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2006年5月の記事

2006.05.31

御仕置例類集の件数

昨日、紹介した『御仕置例類集』の伺い件数は、そのまま、長谷川組、堀組の事件処理件数を意味しない。

伺いは、あくまで評定所へ伺った件数であって、火盗改メが自力で処理した事件や、町奉行所へ引きついで任せた事件もある。

その記録を、「長谷川平蔵は残していない」と非難したのが、後任の森山源五郎孝盛である。
(テレビでは、吉右衛門=鬼平や高橋悦史=佐嶋忠介が、過去の記録を調べるシーンがあるが)。

たしかに、森山の非難があたっている面もないではなかろう。しかし、では、森山組は記録を残したかというと、その記録を目にしたことがない。
白洲の寸法とか、与力・同心の職務分担の書き残しはある。

もっとも、森山の火盗改メの任期は、わずか1年ほどであったし、彼が組頭となった西丸・先手筒の1番手組は、過去50年間にいちども火盗改メを経験していないから、事件簿の書式も知らなかったかもしれない。
同じ時期、長谷川組がした火盗改メの経験月数は延べ144か月で、全34組の先手組の中で最長であった。

というわけで、長谷川組が取り扱った実際の事件で、葵小僧、真刀小僧、大松といった大物盗賊の事件は、『御仕置例類集』には記載されていない。

だから、池波さんは、葵小僧の事件は、別の史料を参照したことになる。

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2006.05.30

御仕置例類集の謎

長谷川平蔵宣以(のぶため)に関する、信頼できる史料がすくないことは、これまでもたびたび指摘してきた。
信頼できる史料の一つに、幕府の評定所(最高裁判所とでもいえようか)の事例を集めた『御仕置例類集』がある。

旧幕から引き継いだものを、司法省調査部が昭和16年(1941)から約3年かけて刊行した(太平洋戦争の物資不足の折りに、よくまあ、出版できたものだとおもう)。

全16巻のうち、第1巻と第2巻---いわゆる「古類集」といわれるもののなかに、長谷川平蔵名義の伺いが200葉ばかりある。

Reirui
平蔵の伺いが収録されている2冊

もっとも、200葉といっても、呉服店へ押し入って金品を盗んだ盗賊の1人に、家を貸した家主、またその盗賊から反物をもらって着物に仕立ててしまった家主の弟の告発状もあり、この例の場合は1事件で3葉の伺いがあげられている。だから、じっさいの件数は200より少なくなるが、それぞれが別の項目のところに記録されている例も少なくなく、注意して寄せ集めないといけない。

上記の手つづきをへて、平蔵をはじめ、火盗改メ本役の前任者の堀帯刀、後任の森山源五郎などの伺い件数を表にしてみた。

Jikensu_1

平蔵の伺い件数は、寛政4年(1792)以降、急増しているのが目につく。
寛政4年といえば、平蔵が知恵と私財をつぎこんで建設し、苦労して運営を軌道にのせた石川島の人足寄場[取扱]を解かれ、替りに幕臣としての格が数等下の村田銕太郎が正式の[寄場奉行]に発令された年である。

もちろん、[奉行]といってもその格式の軽重はピンからキリまであり、かならずしも[取扱]という肩書が下というわけのものではない。しかし、平蔵の心中は平穏ではなかったろう。

そのリベンジとまではいわないが、評定所への伺いを頻発することで、下調べの与力たちがてんてこまいしたことは容易に想像できる。

この推察は、あたっているかどうか。

つぶやき:
『御仕置例類集』全16巻は、数年前、神田の古書店で18万5000円(税別)した。

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2006.05.29

長谷川宣雄の年譜と雑事

長谷川平蔵宣雄・年譜

享保4年       生
(1719)     
延享3年(28歳)   銕三郎生
(1746)      
寛延1年(30歳)   修理宣尹の養子の
(1748)        従妹と縁組・家督
〃           西丸書院番士
〃 3年(32歳)   本妻逝去
(1750)        鉄砲洲・築地へ転居
           
宝暦8年(36歳)   西丸書院番岡部伊賀守組より
(1754)9月15日   小十人の5番組頭
明和1年(46歳)   南本所・菊川へ移転
(1764)     
〃 2年(47歳)    先手弓の7番手組頭
(1765)4月11日   
〃 8年(53歳)    火付盗賊改メ助役
(1771)10月17日  
〃 9年(54歳)    火付盗賊改メ定加役
(1772)3月6日 
安永元年(54歳)   京都西町奉行
(1772)10月15日 
 〃2年(享年55歳) 卒
(1773)6月22日 

宣雄が火盗改メ時代(助役)の本役は中野監物。病死。
いきさつは[20-6 助太刀]p215 新装p223

長谷川家に関係の深い火事は、
 明和9年(1772)2月29日の目黒行人坂の火事。大円寺
 寛政6(1794)年1月10日の麹町平川町から虎の門、芝

橋場・釣道具屋・浜屋伊四郎
 宣雄がここの釣竿をひいき[12-4 密偵たちの宴]p184
 新装pp194
 平蔵は、釣りはしない。

むかし、戸田肥前守(7000石。側衆)になみなみならぬ世話になった。[20-5 高萩の捨五郎]p212  新装p219

細井と長谷川の両家は、父親同士がおなじ役目についた。[20-6 助太刀]p215  新装p223

細井彦右衛門は平蔵より16,7歳年下。生まれて間もなかった彦右衛門を抱いて庭へ出てお守りをしたというのは宝暦11,2年(1761,2)のころか。巣鴨から生家へ帰ったのが17歳なら、宝暦12年のことだろう。[20-6 助太刀]p215  新装p223

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2006.05.28

長生きさせられた波津

伊兵衛・長谷川家の六代目・修理(しゅり)あらため権十郎宣尹(のぶただ)が、34歳での死にのぞみ、実妹の波津(はつ)を養女にし、同居していた従弟・宣雄(30歳)をその婿にして家禄を継がせたことは、すでに記した。

修理から権十郎への改名は、病状の回復を願ってのことであったろう。
修理の前は生まれたときから権太郎であった。

厄介者の身分の平蔵宣雄は、このときすでに同居している女性とのあいだに子をつくっていた。3歳になる銕三郎(てつさぶろう)である。
銕三郎を産んだ女性も赤坂・築地の長谷川家に住まい、宣雄と夫婦同様の生活をしていた---というより、病床がちのために未婚の宣尹に代わり、長谷川家の家政をとりしきっていた。

Akasaka
享保2年(1717)の江戸図(赤坂氷川社のあたり)
赤○伊兵衛長谷川家は、開府から寛延元年(1748)に鉄砲洲・築地へ移転するまで、赤坂・築地へ拝領屋敷を賜っていた。

このことから推察するに、六代目・宣尹の妹・波津は、ふつうの躰ではなかったろう。ずっと寝たっきりの病人であったとしか思えない。つまり、養女になることも宣雄を婿にむかえることも、家禄を守るための形式の上でのことだったろう。

このあたりの事情を、なぜ、池波さんは斟酌しなかったか。
それには、『鬼平犯科帳』連載時の事情から推察してみる必要がある。

花田紀凱さんに[特大カツとハイボール]と題したエッセイがある。
朝日新聞社、1076年刊『池波正太郎作品集』の付録月報に載ったものである。

『オール讀物』編集部に配属されて2年目の花田さんは池波担当となり、1967年の秋、荏原(えばら 品川区)の池波邸へ依頼してあった原稿を受け取りに行った。
できあがっていた短篇は[浅草・御厩河岸]であった(いまは、鬼平シリーズの文庫巻1、第4話として収まっているこの篇は、じつはその年---1967年12月号の『オール讀物』に掲載する単発ものとして依頼されていたもの)。

1967年というこの年、池波さんは、大衆文芸の世界では巨誌ともいえる『オール讀物』へ4篇寄せている。
花田さんの言によると、当時の発行部数は40万部!であったと。

1967s

うち、新年号の正月四日の客と、12月号の[浅草・御厩河岸]が白浪(盗賊)もので、後者には長谷川平蔵がちらっと顔をあらわす(ついでながら、[正月四日の客]も鬼平シリーズでテレビ化され、吉右衛門さんはもとより、山田五十鈴さん、河原崎長十郎さん好演している)。

原稿[浅草・御厩河岸]を読み終わった花田さんへ、池波さんは、
「そこへ登場させておいた長谷川平蔵だけど---おもしろい男でね、人足寄場なんかを作ってね」
と、長谷川平蔵という火盗改メを8年もやった幕臣について、いつものくせで、極めて手みじかく説明した。

長谷川平蔵についても、火盗改メという職についてもまったく知らなかった花田さんは、ただ聞き役に徹し、帰社するや、杉村友一編集長へ、池波さんの長谷川平蔵論を復命した。

とたんに、杉村編集長は、長谷川平蔵ものの連載を決断、その旨を池波さんへ伝えた。
想像するに、
「半年後の、7月号あたりから、連載をはじめられませんか」
といった条件が示されたとおもう。

連載小説は、大新聞なら1年前、主要雑誌なら半年間の準備期間を用意するのがこの世界の常識である。

ところが、杉村編集長の申し出をきいた池波さんは、12月号の原稿をわたしたばかりなのに、
「新年号からで、どうですか。こちらはそれで書きましょう」
と答えた。

池波さん、よほど、長谷川平蔵ものが書きたかったとしか思えない。
いや、花田さんに平蔵の話を持ち出したのも、いってみればコナをかけたのである。

というのは、[浅草・御厩河岸]の前に、池波さんは、長谷川平蔵が顔見せする2編の短篇を世に問うている。しかし、どの編集部からも、平蔵シリーズの依頼がこなかった。
池波さん、しびれをきらして、花田さんにコナをかけた。

[浅草・御厩河岸]の前に書かれた平蔵ものは、

のちに加筆されて[妖盗・葵小僧]のタイトルで鬼平シリーズの1篇となった、[江戸怪盗紀](『週刊新潮』)。

1964s

この年、『オール讀物』への寄稿は、2篇。

つづいて[看板](じつは、この篇の『別冊小説新潮』掲載時のオリジナル・タイトルは[白浪看板]〔夜兎〕の角右衛門が密偵となった契機を描いたストーリー)。

1965

そして、3篇目の[浅草・御厩河岸]で連載依頼へこぎつけた。
連載シリーズ・タイトルが〔鬼平犯科帳〕という秀逸なものとなった経緯は、後日あかす。

『オール讀物』連載第1話は[唖の十蔵]で、同心・小野十蔵を主人公としたストーリーのものだった。
物語自体は鮮烈でも、杉村編集長にとっては意外だった。それで、花田さんに言ったとおもう。
「おすすめの長谷川平蔵は、どうなっているんだ。これは、脇の人物の物語ではないか。頼んだのは、長谷川平蔵が主人公の物語のはずだ。そういって、つぎは配慮してもらえ」

当時の池波さんは、中堅作家ではあったが、『鬼平犯科帳』でブレイクした大家にはまだほど遠かった。

で、杉村編集長の要望を容れて書いた第2話が[本所・桜屋敷]
ただ、急いで平蔵やその周辺を造形したために、いろいろと泥なわの面もでてきた。
波津の没年もその一つ。
見たように、『寛政重修諸家譜』は、女子の没年は記さない。
ただ、伊兵衛・長谷川家の菩提寺は記載されているから、戒行寺で確かめることはできたはず。

つぶやき:
波津という女性の存在は、『長谷川平蔵 基メモA』をつくりはじめた30歳代前半には決めていた。
〔波津〕が、田沼意次の知行地・相良(静岡県中南部)一地区の地名からとっているらしいことは、SBS学苑パルシェ(静岡)の[鬼平]クラスの八木忠由氏が指摘している。

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2006.05.27

聖典『鬼平犯科帳』のほころび(2)

銕(てつ)三郎父・宣雄従妹・波津との結婚をいう前に、『寛政重修諸家譜』から、伊兵衛・長谷川家の六代目当主・修理(しゅり)宣尹(のぶただ)の項を見ておきたい。

0014
第14巻

筆者が所有しているのは、続群書類従完成会の昭和55年12月25日刊の第4刷である。全23巻・別iに4冊の索引つきで、ご覧のとおり、黄土色の装丁。
台東区の池波記念文庫の移転書斎にあるのは灰色の装丁で、黄土色の前の版だが、内容に大差はない。

さて、修理宣尹の項。

Nobuyqda_1

宣尹(のぶただ)
   権太郎 修理 権十郎 母は某氏。
  享保十年(1725)九月朔日はじめて有徳院殿(吉宗)に
  拝謁す。時に十一歳。
  十六年四月六日遺跡を継ぐ。
  元文二年(1737)十月二十日西城御書院の番士となり、
  延享二年(1745)閏十二月番を辞す。
  四年(1747)五月十二日西城御小姓組に列し、寛延元
  年(1748)正月十日死す。年三十四、
  法名日順。
女子 宣尹が養女。

この「女子」とあるのが、妹の「波津(小説での名)」。『諸家譜』では、女子は名前を記さない。
宣尹と宣雄は四つ違いの従兄弟同士であるから、波津は宣雄の従妹にあたる。
(宣尹は正徳5年--1715の生まれ、宣雄は享保4年--1719の生まれ)。

実兄の歿年が34歳というから、波津は30歳前後ともいえる。
30歳近くまで嫁がなかったのは、嫁げなかったのであろう。兄とおなじく病身だったとみる。
もしかすると、病床にあったまま、家禄を守るために、急遽、兄・宣尹の養女となっての婿とりともおもえる。

宣雄の項を見てみよう。

宣雄(のぶお)
   平蔵 備中守 従五位下 
   実は宣有が男。母は三原氏の女。宣尹がときにのぞみて養
   子となり其女を妻とす。
 寛延元年(1748)四月三日遺跡を継。(略)。

宣尹の死からほぼ4ヶ月を経ての家督である。この間の、諸手続きの輻輳が想像できる。
おそらく、あちこちへ口留めとまいないがくばられたことであろう。

宣雄と波津の婚儀がなったとき、銕三郎は3歳であった。
また、波津は妻としての所作が行えなかったから、家裁は、銕三郎の実母がとりしきっていたはずである。

この実母を、池波さんは(妾)と記しているが、この表現が妥当かどうか。

また、波津は銕三郎が十七歳にまで家に入れなかったというが、じっさいは、婚儀の2年後の寛延3年(1750)に死去していることが、戒行寺の霊位簿にきろくされていると、研究家の釣洋一氏からおそわり、霊位簿のコピー---秋教院妙精日進---も見せられた。

実母のほうは、平蔵宣以が死ぬ4日前まで生存し、夫・宣雄と同じ位の戒名をさずけられている。
すなわち、興徳院殿妙雲日省大姉
ちなみに、泰雲院殿夏山日晴大居士が、従五位下・備中守だった宣雄の法名。

つぶやき:
池波さんが、銕三郎のぐれを、継母の継子いじめとしているが、これは、安易な見方ともいえる。
まあ、継子いじめは、古今東西に共通の悲惨事だから、おおかたの共感を得られやすいが。
ぼくは、池波さんの安易は、急ぎすぎたための窮余の結果と見ている。そのことは明日。

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2006.05.26

聖典『鬼平犯科帳』のほころび

よくできている聖典『鬼平犯科帳』にも、いくつかのほころびがある。
いや、20年近くも書きつづけられ、ファンを魅了しつくたのだから、そんなほころびには目をつむれ、となだめる識者も少なくない。NHKのプロデューサーだった立子山さんもその一人(立子山さんのご父君は、池波少年の西町小学校時代の担任だった)。

そのとおりなのだが、そのほころびから、池波さんの素顔がうかがえたり、執筆時の秘密が洩れているなら、深読みファンとして指摘しないわけにはいかない。

文庫巻1の[本所・桜屋敷]に、こんな数行がある。

 長谷川平蔵の生いたちについて、のべておきたい。長谷川家の
 祖先は、むかしむかし大和(やまと)国・長谷川に住し、戦国末期
 のころから徳川家康につかえ、徳川幕府なってからは、将軍・旗
 本に列して四百石を知行(ちぎょう)した。
 それより五代目の当主・伊兵衛宣安の末弟が、平蔵の父・宣雄
 (のぶお)だ。
 家は長兄・伊兵衛がつぎ、次兄・十太夫は永倉正武の養子とな
 った。こうなると、末弟の宣雄だけに養子の口がかからぬ以上、
 長兄の世話になって生きてゆかねばならぬ。
 長兄がなくなり、その子の修理(しゅり)が当主になってからも、
 宣雄はこの甥(おい)の厄介(やっかい)ものであった。
                         p55 新装p59

この文章の由来は、池波さんが30歳すぎのときに長谷川平蔵を『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』で見つけたという、その『寛政譜』から書き写した[長谷川平蔵年譜 基メモA]と題したノートにある。

2_3
[長谷川平蔵年譜 基メモA]の表紙

連載のずっと前に準備されたこのノートは、台東区の池波正太郎記念文庫のガラスケースに入れられ、最初のページが開かれている。
そのページは、

Notekeizu
青○が宣雄

となっている。
当時、芝居の台本作家として立ったばかりの池波さんは、『寛政重修諸家譜』を購うだけの経済的な余裕はなかったろうから、長谷川伸師邸の書庫の『寛政譜』を借り出し、大急ぎでくだんのノートに書き写したはずである。
その際に、写し間違いをした。

『寛政譜』によると、長谷川一門の家系図は、こうなる。

Keizu_1

宣雄と宣以(のぶため 小説の鬼平)の部分をクロースアップして掲げよう。

Nobuokeizu

青○の宣雄は、末弟ではなく、三男・宣有が、看護にきていた、備中松山藩・元藩士で浪人・三原七郎兵衛の娘に産ませた子である。
したがって、六代目の伊兵衛宣尹(のぶただ 修理)とは従兄弟同士である。

宣安・長谷川家は、どちらかというと病身の者がおおく、宣雄の父・宣有も病気がちで、養子には出られなかった。

池波さんは、なぜ、宣雄の位置を写しちがえたか。
この人特有の、回転の早いあたまのめぐり、寸時も休むことのない決断---が裏目にでたときに生ずる早合点が遠因とおもう。

池波さんは、その後、『寛政重修諸家譜』をらくらくと買える流行作家になり、事実、池波記念文庫へ移された書斎には、その『寛政譜』が麗々しく置かれているが、長谷川平蔵家の家譜は、開かれることはなかったのであろう。
したがって、宣雄の正しい位置も、『鬼平犯科帳』の連載中、訂正されることはなかった。

つぶやき:
宣雄の従兄で六代目の当主・宣尹も病身で、出仕したりしなかったりであった。だから、二代つづきの厄介者の宣雄は、スペア要員という形で家にのこされていた。

その間、時間があったので、知行地上総(かずさ)の寺崎へ新田開拓の指導へ行き、身の回りの世話をした庄屋・戸村家の娘銕(てつ)三郎を身ごもらせたのであろうか。
平蔵宣以の息・辰蔵(家督後は宣義 のぶのり)が幕府へ呈出した「先祖書」の、宣以(銕三郎)の出生地の記載「武蔵」を信用すると、庄屋の娘は、江戸の長谷川家の屋敷へ伴われ、そこで銕三郎を産んだことになる。 

                    
お断り:
じつは、六代目の当主・宣尹の妹・波津(小説での名)---つまり、従妹との結婚についても書くつもりだたが、時間がきてしまったので、それは、明日に。

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2006.05.25

『江戸会誌』を発見!

NHK文化センター(青山)〔鬼平〕クラスを持っていたいたころだから、8,9年も前のこと。
受講者の氏が、国会図書館、『江戸会誌』に載った[長谷川平蔵逸事]を発見してくださった。

そのころは『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』が、長谷川平蔵については、ただ二つの史料だったから、飛びついた。
というのも、池波さんもエッセイで、長谷川平蔵の発見は、『寛政譜』によるとだけ公表してい、その記述は年譜の箇条書きに近いもので、平蔵の人柄を示唆するものはなかったからである。

そんなわけで、池波さんの平蔵発見『寛政譜』説を、眉つば視していた。
たまたま手に入れた三田村鳶魚『捕物の話』(早稲田大学出版部 昭和9年刊 のち中公文庫)の[火付盗賊改]の章が発見の発端で、それから『寛政譜』で確認したのであろうと推理していた。

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中公文庫

『江戸会誌』の[逸事]の稿の前段はこうである。

「長谷川平蔵は其名未考。禄は四百石。居宅は本所菊川町にあり、先手弓頭より盗賊火付改へで出役--天明八年十月より寛政七年五月、病で没するまで、およそ八ヶ年の間これを勤む。
もとより幹事の才ありしゆへ、松平(定信)楽翁の遇を得、その意を承って人足寄場を創設せしこと、または盗賊探検には許多の逸事あり(略)」

「幹事の才あり」の6文字が、池波さんに天与のヒラメキをもたらしたことは容易に想像できる。
「幹事の才」とは、すぐれたリーダーシップである。理想のリーダー像を創造すれば、平蔵になる---と池波さんは考えたろう。

しかし、池波さんはほんとうに『江戸会誌』のこの文を目にしたか?
それを確認するには、池波さんが出入り自由の許しを得ていた、二本榎の長谷川伸師の書庫を探訪する必要がある。

単なる一鬼平ファンにすぎない筆者が、長谷川伸師邸の書庫へもぐりこめた経緯は、後日に公開として---。

あった!
『江戸会誌』全18号分が3冊に合本装丁されていた。
池波さんは、[逸事]の稿を読み、あの6文字によって長谷川平蔵像を創造したことは99.99パーセント間違いない。

Gappon_1
3冊に合本された『江戸会誌』

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[長谷川平蔵逸事]が載った明治23年6月号の表紙(左)

Kiji_1
「幹事の才あり」の稿(左ページ下段)

長谷川伸師邸の書庫内の写真は、
http://homepage1.nifty.com/shimizumon/dig/hasegawa_syoko/hasegawasyoko_sanko.html

つぶやき:
興奮がさめると、[逸事]が、長谷川平蔵が歿して95年後に書かれたものであることに注意がいった。
その間、アンチ田沼の徒による文書の消去がおこなわれたろうに、田沼派と見られていた平蔵の事跡がよくも伝えられたものだと、疑念がしきりにわいてきた。この疑念は、いまもくすぶりつづけている。

『江戸会誌』は、江戸会の機関紙である。18冊しか出ていない。明治22,3年ごろ、鉛活字の鋳造がおこなわれ、いろいろの出版物が堰をきっておとしたようにあらわれた、その一つである。
その状況は、いまのブログ、ホームページの盛況に似ているといえる。

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2006.05.24

正以の養家

長谷川平蔵宣以(のぶため)の次男・銕(てつ)五郎が、養子先の諱名の「正」と実父の「以」を合わせて、正以(まさため)を名のっているが、名の銕五郎のほうは、養家の当主のものである久三郎に改めている。
というのも、養父・正満(まさみつ)が、なぜか、久三郎を継がず、栄三郎を名のっていたからである。

正満栄三郎を名のったのは、父・正脩(まさひろ)が、当長谷川家三代目の正相(まさすけ)の次男・徳栄(たかよし)が廩米500俵を分与されて一家をたて、その五男の彼が養子にはいったために、祖父・徳栄の「」の一字をさずかったのであろう。

血のつながりからいえば、平蔵・長谷川家より、徳栄・長谷川家のほうが濃い。にもかかわらず、平蔵が正以を正満の養子としたのは、それだけ、平蔵宣以の根まわしが巧みであったとみる。このあたりに、平蔵のやり手ぶりが察せられもする。

長谷川一門で、家政的には最高の家禄4000余石をはんでいた、正満・長谷川家の系図を示す。

●初代・正吉(まさよし) 天正7年(1579)めされて家光の小姓
                と なる。
                しばしば加恩があり、4070石をたまう。
                8万坪の別荘をたまう。
                40歳卒(しゅつ)。娘4人で男子はなし。
●ニ代・正信(まさのぶ) じつは長谷川本家・筑後守正成 の長男。
                正吉の長女の婿となる。
                徒頭(かちのかしら)。書院番組頭。
                淡路守・従五位下。
                44歳卒。吉祥時に葬り代々の葬地に。
●三代・正相(まさすけ) 書院番士。先手弓頭。74歳卒。 
●四台・正明(まさあき) 小姓組番士。
                71歳卒。
●五代・正武(まさたけ) 32歳卒。
●六代・正誠(まさざね) じつは徳栄の次男。養子に入る。
                小姓組番士。西丸書院番士。
                小普請組支配。甲府勤番支配。
                従五位下・下総守。
                西丸持弓頭。
                65歳卒。
●七代・正修(まさむろ) じつは徳栄の五男。
                持筒頭。
                69歳卒。
●八代・正満(まさみつ) 出仕の記録がない。
                病身であったのであろう。
●九代・正以(まさため) じつは長谷川平蔵宣以の次男。
                18歳で御目見。
                正満の次女を妻とする。

初代・正吉がたまわった8万坪の別荘は、のちに29000坪を紀伊家に分譲。20000坪との記録がのこっている。

つぶやき:
宮城谷昌光さんの『史記の風景』(新潮文庫)で、天子の死去は「崩(ほう)」、諸侯は「薨(こう)」、大夫は「卒(しゅつ)」、士は「不禄(ふろく)」、庶民は「死」と記すと教わったが、『寛政重修諸家譜』は「卒」としているので、それにしたがった。

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2006.05.23

長谷川正以の養父

長谷川平蔵宣以(のぶため)の次男で、4000余石の寄合肝入格の長谷川栄三郎正満(まさみつ)の養子となった銕五郎正以(まさため)のことには、すでに触れた。

参照】2007年8月8日[銕三郎、脱皮] (4)

で、養父・正満を紹介しながら、長谷川家の祖先について述べたい。

池波さんは、『鬼平犯科帳』文庫巻3の[あとがきに代えて]で、

  平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍・藤原秀郷(ひでさと)
  のながれをくんでいるとかで、のちに下河辺を名のり、次郎
  左衛門政宣(まさのぶ)の代になって、大和の国・長谷川に
  住し、これより長谷川姓を名のつた。

と、太田亮『姓氏家系辞書』から引いている。

  のち、藤九郎正長(まさなが)の代になってから、駿河の国
  ・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元
  (よしもと)につかえた。

寛政重修諸家譜』からの類推である。
なぜ、類推というかというと、今川義元につかえていたのは、正長の数代前から小川(こがわ)城主(現・焼津市)としてで、義元が桶狭間で織田信長に討たれたとき、田中城主(現・藤枝市)も戦死したので、正長が小川城から田中城へ移ったのが、史実だからである。

小川における長谷川家について、司馬遼太郎さんが北条早雲の後半生を描いた『箱根の坂 中』(講談社文庫)から、引く。

  小川(こがわ)村は、こがわ(ヽヽヽ)という名の一筋の川
  が駿河湾の西の一角に流れこむ河口にある。そこに湊
  (みなと)がある。(略)
  小川村はいまは焼津(やいづ)市に属してしまっているが、
  早雲たちの当時は、焼津はただの田舎にすぎず、小川村
  のほうこそ、
  「小川湊(あるいは小河の津)」
  などと呼ばれて大いに栄えていた。(略)
  この浜では、塩がつくられる。
  (塩は、小川村の法栄(ほうえい)の富の基礎(もと)だ)
  と、早雲は考えていた。(p51 新装版p60)

法栄(死後は法永)---この長者こそ、平蔵を含めた長谷川家一門の祖であることは、静岡県では周知といっていい(鬼平に興味のない人は、もちろん、論外である)。

京から今川義忠に嫁いで竜王丸を産んだ千萱(ちがや)---北川殿---は、早雲の妹格で、義忠の戦死後の家督あらそいに、竜王丸を擁した早雲法栄長者が、反対派と争う。

それはともかく、法栄長者は、曹門の寺院を開基した。林叟禅寺(現・焼津市坂本)である。

B
坂本の山裾にある林叟禅寺の鐘楼とその奥の本堂

したがって、法栄長者夫妻は、当寺へ葬られた。
天明年間(正満40~47歳)、正以を養子に迎えて後継のことを安堵(あんど)した長谷川栄三郎正満は、祖先の故里である小川村を訪れ、林叟禅寺に墓参、衰えていた法永長者夫妻の墓を、墓域の中心---ホルトの大樹の下に新しく2基建てた。現存しいるのがそれである。

C
向って右が法永の、左は夫人の墓石

正満はさらに、長谷川家先祖代々の位牌と、法永の位牌を奉納し、永代供養の費を寄進した。位牌はいまなお位牌殿の最高席に安置されている。

B_1
長谷川家先祖の位牌(中央)と法栄長者夫妻の位牌(左)。
長者の法号・林叟院殿扇伴菴法永大居士
夫人の法号・長谷寺殿松室貞椿大姉

この3月の参詣が4度目であった。初回は2年前に畏友・中林正隆氏に案内された。
長谷川家の歴史探求の一端である。

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2006.05.22

平蔵の次男・正以の養子先

長谷川平蔵の家禄は400石だった。

家康のころ、浜松郊外・三方ヶ原(みかたがはら)で、数倍する武田勢と戦って戦死した先祖の、遺児・次男がうけた禄高が、そのままつづいたのである。いってみれば200年間昇給なし。

遺児・長男がついだ本家は1750石。そこからのちに断絶した分家へ300石をわけた。本家の次男には別途に500石が給された。

特筆すべきは遺児・三男。つまり平蔵家の祖の弟。11歳で秀忠の小姓に召され、しばしば加増をうけてしめて4070石! 1800坪を超える牛込・御納戸町の屋敷はともかく、渋谷にも8万5,000坪の別荘地をもらっている。異例だ。寵童だったとの推察もできなくはない。

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養子先の牛込の1800坪を超える屋敷(近江屋板)

長谷川一門でもっとも富裕な家柄なので、つねに一門の養子先として狙われていた。

平蔵の時代…寛政元年(1789)ごろ、ここの九代目をつぐべき嫡子が夭折(ようせつ)した。

残ったのは女子2人。上は病みがちでとても嫁げそうもない。下は7歳。当主の栄三郎正満(まさみつ)は平蔵よりも1歳年上の45歳だがいちども役職につけないほどの病身だった。
名奉行・大岡越前守忠相(1万石)直系の孫娘だった後妻は出産年齢をとうにすぎていた。

まわりを見わしたところ長谷川一門には、平蔵の次男で9歳の銕(てつ)五郎のライヴァルはほとんどいなかったものの、係累の多い大岡家のほうには数人いた。

平蔵はさっそくに根まわしをはじめた。一門の長老で火盗改メをつとめたときに若かった平蔵がその助手のようなことをした、本家の当主・太郎兵衛正直(79歳)を説いた。

「かの家へこれまで一門外から養子に入った者はありません」

言外に、4000余石をほかからの血にむざむざむしられることはないと匂わせた。

このときの平蔵の論理はいささか滑稽でもある。4000余石は家についているのであって、それが守られれば血は関係ないというのが当時の考え方だった。

したたかな太郎兵衛は、曽孫2人の顔を思いうかべたが、なにぶんにも幼なすぎた。しょうことなく銕五郎の養子入りに賛意をあらわした。

徳川幕臣の次男、三男は養子にいけなければ一生を実家で厄介者として送るのがふつうだった。だから平蔵とすれば、次男・銕五郎の養子口が決まらないかぎり死んでも死にきれなかった。もっとも、そのころの平蔵はピンピンしていて火盗改メの仕事に腕をふるっていたが。

平蔵が次男の養子先として4000余石の裕福な一族へ白羽の矢を立てたのは、火盗改メの役目を長くつとめればつとめるほど、わが家の資産が激減していくことを予想していたためだ。
いや、持ちだしになってもこの役目は立派につとめあげよう、つとめなければならない時代に生きている……との使命感に燃えていたともいえる。

平蔵が8年間も火盗改メをつとめたため、平蔵家の家計は逼迫の極におちた。

つぶやき:
知行の1石は1両と換算するのがふつうである(1両は現代なら10万円見当。『鬼平犯科帳』末期、池波さんの換算率は20万円と高かった)。
扶持(ふち)の1俵(3.5斗)も1両。
というのは、知行のばあい4公6民で、400石の長谷川家なら手取りが160石前後だからである。
つまり、長谷川家の年収は400両。それで家宰や用人、家僕・女中などすべての給料もまかなう。
先手組頭は1500石格なので、平蔵の場合、家禄との差の1100石の足(たし)高がもらえる。

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2006.05.21

家風を受けつぐ

「隅田川河口にある石川島の湿地に人足寄場を創設したとき、
平蔵が府内の無縁仏の墓石を集めて埋め立てたのは、父親の
宣雄が千葉県の知行地…寺崎の湿地を干拓して新田をひらい
たときに使ったテを覚えていたからでしょうね」

卓見!
述べたのは、集合住宅の建設畑で仕事をやってきたW氏……さすがに目のつけどころが違う、と感心した。

W氏は、朝日カルチャーセンター(東京・新宿)で9年来講じてきた[鬼平]クラスのメンバー。某日、このブログの連載をテキストにして受講者の意見を求めたのに付随しての発言だった。

クラスは木曜の午後なので受講者は生涯学習を目指している男性がほとんど。前職はさまざまでも、みんな中間管理職をりっぱにこなしてきているから、それぞれにユニークな意見がでる。

長谷川家の知行地のひとつは千葉県成東町寺崎の220石。それを実収が300石以上もあがるように新田をひらいた。指導・監督したのが江戸から出張ってきた冷や飯者の宣雄だった。新田からのあがりは幕府へ差しだす必要はないから、彼は長谷川家にとっての功労者だ。

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江戸下期にもっとも近い明治20年製の上総(かずさ)の地図
右は九十九里浜と太平洋

ちなみに長谷川家の家禄は400石。あとの180余石の知行地は同県九十九里町片貝にもらっていた。

350
上の拡大図。上の赤印は寺崎(成東町→山武市)
下の赤印は片貝(九十九里町)

ひらいた新田の中から3反歩を長谷川家が村へ割愛。寺崎ではこの3反歩からのあがりで、年に一夜、村をあげての宴会を200年間つづけている、と教えてくださったのは同町文化財保護委員会の長谷川委員長だ(同姓なのは偶然で、縁故はないと)。

この3反歩とは別に長谷川家は、「五穀豊穣(ほうじょう)村民安穏(あんのん)」を祈念する庚申塔を、寺崎に同じく知行地を持っていた宮崎家と連名で、村へ寄進している。

同県の郷土史家によると、知行地の小さな幕臣がこのように村民の安穏を願う気持ちを形に表している例はまれとのこと。

平蔵がらみの手紙のやりとりを何度か重ねているうちに平蔵に興味を持たれた長谷川委員長のはからいで、庚申塔は町の文化財に指定された。

庚申塔に刻まれている名は六代目当主の修理。宣雄の5歳年長の従兄で、のちに養父となった仁(じん)。享保17年(1732)11月吉日の建立。修理19歳、家督の翌年で、番入りはまだしていなかった。用人によっぽどこころきいたのがいたのだ。

話を新田へ戻す。宣雄の指導による湿地の暗渠(あんきょ)排水、石をつかっての埋め立てなどの新田開発の手順は長谷川家の秘伝として、平蔵へくり返し語られていた。

新田の割譲、庚申塔による祈念…これらの知行地の村人いつくしみの処置は、長谷川家の家風から発している。そしてこの家風は平蔵へ受けつがれた。

つぶやき:
今日の中間管理職には、知行地なんて結構なものはないが、子どもへ伝える家風はきづきうる。
もちろん、家風と家業とは、全然、別もの。
変化のはげしい現代、親の職業は、子どもが成人したころには、半分なくなっている……とはフランスの社会学者の言。


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2006.05.20

過去は問わない

「もし、鈴木さま。お耳をちとお貸しくださりませ」
長谷川組同心:鈴木某を小声で呼びとめたのは、内藤新宿の隠れ娼妓屋〔胡蝶〕のあるじ、庄助だった。

長谷川平蔵が組頭に就任する前、鈴木はこの店の常連……とはいっても、役人風をふかせて正規の料金2朱(1両=10万円として2万5000円)の半分以下で遊んでいたのだが。

平蔵が火盗改メ・本役に就(つ)いた天明8年(1788)からこっち、この3年半というものは、足がすっかり遠のいていた。

見廻り地区替えで市ヶ谷、四谷、千駄ヶ谷、新宿の担当となり、〔胡蝶〕の前を久しぶりに通って呼び止められた次第。

庄助が鈴木同心をもの陰へみちびいてささやくには、昨日から居つづけている男が、遊び料として盗品らしい反物3本を預けたという。

「あいわかった。適当な口実をもうけて帰らせろ」
出てきた中間ふうを尾行していくと、なんと、平河天満宮(千代田区平河町1丁目)のはす向い、但馬・豊岡藩京極高有(1万5000石)の上屋敷のくぐり門へ消えたではないか。

Kyougoku
麹町通りに面した豊岡藩・京極家の上屋敷(近江屋板)

ことの経緯を報告すると、平蔵がいった。
「よくやった、鈴木。ついでだからもう一と働きしてくれい。旬
日前に、豊岡侯の屋敷と目と鼻の先、麹町6丁目の呉服商
〔岩城屋〕へ入った賊が金品を盗んでいった。そこでだ、その
方が尾行した男が親分と仰いでいる者をつきとめてもらいた
いのだ」

Photo_11
『江戸買物独案内』(文政7年 1824刊)に掲載の
麹町・岩城屋の広告

18歳の京極高有は、若年寄・京極備前守高久(丹後峰山藩主。1万1千余石)の五男で、1年前の寛政3年(1792)春に養子に入ったばかりだった。

平蔵はその晩、木挽町(こびきちょう)の私邸へ備前守を訪ねて事情を説明し、豊岡侯の中間部屋を監視する許しをもとめた。

備前守高久は、小説では平蔵の理解者として描かれているが、伝聞ではこの火盗改メの長官(かしら)のやり方をあまりこころよくは思っていなかった。

さて、豊岡侯の中間たちを見張っていると、はたして、屋敷の南東角に置かれた辻番所へ詰めている勘太が、じつは相模生まれの泥棒の首領……〔鴫立沢(しぎたつさわ)〕の勘兵衛らしい。が、中間部屋とはいえ、火盗改メは大名屋敷へむやみに踏み込むわけにはいかない。一味が仕事に出かけるのを待って捕らえた。

そのやりようも、京極備前守は気に入らない。平蔵を城中の執務室へ呼びつけ、
「その者が盗人とわかったときに知らせてくれれば、お払い箱
にできたものを。それから捕らえても遅くはなかったのではな
いのか?」

帰邸後、鈴木同心に対したときの平蔵はすでに温顔をとり戻していた。
「こたびの気ばたらき、みごとであった。それにつけても馴染み
の店は大事にしておくものよな」
鈴木某が「この長官のためなら…」と思いさだめたことは間ちがいない。

つぶやき:
これは史実をもとに、若干の推察を加えたものであるが、小説とおもっていただいても一向にかまわない。ただし鈴木同心など、人物・店名はすべて実名。

【参考】相州・小いその鴫立沢(しぎたつさわ)を、
2008年1月30日[与詩(よし)を迎えに](36)に『東海道名所図会』の絵に彩色して掲示・説明しています。

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2006.05.19

部下の目

「たしかに長谷川平蔵は、胸がすくほどみごとな長官(おかしら)だが、欠点がひとつあります」

江東区森下文化センターの自主グループ[鬼平]熱愛倶楽部のメンバーが、中間管理職としての平蔵について語りあったときに、冒頭の前置きからはじめたのは、50年も会社経営にかかわってきているM氏。

「平蔵の唯一のマイナスはタバコ好き。いまならオフィス内は禁煙にしている事業所が多いから、清水門外の役宅もそうなっていて、平蔵としてもしょっちゅう役宅の門外へ出て喫煙せざるをえないでしょう」

鬼平のタバコ好きは池波さんのそれの反映だ。史実の平蔵が愛煙家だったかどうか不明。

ただ、町役人(ちょうやくにん)が犯人を連行してきたときには、控え室に茶とタバコ盆を備えて労をねぎらったというから、役宅内での喫煙は自由だったようだ。

小説では、亡父が京都町奉行時代に、新竹屋町寺町西入ルに工房のあった煙管師・後藤兵左衛門に、15両(池波流の換算率だと約300万円)で替え家紋の「釘貫(くぎぬき)」を胴に彫らせたのをつくらせ、のちに平蔵が愛用している。

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京都の店を集めた『商人買物独案内』(天保4年 1833刊)

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長谷川家の替紋「釘貫(くぎぬき)」

が、経済家の亡父がタバコのように不経済な嗜好品をたしなんだかどうか。

それはともかく欧米では、禁煙できないほど意思が弱い者は責任のある地位につけられないとまでいわれて、この30年ばかり、禁煙が中間管理職の条件のひとつになっている。日本もそうなリつつある。

「上司は部下の資質を理解するまでに3年かかるが、部下は3日で上司の実力を見ぬく、といわれるが…」ともM氏はいった。

実力には人脈や交渉力もふくまれようから3日はいいすぎとしても、人柄は意外に早く見破られるのではなかろうか。

「禁煙するぞ」と宣言しておいて決意が1週間ともたなかったときなども、そう。中間管理職の禁煙は、ひそかにはじめて、3か月もつづいてから告白にふみきるほうが身のためだ。

タバコの功徳についてうんぬんするのは自己弁護がましい。弱気の微笑とともに「害があるのはわかっているんだが…」といったほうが女性には好感をもたれる。

ところで、その席での若い女性のメンバーの発言……職場で部下にやさしいふりをしている上司にかぎってこちらの気持ちがわかっていない、仕事の面ではきびしくていいのだ、出張からの帰りに「はい、おみやげ」といって渡してくれてもその領収書が旅費精算のときにくっついていると「なんだ」と思ってしまう、自腹でのおみやげでなければ尊敬しないのだ、と。

朝日カルチャーセンターの[鬼平]クラスのK氏は某大商社を定年退職した人だが、「女性従業員は好意のもてる上司のためでなければ本気ではたらかない」と力説していた。

つぶやき:
池波さんは、長谷川平蔵にも藤枝梅安にも、京都の煙管師・後藤兵左衛門製の煙管を愛用させている(秋山小兵衛は、平左衛門の下で修行した江戸の煙管師につくらせる)。
池波さんが後藤兵左衛門に固執したのは、『商人買物独案内』に広告を掲載しているただ一人の京の煙管師だからである。あとの広告はすべて煙管問屋のものである。

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2006.05.18

長谷川平蔵の気ばたらき

この5月15日に引用した『よしの冊子(ぞうし)』が、長谷川平蔵のことを「利口者」「謀計者」ときめつけているのは、次の行為をいっているのであろう。

一. 先年、神田御門にあった田沼屋敷の近くで火事があったとき
  長谷川平蔵は御城へ断って登城せず、自宅からじかに田沼
  屋敷へ行き、風の方角がよくないから、御奥向きはお立ちの
  きになられたほうがよろしいと存じます、私がご案内いたしま
  しょう、と下屋敷まで案内したよし。
  自宅を出がけに本町の鈴木越後方で餅菓子をあつらえさせ、
  下屋敷へ到着する頃あいに届くように申しつけておき、早速
  右の菓子を差しだしたよし。
  自宅の者へも、もし火事が大火になった時には夜食をつくっ
  て田沼の下屋敷へ持参するようにいい残しておいたので、
  右の夜食も届き、つづいてふるまったそうな。
  じつに気くばりの行きとどいたことだと、田沼も感心したとの
  こと。
  他からは一件もまだ届いていないところへ、平蔵からの鈴木
  越後の餅、自宅からの夜食が届いたように、すべてかくのご
  とく奇妙に手や気がまわるご仁らしい。

「先年の火事」とは、天明4年(1784)1月23日の早暁、神田鍛冶町2丁目から出火した件を指しているらしい。風の具合で、神田御門内の田沼の官舎へも飛び火することもありうる。
長谷川平蔵は西丸の書院番士だった。40歳の分別ざかり。

この気くばりを田沼老中に認められたか、同年12月8日に西丸の徒頭(かちのかしら)に栄進した。
徒頭は1000石格なので、家禄400石の平蔵には600石足高(たしだか)がつき、実収150パーセント増の出世である。

鈴木越後店の餅菓子は江戸一番の銘柄なので、田沼の中屋敷へ届けさせた分を5両とみても、徒頭を射止めたとすればお釣りがくる---というのが世評であったろう。

世評はあたっていない。
長谷川家は、亡父・宣雄のときから、役付になる家柄となっている。
宣雄以前は、両番の家柄とはいっても、みんな平の書院番士で終わっていた。
それが、宣雄のときから、1000石格の小十人頭をふりだしに、1500石格の先手組頭、京都町奉行と、出世コースの道がついた。

平蔵宣以も、息子の辰蔵(家督ののちは平蔵宣義---のぶのり)も、番方(武官系)としては終着点ともいえる先手組頭にまで達している。

したがって、鈴木越後の餅菓子で徒頭を釣り上げたといういい方は、ためにする言辞である。

ついでだか、平蔵の政敵---森山源五郎孝盛のエッセイによると、組頭などの役に新任したら、先輩の同役たちを料亭へ招いてもてなし、帰るときに鈴木越後の1両の菓子折を持たさないと、あとで意地悪をされたと。
(1両はいまの金に換算して10万円というのが常識。池波さんは『鬼平犯科帳』の末期には20万円と換算)。
もっとも、田沼時代とわざわざ書いているところから類推、田沼誹謗のための作為がないでもない。

Suzuki
『江戸買物独案内』の鈴木越後店の広告

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2006.05.17

松平左金吾の大言壮語癖

冬場の火盗改メ・加役を志願した松平(久松)左金吾定寅に対する、宰相・松平(久松)定信派の隠密たちの追従の報告書はつづく。


一. 長谷川平蔵は追従上手だが、学問のほうはダメのよし。左金
  吾どのと対等にやりあえるほど弁が立つとは思えない。議論
  で左金吾どのに太刀打ちできるはずがない。
   殿中でいいあったという噂もあるが、なんのなんの、一ト口
   もいいかえせることではない。
   まあ、初日から頭巾と笠のことでいいあったようだが、あれ
   でいい納めだろう。
   なんとしてもかなうはずはない。長谷川平蔵が左金吾どのへ
  伺いを立てて勤めるという噂すらあるようだ。

隠密たちは、もっぱら、左金吾派のところへ行って取材している。そのほうが、定信の配下で隠密たちを束ねている水野為永が喜ぶからである。

水野為永は、先手組与力の息子で、定信より7歳年長だが、学問ができるというので、定信の勉学の友として伺候した。
そして、保守・家柄派、アンチ田沼の輿望をになって定信が老中首座に任じられたその日から、内閣調査室長の役をみずからに課したのである。隠密たちの報告書にすべて目を通した上で、定信へあげた。

一. 左金吾が殿中で話すことには、このごろ、天下に学者は一人
   もいない。武術者もこれまたいない。
  歌詠みも天下に一人もいない。歌を詠むなら武者小路実陰
  卿のように詠むのがよろしい。
  そのほかの歌は歌ではない。
  拙者の娘も先年歌を詠むことになったので、実陰卿のよう
  に詠まないのなら無用だといって辞めさせたことだ。
  これを聞いた者が、最初から実陰卿のように詠めるものでは
  ない、というと、最初から実陰卿のように詠めないでは役に
  立たない、といい放ったよし。
  かつまた、絵描も天下に一人もいない。いま栄川(泉)など
  が上手といわれているが、あれは絵ではない、墨をちょっと
  つけて山だといい帆と見せるような絵は、ほんとうの絵では
  ない。
  絵はものの形をしたためるものだから、舟の帆は帆らしく、
  山は山らしく見えるように描いたものがほんとうの絵である。
  法印でごさる、法眼でござると、名称だけは立派でも、
  ほんとうの絵が描ける者は天が下に一人もいない、といい
  放ったよし。
  その席に山本伊予守もいたが、言葉に困って一言も発言し
  なかったよし。伊予守は奥の御絵掛である。

山本伊予守(茂孫もちざね。38歳。1,000石)Iは、堀帯刀の後任で、先手弓の1番手の組頭(長谷川平蔵は弓の2番手の組頭)。

『鬼平犯科帳』では、京極備前守に命じられて、四谷・坂町の長谷川組の組屋敷の警護をしている。伊予守の組の組屋敷は牛込の山伏町である。そんなところから、わざわざ四谷・坂町まで出向かなくても、坂町のまわりには、先手の数組の組屋敷があった。備前侯は、それらの組に命じればよかったものを、この点では、ぬかった。

先手組頭たちの江戸城の詰め所---ツツジの間での、左金吾の大言壮語を許したのは、彼が宰相・定信と同じ久松松平の一族で、ことあるたびに、「定信どのに申し上げたいことがあったら拙者に申されよ。取り次いで進ぜる」といっていたからである。

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2006.05.16

松平左金吾の暴言と見栄

天明8年(1788)年10月2日に、火盗改メの本役になった長谷川平蔵宣以を追っかける形で、同月6日に、冬場の火盗改メ・助役(すけやく)の肩書きを得た松平左金吾帝寅が、さっそくに放言したことを、宰相・定信派の隠密が『よしの冊子(ぞうし)』に書きとめている。

一. これまで、放火犯または盗賊を吟味するために逮捕している
  のは、はなはだよろしくない。火附盗賊をしない前に逮捕して
  こそ加役の第一の心得といえる。
  将軍のお膝元に火附盗賊がいるなどということははなはだ悪
  いことだから、そのような者をいないように、その前から手をう
  っておくのが加役のご奉公というもの。
  まず、それについては江戸中の無宿がはなはだ悪者である、
  これを残らず召し捕り首を切ってしまえ、とまではいわないが、
  せめて(水替人夫として)佐渡送りにすべきだ。
  田沼以来、とりわけ無宿人がのさばり、丹後縞などを着てい
  る者までいるというではないか。

これは、もう、暴言というべきであろう。

まず、放火犯、盗人を、事前に逮捕するべきだ---といっているが、放火犯や盗賊が、その行為をする以前に、どうして「やる」と見極めるのだ?
そんな見極めができるのは、神さまだけであろう。

また、将軍のお膝元に、そういう犯罪者がいるのはおかしい---というが、仮に、江戸から放出できたとしても、そこはやはり日本国内である。来られた藩は迷惑千万。

左金吾の頭の中には、たぶん、宰相・定信の考え方---無宿人は犯罪予備軍---が染みついていたのであろう。
だから、無宿人を佐渡ヶ島へ鉱夫として送りこめ、という。
犯罪を犯していな者を、金鉱の穴掘り人にしてしまえ---とは、法治国家の上に立つ者のいうことではない。

当時、佐渡金山の水替人夫の死亡率は極端に高くて、送られて半年もしないうちにたいてい病衰弱死したという。
佐渡送りになったのは、掏摸の現行犯が主であった。そこで掏摸は、捕り方に元髪(もとどり)をつかまれても、すぽんと抜けて、逃げおうせるように、元髪をかつらにしていたと。

将軍のお膝もとへ、凶作と飢饉のために、田畑を捨てた農民が無宿人となって集まったのは、大都会なら、なんとか露命がしのげると考えるのが、古今東西の例だからである。

その無宿人対策として、のちに、平蔵が、授産施設である人足寄場を提案し、石川島にそれを建設してもいる。
左金吾の暴論をいいっぱなしとくらべると、月とすっぽんほどの違いといえよう。

丹後縞うんぬんにいたっては、もう、この仁の情報の収集と判断の仕方は、幕臣としては「処置なし」というほかない。
無宿人の痛みがまるでわかっていないし、自分の目で見たものでもないものを、判断の基にしているのだから。

その点、平蔵は、人足寄場を無宿人の更生施設として考えている。

一. 左金吾は麻の上下の小紋、衣類の小紋など、みなおも高(沢
  潟 おもだかの葉を図案化したもの)の小紋のよし。
  目立つほどの大きな小紋のよし。
  これは拙者の替紋だといっているよし。

下々の暮らしぶりには目をつむり、自分の虚栄のみをみたしているだけのことではないか。

注:陣幕、裃、高張提灯などにつける定紋(表紋)に対し、私物などにつける紋を替紋という。

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2006.05.15

高張提灯60張の絶大な効果

視線を、長谷川平蔵宣以と松平左金吾定寅が、それぞれ火盗改メに発令された1年目---すなわち、天明8年(1788)10月から寛政元年(1989)へ戻す。

老中首座・松平定信派の隠密たちの報告書である『よしの冊子(ぞうし)』の天明8年11月の項。

一. 長谷川は、山師、利口者、謀計者のよし。この春の加役(助
   役)中も、すわ、浅草あたりで出火といえば、筋違御門近辺
   にも自分の定紋入りの高張を2張、さらに馬上提灯を4,5
   張も持たせた人を差し出す。
  浅草御門あたりも同様にしておき、自分は火事場へ出張って
  いるが、3か所や4か所に長谷川の提灯が数多く掲げられて
  いるから、ここにも平蔵が来ている、あすこにも平蔵が出張っ
  ていたというように思って、町人どもはうまくだまされているら
  しい。
  もっともその提灯が高張りして掲げられているところには与
  力か同心が出張っているのだから、とうぜん御頭もいるよう
  に見える。
  だから町火消しなどもきちんと指図に従っている。
  出費をともなうことはまったく意に介さず、ほかの先手の組
  頭が提灯を30張こしらえるところを長谷川は50も60もこし
  らえているらしい。    
  はなはだ冴えすぎたことをする人ゆえ、まかり間違うと危な
  いと陰でいう者もいないでもない。

高張提灯の件は、いささか説明を要する。

先手組の同心に欠員ができると、無役の小普請組から補充される。
また、先手組が火盗改メの加役を拝命すると、数人から10名前後、臨時に同心が増員される。
増員された臨時の同心は、組屋敷には住まないで、自宅から役宅(長官宅)へ通勤する。

したがって、同心全員に長谷川家の家紋である〔左藤巴〕の定紋を描いた高張提灯が渡されている長谷川組の場合、いざ、火事ともなると、火元にもっとも近い臨時同心がその高張提灯をもって現場へとりあえず駆けつけるのである。

Photo_6
長谷川平蔵の定紋〔左藤巴〕

もちろん、目白台の長谷川組(先手弓の2番手)の組屋敷からも駆けつけるが、火元によっては時間がかかることもあろう。
そんなとき、近くの臨時同心がさっそくかけつけて群集の整理にあたれば、火事場の混乱がいささかなりとも沈静化し、町火消しなどの消火活動がやりやすくなる。
『よしの冊子』がいっているのは、このことである。

並みの火盗改メの長官は着任時に、自家の定紋入りの高張提灯を30張しかつくらないが、長谷川平蔵は、その倍もつくって全員に持たせているといっているのである。
もちろん、高張提灯の制作費は、長官の自費である。

平蔵は、火盗改メの高張提灯が、いち早く、火事現場へあらわれた場合の群集心理をちゃんと見こして、倍数、つくらせたのである。

その費用は、自弁---この、どこをもって、おかしいといい立てるのか。
非難している者のほうが、これまでの通念にとらわれすぎているのではないか。

まあ、徳川幕府の役人とすれば、前例を金科玉条と守っていたほうが安全には違いなかろうが。

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2006.05.14

松平左金吾のその後

寛保2年(1742)生まれの松平左金吾(当初は金次郎)は、延享3年(1746)に庶子として生まれた長谷川平蔵(当初は銕三郎)より4歳年長である。
したがって、先手弓の2番手の組頭へ横すべりしてきたのは54歳であった。歿した平蔵は50歳。

着任してきた左金吾は、気ぜわしく、与力・同心に、密偵たちとの縁を絶つように厳達し、密偵のリストを提出するように命じた。
絶てといわれた与力・同心たちは、当初は腹の中で笑っていた。火盗改メの職を免じられれば、密偵たちに密偵仕事をいいつけることはなくなるのだから、あとは単に知友として付き合っていけばいいとおもっていた。

しかし、リストを出せといわれると、ことは面倒になる。密偵たちが旧悪をあばかれて処刑されるかもしれない。
そこで、弓の2番手の与力・同心---『鬼平犯科帳』の佐嶋忠介、小柳安五郎たちは、ひそかに談合して、3,4人連名で1人の密偵の名をあげ、その密偵には、なるべく早く江戸を離れ、時をおいてふただび江戸へもどってくるようにいいふくめ、そうとうな路銀を渡して、対処した。

だから、ほとんどの密偵たちは、公けの場へ現れることなく、闇の世界へ消えた。
もちろん、左金吾グループも幕府の隠密を使って長谷川組の密偵を探したが、徒労に帰したみたいだ。

弓の2番手の与力・同心たちへの面従腹背の態度は、左金吾も気づいてはいたが、どうなるものでもない。何人かの与力や同心を買収しよう試みたが、うくまくいかない。

毎日うっとうしい気分でいたために、左金吾はもともと奇矯なふるまいの人であったのが、気欝が嵩じて、出仕もままならなくなった。

翌寛政8年8月27日の『続徳川実紀』は、
「先手弓の頭松平左金吾定寅病免して寄合となる。」
と記している。

97927
『続徳川実紀』寛政8年9月27日の項

先手の組頭は34人いる。2人や3人、長く病欠しても、泰平時にはどうってことはない。それなのに病気免職願を出したということは、すでに歿したか、再起不能の病状であったとおもえる。
事実、9月14日には公式に喪を発している(公式に喪を発したということは、寄合の辞席願も受理された後とみていい)。
享年55。

このあと、不思議なことが先手弓の2番手組におきた。

左金吾の後任の組頭は、家禄1500石の加藤玄蕃(げんば)則陳(のりのぶ)であった。着任時56歳。小十人頭からの栄転である。
寛政9年10月9日に、火盗改メ・冬場の助役(すけやく)として、玄番が発令されたのである。

長谷川平蔵の残影の強い弓の2番手には、二度と再び火盗改メをさせないというのが、松平左金吾の方針であった。しかるに、左金吾が歿して1年後に組が火盗改メに従事するとは---。

ぼくは、これをワナと観ずる。
というのは、ひそかに温存していた与力・同心たちと密偵たちとの糸を、それみたことかとあからさまにするワナだったのではないかと。
ワナは2度、しかけられた。

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2006.05.13

平蔵色の一掃とは---

長谷川平蔵がまだ死の床にある寛政7年(1795)5月8日、まるで、早く薨じてしまえといわんばかりの拙速で、平蔵が組頭だった先手弓の2番手の組頭へ横すべりしてきたのが、松平定信とは同族の松平左金吾であった。

左金吾は横すべりした、と書いたのは、7年前、1500石格の先手組頭の座に、2000石の家禄の左金吾が降格の形でついていたからである。彼がいたのは、先手鉄砲(つつ)の10番手の組頭。そこから、弓の2番手へ移った。格は、弓のほうが鉄砲組の上である。

左金吾が、いそいでやろうとした平蔵色の一掃とは、佐嶋忠介や酒井祐助、木村忠吾らと、五郎蔵、おまさ、粂八、彦十といった密偵たちとの接触を絶つことであった。
すなわち、長谷川組の実績に貢献の大きかった五郎蔵やおまさに代表される密偵たちをお払い箱にすることであった。

証拠はある。
松平定信や左金吾と通じていて、平蔵の政敵の一人でもあった森山源五郎孝盛のエッセイ『蛋(あま)の焼藻(たくも)』に、火盗改メとしての自分のやり方は王道、密偵を使って実績をあげた平蔵のやり方は覇道---と京極備前守高久が評したと記している。
つまり、平蔵は、幕府が禁じている密偵を駆使して実績をあげたにすぎない、違法の結果の功績である、と攻撃したわけ。

源五郎は、つねに平蔵をライパル視していて、左金吾が弓の2番手の組頭になった同じ日---5月8日 に、平蔵は二度と立ちあがれまいからと、火盗改メ代行の辞令を受けている。
そして、平蔵が息を引きとるや、予定していたように、たちまち、正式の火盗改メに任じられた。
もちろん、先手の組が違うから、佐嶋忠介や酒井祐助は、当然、任を解かれたのたである。

保守・家柄派による平蔵包囲網は、着々と設営されていった。

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2006.05.12

平蔵の後釜に座る

門閥尊重の保守派のシンボル・松平定信の意を帯した同族の松平左金吾定寅が、能力派の長谷川平蔵を徹底的に看視したなによりの証拠を示すために、一気に、平蔵の死へ飛ぶ(いじめぬいた6年間のことは、おいおい明かす予定)。

寛政7年(1795)4月、平蔵は病床についた。そして、5月10日に薨じたことは、菩提寺の戒行寺の霊位簿に記されている。

『続徳川実紀』が5月16日の項に、
「先手弓頭長谷川平蔵宣以病により捕盗の事ゆるされ。久々勤務により金三枚。時ふくニ賞賜あり」
と記しているのは、辞職願を受領されたのがこの日だからである。

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『続徳川実紀』寛政7年5月16日の項

嫡男・辰蔵が呈した「先祖書」は、5月14日に、
「大病に相い成り候につき、同役月番の彦坂九兵衛、岩本石見守をもって、御加役御免願いたてまつり候ところ、同月十六日召されにつき、右石見守登城つかまつり候ところ、願いのとおり御免、且つこれまでの出精相勤め候につき、御褒美として金三枚時服、御祐筆部屋縁頬にて、戸田采女正これを伝う。
同月十九日卒」
とある。

すなわち、10日の死を秘し、公式には辞職願の受領後に喪を発したための『続実記』の記述である。

まあ、そういうことは、公の手続きだから、どうでもいい。

憤慨に堪えないのは、平蔵の息がまだある5月8日、『柳営補任』が、先手弓の2番手の組頭に松平左金吾が発令されたと記していることである。
つまり、平蔵色の一掃を策したわけである。

平蔵が掌握していた先手弓の2番手は、先に記したように、平蔵着任前の50年間に144か月ももっとも長く火盗改メの任をこなした経験豊富な与力・同心たちがいる組で、平蔵の下で、さらに88か月も経験を重ねた、最強の部隊である。

ところが、この組の組頭へ転じてきた左金吾は、弓の2番手に、二度と火盗改メの任をもたらさなかった。私情優先、公益無視のとんでもない処置である。
こういうことを平気でやった松平定信一派を、なんと、呼べばいいのであろう。

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2006.05.11

陣笠か、頭巾か

長谷川平蔵と松平左金吾の最初の鞘当てを、『よしの冊子(ぞうし)』は、こう報告している。

一. 左金吾が加役を仰せつかった当日、殿中で長谷川平蔵がいう
には、
「火事場へ出張るときは陣笠。頭巾はだめ。そのようにお心得あれ」
と。
「それは公儀よりのきまりでござるか」
聞き返す左金吾。
「いや、そうではなく、本役加役の申し合わせでござる」
「それなら、拙者は頭巾をかぶります。公儀よりの掟として文書
になっているのでならば頭巾であれ陣笠であれかぶりましょう。
が、仲間うちの申し合わせということなら、自分の好きでよろしい
ではござらぬか。ことに拙者は馬が苦手なので、落馬しても頭巾
ならば怪我がくない」
これには平蔵も、
「ご勝手に」
というしかなかったよし。

左金吾が「加役を仰せつかった当日」といえば、天明8年(1788)10月6日であろう。
登城して拝命した形をいちおうはとり、ツツジの間へ下がってきて、平蔵のそばへより、
「拙者、加役を仰せつかまつった。ま、ともどもに励もう。ついては、聞き申すが、火事場への出張りには、陣笠か、それとも頭巾かな?」

これは、「ああいえば、こう答えよう、こういえば、ああ返事しよう」と、はなから仕掛けた質問である。
火盗改メのお頭の出張りは、問いただすまでもなく、陣笠にきまっている。火事場も戦場の一種だからである。

それを、先手の組頭たちが聞き耳をたてているところで、ことさらに聞いたのである。
言葉づかいも、先役に対するような控えめないい方ではなかった。

「馬が苦手」とは、いいもいったり---左金吾は、ひどい痔疾で、馬に乗れなかった。なにが、落馬のときにケガが軽くてすむ---だ。

(私事だが、きょう、これから、朝日カルチャーセンター(新宿・住友ビル7F)で、『御宿かわせみ』の第1回を講じなければならないので、この稿は、短くても、ご容赦いただきたい)。

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2006.05.10

唯我独尊ぶり

松平左金吾が、火事の多い冬場だけの火盗改メ・助役(すけやく)の席を強引にもぎとった天明8年(1788)年10月上旬の、隠密たちの報告書---。

一. これまで加役に就任した当座は、張り切って捕物をしたもの
  だが、ことしの加役はめったに捕物をしないので、かえって
  気味が悪いと悪党どもも用心しているよし。

隠密たちが悪党を取材するはずはない。
「悪党どもも用心している」との言葉は、左金吾側の強弁としか受け取れない。いうところのご用報告文。

だいたい、長谷川平蔵が着任した先手・弓の2番手は、平蔵がくる前の50年間(600カ月)に144カ月と火盗改メを経験、34組の先手組の中でもっとも経験豊富な組である。
対するに、左金吾が配された先手・鉄砲(つつ)の8番手は、同じく50年間に就いた火盗改メの経験はわずか9カ月。これでは、捜査方法もなにも、蓄積がないにひとしい。

にもかかわらず、左金吾は意気軒昂。

一. 左金吾は先手の同役約30人の組頭の前でいうことに、

  「拙者、このたび加役を仰せつかった。せんだっての加役の
  勤めぶりはよろしくなく、いろいろと了見違いもあったから、
  その方が改めるようにといいつかった」

「せんだっての加役」とは、天明7年9月から翌春まで、本役・堀 帯刀を助(す)けて火盗改メ・助役を務めた長谷川平蔵を暗に非難しているのである。
事情をしっている先手組頭の中には、横をむいてしまったのもいたろう。

一. 松平左金吾が先手を仰せつけられたとき、師匠番は松平庄右
  衛門(親遂ちかつぐ。天明6年から7年まで弓組頭。930石)
  のよし。
  庄右衛門が左金吾へ、

  「早々のお礼廻りとして、先手筆頭ならびに師匠番へはぜひ
  お廻りになるように」

  と教えたところ、

  「いや、拙者はそうはしない。あなたはいまは引退なさってい
  る。引退なさっている方のところはあとまわしでよい、
  現職の方々が優先だ、引退のお方はいちばん後にまわれば
  よい」

  といってのけたので、庄右衛門は、「それはそれは---」と絶
句して引きさがったよし。

庄右衛門は能見(のみ)松平の支流。祖は世良田二郎三郎信光の八男。こちらも、松平姓の中では名門である。

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2006.05.09

『よしの冊子』の左金吾

『よしの冊子(ぞうし)』は、松平定信家で、門外不出とされてきた、隠密たちの報告書である。

長谷川平蔵の火盗改メ時代に書かれたものだから、同時代の記録として珍重すべきだが、いかんせん、当初は、定信方の色眼鏡の色が濃すぎる。

天明8年10月末と推定できる報告書。
一. 左金吾の組の同心は30名いるのに、うち11名が病気と称
して出仕してこないので、こんなありさまでは、せっかくお
役についたのに、欠勤者が多くて他の組から人を借りてこな
ければならない。
  これはあまりに外聞が悪い。
  で、30人全員の家族状況を書きださせてたみたら、11名
  の者は家族数が多いから、出勤しないのは貧窮のためだ
   ろうと見てとって、11名に3両ずつ支度金を渡したよし。
  そうしたらたちまち11名が出勤してきたよし。
  手当をお出しになっても、よくもまあ、全員出勤の実をおあ
  げになったと評判上々のよし。

前に記したように、松平左金吾差定寅の屋敷は、麻布・桜田町である。
火盗改メの組頭は、自宅を役宅にあてる。

なお、左金吾が組頭に就任したのは、鉄砲(つつ)組き8番手である。与力5人(ふつうは、与力10人)、同心30人。
組屋敷は、四谷左門横町 (現:新宿区左門町)である。左金吾の邸宅まで、徒歩20分か。
(切絵図は、尾張屋板、近江屋板とも、「先手組屋敷」と一括しないで、ここと長谷川組の目白台のみ、個人割りにしている。理由は不明)。

同じころの報告書。
一. 松平左金吾が加役中は役料を40人扶持ずつ下されているが
日々五ツ(8時)前に出勤してきた与力同心へは、宅より弁
当を持参するにおよばず、と炊き出しをして食事をあてがわれ
  て いるよし。
  五ツ過ぎに出勤してきた者へは振る舞われないとか。お役
  についていらっしゃる間は物入りが多いのに、こんなお心
  遣いまされては、いよいよ大変。まあ、ご本家がいいから
  家計のほうは大丈夫とはいえるが。 ずつ下されているが
  を持参するにおよばず、と炊き出しをして食事をあてがわ
  れているよし。
  五ツ過ぎに出勤してきた者へは振る舞われないとか。お役
  についていらっしゃる間は物入りが多いのに、こんなお心遣
  いまでされては、いよいよ大変。
  まあ、ご本家がいいから家計のほうは大丈夫とはいえるが。

火盗改メの組頭の役手当の1日40人扶持---1人扶持は玄米5合。その40倍だから、2斗。1升100文とすると2000文---2分(1両は、平時は4000文。この頃は銭の価値が下がって6000文前後。
この役手当で、収監した犯人の飯代も、与力同心の宿直の茶代も、新しく雇った小者の給金も、仮牢の施設費もまかなう。
与力の火盗改メ手当ては、1日20人扶持)。

一. 左金吾はつねづね革柄の大小をさしておられるよし。加役
  (火盗改メ・助役)を仰せつけられて登城された日も革柄だ
   ったよし。

なんとも、子どもっぽい見栄っぱり。大人げない。

一. 松平左金吾は加役につくと、家来を江戸中の自身番へ差し向
  け、

  「加役中に左金吾の配下の者と名乗り、町家々々でもし飲食
  物をねだったり、金銭を無心した者がいたら、召し捕って連行
  してくるように」

  との触れを置き、五人組の印形をとって帰ったよし。江戸中へ
  これほどにするからには一大決心の上だろう、と噂しているよ
  し。
  先達てまでは本役加役の配下の者が自身番へ来たら、小菊の
  鼻紙、国府の煙草、中抜きの草履を差し出すのが常識だった。
  そのための費用が1町内で月に5、6貫(1両ちょっと)かかって
  いたよし。
  いまのようなご時世になり、こんなこともだんだんにやんできたの
  で、町内は大悦びのよし。

とはいえ、先手組の同心を、役宅まで連行するほど度胸のある町(ちょう)役人がいるだろうか。
あまりにも見えすいた触れのようにおもえるが。

ま、着任早々の気がまえとしては、けっこう、けっこうといっておく。
メッキはやがて、はげる。

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2006.05.08

脇ばなし、2つ

対長谷川平蔵とは無縁とおもえる脇ばなしを2つ、記す。

その1。
左金吾が脇腹の産まれであることはすでに記した。
実父---すなわち、当家の5代目・定蔵(さだもち)について書きとめておく。

この人は、4代目・定相(さだすけ)の実子ではない。養子である。しかも、不自然な形での養子である。
定相には、男子が2人いたが、最初の子は幼くして歿した。
2番目の子は、定蔵を迎えるためであろうか、養子に出された。
定蔵は、姫路・15万石、酒井雅輔楽頭(うたのかみ)忠恭(ただずみ)の家老・松平次郎左衛門定員(さだかず)の4男である。
輻輳をおそれずに記すと、定員は松平家の3代目---定相の父---のニ弟で、酒井家の家老に転出したご仁。
その子・定蔵は、定相には従弟あたる。

酒井家が謀略家であることは、池波さんの直木賞受賞作『錯乱』にも描かれている。
家老の4男を、ゆかりの濃い久松松平へ押しこむぐらいのことは、以上の経緯からすればなんでもなかったろう。
また、、定蔵が長門守と、当家で初めてなんとかの守を受爵したのも、酒井大老の配慮であろう。

おかしいのは、『徳川実紀』である。

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『徳川実紀』明和8年12月6日 左金吾が家督した日の記録。

定蔵は、明和8年(1771)9月26日に歿し、左金吾の家督相続は12月6日に「父死て家つぐ者15人」の一人として「松平長門守が子織部定寅」と、自慢げにつけた呼称「左金吾」を無視している。左金吾、30歳。
後世における、左金吾の人気の悪さを想像していい扱い方といえるかな。

その2。
家督すべき嫡男・定栄(さだなが)が28歳で病死し、脇腹に生まれた定寅(家督前は定虎)が家を継ぐべく、御目見したことは、この月6日に『実紀』を引いて既述した。
定栄の死は、宝暦2年8月20日で、妻はいない。つまり、未婚のまま薨じた。長いあいだの闘病だったと推察する。
同年の3月ごろには、余命いくばくもなしと、医師が告げたのかもしれない。
急遽、定寅の御目見の手続きがとられた。
じっさいの御目見は、5月23日であった。まだ息を引きとってはいなかった定栄は、殿中へ出かける定寅を、どういう気持ちで病床から見送ったろう。

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対抗意識むきだし

長谷川平蔵の政敵---松平左金吾が、老中首座・松平定信派の隠密の報告書『よしの冊子(ぞうし)』に顔をだすのは、天明8年(1788)10月6日に火盗改メ・助役(すけやく)を発令されて---というより、定信を説きふせて強引にその席を手に入れてすぐである。

一. 松平左金吾は加役を仰せつけられたのはいいことだと、人び
   とがいっているよし。左金吾殿は、去年の米屋打ち壊しの騒
   動のとき、鎗をもって市中を巡回された人だと噂されているよ
   し。

(注:ここでいう「加役」は、先手組頭が兼任する火盗改メ全般を指す場合と、火事の多い冬場に発令されるもう一人の火盗改メ---「助役(すけやく)」を指す場合がある。『鬼平犯科帳』では、この「助役」にまったく触れない)。

88106b
『徳川実紀』天明8年10月2日と6日の項

報告書をあげたのは、小人目付、徒(かち)目付といったきわめて身分の低い、したがって、どちらかというと器量の小さい、つまり、人物を小さくしか見ない者たちとおもってよかろう。

最初のうちは、政変によって為政者の座についた門閥派たちの気に入るように、アンチ田沼派を取材してまわる傾向がいちじるしかった。

平蔵と左金吾が火盗改メとなった10日後ごろの報告書。

一. 殿中にて長谷川平蔵、松平左金吾と御役筋について大いにい
  い争ったもよう。どちらもきかぬ気の人だから、負けずにいいあ
  ったらしい。
  どちらもきかぬ気の人だから、負けずにいいあったらしい。

殿中でのことを、いったい、だれが隠密に洩らしたか。
先手組頭が詰める部屋はツツジの間である。そこで、2人がやりあったのを見物した組頭のだれかが、おもしろがって隠密に話したのであろうか。

その組頭は、どちらかというと、やり手の平蔵をやっかんでいた者であろう。ひそかに、左金吾へ声援をおくっていたものと推察する。


一. 加役を申しつけられたその日から犯人逮捕に働くのがこれま
  では普通だったが、左金吾は急には諸事の打ち合わせも終
  わらない、4、5日過ぎてから捕らえはじめよう、無理に捕ら
  えることもないのだ、といっているよし。これまでの加役とは
  流儀が異なっている。
  長谷川は一体に毒のある人のよし。左金吾は毒のないと噂
  されている。

これの発信源も、前掲と同様、アンチ平蔵グループの組頭である。

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2006.05.07

奇矯の仁・左金吾定寅

めったなことでは、ぼくは、歴史上の人物にニックネームをつけない。
それほど、史実に通じてはいないから。

ところが、松平左金吾定寅ドノには、躊躇することなく、〔寛政のドンキホーテ〕なる綽名をたてまつったのである。
それは、次のエピソードを読んだからだ。

天明6年(1786)5月19日から江戸の町に発生した打ちこわし騒動については、長谷川平蔵の項ですでに2回触れた。
https://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=11384062&blog_id=75545
https://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=11366989&blog_id=75545

この年、左金吾46歳。住まいは江戸西北のはずれの麻布桜田町。
この仁、都心で米商を弾劾する暴徒が発生したと知るや、鑓の鞘をはらって自邸の門内を昼夜巡邏したばかりか、近隣の幕臣の屋敷のある街路をも巡視したというのである。

暴徒が襲っているのは、売り惜しみをしている米商や、貧乏人がふだんから不満を抱いている質屋や冨商である。どんな暴徒が大身幕臣や大名屋敷を襲うというのか。
情報不足によるおもいこみの所作を、江戸のドンキホーテに見立てた。46歳の一張前の武士がすることとはとてもおもえなかった。

しかも左金吾どのは、その節のふる舞いを後年、テレもせずに、他人へ吹聴しているのである。だからエピソードが記録となって残った。

こういうトンチンカンな思考に対し、為政の立場にある人たちは、家柄は家柄として、敬して遠ざける策をとった。
一度だけ、火事場見廻りという軽い役をふったが、これも1年半でそうそうにお役ご免とし、あとは無役のまま放っておいた。

ところが、養子とはいえ一族の松平定信が老中首座に就いたから、「わがとき至れり」とばかりに運動開始。
すなわち、「田沼派といえる長谷川平蔵を火盗改メ・本役に据えるのであれば、拙が相役となって、きやつめを看視しよう」と、定信に申し出た。

家柄派の定信一統とすれば、田沼色一掃は役方(やくかた 行政担当)にかぎり、仕置きにかかわりの薄い番方(ばんかた 武官系)は無視することにしていたのだ。

ちょっとやそっとで、他人の言を聞く仁ではないから、定信一統としても、「まあ、仕置き(政治)に深く関係する職務ではなし、好きにやらせておこう」と、異例の発令をした。
すなわち、火盗改メは先手組頭から選ばれるのがしきたりだから、左金吾を火盗改メ・助役(すけやく)に発令するには、まず、先手組頭に据えないといけない。

困ったことに、先手組頭は1500石格、左金吾の家は事情ありの2000石。下手をすると降格視されかねない。

そのことを左金吾へ質すと、「やむをえぬ。お仕置きを正すためには、あえて身を沈めよう」
どこまでも、芝居がかりだ。

つぶやき:
まあ、8000坪の屋敷を擁しているから、火盗改メに任じられても、仮牢や白洲を設けるには困るまい。

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2006.05.06

松平左金吾定寅の家系

永禄3年(1560)、家康(19歳)は、2歳のときに生別した実母で織田方の久松俊勝に再嫁していた於大と、尾張国智多郡阿古居の城で再会した。

異父弟の三郎四郎( 9歳)、源三郎( 9歳)、三郎四郎( 1歳)を紹介され、「自分は兄弟に恵まれなかった。今後はおん身たちを弟として遇する」と約した。

この年の5月、今川義元が桶狭間で信長に討たれ、家康は信長と同盟を結ぶ。

3弟のうちで、もっとも家康の信任を得たのが三郎四郎、のちに伏見城代となった松平定勝で、次男・定行がその領国の桑名藩(11万石)を継いだのち、伊予松山(15万石)へ封じられた。

定行の弟・定継はのちに桑名藩に入り、7代定賢のときに越後・高田から陸奥・白河藩へ移った。
この白河藩のときに、三卿の一、田安家から養子となったのが定信である。この策謀に荷担したのが田沼意次と、定信は終生、意次を敵視することになった。
たしかに、養子に入っていなければ、家斉に代って定信が将軍になる目もなかったとはいえない。

定勝の四男・定実(さだざね)は、伊勢・長嶋(7000石)の命がきたとき、多病のため任に堪えられずと謝辞、2000石の寄合席となった。左金吾定寅はその6代目で、寛保2年(1742)の生まれだから、長谷川平蔵より4歳年長である。

母は杉本氏とあるから、とうぜん正腹ではない。
正室が産んだ嫡男・定栄(さだなが)が宝暦2年(1752)に28歳で歿したために、急遽のお目見となった。24歳であった。

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『徳川実紀』巻10 明和2年5月12日


それまでの冷や飯時代の修養のほどは不明だが、その後のいささか奇矯ともいえないこともない言動から推察するに、正しい過程の習得を軽視してすごしたのではなかろうかと危惧する。

46歳のとき、白河藩主の定信が30歳で老中首座となるや、名門・久松松平の一員であることに目覚めたかのように、にわかに政治づいた。

つぶやき:
左金吾定寅の墓は、品川の東海寺の墓域に、久松松平の一員らしく、広い霊地を擁している。
2代目定之から以来の菩提所である。
しかし、近年、墓参が途絶えているのか、寒々としているようにおもった。

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久松松平左金吾家の霊域

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左金吾の墓石

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2006.05.05

たかが十手---の割り切り

テレビの『鬼平犯科帳』は、中村吉右衛門丈を得たことにより、女性視聴者をも引きつける魅力的な番組となった。原作の上質さとともに、知的時代劇の評はとうぜん。

とはいえ、その視聴率は平均して15パーセント前後。関東エリアの視聴率1パーセントは50万人とも100万人相当ともいわれるから、知的ぶってばかりはいられない。

その一つが、与力同心たちが終盤近くに十手を振りかざしての乱闘、血闘の捕物劇。もちろん平蔵の剣さばきもあざやかな殺陣(たて)も見せ場だが。

黄門番組の「これが目に入らぬか!」の葵の紋入り印籠のデモりと似た爽快感を期待してのテレビ、といってしまえばそれまでだが、困ったことに史実の長谷川平蔵は配下の与力同心たちへ、「十手は腰のものと同じとこころえ、みだりに抜くことのないように」と申しわたしていた。

「これから先、十手で人を殺(あや)めたなどと耳にしたら、それなりの処分を申しつける」
とも。

で、長谷川組はよくよく手にあまったときでなければ十手を抜かなくなった。

火盗改メの拷問の激しさには定評があるが、平蔵はこれもしないと宣言した。
「拷問などしなくても、おれが訊けばすらすらと白状するよ」

これも盗人世界への伝播をねらった広言と見る。じっさい、どうせ捕まるなら拷問のない長谷川組に---と、自首同然の形で縛についた者も少なくないのだ。

護送中に縄抜けして逃げた盗人がいた。1か月以内に再逮捕できなかったら、当事者の同心は責任をとらなければというところへ、くだんの盗人が自首してきて、
「いや、もう、この20日間、きょう見つかるか、あす捕らえられかと生きた心地がしませんでした。自首してホッとしています。これが縄抜けしたときのお縄です」
と捕縄をさしだした。

十手の話では、平蔵の監視役の形で火盗改メ・助役(すけやく)をしていた松平左金吾(2000石)の組下与力が十手を盗まれた。左金吾は大いに怒り、「お上へ届けなければ…」と先任の平蔵へ相談。、平蔵は高笑して、

「バカも休みやすみにおっしゃられい。気をつけていても十手以上のもを盗まれることだってある。深傷(ふかで)を負わされたというなら届けずばなるまいが、たかが十手一本ごとき、そう四角四面に考えずとも…」

これを伝え聞いた左金吾組の与力は、できることなら長谷川組へ配転してほしいと思った。もっとも、男を下げた左金吾は一層、平蔵を憎んだが。

つぶやき:
長谷川平蔵の直接の政敵が、この松平左金吾である。松平は松平でも、家康を産んだ於大の方を母に持つ、いわゆる異父兄弟にあたる久松松平だから、格が高い。
平蔵が火盗改メのお頭の頃の老中首座・定信もこの久松松平の白河藩主。で、左金吾とは従兄弟同士。だから、平蔵が火盗改メに任命されると、左金吾はただちに火盗改メ・助役となって平蔵を看視。

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近江屋板 松平左金吾邸

松平左金吾は、先祖がゆえあって2000石の幕臣の道を選んだが、屋敷は麻布・桜田に8000坪と、小大名並みの敷地。現在はその一部が中国大使館と麻布消防署となっている。

切絵図は上が西。左金吾邸から右へ100メートル行くと六本木ヒルズ・ビル。

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2006.05.04

マニュアルづくり

■大川の隠居
■瓶割り小僧
■盗法秘伝
■山吹屋お勝
■本門寺暮雪

作者・池波正太郎さん自身による「鬼平ベスト5」だ。
『オール読物・平成元年7月臨時増刊号・鬼平犯科帳の世界』に載った(のち、ほとんどの記事を同題の文春文庫が収録)。

「瓶割り小僧」をのぞき、ぼくのベスト5も右のとおり。まあ、こういうベスト選定は好きずきだから…。「瓶割り…」にかえてぼくが入れているのは「あきれた奴」。

盗法秘伝は、テレビでひとりづとめの伊砂(いすが)の善八に扮した故フランキー堺さんの飄逸な演技が特筆ものだった。

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左下・小窓の第16話が[盗法秘伝]

よく、まあ、おぼえているなって? 『鬼平犯科帳』のビデオテープを購入、くりかえし観ているのだ。
幸いなことに中村吉右衛門丈=鬼平のビデオ化は第8期だかまですすんでいて、 120話前後が観賞できる。購入するなりビデオショップで借りてご覧になっては。

池波自選ベスト5に「盗法秘伝」が入ったわけは容易に想像できる。

一、つとめ(盗み)するときは、まず、月の出入りの時刻を、よくよく知りわきまえおくべきこと。夜のつとめには月のひかり大敵なり。
一、家やしきへ忍び入るには、やしき内の人のねむりふかければ、もっともよし。で、中春の末あたりと冷気が帰ってくる中秋がいい。夏は暑さのために寝つきにくいから、真の盗人は夏ばたらきはしない…など。

少年時代から白浪(しらなみ)ものが好きだった池波さんのこと、自身が泥棒になったつもりで、盗みの極意マニュアルを考案している。

もっとも小説で公開されている「盗法秘伝」は右のくだりだけ。未公開の後半部はどこにあるのだ…と真顔で質問した文化センター[鬼平]クラスの受講生がいたのには泡をくった。

盗賊を白浪と呼ぶのは、漢末のむかし、陝西省・白波谷(はくばこく)にたてこもって略奪をはたらいた者たちを白波の賊と名づけたから。

さて、善八にすっかり見込まれ、盗みのマニュアルを譲られそうになった鬼平は、盗賊逮捕マニュアルもつくるべきだと思ったかどうか。小説はそこのところまでは書いていない。

長谷川平蔵の政敵で後任者となった森山源五郎は「前任の火盗改メ(長谷川組)が、引きつぎの事件簿を一通ものこしていないのは怠慢きわまる」といいたてて、筆が立つことを利して書類づくりにはげんだ。

平蔵にしてみれば、盗みのやり方は盗人の数だけあり、それぞれ異なっているのだから、探索マニュアルなどさほど役には立つまい、と断じていたフシがある。

マニュアルをつくるボスになるか、身をもって範を示すことで教えるリーダーになるか、あなた次第だが、森山マニュアルが実戦の役に立ったという記録はない。

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2006.05.03

3両の情報操作費

長谷川平蔵が火盗改メのお頭として卓越していたのは、犯罪社会の裏面に通じていたことが第一であろう。

とはいっても、『鬼平犯科帳』に書かれているように、若いときに継子いじめにあってグレ、暗黒街に足をふみいれた体験が益していた---などというつもりはない。

じつをいうと『鬼平犯科帳』のいう、19歳前後の鬼平グレ説には異論ももっている。

銕(てつ)三郎を名のっていた平蔵が19歳のとき、本家の当主・長谷川太郎兵衛正直(55歳)は火盗改メをつとめていた。甥が博打場へ出入りしているのを、役目がら見逃がすだろうか。

ぼくの推測はこうだ。
本家の伯父の助手として情報をとるために、遊里へよく潜行していたと。遊びたいさかりの齢ごろ、銕三郎は二つ返事で引きうけた。

当時の記録に、若いときの平蔵は「大どら」だったとある。「どら」は「どら息子」の「どら」で放蕩のこと。ふつうは女遊びか道楽ぐるいをいう。

平蔵が犯罪社会に通じていたというのは、彼らの情報網を逆に利用していたふしがあるからだ。

関東東北を荒らしまわっていた神道(しんとう)小僧(新稲、進藤、真刀とも書く)と称した巨盗がいた。手下は6~700人とも。長谷川組がこの巨盗を追いつめた。

神道が行く先ざきの町や村へ平蔵の手の者がひそかに出張ってきているとのうわさを前科者を通じてまきちらしたのだ。

さすがの神道も逃げまわるのが精いっぱい。尾羽打ち枯らして大宮宿(現・埼玉県さいたま市大宮区)の村はずれのお堂にひそんでいるところを長谷川組が御用!

永い逃亡生活の果てのぼろぼろの着物をまとっている彼に、平蔵は、
「神道小僧ともうたわれたほどのお前が、そんななりで牢へ入ったのでは格好がつくまいなあ」

 自腹を切った3両(『犯科帳』末期の換算は1両=20万円)で石川五右衛門が着るような派手々々金ピカの衣服を買いあたえ、犯罪者特有の虚栄心をくすぐった。

(明日にも斬首になる者に無駄な出費をなさる)
与力・同心たちは心の中で思ったが、平蔵の目論見は違う。

(このことは、ツバメが飛ぶほどの早さで獄中獄外の盗賊仲間へ広まっていくにちがいない。そうなると、捕まるなら長谷川組にと考えて自首してくる奴も出てこよう。それで節約できる捜査費用は3両の比ではあるまい)

事実このあと、逃げおうせまいとあきらめて平蔵のところへ自首してくる盗賊が多くなった。

したたかな盗賊を責める火盗改メの拷問には定評がある。悲鳴を牢外まで流して見せしめにしたほどだ。が、平蔵は、
「おれは拷問などしない。そんなことをしなくてもおれにはすらすらと白状する」

これも盗賊社会に伝わることを狙っての広言だ。聞いた罪人は、拷問されないなら長谷川組に捕まろうと思うようになる。

つぶやき:
神道(しんとう)小僧は、剣が達者だったので、真刀小僧とも呼ばれた。
常陸(ひたちの)国茨城郡(いばらきこおり)金井村に生まれ、近くの石井村(茨城県笠間市)の明神社の神職に剣術を習ったとされている。

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2006.05.02

出前蕎麦の驚くほどの効果

火盗改メの本役に就任した長谷川平蔵が、町方へ触れをまわした。天明8年(1787)暮れのこと。

町で泥棒を捕らえたら、夜中でもかまわない、本所・菊川(墨田区)の長谷川邸まで連行してくること。自身番屋に留置すると不寝番の手当てやら犯人の食事など、町内の出費もバカになるまい。そんな経費は減らすほうがよい……倹約主義者の老中主座:松平越中守定信が聞いたら膝を打ちそうな内容だ。

このころの役人は、町方にたかることをもっぱらとしていたところへ、町方のフトコロを思いやった長谷川組のこの触れに町方は、おどろくやら喜ぶやら。

さて、じっさいに夜中に容疑者を連れて行くと、ただちに宿直の同心がでてきて応対したばかりか、蕎麦屋へ使いを走らせ、
「遠路ご苦労であったな。さぞかし腹もすいたことであろう。ま、蕎麦でもたぐって帰ってくれ」

老中側の隠密がこの経緯を書きとめた『よしの册子(ぞうし)』に感想を加えている。
「同じ夜食をふるまうにしても、冷や飯の茶漬けでは人は喜ばない。出前蕎麦をわざに取ってくれるからご馳走になった気にもなり、恐縮しつつもありがたがっているよし」

タイミングを読み、人の気をのみこむことにかけては平蔵はずば抜けていた。
蕎麦をご馳走になった連中が噂をひろめたから、町方での平蔵の人気の上がりようはブツシュ大統領の支持率の比ではなかった。

昼間の連行は町方としてのとうぜんの仕事だから、「ご苦労」の言葉だけで蕎麦はふるまわない。また、町方が泥棒を捕らえる機会もそんなには多くない。

たかが16文(500円前後)のふるまい蕎麦、それもほんの一度か二度の実績に尾ひれがついて噂が江戸中をかけめぐった。
安あがり情報頒布のこんなネタものこっている。

平蔵があやしいとにらんだ男を湯島あたりで召し捕った。浪人姿での市中微行中だったために引きたてて帰るわけにもいかず、近くの番屋へ「あとで本所・菊川の屋敷へ連れてくるように」と預け、「なに、連行途中に逃げられてもとがめはしない。すぐに再逮捕できる」とつけ加えた。

(すぐに再逮捕)は、まあ、平蔵の見栄だが、捕らえた男にしたことがユニーク。
「手ぬぐいを持っているか?」
と訊き、自身番の者に自腹の金をわたして手ぬぐいを買いに行かせ、
「日中に手ぬぐいもかぶらないでおれのところへ引かれてくるのは切なかろう。これで顔をかくしてこい」

いまの警察も容疑者を護送車へ乗り込ませるときに、彼や彼女の顔がテレビカメラに撮られないように、頭からすっぽり上着などをかぶせる。この場合は容疑者はまだ犯人ときまったわけではないから、人権を配慮してのことだ。

平蔵のは、犯人の気持ちにまで思いをおよぼした慈悲心から出た行為。
規則一点ばりで処理することがもっぱらの役人には稀有のやり方だけに、このエピソードは後世にまで伝わった。

つぶやき:
上のエピソードの出典は、松平定信の陣営が放った隠密の報告書をまとめた『よしの冊子(ぞうし)による。
『よしの冊子』の現代語訳は、
http://homepage1.nifty.com/shimizumon/yoshino_zoushi/index.html

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2006.05.01

高貴薬・瓊玉膏の下賜

火盗改メの任に足かけ8年近くも就いていた長谷川平蔵は、寛政7年(1795)4月に倒れた。

5月に入って病状がますます重くなっていることを聞いた将軍・家斉は6日、大陸渡来の高貴薬瓊玉膏(けいぎょくこう)を見舞いとして下賜することにした。

側衆の加納遠江守久周(ひさのり。伊勢・八田藩主。1万石)が長谷川邸へつかわされたように、これまで書いてきた。瀧川政次郎博士『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(中公文庫)に「遠江守を平蔵の屋敷に遣わし…」とあったのが頭へこびりついていたためといってはいいわけじみる。

平蔵の息・辰蔵が幕府へ呈出した「先祖書」を読みなおしていたら、なんと、

「上意にて、お薬・瓊玉膏を頂戴するよう仰せつけられるむね遠江守のお宅で、ご同人からわたくしへお達しがあり、瓊玉膏を頂戴つかまつり候」

とあるではないか。
遠江守が長谷川家を訪ねてきて病床の平蔵を見舞ったのではなく、遠江守の屋敷へ辰蔵が呼びつけられたのだ。

よく考えると、なるほど、内閣官房長官代理がヒラ課長を病院へ見舞うわけがないのと同様、1万石の大名が400石の幕臣ごときの家を訪問するはずがない。

こちらが大の平蔵びいきなものだから、遠江守のような大身までが病床の平蔵をねぎらったように錯覚してしまっていたのだ。

辰蔵を呼びつけた遠江守が「老中格の本多弾正少弼(しょうひつ。奥州・泉藩主。1万5000石)どののほかご用取次のお2人のところへ礼に行くように…」と指図しているところがいかにも日本的なこころづかいだ。

手ぶらで行くのではあるまい。
このとき辰蔵は27歳、御目見(おめみえ)はすんでいたが出仕はまだしていなかった。

翌7日に、平蔵の同役の先手弓の頭で月番の彦坂九兵衛(42歳。3000石)に連れられてご老君(58歳の本弾? 家斉は23歳)へお礼に参上している。

その甲斐あってか、あるいは幕府上層部が実績の高い平蔵を冷たくあしらってきたことをうしろめたく感じたか、8日には辰蔵を書院番士に任命した。

家督していない者が番方(武官)に召し出されると家禄とはべつに廩米300俵をくだされるから、長谷川家としては家計が助かる。

もっとも平蔵はきょうかあすかの重体、辰蔵の家督相続はそれほど先のことではないから、幕府の腹はほとんど痛まない。

つぶやき:
多くの平蔵研究書が、加納遠江守が長谷川家を見舞ったように受けとってきたのは、幕臣の家譜を集めた『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』の記述が、「平蔵病いにかかるのよしきこしめされ、ねんごろに御諚ありて、うちうちより瓊玉膏をたまい…」とあいまいなせい。この『寛政譜』は辰蔵が呈した「先祖書」を基にしているのだが。

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