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2008.06.30

平蔵宣雄の後ろ楯(15)

江戸城・菊の間で、寛延元年(1748)4月3日、16人の後継者たちに遺跡を継ぐ許しが出たことは、2008年6月25日のこの項の (11)に、判明した下記の面々13名の名をあげておいた。

・長谷川平蔵宣雄(のぶお) 30歳 400石
 倉林五郎助房利(ふさとし) 28歳 160石
 伊藤文右衛門祐直(すけなお) 28歳 ?
 波多野伊織義方(よしかた) 27歳 200石
 米津昌九郎永胤(ながたね) 17歳 100俵
・石河(いしこ)勘之丞勝昌(かつまさ) 24歳 200石
・名取半右衛門信富(のぶとみ) 23歳 800石相当
 本多作四郎玄刻(はるとき) 17歳 200石
 田村長九郎長賢(ながかた) 20歳 330俵
・板花安次郎昌親(まさちか) 20歳 100俵
 榊原権七郎政孚(まささね) 19歳 400俵
・松平(松井)舎人康兼(やすかね) 18歳 2000石
 津田富三郎信尹(のぶまさ) 17歳 150俵
(・ は、養子)

申し渡しが終わって退出のときに、
「ごいっしょに家督を許されたのもなにかのご縁です。これを契機として、年に1回ずつ集まって、なにやかや、話しあうというのは、いかがでございましょう」
「名案ですな。2月22日に寛延と改元されて初めての卯月の遺跡を継ぐお許しだから、〔初卯(はつう)の集い〕などとでも名づけまして---」
やりとりがあって、15日後に第1回の〔初卯の集い〕が、深川・富岡八幡宮の境内の料亭〔二軒茶屋・伊勢屋〕で開かれた。

Photo
(深川八幡宮境内の〔二軒茶屋・伊勢屋〕)

参加しなかったのは、伊藤祐直榊原政孚、 津田信尹の3名。
一同が驚いたのは、松平(松井)康兼のような徳川一門、それに一族の分家が多い本多玄刻が勤番先の古府中(甲府)からわざわざ上府してきていて、この日まで滞在を延ばして顔を見せたことである。

松平(松井)康兼の遠祖・金四郎忠直(ただなお)は、家康の祖父・清康(きよやす)、父・広忠(ひろただ)に従って軍功をあげているし、その継嗣の後ろ楯となっていた康親(やすちか)は、三河国東条の城を守っている。

康兼は、みんなに説明した。
「将軍家のゆかりといっても、本家の四男が支家してから、もう、五代を経ています。さらに私は、末期(まつご)養子ですから、多くの方のご支援をいただかないと、家を支えてゆけませぬ。なにとぞ、よろしゅうに---」

ちゅうすけ注】(松井)松平の祖・康親が拠った東条の城址については、宮城野昌光さん『古城の風景 1』(新潮文庫 2008.4.1)に訪問記がある。
本家の八代目・康福(やすよし)は、田沼意次(おきつぐ)とともに老中職につき、むすめを意次の継嗣・意知(おきとも)の正室に嫁がせていたが、意次の失脚後の処置には、なにかと批判もある。

頬を紅潮させて下手(したで)にでた松平康兼の言葉に、一同、快げにうなずいた。
もっとも、康兼のその後は、さすがに家柄である、ご覧のように順調満帆だったともいえる。

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(松平(松井)金四郎康兼の個人譜)

本多作四郎玄刻の自己紹介には、みんながどっと笑い、座がほぐれた。
本多も、元服名(諱 いみなとも言う)が、かの、勇猛・忠勝(ただかつ)ご先祖のように「忠」で始まるとか、知恵者・正信(まさのぶ)老のように「正」が頭にきていればたいした家柄ですが、小生のように、玄(げん)がついていては、まさに、幻滅・泡沫の本多であります。甲府勤番で塩漬けがつづいておりますが、諸兄のお引きたてで、早く帰府がかない、山猿どもからの餞別の勝ち栗をもって、この集いに出席がかないますよう---」

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(本多作四郎玄刻の個人譜)

平蔵宣雄は、作四郎玄刻の陽気さを見習わないといけないと、自分に言い聞かせたが、
(あのような才能と修辞のあやつりは、天賦のものであろう)
半分、あきらめた。

発言がひとわたりしたところで若年寄の役宅へのお礼のあいさつの話題が出、つづいて、
「ところで、本多うじは、ご親戚筋のご老中・本多侯へのお礼をなされましたか?」
腹のさぐりあいめいた質問に、作四郎玄刻が、
「えっ? ご宿老の管轄は大名がたでござりましょう? 大名にお取立てくださったのであれば、お礼にも参じましょうが、われら200俵級の雑魚は、若年寄の網目にかかるか、かからないか、で---」
また、みんなを肯首させた。

宣雄は、退席まぎわに、駿州・田中城がらみで本多侯から声をかけられていたので、きちんとお礼に行っていたが、そ知らぬふりをよそおった。

毎年の当番はまわり持ちということにして、〔初卯の集い〕の代表の選出になって、石河勘之丞勝昌が突然、宣雄を指名した。
長谷川どのは、最年長のことでもござれば---」
「いえ。不義の子持ちでございますから、お上に対したてまつり、申し訳なく、この儀は、ひらに---」
と断った。
「不義の子とおっしゃると---」
「世間では、上手(じょうず)の手から水が洩れたといいますが、手前のは、下手(へた)というより、下手(しもて)からもらしたで、知行地のむすめが孕んでしまい、責任上---」
「下手から洩らした---は、まさに、適言」
みんな口々にいいながら、笑った。
若いときは、つまらない冗談でも、こころが開く。

代表は、言いだしっぺの石河に決まった。

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(石河勘之丞勝昌の個人譜)


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