伊兵衛・長谷川家の六代目・修理(しゅり)あらため権十郎宣尹(のぶただ)が、34歳での死にのぞみ、実妹の波津(はつ)を養女にし、同居していた従弟・宣雄(30歳)をその婿にして家禄を継がせたことは、すでに記した。
修理から権十郎への改名は、病状の回復を願ってのことであったろう。
修理の前は生まれたときから権太郎であった。
厄介者の身分の平蔵宣雄は、このときすでに同居している女性とのあいだに子をつくっていた。3歳になる銕三郎(てつさぶろう)である。
銕三郎を産んだ女性も赤坂・築地の長谷川家に住まい、宣雄と夫婦同様の生活をしていた---というより、病床がちのために未婚の宣尹に代わり、長谷川家の家政をとりしきっていた。
享保2年(1717)の江戸図(赤坂氷川社のあたり)
赤○伊兵衛・長谷川家は、開府から寛延元年(1748)に鉄砲洲・築地へ移転するまで、赤坂・築地へ拝領屋敷を賜っていた。
このことから推察するに、六代目・宣尹の妹・波津は、ふつうの躰ではなかったろう。ずっと寝たっきりの病人であったとしか思えない。つまり、養女になることも宣雄を婿にむかえることも、家禄を守るための形式の上でのことだったろう。
このあたりの事情を、なぜ、池波さんは斟酌しなかったか。
それには、『鬼平犯科帳』連載時の事情から推察してみる必要がある。
花田紀凱さんに[特大カツとハイボール]と題したエッセイがある。
朝日新聞社、1076年刊『池波正太郎作品集』の付録月報に載ったものである。
『オール讀物』編集部に配属されて2年目の花田さんは池波担当となり、1967年の秋、荏原(えばら 品川区)の池波邸へ依頼してあった原稿を受け取りに行った。
できあがっていた短篇は[浅草・御厩河岸]であった(いまは、鬼平シリーズの文庫巻1、第4話として収まっているこの篇は、じつはその年---1967年12月号の『オール讀物』に掲載する単発ものとして依頼されていたもの)。
1967年というこの年、池波さんは、大衆文芸の世界では巨誌ともいえる『オール讀物』へ4篇寄せている。
花田さんの言によると、当時の発行部数は40万部!であったと。
うち、新年号の[正月四日の客]と、12月号の[浅草・御厩河岸]が白浪(盗賊)もので、後者には長谷川平蔵がちらっと顔をあらわす(ついでながら、[正月四日の客]も鬼平シリーズでテレビ化され、吉右衛門さんはもとより、山田五十鈴さん、河原崎長十郎さん好演している)。
原稿[浅草・御厩河岸]を読み終わった花田さんへ、池波さんは、
「そこへ登場させておいた長谷川平蔵だけど---おもしろい男でね、人足寄場なんかを作ってね」
と、長谷川平蔵という火盗改メを8年もやった幕臣について、いつものくせで、極めて手みじかく説明した。
長谷川平蔵についても、火盗改メという職についてもまったく知らなかった花田さんは、ただ聞き役に徹し、帰社するや、杉村友一編集長へ、池波さんの長谷川平蔵論を復命した。
とたんに、杉村編集長は、長谷川平蔵ものの連載を決断、その旨を池波さんへ伝えた。
想像するに、
「半年後の、7月号あたりから、連載をはじめられませんか」
といった条件が示されたとおもう。
連載小説は、大新聞なら1年前、主要雑誌なら半年間の準備期間を用意するのがこの世界の常識である。
ところが、杉村編集長の申し出をきいた池波さんは、12月号の原稿をわたしたばかりなのに、
「新年号からで、どうですか。こちらはそれで書きましょう」
と答えた。
池波さん、よほど、長谷川平蔵ものが書きたかったとしか思えない。
いや、花田さんに平蔵の話を持ち出したのも、いってみればコナをかけたのである。
というのは、[浅草・御厩河岸]の前に、池波さんは、長谷川平蔵が顔見せする2編の短篇を世に問うている。しかし、どの編集部からも、平蔵シリーズの依頼がこなかった。
池波さん、しびれをきらして、花田さんにコナをかけた。
[浅草・御厩河岸]の前に書かれた平蔵ものは、
のちに加筆されて[妖盗・葵小僧]のタイトルで鬼平シリーズの1篇となった、[江戸怪盗紀](『週刊新潮』)。
この年、『オール讀物』への寄稿は、2篇。
つづいて[看板](じつは、この篇の『別冊小説新潮』掲載時のオリジナル・タイトルは[白浪看板]。〔夜兎〕の角右衛門が密偵となった契機を描いたストーリー)。
そして、3篇目の[浅草・御厩河岸]で連載依頼へこぎつけた。
連載シリーズ・タイトルが〔鬼平犯科帳〕という秀逸なものとなった経緯は、後日あかす。
『オール讀物』連載第1話は[唖の十蔵]で、同心・小野十蔵を主人公としたストーリーのものだった。
物語自体は鮮烈でも、杉村編集長にとっては意外だった。それで、花田さんに言ったとおもう。
「おすすめの長谷川平蔵は、どうなっているんだ。これは、脇の人物の物語ではないか。頼んだのは、長谷川平蔵が主人公の物語のはずだ。そういって、つぎは配慮してもらえ」
当時の池波さんは、中堅作家ではあったが、『鬼平犯科帳』でブレイクした大家にはまだほど遠かった。
で、杉村編集長の要望を容れて書いた第2話が[本所・桜屋敷]。
ただ、急いで平蔵やその周辺を造形したために、いろいろと泥なわの面もでてきた。
波津の没年もその一つ。
見たように、『寛政重修諸家譜』は、女子の没年は記さない。
ただ、伊兵衛・長谷川家の菩提寺は記載されているから、戒行寺で確かめることはできたはず。
つぶやき:
波津という女性の存在は、『長谷川平蔵 基メモA』をつくりはじめた30歳代前半には決めていた。
〔波津〕が、田沼意次の知行地・相良(静岡県中南部)一地区の地名からとっているらしいことは、SBS学苑パルシェ(静岡)の[鬼平]クラスの八木忠由氏が指摘している。
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