〔菊川〕の仲居・お松(9)
「ほう。お松は、黄粉(きなこ)まぶしのおはぎが好物ですか。それはおもしろい」
〔鶴(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)が、了見(りょうけん)ぶかげに応じた。
告げたのは、そのことを睦みの合間にお留(とめ 33歳)から聞いた、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)である。
四ッ目通りに近い〔盗人酒場〕の昼さがりで、店をあける時刻ではないから、客はいない。
お絹(12歳)についておまさ(11歳)もお使いにでもでているのか、姿が見えない。
午前中にお留---いや、すでにお仲(なか)を名のっている彼女を、雑司ヶ谷・鬼子母神の境内脇の料理茶屋〔橘屋〕へ送りこんでの帰りであった。
〔橘屋〕の座敷女中のうち、頭(かしら)のお栄(えい 35歳)とお雪(ゆき 22歳)は〔橘屋〕の脇にある寮住まいとのことで、お仲もそこに1室をあてがわれた。
ほかの8名ばかりのおんなたちは、亭主持ちで、通いである。
「お仲さん。わたしたちが順番に2人ずつ、母屋と離れに当直(とのい)をします。番は5日でひとめぐりです。盗人除(よ)けのためですが、別に男衆も2人ずつ当直していますから、おんな衆のばあいは、ねずみ除けですね」
「食事は、3食とも、調理場のとなりでいただきます」
「お非番は、月に1日ずつ」
「お客さまとの情事(いろごと)は、きびしく禁じられています。情人(いろ)とのそれは、お仕事にさしつかえないかぎり、べつにかまいません」
お仲(昨夜までのお留)が、視線を銕三郎へ走らせたのを、お栄は見逃さなかった。
「お客さまが情人(いろ)になってしまえば、いいってことですね」
若々しく、肌もつやつやしているお雪が、銕三郎をちらりと見て、お栄にたしなめられ、小舌をちょろりとだす。
銕三郎と2人きりになると、お仲のお留がささやいた。
「泊まりの夜を、飛脚便で報らせますからね」
-ややこしいから、これからは、お仲でとおすことにしたい-。
火盗改メ方のお頭(かしら)・遠藤源五郎常住(つねずみ 51歳 1000石)への連絡がついたと、父・平蔵宣雄(のぶお 49歳 先手・弓の8番手の組頭)が言ってくれたのは、その夜であった。
「いつにても、役宅にしている麻布・竜土町の屋敷へ参られよ。吟味与力・堀川喜之進(きのしん 42歳)どのが応対してくださるとのことであったぞ」
(緑○=役宅にもなっている麻布竜土材木町・遠藤源五郎常住の屋敷 約800坪)
「あすにでも伺ってみます」
「〔橘屋〕へは、うまく納まったか?」
「寮に入れていただけました」
「それは重畳」
それきり、父は、お仲のことには触れなかった。
翌日、銕三郎は、麻布竜土材木町の遠藤邸へ出かけた。
榎坂をのぼって飯倉町から六本木通りを経て、麻布谷町の使番・安倍兵庫信盈(のぶみつ 44歳 1500石)の広い屋敷の角を左におれ、大番組屋敷の辻番所を通りぬけ、さらに左におれると、遠藤家の長屋門に達する。
【ちゅうすけ注】安倍兵庫信盈の3世代前の一族が、『雲霧仁左衛門』(新潮文庫)のときの火盗改メ・安倍式部信旨(のぶむね 先手・鉄砲の15番手組頭 1000石)。
門番に辞を乞うた。
控えの間へ通され、しばらく待つと、太りぎみの堀川与力が、首をふりふり、現われた。
歩くときに、腕のかわりに肩を小さくゆするのが癖になっている。
月代(さかやき)あたりからだしているとしかおもえない、甲高(かんだか)い声だ。
鬢も薄くなりかかっている。
「われらになにか、頼みごとがあるやに伺っておりますが---」
相手は初目見(おめみえ)前の若者とはいえ、両番の家柄で、先手組頭の嫡子である。
堀川与力としては、精一杯の敬意をこめた言葉づかいをしている。
銕三郎は、大伯父であり、前の火盗改メのお頭・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 58歳 1450石 から)のところから、去年、本所・緑町の料亭〔古都舞喜(ことぶき)〕楼を襲った〔初鹿野(はじかの)〕の音松(おとまつ 30歳すぎ 大男)と、その軍者(ぐんしゃ)で小男の〔舟形(ふながた)〕の宗平(そうへえ 50歳がらみ)という賊の一件書を引き継いでいるかどうかを訊いた。
「われらが組が火盗改メを仰せつかったのは、昨年(1766)の9月8日付です。同年6月18日に、長谷川さま組(先手・弓の7番手)から引き継いだのは細井(金右衛門正利 まさとし 59歳=当時 弓の5番組組頭)さま組でした。
たぶん、麹町坂下(の細井邸)役宅のほうにあるのではございますまいか?」
「いや。その一件書のことではないのです」
「と申されると---?」
賊が〔初鹿野〕一味であることを見破ったのは、〔古都舞喜〕楼で女中頭をしていた者だが、その後、尾上町(現・墨田区本所1丁目)の料亭〔中村屋〕へ職を変えたが、その者が3日前から、店のほうへなんの連絡もしないで行方(ゆくかた)しれずになっている。
「これが1年前の『読みうり』ですが、どうも、紅花の手ぬぐいを見破ったのがその者と知れ、賊が命を狙っているとのきざしがあって、身を隠したようです」
差し出された『読みうり』に、さっと目をくれて、
「事件から1年も経って、というのが、なんとも解(げ)せませぬな」
「お頼みは、その者のことではないのです。その者の居所を突き止めるため、賊が〔中村屋〕へ手を出すのを防いでいただきたいと---」
「行方しれずになったその者と、長谷川どのとのおかかわりあいは?」
「大伯父・長谷川の手伝いで、一件を調べているときに---」
「その者の名は---?」
「お留、です」
「齢は?」
「どうして、その者のことを---? お願いしているのは、〔中村屋〕への手くばりですが---」
「あは、ははは。あいわかり申した。さっそく、あのあたりの担当している同心をさしむけます。ただ、組はいま、細井どのの組が捕らえた火付け犯の再吟味を上つ方から命じられ、証拠の調べなおしやなにかで人手がたりません。どこまで手くばりできるかは---」
「何分とも、よしなに」
(早くも責任逃れの口実をしつらえたな)
「で、ご担当の同心の方のお名は?」
「横山時蔵(31歳)です」
「いま、横山さまは?」
「見廻りにでております」
「お組屋敷は、小石川・伝通院前でございましたか?」
「さようだが、帰宅の時間は、その日によってまちまちでしてな」
「よろしければ、明日の四ッ(午前10時に、〔中村屋〕でお待ちしていると、お伝えください」
お松のことは、わざと、伏せておいた。
〔鶴(たずがね)〕の忠助になにか上策があるようなので、火盗改メに乗りだしてこられては劣(まず)かろうとおもったからである。
(さて、午後は雑司ヶ谷へでも廻って、お留---いや、お仲の勤めぶりでも眺めてみるか。
おとといの夜、あれほど励んだのに、もう、33歳の底のしれないあの躰を恋しがっている。おれって奴は---)
(歌麿 蚊帳の中のおんな 部分 お仲のイメージ)
雑司ヶ谷はあきらめ、午後からは高杉道場へ顔をだし、井関録之助(ろくのすけ 18歳)と5番、稽古に励んだ。
銕三郎より4歳齢下の録之助は、2年前、16歳で入門してきたが、筋がよく、このところ、めきめきと腕をあげている。
録之助が、井戸端で汗を洗いながしながら、ボヤいた。
「長谷川先輩。今日はいつもと違い、荒っぽくて、怖かったですよ」
【参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (10) (11)
| 固定リンク
「101盗賊一般」カテゴリの記事
- 〔蓑火(みのひ)と〔狐火(きつねび)〕(2)(2009.01.28)
- 〔蓑火(みのひ)〕と〔狐火(きつねび)〕(2009.01.27)
- 〔墓火(はかび)〕の秀五郎・初代(5)(2009.03.27)
- 〔墓火(はかび)〕の秀五郎・初代(2009.03.23)
- 〔墓火(はかび)〕の秀五郎・初代(4)(2009.03.26)
コメント