〔梅川〕の仲居・お松(4)
雑司ヶ谷の鬼子母神(きしもじん)への道をとりながら、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)は、昨夜の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)の気くばりをおもい返していた。
じつにあざやかなものであった。
「中村屋〕へは、これっぽっちの手がかりも、もちこんではなりませんぜ。このまま黙って、消えること。これを守らないと、命はないものとおもいなされ。とりわけ、〔中村屋〕へお留さんのことで口をきいたお方---どういうお方かは存じませんが、今夜かぎり、ご縁をお切りになること」
(なるほど。お留(とめ 33歳)ほどのおんなを、男が放っておくはずがない。〔中村屋〕へ世話をしたのも、松坂町の家を手当てしてやったのも、その男なんだろう。さすがに忠助どのは目のつけどころが鋭い。苦労人とは、ああいう人を言うのだな)
しきりに感心しながら、〔鶴(たずがね)〕の忠助が盗賊〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 40がらみ)の軍者(ぐんしゃ)だったということも、かんたんに納得した。
(〔初鹿野(はじかの)〕の音松(おとまつ 37歳)の軍者・〔舟形(ふながた)〕の宗平(そうへえ 49歳)と、〔法楽寺〕の元軍者・忠助の機略・謀略合戦だ。
これは観戦するに値(あた)いする。
が、難儀なのは、おれがその渦中にまきこまれてしまっていることだ。
ま、なにごとも経験---)
考えごとにふけってばかりいたわけではない。
尾行のありなしをたしかめるために、なんども横道へはいったり、通りぬけかけから別の道へ出たりした。
尾行(つ)けられてはいなかった。
昨夜の今日なので、〔中村屋〕へはまだ手がまわっていないようだった。
けやき並木の長い参道のとっかかりの手前を左に折れたところにある、料亭〔橘屋〕は静かなたたずまいであった。
まだ、五ッ(午前8時)だというのに、門から玄関までの石畳には、もう、水が撒(ま)かれている。
(鬼子母神 法明寺 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
おとないをつげると、すぐに座敷へ通され、しとやかな所作(ものごし)の若い女中が茶をすすめて、下がった。
待つほどもなく、50歳がらみで、見るからに貫禄のある主人・忠兵衛(ちゅうべえ)が現われた。
「長谷川さまの若と、ひと目でわかりました。お若いころの平蔵(宣雄 のぶお)さまにそっくりでございますからな」
宣雄からの書簡を差しだすと、その場で開封して読んだが、表情はいささかも変えない。
「お申し越しの儀、承知いたしました」
よろしく---と頭をさげた。
「つかぬことを伺わせていただきますが、このおなご衆と若とのおかかわりは?」
銕三郎は、火盗改メをしていた大伯父のかかわりで、盗賊に入られた北本所の料亭〔古都舞喜(ことぶき)〕楼の聞き込みから、賊の1人が紅花染めの手ぬぐいを持っていたことに女中頭・お留が気づいたこと。
そのことが『読みうり』に載って賊に知れ、いまは両国橋東詰、尾上町(現・墨田区両国1丁目)の〔中村屋〕へつとめ替えをしているお留が賊に命をねらわれているのだと、手短に話した。
忠兵衛は、上得意をもつ高級料亭の主人らしく、わかりが早かった。
「そのおなご衆は、賊の一人とおなじ、羽前・棚倉藩、小笠原佐渡守(長恭 ながゆき 28歳 6万石)さまのご領内の出身ということでございますな。では、当家へきてもらう前に、別の人別のあれこれを創らぬとなりませんな」
【参照】小笠原長恭と大盗・日本左衛門の関係は、2008年7月6日[宣雄に片目が入った] (1)
「そういうものですか?」
「わたしのところのような商いのおなご衆は、座敷でお愛想口が多くなりがちでございます。どんなはずみで、羽前生まれということ洩れるやもしれません。
そうだ、当家の女中頭・お栄(えい 35歳)は、信州・北佐久郡(きたさくこおり)沓掛村の生まれです。そこはずっと天領で、御影(みかげ)のご代官所のお支配ですから、ご藩主のご交替年などに気をくばることもございません。
お栄の従妹ということにして、信州言葉は、おいおい、習うこととにすればよろしいでしょう」
「どうして、沓掛のようにところのことにお詳しいのですか?」
「長谷川さまのご当代がまだ、家をおつぎになる前で---若はお幾つでございますか?」
「22歳になります」
「それでは、若がお生まれになる前ですな。手前も、まだ、ここを継いでおらぬ身軽な時分で、世間を学ぶためと称して中仙道を道中しておって、ひょんなことから、沓掛宿で騒動にまきこまれたのを、長谷川さまに助けていただいたのでございます」
(広重『木曾街道 沓掛駅』)
「父からは、聞いておりませぬが、そういうこともあったのですか」
「ほかに---なにか?」
「東海道の倉沢で海女(あま)に見染められたとか---」
【参照】宣雄の倉沢での艶聞は、2008年1月12日[与詩(よし)を迎えに] (24)
(歌麿『歌まくら』 海女のイメージ)
「存じませんが、あの気風(きっぷ)と剣さぱきでは、お若いころは、おなご衆が放ってはおかなかったでしょう。ふっ、ふふふ」
「まだ、なにか、ご存じですか?」
「いやいや。若いときの恥は、だれにもあることで、墓場へ入ってから、一人で冷や汗を拭(ぬぐ)っておればよろしいのです」
お留の家が見張られているようなので、衣類があまり持ち出せないのだと言うと、忠兵衛は、座敷着は四季にお仕着せがあるから、おしゃれを気どらなければ、当座の私服があれば間にあおうと。
「とは言っても、おなご衆は、着るものがなぐさみみたいなものですから、つらいでしょうがね」
長谷川家が赤坂から越してから---ということは、足かけ18年にもなるのだが---、
「平蔵さまは、とんとお越しくださらないのです。若から、つよく、おすすめおきください」
つたえます、と言って辞去した。
お留の身のふり方がきまったことよりも、父・宣雄の隠された別の顔を知って、帰りの足は軽かった。
途中、二ッ目の橋(二之橋ともいう)の通りの弥勒寺前の茶店〔笹や〕へ寄り、女将のお熊(くま 44歳)に、今夜ひと晩、お留母子を泊めてほしいと頼むと、
「かまわねえけど、用心棒も泊まるのかね?」
【参照】2008年4月22日~[〔笹や〕のお熊] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
「泊まったら、お留どのとできてしまうのですよ」
「あたしの方が先口だよ」
「先陣あらそいは、軍法に違(たが)います」
「ばか、こけ。へっ、へへへ」
〔五鉄〕の裏口から入り、板場にいた三次郎(さんじろう 17歳)と目があうと、指が上を示した。
裏の階段から2階の奥の部屋へ行くと、岸井左馬之助(さまのすけ 22歳)もいて、夕餉を終えたところであった。
「奴ら、出てこないんで、拍子抜けしたよ」
「真昼の決闘があるのは、ハリウッドだよ」
(まさか---)
「やはり、向こうも、昼間は遠慮しているのかな」
暗くなってから、〔五鉄〕の裏の猫道をつたって三ッ目ノ橋(三ノ橋とも)まで遠回りし、対岸の林町(現・墨田区立川1~4a)4丁目)を二ッ目の通りへ引き返して〔笹や〕の戸をたたいた。
戸口をくぐると、銕三郎と左馬は、こんどは、二ッ目ノ橋をわたって〔五鉄〕へ戻り、お留母子の大きな荷物2つを、二ッ目ノ橋を堂々と南へわたり、〔笹や〕へとどける。
お熊が、銕三郎を脇へ引っぱって、
「あっちを岸井さんにまわすと、先陣あらそいをしなくてすむんだがねえ」
「お絹(きぬ 12歳)どのをどうします?」
「男が一人たりないね」
「まだ、12歳ですよ」
「今夜はあきらめて、果報を寝て待ってるよ」
【参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (3) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)
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