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2008.09.02

〔蓑火(みのひ)〕のお頭(5)

大晦日、夜九ッ(12時)の除夜の鐘が鳴りおわるまで、商人は掛(かけ 集金)とりにはしりまわる。

火盗改メも、夜っぴいて見廻りにあたり、初日(はつひ)の出を、府内のはずれの高輪、深川で迎えてから、組屋敷へ引き上げるのが、毎年の例である。

ちゅうすけ注】高輪・深川だと、初日が海を染めてあがるのが望める。

したがって、火盗改メの年始の登城は、2日と定められている。

ちゅうすけ注】名著・松平太郎さん『江戸時代制度の研究』(復刻・柏書房)は、[火附盗賊改]の項に「毎年、除日(大晦日)にはとくに終夜を警察し、市内の保安に事(つか)ふることをもって、本組の輩(やから)は初日(はつひ)を高輪、深川等の辺鄙に迎え、帰宅するを常とせり。従って、火附盗賊改年頭賀正の登営は、二日をもって定めらる」と記している。
[火附盗賊改]の項の全文は、 (1) (2) (3)

明和4年が、明和5年(1768)と変わった夜も、3組の火盗改メは、それぞれの受け持ち区域を巡羅し、明け方、組屋敷へ引きあげることにしていた。

本役・本多采女紀品(のりただ 明けて54歳 2000石)。 先手・鉄砲(つつ)の16番手の受け持ちは、日本橋から北だから、巡回の終点は雑司ヶ谷あたりとなる。
組下の者たちが小日向の切支丹屋敷下の組屋敷へ帰りつくのは、明けきった六ッ半(午前7時)すぎである。
もっとも、役宅としている本多邸へ詰める者は、表六番町へ。

助役(すけやく)荒井十大夫高国(たかくに 明けて59歳 廩米250俵)の組は、日本橋から南---通町筋から三田、麻布、赤坂、麹町などをまわり、高輪を終点としていた。
組屋敷は駒込片町だから、巡廻のおわる高輪からは、帰宅に1時間半ほどかかる。
それより、組頭の荒井十太夫は、高田に借地した屋敷をかまえているので、駒込片町からの通勤も不便きわまる。
ついでに記しておくと、この組が火盗改メを命じられたのは、元禄15年(1702)以来50余年ぶりなので、経験者は一人ものこっていず、詰め所の遠さとともに、不慣れで、組頭・組下ともに苦労した。
警備の手ぬかりも、とうぜん、生じた。
蓑火(みのひ)〕の一味には、そこを衝(つ)かれた。
そのことは後述。

増役・、鉄砲の4番手・長山百助直幡(なおはた あけて57歳 1450石)の組は、本所・深川の巡行を担当し、終着地は深川八幡宮であった。
組屋敷は四谷伊賀町だから、深川八幡からの、くたくたに疲れての帰着は1時間ほど後。
この組も、元禄10年(1697)からこっち70年近く、火盗改メをつとめたことがなかった。

除夜の鐘が鳴りおわるのを待っていたかのように、高輪大木戸の手前、通称・牛町で、10頭ほどの牛が角に火のついた松明(たいまつ)をくくりつけ、牛舎を狂ったように暗闇の街路へ走りでた。

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(高輪牛町 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

7頭が芝田町へ向い、数頭が伊皿子坂を暴走した。

その異常事態を、辻番所や自身番所がつぎからつぎへと伝送し、赤坂を巡廻中であった荒井組へつたえられた。
騎乗の荒井組頭をはじめ、与力3騎、同心8人、供の小者21人が一斉に牛町へ急行したが、そこには松明の火に恐怖している牛はいなかった。
駆けつけた3分の1が牛舎の調査にのこり、あとは、牛たちのあとを追った。

牛たちが走っている芝田町と伊皿子坂の町々は、半鐘の速鐘(はやがね)を乱打して住民たちに危難を警告した。
早鐘は、芝へ、白金へとつながっていった。

この何者かによって仕組まれた騒擾の時刻。
下谷新寺町の巨刹・広徳寺の塔頭(たっちゅう)のひとつから火がでた。
本郷通りを巡廻していた本多組が、ただちにかけつけて、消火活動がしやすいように、群集の整理にあたった。
新寺町でも近火の半鐘が打たれた。

同じころ、北本所・中ノ郷元町の如意輪寺(現・墨田区吾妻橋1丁目)前の花屋からも火がで、長山組の巡廻中の一行が駆けつけた。
ここでも、鳶の者が半鐘をうった。

参照】如意輪寺前の花屋は、のちに代替わりして再建され、『鬼平犯科帳』巻4[敵(かたき)]p252 新装版p264 では〔大滝おおたき)〕の五郎蔵の盗人宿の一つとなっている。

牛町、下谷、中ノ郷からもっとも遠い、神田鍋町の茶問屋〔旭耀軒・岩附屋〕に、10人余の盗賊が押し入り、集金してきた金の帳面づけをしていた全員と、寝所にいた家族をしばりあげ、856両余を奪って消えた。
小半刻(30分)ほどのあいだの出来ごとであった。

_300
(有名茶問屋〔旭耀軒・岩附屋〕 『江戸買物独案内』)

高輪の牛舎近くの住民のひとりが、夜中に厠に起きると、ちょうど、牛たちが逃亡をはじめたときあったので、臭い逃がしの小さな格子窓からのぞくと、海上で松明をふって、どこかに合図をおくっているらしい小舟をみた、ととどけでた。

明石町でも似たような合図の振り火を見た者がいた。

間隔をおいて海上に浮かべた舟から、なにごとかを連絡しあったのだろうと、推察された。

そうしたことを、銕三郎(てつさぶろう 明けて23歳 のちの鬼平)は、父・宣雄(のぶお 明けて50歳)とともに、正月5日に、本多采女紀品の番町の屋敷へ年賀へ行って聞かされた。

参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭 (1) (2) (3) (4) (6) (7) (8)


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