〔梅川〕の仲居・お松(3)
「一ト晩もおけないほど、切羽つまっておりますのでございますか?」
お留(とめ 33歳)が、〔中村屋〕へ迎えにきた銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの長谷川平蔵)に、うらみがましい声で訊いた。
少し、酒が入っているようだった。
この仕事では、客からすすめられれば、受けないわけにはいくまい。
松坂町の吾平長屋へ、着替えを取りに寄りたいと言ったのを、
「そのようなことは、明日の昼間にしなされい。刺客が部屋で待ち伏せしているかもしれないのですぞ」
しかし、お留母娘(ははこ)には、命を狙われているという危うさが、どうしてもぴんとこないのである。
それは仕方がない。
これまで、平穏に暮らしてきたのだから。
「男とおんなのあいだのごたごたなら、笑ってすまされます。しかし、相手は、命を張って盗みをはたらいている者どもです」
「でも、〔古都舞喜(ことぶき)楼のときから、もう、1年も経っています」
【参照】2008年4月19日[十如是(じゅうにょぜ)] (3)
2008年4月24日~[〔笹や〕のお熊] (5)
「しっ」
松坂町の吾平長屋の木戸口の近くである。
(竪川ぞい 〔紙屋]のあたりが松坂町)
お留とお絹(12歳)を大戸をおろして暗くなっている店屋の天水桶の陰へ押しこんでから、銕三郎は鯉口をきった。
じっと、待つ。
月から雲が離れ、青ぐらい向こう、黒い影が2つ---。
と見るまもなく、右が匕首(あいくち)ごと突っこんできた。
刃を返して、棟(むね)で腕を払い、のめる腰を打ちするや、転瞬、左へ飛んで胴へ一撃。
2人とも、痛手で立ち上れそうもない。
尾行(つ)けられないように、それぞれの肩を棟打ちし、地面をのたうちまわらせる。
殺したのでは、あとがうるさい。
立ちすくんでいるお留の手をとって、急いでその場を離れた。
お絹も、裾をみだしながら黙ってしたがう。
だれも声を立てなかったのが幸いして、木戸番も気づかなかったようだ。
初めてやった抜き身による闘いが、おもった以上にうまくいったことに、銕三郎も興奮しており、お留の手をにぎりっぱなしにしていたことに気がついたのは、二之橋(二ッ目の橋)東詰の〔五鉄〕の灯を見たときであった。
さすがに右手は、無意識のうちにも、空(あ)かしている。
照れて、放(はな)そうとしたら、握りかえしてきて、
「このまま、つないでいてください。足のふるえがとまらないのです」
お留の量感のある胸が銕三郎の腕におしつけられ、さらに力をこめてにぎってきた。
単衣(ひとえ)の季節だから、直(じか)同然に柔らかみのある弾力が伝わってくる。
「お絹どのが笑っていますよ」
「お絹は、見なれているから、いいんです」
四之橋(四ッ目の橋)のたもとに人影が立っていた。
手をはなして、背に2人をかばい、みすえると、その人影がうごいてきた。
鯉口をきる。と---
「銕っつぁんだろう?」
岸井左馬之助(さまのすけ 22歳)であった。
「なんだ、左馬さんか。どうした?」
{どうした---はないだろう。助っ人にきたんだ。彦十さんが知らせてくれてな」
その声を聞いたお留は、つと寄り、また、銕三郎の手をにぎる。
忠助は、気をきかして、戸口は板戸もしめ、灯が外にもれないようにしていた。
裏口へまわる。
飯台には、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)、彦十(ひこじゅう)、それにおまさも顔をそろえていた。
銕三郎が、松坂町の吾平長屋の木戸口近くでの修羅場の顛末を話すと、
「やっぱり、そこまで、手がのびてきていましたか」
ため息まじりに忠助。
左馬は、けろりとして、
「居あわせたかったなあ。本身が使える好機だった。銕っつぁんは、うまいことやったものだ」
お留が銕三郎にぴったりとくっついているのを、さきほどから気にしていたおまさは、お絹を手招きして、さっさと2階に消えた。
「左馬さん。明朝、お留さんたちが手まわりの品を取りに帰るとき、つきそってくれないか。拙は、ちと、遠出をしなければならないのでな」
「遠出って?」
「秘密の所でな---」
忠助が、
「冷やですが---」
徳利ごと飯台に載せた。
まっさきに手をだしたのは、彦十ではなく、なんと、お留であった。
「躰のふるえがとまらないのです」
一気にあふる。
「彦さん。ほどほどにな。明日の朝は、岸井さまといっしょに吾平長屋へ行って、見張りをしなきゃならないんだからね」
「わかってやすって」
忠助が目で板場へ誘った。
「父上が、雑司ヶ谷のほうの店に口をきいてくださいます」
「〔舟形(ふながた)〕一味も、そのあたりまでは気がまわらないでしょう。ところで、お松のほうはどうします?」
「火盗改メにひっとらえさせるには、証拠(あかし)がないことには---」
「連絡(つなぎ)が現われるとしても、ここしばらくは、控えるでしょう」
「さっきの2人のうち、どっちか、追いはぎということで捕えるんでしたね。でも、おんな連れでしたからね」
「ご無事がなによりです」
飯台へ戻ると、権七が、
「あっしの聞きこみがまずかったばっかりに---申しわけねえことで---」
「いいえ。あたしが紅花の手ぬぐいのことを、火盗改メにしゃぺったのがいけないのです」
「まあまあ、自分を責めあうのはほどほどにして、左馬さん。明日は、お2人が手回りのものを持ち出したら、夕刻まで、〔五鉄〕でかくまってもらうように、三次郎(さんじろう 17歳)を通して伝兵衛(でんべえ 42歳)親仁(おやじ)に頼んでみてくれ。夕刻には拙が引き取りにゆく」
「手はずがきまったところで、今夜のところは、おひらきに---。長谷川さまは、もう少しお残りください」
左馬は多少不満げに、彦十は呑みたらなげに、権七はすまなそうな顔で、それぞれ、〔盗人酒屋〕を出た。
銕三郎は、左馬が旅所橋のほうへ行くので声をかけようとして、忠助に肩をたたかれ、声をのみこんだ。
「長谷川さま。清水町の長屋には、もう、お紺さんはいませんよ」
「そうでした」
3人に、尾行(つ)けている気配がないのをたしかめてから、店の中へ戻った。
お留が銕三郎の手を取って、
「長谷川さま。今夜は、あぶないところを、お助けいただいたご恩は、一生忘れません」
「いや、お手柄は、忠助どのです。お礼をいうなら、忠助どのの勘ばたらきにおっしゃってください」
そっと手をはずそうとしたが、お留は放さないばかりか、二の腕にまで手をのぱしてきた。
忠助は、苦笑いをおさえて、板場へ消える。
「お留どの。真面目な話ですから、聞いてください」
「いつだって、真面目ですよ、あたしは、田舎育ちですから。だから、騙されてばっかり」
「呑みすぎましたね」
「いいえ。これっぽっちでは、酔いません」
「それでは、明日、決まってからお話しようとおもったのですが---」
雑司ヶ谷の鬼子母神の境内隣りで、紀州家のご用達でもある料亭の〔橘屋〕忠兵衛方へ、父の推薦で、座敷女中として使ってもらうように頼みに行くことを打ち明けた。
(江戸近郊大地図 赤○=長谷川邸 青〇=江戸城 緑○=雑司ヶ谷)
「うれしい。そんなにまであたしたちのことをおもっていてくださったのですね」
抱きついたとき、階段をお絹が降りてきた。
「ご不浄---」
母親の媚態にはなれっこの感じである。
「お留どの。ただし、お絹さんといっしょは無理かもしれません」
「お絹さんなら、うちで働いてもらいます。おまさのちょうどいい話相手です」
板場から、手洗いの場所をお絹に教えにでてきた忠助が言った。
「お絹さんもいっしょに聞いて。襲撃に失敗した一味は、明日から、もてる力をあげて、お留さんの探索にのりだすことは目にみえている。いっち、危ないのが〔中村屋〕だ。これっぽっちの手がかりも、もちこんではなりませんぜ。このまま黙って、消えること。これを守らないと、命はないものとおもいなされ。とりわけ、〔中村屋〕へお留さんのことで口をきいたお方---どういうお方かは存じませんが、今夜かぎり、ご縁をお切りになること。〔中村屋〕そのものは、長谷川さまのお父上のはからいで、火盗改メが面子にかけて守りきるでしょうがね」
「それから、長谷川さま。お小さいお妹ごがいらっしゃいましたね?」
「与詩(よし)です。10歳です」
「しばらくは、外出をお控えになりますように。人質にとられかねません。若さまがお留さんたちを迎えに行った今夜のことは、〔中村屋〕のだれかがしゃべるでしょうからね」
「一味があきらめるのは?」
「それより、火盗改メにお松をどうさせるか、です」
【参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)
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