへへ」

〔五鉄〕の裏口から入り、板場にいた三次郎(さんじろう 17歳)と目があうと、指が上を示した。
裏の階段から2階の奥の部屋へ行くと、岸井左馬之助(さまのすけ 22歳)もいて、夕餉を終えたところであった。
「奴ら、出てこないんで、拍子抜けしたよ」
「真昼の決闘があるのは、ハリウッドだよ」
(まさか---)
「やはり、向こうも、昼間は遠慮しているのかな」

暗くなってから、〔五鉄〕の裏の猫道をつたって三ッ目ノ橋(三ノ橋とも)まで遠回りし、対岸の林町(現・墨田区立川1~4a)4丁目)を二ッ目の通りへ引き返して〔笹や〕の戸をたたいた。
戸口をくぐると、銕三郎左馬は、こんどは、二ッ目ノ橋をわたって〔五鉄〕へ戻り、お母子の大きな荷物2つを、二ッ目ノ橋を堂々と南へわたり、〔笹や〕へとどける。

が、銕三郎を脇へ引っぱって、
「あっちを岸井さんにまわすと、先陣あらそいをしなくてすむんだがねえ」
「お(きぬ 12歳)どのをどうします?」
「男が一人たりないね」
「まだ、12歳ですよ」
「今夜はあきらめて、果報を寝て待ってるよ」

参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (3) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) 

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2008.08.03

〔梅川〕の仲居・お松(3)

「一ト晩もおけないほど、切羽つまっておりますのでございますか?」
(とめ 33歳)が、〔中村屋〕へ迎えにきた銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの長谷川平蔵)に、うらみがましい声で訊いた。

少し、酒が入っているようだった。
この仕事では、客からすすめられれば、受けないわけにはいくまい。

松坂町の吾平長屋へ、着替えを取りに寄りたいと言ったのを、
「そのようなことは、明日の昼間にしなされい。刺客が部屋で待ち伏せしているかもしれないのですぞ」
しかし、お母娘(ははこ)には、命を狙われているという危うさが、どうしてもぴんとこないのである。
それは仕方がない。
これまで、平穏に暮らしてきたのだから。

「男とおんなのあいだのごたごたなら、笑ってすまされます。しかし、相手は、命を張って盗みをはたらいている者どもです」
「でも、〔古都舞喜(ことぶき)楼のときから、もう、1年も経っています」

参照】2008年4月19日[十如是(じゅうにょぜ)] (3)
2008年4月24日~[〔笹や〕のお熊] (5)

「しっ」
松坂町の吾平長屋の木戸口の近くである。

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(竪川ぞい 〔紙屋]のあたりが松坂町)

とお(12歳)を大戸をおろして暗くなっている店屋の天水桶の陰へ押しこんでから、銕三郎は鯉口をきった。
じっと、待つ。

月から雲が離れ、青ぐらい向こう、黒い影が2つ---。
と見るまもなく、右が匕首(あいくち)ごと突っこんできた。
刃を返して、棟(むね)で腕を払い、のめる腰を打ちするや、転瞬、左へ飛んで胴へ一撃。

2人とも、痛手で立ち上れそうもない。
尾行(つ)けられないように、それぞれの肩を棟打ちし、地面をのたうちまわらせる。
殺したのでは、あとがうるさい。

立ちすくんでいるおの手をとって、急いでその場を離れた。
も、裾をみだしながら黙ってしたがう。
だれも声を立てなかったのが幸いして、木戸番も気づかなかったようだ。

初めてやった抜き身による闘いが、おもった以上にうまくいったことに、銕三郎も興奮しており、おの手をにぎりっぱなしにしていたことに気がついたのは、二之橋(二ッ目の橋)東詰の〔五鉄〕の灯を見たときであった。
さすがに右手は、無意識のうちにも、空(あ)かしている。
照れて、放(はな)そうとしたら、握りかえしてきて、
「このまま、つないでいてください。足のふるえがとまらないのです」
の量感のある胸が銕三郎の腕におしつけられ、さらに力をこめてにぎってきた。
単衣(ひとえ)の季節だから、直(じか)同然に柔らかみのある弾力が伝わってくる。

「おどのが笑っていますよ」
「おは、見なれているから、いいんです」

四之橋(四ッ目の橋)のたもとに人影が立っていた。
手をはなして、背に2人をかばい、みすえると、その人影がうごいてきた。
鯉口をきる。と---
っつぁんだろう?」
岸井左馬之助(さまのすけ 22歳)であった。
「なんだ、左馬さんか。どうした?」
{どうした---はないだろう。助っ人にきたんだ。彦十さんが知らせてくれてな」
その声を聞いたおは、つと寄り、また、銕三郎の手をにぎる。

忠助は、気をきかして、戸口は板戸もしめ、灯が外にもれないようにしていた。
裏口へまわる。
飯台には、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)、彦十(ひこじゅう)、それにおまさも顔をそろえていた。
銕三郎が、松坂町の吾平長屋の木戸口近くでの修羅場の顛末を話すと、
「やっぱり、そこまで、手がのびてきていましたか」
ため息まじりに忠助

左馬は、けろりとして、
「居あわせたかったなあ。本身が使える好機だった。っつぁんは、うまいことやったものだ」

銕三郎にぴったりとくっついているのを、さきほどから気にしていたおまさは、おを手招きして、さっさと2階に消えた。

左馬さん。明朝、おさんたちが手まわりの品を取りに帰るとき、つきそってくれないか。拙は、ちと、遠出をしなければならないのでな」
「遠出って?」
「秘密の所でな---」

忠助が、
「冷やですが---」
徳利ごと飯台に載せた。
まっさきに手をだしたのは、彦十ではなく、なんと、おであった。
「躰のふるえがとまらないのです」
一気にあふる。

さん。ほどほどにな。明日の朝は、岸井さまといっしょに吾平長屋へ行って、見張りをしなきゃならないんだからね」
「わかってやすって」

忠助が目で板場へ誘った。
「父上が、雑司ヶ谷のほうの店に口をきいてくださいます」
「〔舟形(ふながた)〕一味も、そのあたりまでは気がまわらないでしょう。ところで、おのほうはどうします?」
「火盗改メにひっとらえさせるには、証拠(あかし)がないことには---」
「連絡(つなぎ)が現われるとしても、ここしばらくは、控えるでしょう」
「さっきの2人のうち、どっちか、追いはぎということで捕えるんでしたね。でも、おんな連れでしたからね」
「ご無事がなによりです」

飯台へ戻ると、権七が、
「あっしの聞きこみがまずかったばっかりに---申しわけねえことで---」
「いいえ。あたしが紅花の手ぬぐいのことを、火盗改メにしゃぺったのがいけないのです」
「まあまあ、自分を責めあうのはほどほどにして、左馬さん。明日は、お2人が手回りのものを持ち出したら、夕刻まで、〔五鉄〕でかくまってもらうように、三次郎(さんじろう 17歳)を通して伝兵衛(でんべえ 42歳)親仁(おやじ)に頼んでみてくれ。夕刻には拙が引き取りにゆく」

「手はずがきまったところで、今夜のところは、おひらきに---。長谷川さまは、もう少しお残りください」
左馬は多少不満げに、彦十は呑みたらなげに、権七はすまなそうな顔で、それぞれ、〔盗人酒屋〕を出た。
銕三郎は、左馬が旅所橋のほうへ行くので声をかけようとして、忠助に肩をたたかれ、声をのみこんだ。
長谷川さま。清水町の長屋には、もう、おさんはいませんよ」
「そうでした」

3人に、尾行(つ)けている気配がないのをたしかめてから、店の中へ戻った。
銕三郎の手を取って、
長谷川さま。今夜は、あぶないところを、お助けいただいたご恩は、一生忘れません」
「いや、お手柄は、忠助どのです。お礼をいうなら、忠助どのの勘ばたらきにおっしゃってください」
そっと手をはずそうとしたが、おは放さないばかりか、二の腕にまで手をのぱしてきた。

忠助は、苦笑いをおさえて、板場へ消える。
「おどの。真面目な話ですから、聞いてください」
「いつだって、真面目ですよ、あたしは、田舎育ちですから。だから、騙されてばっかり」
「呑みすぎましたね」
「いいえ。これっぽっちでは、酔いません」
「それでは、明日、決まってからお話しようとおもったのですが---」

雑司ヶ谷の鬼子母神の境内隣りで、紀州家のご用達でもある料亭の〔橘屋〕忠兵衛方へ、父の推薦で、座敷女中として使ってもらうように頼みに行くことを打ち明けた。

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(江戸近郊大地図 赤○=長谷川邸 青〇=江戸城 緑○=雑司ヶ谷)

「うれしい。そんなにまであたしたちのことをおもっていてくださったのですね」
抱きついたとき、階段をおが降りてきた。
「ご不浄---」
母親の媚態にはなれっこの感じである。

「おどの。ただし、おさんといっしょは無理かもしれません」
「おさんなら、うちで働いてもらいます。おまさのちょうどいい話相手です」
板場から、手洗いの場所をおに教えにでてきた忠助が言った。

「おさんもいっしょに聞いて。襲撃に失敗した一味は、明日から、もてる力をあげて、おさんの探索にのりだすことは目にみえている。いっち、危ないのが〔中村屋〕だ。これっぽっちの手がかりも、もちこんではなりませんぜ。このまま黙って、消えること。これを守らないと、命はないものとおもいなされ。とりわけ、〔中村屋〕へおさんのことで口をきいたお方---どういうお方かは存じませんが、今夜かぎり、ご縁をお切りになること。〔中村屋〕そのものは、長谷川さまのお父上のはからいで、火盗改メが面子にかけて守りきるでしょうがね」

「それから、長谷川さま。お小さいお妹ごがいらっしゃいましたね?」
与詩(よし)です。10歳です」
「しばらくは、外出をお控えになりますように。人質にとられかねません。若さまがおさんたちを迎えに行った今夜のことは、〔中村屋〕のだれかがしゃべるでしょうからね」
「一味があきらめるのは?」
「それより、火盗改メにおをどうさせるか、です」

参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)



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2008.08.02

〔梅川〕の仲居・お松(2)

「ご亭主どの。ご存じでしたら、さしさわりのない程度でよろしいから、教えていただけませぬか?」
「また、あらたまって、なんですか?」

話しあっているのは、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの長谷川平蔵)と、〔盗人酒屋〕と店名を記した軒行灯を堂々と掲げて商売をしている主(あるじ)の〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ)である。
四ッ目の通りに近い〔盗人酒屋〕の板場。

「〔舟形ふながた)〕という通り名の仁のことですが---」
「〔舟形〕の、のなにを---?」
店と板場を仕切っている暖簾を割って、おまさが入ってこようとした。
おまさッ。いま、長谷川さまと内密の話しあいをしている。店の前の道でも掃いてな」
いつになく鋭い声で、忠助が追っぱらう。
ふくれっ面のおまさは、それでも、店の外へ出て行った。

銕三郎は、ここからも近い、竪川ぞい・緑町にあった料亭〔古都舞喜(ことぶき)〕楼を2度も襲った賊の首領格の男が、紅花染めの手ぬぐいを持っていたこと。
紅花を栽培している農家が多い出羽国には舟形山があること。火盗改メには、〔舟形〕の宗平という盗人が記録されていること。
〔古都舞喜〕楼では、おという通いの女中が、2度目に賊が襲ってから10日ぐらいに辞めたこと。その女中が柳橋の料亭〔梅川〕で仲居をしていること---などを、つつみかくさずに話した。

「その、おを見かけたのが、いまは、本所・尾上町の料亭で女中頭心得へ移っているお(とめ 33歳)さんというのが、舟形山に近い天童在の出とおっしゃいましたな」
「他所へあずけていたむすめご---お(きぬ 12歳)というのが、いちおう、しっかりしてきたので、いっしょに〔中村屋〕の世話になっていると---」

長谷川さま。急いで手を打たなければならないのは、おさんのほうです」
忠助の推察だと、豊島町の長屋あたりの聞きこみがおこなわれたことは、もう、おの耳にはいっているとみていい。
豊島町に住んでいると話したのは、おへだけだとすると、逆に、〔舟形〕のが、おの働き先と住まいを調べて手をうつと考えておいたほうがいい。女中の働き先など、簡単に割れる。ましてや、女中頭となると。

「住まいも移したほうが安全でしょう」
「うーむ。拙の手にはあまるが---」
「とりあえず、今夜はうちで2人とも預かりましょう。店を閉めてから、こっそり、裏口からつれて入ってください。その後のことは、今夜、相談するとしましょう」

そこへ、ひょっこり、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 32歳)が顔をみせた。
「お、さん。いいところへきた。顔をかしてくれないか」
「こんな、汚ねえ顔でもようござんすかい」
さんの顔がきれえだったためしは、ねえ」
「冗談いってる場合じゃねえんでやしょう?」

まず、彦十に、永代橋東ぎわの呑み屋〔須賀〕へ行き、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 35歳)へ、〔盗人酒屋〕の看板時刻にくるように伝えてもらうことにした。
銕三郎は、とりあえず家へ帰り、父・平蔵宣雄(のぶお 49歳)に、事情を打ちあけ、おの働き口にこころあたりがないか、訊いた。
「大川近辺から、うんと離れたところというと、雑司ヶ谷の鬼子母神の境内脇の〔橘屋〕なら、頼めないこともないが---」

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(雑司ヶ谷の鬼子母神境内の〔橘屋〕 『江戸買物独案内』)

「ぜひに。父上の推薦状をもって、拙が、談合いたします」
「おんなのこととなると、(てつ)はまめじゃのう」
「父上ゆずりと、みえます」
「申したな---はっ、ははは」

ちゅうすけ注】雑司ヶ谷の鬼子母神境内〔橘屋〕忠兵衛は、『鬼平犯科帳』巻15長篇[雲竜剣]p11 新装版p11 巻18[おれの弟]p163 新装版p173に登場。若いころの秋山小兵衛が活躍する『黒白』(新潮文庫)では全篇を通じて舞台となっている。

参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)

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2008.08.01

〔梅川〕の仲居・お松

「死に水をとってやっていないと、いくら仏の顔を拝んだといっても、もう、この世にいないということが納得できかねて---」

銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの小説の鬼平)が言うのを、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 35歳)は、慰めの言葉もかけられず、痛ましげに見つめるばかりであった。

隣にひかえている女房・お須賀(すが 29歳)の膝の上には、銕三郎が藤沢宿の薬屋で見かけたので求めたという、京・富小路竹屋町の〔堀家〕謹製の小児五疳(ごかん)驚風に効く〔肝凉(かんりょう)円〕が載っている。
赤ん坊のお(しま 当歳)は昼寝らしい。

権七が話題を変えた。
「お指図いただいておりやした、料亭〔古都舞喜〕楼から消えた仲居のお(30歳前後?)が見つかりやした」

参照】2008年7月17日[明和4年(1767)の銕三郎] (1)

「ほう、どこにおりました?」

銕三郎が、箱根へ旅たつ前に、あたってみるように権七に頼んでおいたことである。

参照】2008年7月17日[明和4年(1767)の銕三郎] (4)

住まっていると、かつての同僚・お(とめ 33歳)に告げたという、豊島町一帯に聞き込みをかけたところ、両国柳橋の料亭へ通いの仲居をしている、30前と見える、ちょっと小粋なおんながそうではないか、と答えた婆さんがいた。
住まいを見張っていて、尾行(つ)けたら、柳橋の高級料亭〔梅川〕へ勝手口から入っていった。

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(柳橋の料亭〔梅川〕と〔亀清(かめせい)〕 『江戸買物独案内』)

ちゅうすけ注】〔梅川〕はいまはない。〔亀清楼〕では、横綱審議会が開かれる。

〔梅川〕に出入りしている篠塚稲荷(現・台東区柳橋1-5)西隣りの芸妓置き屋でそれとなく確かめたら、やはり、去冬の初めごろから〔梅川〕で座敷仲居をしていることがわかった。
齢よりも若く見える小顔だし、姿態に色気もあるので、男客にけっこう人気があるという。
ただ、芸妓の口ぶりは、好意的ではなく、商売仇(がたき)とおもっている感じであった。

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(柳橋の〔梅川〕)

その足で銕三郎は、尾上町の料亭〔中村屋〕を訪ね、先手組の組頭・長谷川の家の者と身分をあかし、女中頭心得のおを呼びだした。

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(最上部---両国橋東詰の川下側(左手)に料亭〔中村屋〕)

開店前で、まだ普段着のままではあるが、もともと、目鼻立ちのくっきりした顔立ちにきちんと化粧をしたおの、落ちついた大年増の色気は、隠そうとしても隠しきれるものではない。
近くの〔紙屋〕弥兵衛の店で再会したときの、むすめ連れの、いかにも母親然としていた印象との、あまりの違いに、驚いた。
(仕事をこなしているときのおんなは、やはり、美しく映るのだ)

銕三郎は、三島の本陣を亭主に代わってきりもりしている女将・お芙沙(34歳)を連想してしまった。
(この色気では、男客がほうっておくまい。おと、どっちがもてるのであろう?)
不謹慎な比較をしていた。

「もうすぐ、持ち場に就く前の打ち合わせが始まります。ご用のことは、明日、お昼前に、松坂町の家のほうで承るわけにはまいませんか?」
「悪かった。そうしよう」

竪川(たてかわ)ぞいに東へ向かいながら、銕三郎は、こころの中でつぶやいている。
(おれは、阿記(あき 享年25)が逝ってしまった悲しみをまぎらせるために、こんなやくたいもないことにうつつをぬかしているのであろうか。いや、ちがう。いずれ、父上へ火盗改メをご用命が下ったとき、十分にお手伝いができるように、鍛えているのだ)

四ッ目の〔盗人酒屋〕へ入ると、おまさ(11歳)がすっとんできて、はずんだ声で、
「お帰りなさい。阿記姉(ねえ)さん、いかがでした?」
銕三郎は、おまさのぱっちりした双眸(りょうめ)をみつめて、首をふった。
「えッ?」
もう一度、首をふる。

「うそッ!」
と叫んで泣き出した。
ただごとでないその様子に、亭主・忠助ちゅうすけ 45歳前後)が板場から出てきた。
「なんと申し上げればよろしいか---ご愁傷さまでございます」

銕三郎は、泣いているおまさをそのままにして、長身の忠助の肩を抱くようにして板場へつれもどし、小声で、
左馬さんの件のお手くばり、ありがとうございました」

参照】2008年7月19日[明和4年(1767)の銕三郎] (3)

岸井さんが見えて、しっこくお訊きになりましたが、知らぬ存ぜぬでとおしました。おまさにも教えておりませぬので、お含みおきを---」
「昨日、道場で会ったときの左馬さんは、尋常ではありませぬでした。挑まれたので、2、3番立会いましたが、その荒れように、高杉先生が見かねられて、それまで---ときびしくお命じになってくださり、怪我がなくてすみました」
「まあ、見つかるようなことはあるまいし、足利のほうへ知られることもないでしょうから、ご安心ください」
「おこころづかい、かさねがさね、お礼を申しあげます。このお返しは、いつか、きっと---」
「なんの、なんの---お若いうちの、いっときの気の迷い---いや、躰の欲の迷いです。男ならだれにでもあることです」

【参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)


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