出前蕎麦の驚くほどの効果
火盗改メの本役に就任した長谷川平蔵が、町方へ触れをまわした。天明8年(1787)暮れのこと。
町で泥棒を捕らえたら、夜中でもかまわない、本所・菊川(墨田区)の長谷川邸まで連行してくること。自身番屋に留置すると不寝番の手当てやら犯人の食事など、町内の出費もバカになるまい。そんな経費は減らすほうがよい……倹約主義者の老中主座:松平越中守定信が聞いたら膝を打ちそうな内容だ。
このころの役人は、町方にたかることをもっぱらとしていたところへ、町方のフトコロを思いやった長谷川組のこの触れに町方は、おどろくやら喜ぶやら。
さて、じっさいに夜中に容疑者を連れて行くと、ただちに宿直の同心がでてきて応対したばかりか、蕎麦屋へ使いを走らせ、
「遠路ご苦労であったな。さぞかし腹もすいたことであろう。ま、蕎麦でもたぐって帰ってくれ」
老中側の隠密がこの経緯を書きとめた『よしの册子(ぞうし)』に感想を加えている。
「同じ夜食をふるまうにしても、冷や飯の茶漬けでは人は喜ばない。出前蕎麦をわざに取ってくれるからご馳走になった気にもなり、恐縮しつつもありがたがっているよし」
タイミングを読み、人の気をのみこむことにかけては平蔵はずば抜けていた。
蕎麦をご馳走になった連中が噂をひろめたから、町方での平蔵の人気の上がりようはブツシュ大統領の支持率の比ではなかった。
昼間の連行は町方としてのとうぜんの仕事だから、「ご苦労」の言葉だけで蕎麦はふるまわない。また、町方が泥棒を捕らえる機会もそんなには多くない。
たかが16文(500円前後)のふるまい蕎麦、それもほんの一度か二度の実績に尾ひれがついて噂が江戸中をかけめぐった。
安あがり情報頒布のこんなネタものこっている。
平蔵があやしいとにらんだ男を湯島あたりで召し捕った。浪人姿での市中微行中だったために引きたてて帰るわけにもいかず、近くの番屋へ「あとで本所・菊川の屋敷へ連れてくるように」と預け、「なに、連行途中に逃げられてもとがめはしない。すぐに再逮捕できる」とつけ加えた。
(すぐに再逮捕)は、まあ、平蔵の見栄だが、捕らえた男にしたことがユニーク。
「手ぬぐいを持っているか?」
と訊き、自身番の者に自腹の金をわたして手ぬぐいを買いに行かせ、
「日中に手ぬぐいもかぶらないでおれのところへ引かれてくるのは切なかろう。これで顔をかくしてこい」
いまの警察も容疑者を護送車へ乗り込ませるときに、彼や彼女の顔がテレビカメラに撮られないように、頭からすっぽり上着などをかぶせる。この場合は容疑者はまだ犯人ときまったわけではないから、人権を配慮してのことだ。
平蔵のは、犯人の気持ちにまで思いをおよぼした慈悲心から出た行為。
規則一点ばりで処理することがもっぱらの役人には稀有のやり方だけに、このエピソードは後世にまで伝わった。
つぶやき:
上のエピソードの出典は、松平定信の陣営が放った隠密の報告書をまとめた『よしの冊子(ぞうし)による。
『よしの冊子』の現代語訳は、
http://homepage1.nifty.com/shimizumon/yoshino_zoushi/index.html
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コメント
「よしの冊子」の読み方は難しいですね。
平蔵への中傷とも思えるのもあれば、今回のように平蔵のやり方を誉めていると受け取っていいのか、それとも実はこういうことをする人気取りのうまい男だから要注意だといってるのか。
投稿: 靖酔 | 2006.05.03 10:06