〔橘屋〕のお仲(3)
「ご亭主。〔初鹿野(はじかの)〕一味の動きは、まだつかめませぬか?」
銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)が問うと、〔鶴(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)は、頭(こうべ)をふって、
「ぴくりとも網にかかってこないのですよ。〔名草(なぐさ)〕の嘉平(かへい 50男)爺(と)っつあんも、〔樺崎(かばさき)〕の繁三(しげぞう 35歳がらみ)どんも、あちこち手くばりはしているんですがね」
【参照】〔名草〕の嘉平。〔樺崎〕の繁三 2008年8月11日[〔梅川〕の仲居・お松] (10)
逆に、
「長谷川さま。〔初鹿野〕一味がここから上手(かみて)の緑町にあった料亭〔古都舞喜(ことぶき)〕楼を襲って引きあげるときに、廊下に鉄菱(てつびし)を撒いたとおっしゃいました。あれから、江戸なり近隣で、鉄菱をまいた盗賊に襲われたところはないか、火盗改メの、ほら、お親しい同心さん---」
「横山(時蔵 31歳)どの」
「そう、その同心さんに訊いてごらんになってくださいませんか」
と言ったものである。
(これは、1本、取られた。さすがは、〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 40がらみ)の名軍者(ぐんしゃ)だっただけのことはある)
【参照】2008年4月18日[十如是(じゅうにょぜ)] (3)
銕三郎は、本所・相生町4丁目の大身旗本・本多備後守忠弘(たたびろ 40歳 書院番第5組々頭 7000石)の辻番所であった。
そこで、火盗改メ・遠藤組の横山同心を待った。
【参照】2008年8月12日[〔梅川〕の仲居・お松] (11)
ほどなく、見廻り中の横山同心が、汗をふきふきあらわれた。
2人そろって、いつものように、弥勒寺(みろくじ)前で後家のお熊(くま 44歳)が一人でやっている茶店〔笹や〕の縁台に座った。
茶と手製の串団子を給仕したお熊が、
「長谷川の若よ。お留(とめ 33歳)さんに飽いたら、いつでも言っとくれ」
「気長に、静かに、待っていてください」
「きっとだよ。ところで、横山の旦那は、お酒(ささ)のほうがよかったんでは? 呑めない長谷川の若につきあうことたぁないんだよ」
「まだ、見廻りがのこっているんでね。渋茶でけっこう。それより、おしぼりをくれないか。汗がひどいのだ」
「なんなら、裏で行水をするかね? 背中をながしてやるよ」
「いや。けっこう。女房一人をもてあましておるんでね」
「その若さでかい? 精を分けてあげてもいいんだよ」
お熊がひっこんだところで、鉄菱を撒く一味のことを切りだした。
見込みどおりの返答が返ってきた。
半年前に、中仙道の深谷宿の芸妓の置屋が月末に料亭から集金したばかりの800両余を持っていかれたとの届けが、八州取締出役(しゅつやく)からだされていた。
さらに、3ヶ月前にも、甲州路の都留郡(つるこおり)大月村の庄屋・駒橋善兵衛方が襲われ、金納分の323両奪われたと、石和(いさわ)支配所から古府中の甲府勤番所へ届けがあがっていた。
どちらも、閉じ込められた部屋の前の廊下に鉄菱が撒かれ、報らせが遅れたのだと。
(青小〇 上=中仙道の深谷宿 下=甲州路の大月村)
「横山どの。鉄菱などというものは、どこの鍛冶屋もほとんど造ってはいないでしょう。近隣の鍛冶屋をあたらせれば、注文主が割れるのでは?」
「そのとおりです。触れをだしたが、手がかりはでてきませんでした」
「すると、どこで大量につくっているのでしょう?」
「たぶん、かかりきりの鍛冶屋が、一味の中にいるのでしょうよ」
横山同心と別れてから、銕三郎は、深谷と大月のかかわりをかんがえてみたが、結論は一つしかでなかった。
〔初鹿野〕一味が、甲州へ潜もうとしていると。
月末の新月の晩、銕三郎は〔橘屋〕の離れにいた。
昼間の熱気が部屋にのこってい、庭の夾竹桃のいまがさかりの花の匂いが、香の香気にまざって部屋まで流れていた。
今夜は、お仲の躰にさわりがあるため、話をかわすだけなのに、香は控えめに炷(た)かれていた。
蚊やりも煙を立てている。
〔古都舞喜〕楼での賊たちの鉄菱の撒き方の手順をおもいだすように頼んだ。
「あっ。そう言われますと---」
お仲が、なにかをおもいだしたふうであった。
【参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (4) (5) (6) (7) (8)
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