若き日の井関録之助
「長谷川先輩。お願いがあります」
防具をつけた井関録之助(ろくのすけ 18歳)が、竹刀(しない)の柄革(つかがわ)をたしかめていた銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)へ、頭を下げた。
録之助は、高杉道場では、銕三郎の1年後輩である。
家は、30俵2人扶持の貧乏ご家人の、しかも、妾腹の子なので、長男ではあるが、嫡子とはいえない。
それだけに、剣で身をたてる決意をしていて、入門して2年たらずなのに、腕はめきめきとあがっていた。
背丈も、4歳上の銕三郎とどっこいどっこいのところまで伸びている。
「なにかな?」
「立会いを、最初の一番だけ、勝たせてください」
「つまり、負けてくれと---」
「ぜひに---」
銕三郎は、道場のあちこちに目を走らせた。
他の門弟たちは、いつもどおりに稽古にはげんでいる。
横川に面した通りの格子窓に、6歳ぐらいの男の子がかじりついて覗いていた。
そのうしろに30歳を出たばかりの地味な顔立ちのおんながいた。
(ははーん。左馬(さま 22歳)さんがいっていた、録めのいいおんなというのは、あのおんななのだな)
「録」
道場では、先輩、後輩の序列がきびしいから、銕三郎も、あえて敬称をつけない。
1年でも、1ヶ月でも、入門が早ければ 、先輩なのである。
もっとも、年齢が大きく差があるときは、敬称をつける。
「わざと負けるわけにはいかぬ。そんな稽古をしたら、高杉先生(55歳)にお目玉をくらう。しかし、おれが勝たないことはできる。そのつもりでかかってくることだ」
このところ、銕三郎は、5の日の夜を、家の所要で、雑司ヶ谷の〔橘屋〕を行くのを一夜欠いたので、気分がいらついている。
蹲踞(そんきょ)の姿勢から、2人は稽古試合に入った。
数組が竹刀をおさめて板壁にそって正座し、2人の戦いぶりを見学しはじめた。
銕三郎の剣技は、門人たちのあいだでも、それだけ暗黙のうちに認められている。
面の鉄桟の奥の録之助の目は、怒りに燃えて光っていた。
(録め、必死だな。それほど、格好のいいところを、大年増に見せたいのか)
銕三郎は、自分と大年増のお仲(なか 33歳)との情事のことは、念頭から消している。
ふと、そのことに気づいて苦笑した瞬間、録之助の竹刀が小手に飛んできた。
受け損なった。
「それまで!」
判定したのは、岸井左馬之助であった。
いつのまにか、審判役を買ってでていたらしい。
(ま、ここは、録めに華をもたせておいてやろう)
試合をつづける気の失せた銕三郎は、竹刀を引き、礼を返し、面をとった。
録之助の満面に喜びが浮かんでいる。
格子窓の少年も、手を打って、録之助をたたえていた。
その後ろで、大年増が録之助にうっとりした視線を向けている。
井戸端で汗を拭いていると、少年と手をつないだ大年増が業平橋のほうへ行くのが見えた。楽しげに話しあっているようであった。
「銕っつぁん。好きそうな顔で、なにを眺めている?」
左馬之助が並んでいた。
「いつからだ、録めが、あの母子と知りあったのは?」
「母子ではない。乳母のお元(もと)さんと、育てている鶴吉だ」
法恩寺前の蕎麦屋〔ひしや〕で、銕三郎と左馬之助が、蕎麦をたぐりながらの会話である。
【ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻1[本所・桜屋敷]で、15年ぶりに再会した平蔵宣以(のぶため)と左馬之助が、湯豆腐で熱い酒を飲み交わして懐古談とおふさの近況を話しあった、あの〔ひしや〕p60 新装版p64 である。
左馬が、録之助とお元・鶴吉の出会いの経緯(ゆくたて)を話してくれた。
井関の家は、本所・北割下水と向いあっている。
高杉道場へは、横川の北端に架かる業平橋をわたり、土手を川沿いに南に2丁(200m)ほど歩く。
お元が鶴吉を育てているのは、業平橋東詰の斜(はす)向いの大法寺(現・江戸川区平井1丁目へ移転)裏・小梅村に建っている、〔万屋〕所有の小じんまりとした寮(別荘)である。
(北本所出村町の高杉道場と小梅村の〔万屋〕の寮 近江屋板)
鶴吉は、日本橋・室町の大きな茶問屋〔万屋〕源右衛門(40歳=当時)が、女中・おみつ(19歳=当時)に産ませた子である。
いうまでもなく、源右衛門は、〔万屋〕の家つきむすめ・お才(さい 35歳=当時)の、奉公人あがりの婿養子である。
お才は、15年ものあいだ子ができなかったくせに、源右衛門とおみつを許さなかった。
(緑○=池波さんが茶問屋〔万屋〕源右衛門のモデルにした広告
『江戸買物独案内』文政7年 1824刊)
おみつと乳飲み子の鶴吉は、小梅村の寮に逼塞、月に1度ほど、内儀・お才の目を盗んで通ってくる源右衛門を待って暮らしていた。
そんな生活は、1年ともたなかった。
おみつが血を吐いて不審死をしたのである。
お才が毒殺したとの蔭の声もあったが、噂は金の力でもみ消された。
それからは、乳母のお元が鶴吉をひっそりと育てることになった。
お元は、本所・中ノ郷瓦町の瓦焼き職人の、目立たない無口なむすめで、父と同じ職場の職人へ嫁(と)ついだ。
町名をみてもわかるとおり、火を使う瓦小屋は、町家から離れた、大川の上手(かみて)の橋場や向島の川辺や、大川へそそぐ源森川ぞいに多い。
20年ほど前、将軍・吉宗の意をうけた町奉行・大岡越前守忠相(ただすけ 1万石)の触れで、延焼を少なくする瓦屋根が奨励され、瓦の需要がふくらんでいた。
もっとも、瓦屋根は重いので、柱を藁屋根や桧皮(ひはだ)葺きの倍の太柱を使わないともたないから、建築費がかさむといって、しぶる家も多かった。
(北本所の瓦師 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
世帯をもって3年とたたないうちに、亭主が瓦焼き小屋の火事の消火中に、くずれ落ちた屋根の下敷きになって負った大火傷がもとで死に、その衝撃で流産した。
伝手(つで)があって、鶴吉の乳母として雇われた。
生活費は、〔万屋〕からとどいていた。
【ちゅうすけ注】このあたりのことは、『鬼平犯科帳』巻11[雨隠れの鶴吉]にくわしい。
いたずらざかりで怖いものしらずの年ごろの6歳の鶴吉が、野良犬にちょっかいをだし、はげしく吠えられた。
どうすることもできないお元が、鶴吉を背にかばって、おろおろしているところへ、高杉道場から帰りの録之助が通りかかり、棒で野良犬の眉間を打って追い払ったことから、つきあいが始まった。
録之助の家は、30俵2人扶持の最下級に近いご家人で、しかも脇腹の子ときているので、家にも居場所がない。
とうぜん、居心地のいい、お元のところに入りびたりになる。
おみつの怪死後、足の遠のいた源右衛門に代わってあらわれた強いお兄(にい)ちゃんの録之助---ということで、鶴吉もなつききっている。
しかし、録之助は、考えることの半分はおんなとの性のことという18歳。
お元も、30をすぎたばかりのおんなざかりである。
ましてや、夏の夜は暑くて寝苦しい。
男とおんながそうなるのに、13という年齢差など、ひとっ飛びで越えてしまう。
鶴吉の寝息を気にしながら、どちらからともなく、触れあい求めた。
(栄泉『春情指人形』 口絵部分 イメージ)
「いつからだ?」
「1ヶ月ほど前から」
蕎麦をたぐり終わり、蕎麦湯をすすりながら、左馬之助が教えた。
銕三郎が、なにか思案しはじめた。
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