〔蓑火(みのひ)〕のお頭(3)
短編[白浪看板]は、『鬼平犯科帳』の連載に2年半先立つ、1965年(昭和40)の『別冊小説新潮』7月号に掲載された。
ご存じのように、長谷川平蔵が顔を見せる2番目の物語である。
(1番目の[江戸怪盗伝]は、その1年半前---1964年(昭和39)『週刊新潮』1月6日号に発表。のち、大幅に加筆されて『鬼平犯科帳』巻2[妖盗葵葵小僧]となった)
[白浪看板]の主人公は、2代目・〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門である。
初代は、この項の前々回から登場させている角五郎。
〔夜兎〕の2代目は、生後1年の赤子のとき、浜松で捨て子されていたのを、初代が拾い、江戸へ連れかえって、自分たち夫婦の子として育てた。
この項の前々回---明和4年(1767)の秋の場面では、初代は53歳、2代目・角右衛門が18歳であった。
7年後の安永3年(1774)、初代は、60歳で、女房・お栄(えい 51歳)と角右衛門(25歳)にみとられながら、畳の上で大往生をとげた。
そのとき、角右衛門に2代目〔夜兎〕の名跡(みょうせき---というのかなあ)がゆずられた。
[〔蓑火(みのひ)〕の喜之助の項に、〔夜兎〕の親子を登場させたのは、書いている[明和4年(1767)の銕三郎]に関連があるからである。
角右衛門が先代にしたがい、初めて仕事(つとめ)をやったのは、明和四年十二月のことで、四谷御門前の蝋燭問屋〔伊勢屋〕九兵衛方へ押し入り、九百八十三両余を強奪(ごうだつ)した。
このときは、角五郎、角右衛門以下九名で押しこみ、盗賊どもは、いずれもそろいの紺地に白兎を染め抜いた筒袖の仕事着に紺股引、紺足袋といういでたちで、黒頭巾をすっぽりかぶっていたのだが、主人夫婦から家族、店の者までしばりあげてしまった---([白浪看板])
(四谷御門前の蝋燭問屋〔伊勢屋〕のモデルの〔越後屋〕
『江戸買物独案内』 文政7年刊 1824)
いかにも、昔かたぎな仕事(つとめ)着スタイルである。
さすがに、池波さんも、古めかしすぎるとおもったのであろう、1ページほどあとに、
先代が死んだときから、角右衛門は、白兎を染めぬいたそろいのコスチュームを廃止することにした。(同)
昔かたぎ風をとりさげさせている。
【ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻1[老盗の夢]で、大女おとよとの新生活を夢見た〔蓑火(みのひ)〕の喜之助が、生活資金稼ぎのために仕事復帰を志して江戸へ下ってきて、最初に訪れたのが、2代目〔夜兎〕の角右衛門の盗人宿・鳥越の松寿院門前の花屋であったのも、先代からの付き合いを考えると、とうぜんといえよう。
この蝋燭問屋〔伊勢屋〕の事件のときの火盗改メを調べてみると、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)と気があった見回り同心・横山時蔵(ときぞう 31歳)が組下にいた、先手・鉄砲(つつ)の9番手組頭の遠藤源五郎常住(つねずみ 51歳 1000石)は、その独断専行がとがめられて、9月10日に解任されていた。
相役だった鉄砲の13組の曲渕隼人景忠(かげただ 享年=63歳 400石)も、病床にあったが、6月17日に公けに喪を発している。
後任には、なんと、かの、本多采女紀品(のりただ 53歳 1000石)が再任された。
(本多采女紀品の個人譜。上段末行がそれ)
【参照】2008年2月10日~[本多采女紀品] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
2008年2月20日~[銕三郎、初手柄] (1) (2) (3) (4)
銕三郎が、さっそくに、表六番町の屋敷へ伺候して、助手を申しでたことはいうまでもないが、そのやりとりは、改めて、のちほど。
つづいて、9月22日に、助役(すけやく)として、鉄砲の14番手の組頭・荒井十大夫高国(たかくに 58歳 廩米250俵)が拝命した。
【参照】2007年5月29日[宣雄、小十人頭の招待]
2007年6月8日「布衣(ほい)の格式」
2007年12月13日~[宣雄、小十人頭の同僚] (4) (5)
さらに、10月23日に、鉄砲の4番手の長山百助直幡(なおはた 56歳 1350石)も任じられた。
この日の『徳川実紀』から引く。
先手頭長山百助直幡、このところ盗賊多ければ、組の与力同心等引ゐて、昼夜をわかたず巡警し、あやしき者は召とらへ、町奉行に引渡すべしと命ぜらる。
このまま読むと、火盗改メには裁判権がないようにも感じられるが、「昼夜わかたず」とか「町奉行に引渡せ」は、火盗改メ発令時の『実記』の常用文言であるから、さして重く受けとることはない。
ま、大なり小なりの盗賊が、跋扈していたことは間違いない。
さて、盗賊たちから神さまのごとくに崇(あが)められいた〔蓑火(みのひ)〕の喜之助だが、『鬼平犯科帳』文庫巻1[血頭の丹兵衛]p98 新装版p104 では、丹兵衛になり代わって、芝口2丁目の書籍商・〔丸屋」徳兵衛方で模範演技をしてみせた喜之助が、「血頭丹兵衛」と焼印をうった木札を置いてくる。
もちろん、置かないと物語がうまくはこばないことはわかるが、いかにも、古風なふるまいではある。
ここで、舞台は、雑司ヶ谷の〔橘屋〕の離れへ飛ぶ。
銕三郎が、宿直(とのい)番のお仲に、珊瑚の髪飾りをわたしている。
もちろん、2人が、抱きあったあとである。
「やっと、自分で稼げたので---」
「無理しないでくださいね」
いまでは、2人の営みも、それぞれにその日の刺激的な役をふり、演技者となって役をこなしながら、すすめている。
きょうは、嫁(ゆ)き遅れている齢上おんなと、若くていなせな鳶---という役をふった。
(国芳『江戸錦吾妻文庫』 口絵 イメージ)
お仲は、
「ややができてしまったら、どうしてくれます?」
さも、こころ細げに鼻にかかった甘え声で言う。
「そうなったら仕方がない。おっばいの片方をややにゆずるよ」
銕三郎もこころえて、伝法に応えたものだ。
他愛もない遊びだが、新鮮な歓びが湧く。
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