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2006年4月の記事

2006.04.30

男の脱皮どき

舞台には道化役(コメディ・リリーフ)が必要だ。いや、道化役といってはいいすぎか。
舞台を明るくする人物といいかえよう。
戯曲作家から出発した池波さんは、とうぜんそのことをわきまえていた。

木村忠吾は登場時期だけが問題だった。
第九話[谷中・いろは茶屋]が忠吾のために用意された。

 忠吾は祖父の代からの御先手同心で、御頭の長谷川平蔵が盗
 賊改方に就任してからは、彼も当然、御頭をたすけて刑事に
 はたらくようになったわけだが、
 「とても、あやつはつかいものにならん」
  と、上司たちにきめつけられている。

この初登場のときが寛政3年(1791)、24歳。鬼平の火盗改メ就任以前の6年前に父親が病死、18歳の彼が跡目をついだ。

母親あさも物故している。
縁者といえば、旗本・金森与左衛門の用人をつとめている叔父の中山茂兵衛ぐらい。この仁[5―4 おしゃべり源八]、[16―1 影法師]に顔を見せる。もちろん、同心・吉田藤七の4女・おたかとの婚儀の席では、忠吾の父親代わりをつとめたはず。

芝・神明前の菓子舗で売っている〔うさぎ饅頭〕にそっくりなので「兎忠」とよばれてもいる。
(兎饅頭の項を参照)

池波さんは現代青年ふうの忠吾を可愛がっていて、[谷中・いろは茶屋]以後の153話中107七話に登場させた(67パーセント)。

各文化センター[鬼平]クラスの受講者に忠吾お気に入りの理由を書いてもらったキーワードは、すでに紹介ずみ。

この忠吾がしっかりした判断をしめしたのは、長編[15 雲竜剣 急変の日]で、仕事の相方に最年長の同心・吉田藤七を選んだときである。
鬼平に、
「おや---?」
と、おもわせた。
男いっぴき、いつもでもコメディ・リリーフではいられない。
池波さんは、男のみがきどきをいいたかったのであろう。

つぶやき:
木村忠吾が、先輩の吉田藤七を仕事の相方に選んだのは、長篇[雲竜剣]で、東海道・南江(なんご)の松林の中の報謝宿を見張ったとき。

Nanko_1
岸井良衛『五街道細見』(青蛙房)

南江は、前掲の[おしゃべり源八]にも出てくるが、このときは岸井良衛『五街道細見』(青蛙房)の記述にしたがって(なんこ)とルビしているのに、[雲竜剣]ではなぜ(なんご)とにごらせた? と疑問を呈しているのは、鬼平熱愛倶楽部でともに学んでいる。相州藤沢宿の秋山太兵衛さん。

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2006.04.29

水谷(みずのや)家

祖:
陸奥国猿田の御所、故ありて同国岩城(いわき)の水谷(みずのや)にうつり住す。
このとき、下総国結城(ゆうき)の城主嗣なきにより、猿田が子孫を養ふ。
この故に結城にいたり五、六年を経、その後結城実子を設けるにより、館を結城の内に建、猿田をして居住せしめ、長沼十二郷、伊佐三十三郷を与ふ。
これにより、旧号を改めずして水谷と称し、三代居住す。
のち結城と水谷と一代相替りて称号とす。
その案にいわく、結城朝光は秀郷の後胤なり。
家伝にいわゆる猿田、その姓氏を詳にせず。しかりといへども、結城氏が養子となるといふにより、秀郷流に載す。
             以上、『寛政重修諸家譜』より。
のち。
正村・勝俊の兄弟が家康に通じ、その子の勝隆のとき、備中国松山城と5万石を賜る。

所領公収:
正村から4代後の勝美(かつよし)が31歳で若死したとき、他家へ養子していた勝時による後継の手当が遅れ、5万石は公収された。
しかし祖先の勲功を配慮、備中国川上郡に3000石を賜る。
その子・勝英のときに500石加増。

伊勢守勝久:
じつは京都・祇園の別当宝寿院行快の子。行快は、宿老・酒井忠勝(越前国小浜藩。12万3500石)孫・忠隆が弟・忠稠(ただしげ)に分与した毬山藩(1万石)の4男。

享保8年(1723)生。
寛延元年(1748)御目見。26歳。
宝暦2年(1752)養父の死去にともない家督。30歳。
〃 3年(1753)中奥の小姓。31歳。
〃 7年(1757)従5位下出羽守に叙任。35歳。
明和5年(1768)小姓番頭。46歳。
〃 8年(1771)西丸書院番頭。49歳。
安永3年(1774)長谷川平蔵宣以、入組。52歳。
天明7年(1787)2月10日辞職。65歳。
〃       8月3日致仕。

家紋:
三頭左巴

菩提寺:
高輪・泉岳寺

つぶやき:
写真などは無断で公開しないとの約束で、泉岳寺の墓所を見分したが、卒塔婆もなく、ここ4,5年墓参の気配を感じなかった。
ご子孫は、東横沿線で工場を経営されていたらしいが、ご当主の逝去とともにそれも閉鎖されたらしいとは、寺側の説明。

松山城を受領におもむいた大石内蔵助良雄の墓石と、墓域はことなるが同じ寺域にある、運命の不思議を感じた。

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2006.04.28

水谷伊勢守が後ろ楯?

知人に、組織の長として人の扱い方を学びたいなら『鬼平犯科帳』を読め、とすすめている大メーカーの人事部の長がいる。

たしかに池波正太郎さんが描いた小説『鬼平犯科帳』の中の鬼平……長谷川平蔵の人あしらいはみごとだ。人情の機微を心得、心のひだをくすぐる。まさに人間通。教えられるところが多い。

が、史実の長谷川平蔵はいまの中央官庁――幕府の中堅武官だけに、部下の扱いや上司、同僚やライヴァルとの関係は生々しい。中間管理職としての平蔵の生き方は、ある面では小説以上に教訓を得られる。

父の死によって家禄400石の家を継いだ平蔵は、29歳で西丸書院番士として出仕する。書院番は、番方(武官)の出世街道のスタート台である。
それだけにライヴァルも多い。

書院番は12組。一つの組の番士は50人。ここだけでもライヴァル600人。

だが、平蔵のスタートには幸運がついてまわった。

番頭の水谷(みずのや)伊勢守勝久が、平蔵の父・宣雄の出生に関係のある備中(岡山県)松山藩主・水谷家の後裔だったので、平蔵へ特別に目をかけてくれた。

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水谷(みずのや)家は、かつてこの備中・松山城(岡山県高梁市)の城主(5万石)であり、平蔵の父・宣雄を産んだのは、松山藩で馬廻役(100石)をしていた藩士の娘だった。

出世コースの第2ステップの進物係へ推薦してくれたのも伊勢守だ。

周囲に明るい雰囲気をもたらす平蔵の性格も幸いした。
ふつうは10年近くつとめる徒頭(かちのかしら)を1年半で終え、41歳で先手の組頭(くみがしら)へ抜擢。この早すぎる出世には同僚のねたみも買った。

役職には実収がともなっているからだ。
徒頭は1000石高格、先手組頭は1500石格。家禄が400石の平蔵が先手組頭となると、長谷川家には差額の足高(たしだか)1100石の増収がもたらされる。

34組ある先手組の、過去50年間(600か月)に火盗改メを経験した月数を試算してみた。ダントツは平蔵が着任した弓組二番手の144か月、つづくのは鉄砲組11番手の109か月、弓組五番手の92か月。あとはぐっとさがる。
50年間で区切ったのは、その期間なら実務経験が与力や同心に伝承されていると推測したため。

じじつこの組は平蔵の1年半前まで、火盗改メとして著名だった横田源太郎松房(1000石)の下にあったし、横田の前もこれも名長官といわれた贄越前守正寿(300石。のち100石加増)が5年半ものあいだ腕をふるっていた。

浅間山の噴火、長雨による洪水、凶作など「なにごとも天命」と天明の年号をもじった江戸庶民のふてくされが社会不安へ発展しそうなおそれは十分に予見できた。

幕府もそれを察して、火盗改メとしてもっともよく訓練されている最強チームの弓・二番手の組頭へ、期待の平蔵をすえたのだ。

組織を活性化するのに、弱いチームに強いリーダーを配して鍛える方法もあるが、天明のような非常時にはそんな悠長なことはしていられない。

平蔵は、経験十分の与力や同心たちに要望した。
「今日よりは町方から心づけをうけてはならない。町々の協力がえられるように振るまってほしい」

つぶやき:
備中・松山藩が世継ぎの不手際で取りつぶされたとき、城受け取りに行ったのが赤穂藩の重役・大石良雄だった。
水谷家は、関ヶ原などで大坂方の情報を家康へ送った功績もあり、5万石は召し上げられたが、藩主は3000石で幕臣となっていた。

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2006.04.27

天明飢饉の暴徒鎮圧を拝命

『続徳川実紀』の天明7年(1787)年5月23日の項を、いま風の文章に整理して引用してみよう。

先手弓頭(10組中)
 長谷川平蔵宣以(のぶため)  400石 42歳
 松平庄右衛門穏光(やすみつ) 730石 60歳

先手筒組頭(20組中)
 安部平吉信富(のぶとみ)    1000石 59歳
 柴田三右衛門勝彭(かつよし)   500石 65歳
 河野勝左衛門通哲(みちやす)  600石 64歳
 奥村忠太郎正明(まさあきら)  600石 56歳
 安藤又兵衛正長(まさなが)    330俵 60歳
 小野治郎右衛門忠喜(ただよし)  800石 55歳
 武藤庄兵衛安徴(やすあきら)   510石 47歳
 鈴木弾正少弼政賀(まさよし)  300石 48歳

の10組に、
「今日からただちに市中を巡行し、市井を騒擾させている無頼の徒を見つけたら召しとらえて町奉行の廳へ渡すべし。手にあまるときは斬りすててもよろしい」

すなわち、4日前の19日の夜からはじまった暴徒による米穀商舗のうちこわし鎮圧出動命令である。

7年前の安永9年(1780)からはじまった米の不作はずっとつづいていた。加えて、天明元年(1781)の関東諸州の洪水。
翌2年7月14日夜には地震。同3年秋には噴火した浅間山が関東一円に火山灰をふらせて作物を枯らせ、田畑を荒れさせた。
その上にこの年は東北地方は五穀の収穫量が極端におちた。

4年には全国的に飢饉(*ききん)で、疫病もひろがり、5年には夏から秋に雨がなく、米麦ともに大きな損害をうけた。

6年正月には湯島天神裏の牡丹長屋から出た火が、神田一円から日本橋の北東、つまり江戸の目抜きの商店街の半分を焼く大火となった。さらに7月には水害。この水害のことが[本所・桜屋敷]にさりげなく取り入れられていることはご存じのとおり。

 横川河岸・入江町の鐘楼の前が、むかしの長谷川邸で、あたり
 の情景は、数年前の水害で水びたしになったと聞いたが少しも
 変っていない。

天明7年の春には6合100文だった米価が、5合100文になり、4合となって、4,5月にはついに3合、と倍にはねあがっていた。
それにつれて麦、大豆、小豆、粟、稗)の類の値段も高騰したばかりか、利にさとい商人たちの売りおしみがはじまった。
消費都市・江戸の庶民の生活はもう我慢の限界にきていた。

先任の北町奉行・曲淵甲斐守影漸(かげゆき)が町役人たちに、「そちたちの願いを聞き入れて舂米(つきまい)商人たちを詮索してみたが、米を秘匿してはいなかった。商人なんだから手持ちの米があれば売るはずである。こうなったら、食えるものはなんでも口にして、秋まで我慢するほかはない。かつての飢饉には猫1匹が銀3匁していたが、今年はいまだそういう話を聞かないから、まだ大丈夫なんだろう」

冗談のつもりだったとしても為政者の言葉としては不謹慎にすぎる。奉行のこの言葉は江戸の庶民の怒りに火をつけた。

暴徒は、米穀商の襲撃からはじめて質屋や酒屋、ふだんから儲けすぎているとのねたみをふりまいていた商店へと、うちこわしの対象を広げた。

ほとんどの商店は大戸をおろして成りゆきを見まもっているばかり。江戸の町はいちどにさびれ、通りにいるのは下ごころのある連中ばかりだった。

そこへ先手組の出動、62歳の曲淵甲斐守の更迭、まだ24歳だった郡代・伊奈半左衛門を米穀運送の惣奉行へ抜擢することによって暴動は沈静化にむかう経緯はべつの物語である。

注目したいのは『続実紀』の先手組頭の記述順序である。

10人のそれぞれに家禄、天明7年の年齢を加えたが、平蔵宣以が10組の代表のような形で筆頭におかれたのは、なぜか?

年齢順、家録順でないことは明らかだ。

いろいろ試行錯誤の末に、先手組頭への発令順とわかった。ただし、弓組は筒組よりも格が上なので先へ書かれて当然である。

長谷川平蔵は天明6(1786)年7月26日から先手頭、松平庄右衛門は平蔵より18歳年長だが先手組頭への着任は天明6年ながら11月15日で、平蔵のほうが先任。

つぶやき:つまり、着席順をきめるときなど、同役なら先任順にしておけば間違いないということであろう。

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2006.04.26

長谷川平蔵の裏読み

「その必要はない。太刀などを抜いては、かえって暴徒を興奮させることになる」
鎮圧に出動する組下たちの刀剣を改めましょうか、といってきた与力を、長谷川平蔵はとめた。

天明7年(1787)5月のこと。この月の12日に大坂ではじまった米商の打ちこわし騒動が、全国にひろがる勢いをみせ、20日には江戸へ飛び火、3日間というもの昼夜をわかたず荒れまくった。

ふつうなら100文で1升買えた米が3倍値上がりし、3合しか買えなくなった上に、米商が売りおしんだのだ。

はじめは町々の米商方の戸を破って押し入り、米を道路へぶちけていたが、やがて富家も暴徒の対象となった。
火盗改メを勤めていた堀 帯刀の組(先手・弓の1番手)の手にあまる、暴虐無人の暴れ方であった。

たまらず幕府は、先手34組の中の長谷川組(弓の2番手)を先頭に10組へ鎮圧動員を発令。

その中の1組…鉄砲(つつ)7番手の安部平吉信富(1000石。58歳)組の与力・松山某(60歳)は、「手向えば斬り捨ててよろしい」との幕府からの付言を重くみ、組下の腰の大小を点検、錆びている刀身やなまくらは取りかえさせた。

つたえきいた出動各組も、松山与力のこころくばりを見習った。長谷川組の与力もそうするべく平蔵へうかがったところ、冒頭のような返事がかえってきたのだ。

平蔵はにやりと笑みをうかべて、こうつけ加えた。
「安部どのの組の、松山とか申す与力だがな、戦場へでも出陣する気なのだろうよ。バカな。橋下に巣くっている無宿人や裏長屋の食いつめ者たちが強訴半分、気ばらし半分でやっていること。われらが姿を見かければクモの子が散るように逃げるだけだ」

それよりも…と声をひそめて、
「暴徒を陰で扇動、進退を指令している若衆髷(まげ)の男と、そやつを護衛している坊主頭がいるそうな。わが組のねらいはこの2人のみ。捕らえたら、思いもかけない裏があきらかになるはず。ほかの無宿人たちは蹴散らすだけで十分」

ところが事前に各組の分担を決めておいたものだから 暴徒たちの激戦区である日本橋、京橋、芝地区は担当にはならず、察知したかのように、若衆髷と坊主頭は、平蔵の前には姿を見せなかった。

この米屋打ちこわしは、田沼意次政権を引き潮に乗せたように凋落させ、松平定信の出番を早めた。

松平内閣が成った1年後、平蔵に連れられた京橋・竹河岸の料亭で、くだんの与力がおそるおそる、
「昨夏の騒動のときの若衆髷と坊主頭を長官(おかしら)は、白河さま(定信)の手の者とお読みになっていたのでございましょうな?」

「これ。めったなことを申すでないわ---。
ただな、密偵たちの報告から、あの者たちの指図ぶりを推察してみたが、とても暴徒のものとは思えなんだ。
足軽大将のやる指揮だった」

つぶやき:
反田沼派の陰に一橋侯(治済。はるさだ)がいたことはよく知られている史実である。

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2006.04.25

長谷川平蔵家の出自

『鬼平犯科帳』各篇のほとんどは、江戸とその近郊を舞台にしているから、話の経緯を入念にたどると、期せずして江戸案内にもなる。

板橋宿(板橋区)不動通り商店街(旧中山道)のバッグ店「シモカワ」の店主・榎田さんも、そんな読み方をしているひとり。

榎田店主によると、文庫巻8収録の[流星]で、板橋宿へ入った鬼平が、平尾町と仲宿の境にある道を左へとり、川越街道へ向ったのは、「シモカワ」と一軒おいた「肉の上原」のあいだ…いまは「島田屋」が建っているところがかつては道だった…と。

Photo
中仙道・板橋仲宿から川越への枝道
(幕府道中奉行製作『中山道分間延絵図』部分)

地元の人が丹念に考証した末の結論だから、われわれとしてはすなおに受けとるべきだろう。

ついでだから紹介しておくと[流星]は、佳品[大川の隠居]で鬼平と親しくなった船宿〔加賀屋〕の船頭・友五郎とっつぁんが災難にあう物語で、鬼平も上方から派遣されてきた刺客に精神的に苦しめられもする。

さて、榎田さん流の読み方をすると、こちらも板橋宿が舞台になっている文庫13所載[-本眉]に登場する、相生杉と女男松で知られた名刹・乗蓮寺は、白山通りの拡張にひっかかって同区・赤塚5丁目へ引っ越したが、仲宿商店街の銘茶店「林園」と家電製品店「ミヨシヤ」のあいだの横町がかつての参道だ。

その先に、盗賊〔倉淵〕の佐喜蔵一味の盗人宿があった。

板橋宿でとく興味をひくのは、真言宗の2寺…不動通りの観明寺と仲宿の文珠院が奈良県桜井市初瀬(はせ)の長谷寺(はせでら)の流れであること。

Photo_2
長谷寺・五重塔(絵葉書より)

長谷寺がこんなところへまで進出していたということからの推察だが、長谷川平蔵の先祖も初瀬を出て焼津市の小川(こがわ)に定着している。布教みたいなことで長谷寺に関係していた家ではなかったろうか。

これ、じつは発想トレーニングの手順の説明のつもりでやっている。
ビジネスの場であれば、長期、中期、短期ごとの目標をいくつも立てる(いまの場合は長谷川平蔵を調べる)。

目標に関連する情報が磁石に吸いよせられた砂鉄のように集まってくる(観明寺と文珠院の案内銘板の記述の初瀬の文字に目がいく。文珠院は音羽・護国寺の流れでもあるらしい)。

さらに情報を集める(桜井市の長谷寺から資料を送ってもらったり、護国寺とコンタクトをとる)。
集まった情報をしばらく暖めておく(無意識の領域でただよわせる)

ひらめいたものを現実にてらしあわせて検証する(長谷寺関係説を焼津市の郷土史家へ伝えてみる)。

このような順序で、仮説の是非があきらかになるわけだが、今日の段階では最後の詰めをまだやっていない。

つぶやき:
静岡県焼津市小川(こがわ)には、法栄(ほうえい)長者(没後、法永)と呼ばれた長谷川家の祖として記録にのこっている人が建立した林叟院と、今川から徳川へ寄属して三方ケ原の合戦で戦死した長谷川紀伊守(きのかみ)正長の墓のある信光寺があるが、どちらも曹洞宗。

林叟院については、SBS学苑パルシェ[鬼平]クラスの中林正隆さんの探索記が、
http://homepage1.nifty.com/shimizumon/dig/index.html
にある。

長谷川平蔵家の菩提寺の戒行寺(新宿区須賀町9)は日蓮宗。

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2006.04.24

平蔵のすばやい裁決

長年の疑問が解消するのではないか…そんな期待をもたせてくれたのが、[鬼平]熱愛倶楽部の新貝氏が探してきてくれた『千葉県史料近世編・伊能忠敬書状』だった。

伊能とは、日本を測量してまわり地図をつくったご仁。
いや、地図の小むずかしい話ではない。長谷川平蔵組の屋敷についての疑問だ。

江戸の幕臣の屋敷割りを描いている尾張屋板切絵図はたいてい、「先手組の組屋敷」と地面を一括しているのに、『音羽・雑司が谷図』にかぎって、目白台の該当区域(文京区目白台2、3丁目)を与力・同心名儀の各戸標記にしているのだ。

ここにあった3組の先手弓の組屋敷のうち、どれが長谷川組のものか。組下の与力の氏名でもわかれば特定できそうだと考えていた。
『鬼平犯科帳』の佐嶋忠介や木村忠吾はすべて池波さん創作の与力・同心だから論外。

実在者の1人は、老中首座・松平定信方の隠密の報告書『よしの冊子』に吉岡左市とあるが、家が絶えたか、平蔵の時代から半世紀ほどあとの尾張屋板には載っていない。

そこで『伊能忠敬書状』となる。寛政5年(1793)8月11日付で、佐原市(千葉県)の忠敬が家業の米屋の江戸店をまかされていた娘婿・盛右衛門へあてたもの。

「昨9日、長谷川平蔵さま組の杉浦庄八さま、中山弥左衛門さま、高橋源右衛門さまが村方へお出張りになり…」質入れ盗品の吟味があった。盗賊に頼まれて質入れした男の行方がしれないので、母親と五人組に江戸へ出頭して事情聴取をうけろと申しわたされた。いずれも律義者ゆえ、内々に長谷川さまへお願いしてなるべく早く一件落着にしてもらえ、というのがそれ。

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目白台の先手組組屋敷。右上に中山家(尾張屋板 部分)

単なる証人調べだが、縁をたよっての内々の依頼はむかしから行われていたのだ。

平蔵との関係だが、長谷川家の400石の知行地のうち180石余が片貝(千葉県九十九里町)にあり、盛右衛門の伯父がそこの村役人だった。

このエピソードを紹介した数年前の朝日新聞は、杉浦、中山、高橋の3人とも同心としていたが、史料はそうは記していない。身分は不明。

くだんの切絵図をあたってみた。中山姓の家は、東大病院分院前を南へ2、3軒入ったところにあった。ただし中山は中山でも、弥左衛門でなく文次郎。書簡も切絵図も諱(いみな)でないので確証はないが、長谷川組の与力の屋敷はとりあえず目白台図書館の前としてよさそうだ。

さて、伊能家の懇望をうけた平蔵が吟味を早めたかどうかも記録にないが、長びく公事(くじ)で庶民の生活(たつき)にさしさわりがでることを嫌っていた平蔵のこと、懇望されなくても早めに決着をつけたはず。

平蔵には点が辛めの『よしの冊子』も、「長谷川さまだと公事が早くすむので助かる」と喜んでいる町人たちを報告せざるをえなかった。

つぶやき:
長谷川平蔵と同時代に書かれた人物月旦『よしの冊子(ぞうし)』の、現代語訳は、
http://homepage1.nifty.com/shimizumon/yoshino_zoushi/index.html

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2006.04.23

平蔵、無用の軋轢は避ける

「なるほど、当節、火盗改メに任命されたほどのご仁だけのことある。長谷川平蔵どのは、さすがに念がいっている」

ほめあげたのは、ご三家のひとつ、水戸藩(35万石)の用人・岡崎藤左衛門。

寛政2年(1790)の初秋というから、平蔵が人足寄場の運営に追われていた時期だ。水戸侯・中納言治保(はるもり)が供ぞろえをして上野の寛永寺へ参詣。

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寛永寺(部分 『江戸名所図会』) 塗り絵師:西尾 忠久

侯が大僧都(そうず)のもてなしに応じているあいだ、手もちぶさたの合羽持ちの中間たちが僧坊の陰で博奕をはじめたのを、警備見廻り中の火盗改メ・長谷川組同心が召しとった。

ちょうど石川島の人足寄場から寛永寺へまわってきて報告をうけた平蔵は、すぐさま岡崎用人へ面会を願った。
「ご三家のお身内の者には手をくださないという規則になってはおりますが、博奕の現行犯として将軍家のご霊廟をお汚ししていたことでもあり、やむなく逮捕せざるをえませなんだ。されど、あの者どもは町の口入れ屋から本日お雇い入れになられた臨時の者のよしにうけたまわったので、行列からお外しになり、口入れ屋へお引きわたし願いたく…」

平蔵の理をつくした丁重な口上を、岡崎用人は了解しつつも(これが幕臣のあいだで出しゃばりすぎると評判の長谷川平蔵という男か。押しつけがましところは露ほどもないではないか)と、ちょっと意外な感じをもった。

火盗改メとして、あるいは無宿人対策の責任者として、万事に視線が江戸城内よりも町の方へ向いている平蔵のことだから、町方での人気はともかく、幕臣への受けはとかく悪かった。いまなら経営雑誌にやり手と書き立てられ、売り込みがきついと社内で陰口をたたかれている中間管理職といったところだ。

幕臣間での風評は平蔵とても十分にころえていた。だから翌日、裃着用で水道橋北詰(文京区の後楽園遊園地)の水戸家上屋敷へ出向き、ふたたび岡崎用人へ、

「昨日は組の同心がご行列の人数のうちをお許しもえないで召し捕ったこと、はなはだ恐縮いたしており申す。もし中納言さまからご沙汰があった節は、なにとぞよしなにお計らいくださるよう、お頼みしておきます」
と述べた。

平蔵ほどに自信たっぷりの武士でも、無用なトラブルはできるだけ避けるようにしていた。それでも早すぎた出世をねたんだ仲間うちの雑言はやまなかった。ねたみごころには手の打ちようがない。

つぶやき:
平蔵のこの行為は、自社の者が他社の社員の不都合につい口を出してしまったとき、自分のほうの正当性をいいたてたりしないで、電話で相手をたてておき、後刻、菓子折のひとつも持って自らあいさつに行ったようなものだ。菓子折の3000円の出費はけっして無駄にはならない。それが縁となって望外の人間関係も生まれることだってありえるからだ。

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2006.04.21

史実の長谷川平蔵 小説の鬼平

歴史読本臨時増刊(平成18年)6月号〔歴史を歩く 池波正太郎の江戸を歩く〕 』へ、[史実の長谷川平蔵、小説の鬼平]と題して寄稿した文章。

0606_1

史実の長谷川平蔵と小説の鬼平の違いについてだが、これには3通りの観点がある。
1.池波さんが史実を承知の上で、作劇上、創作した事項。
2.池波さんが史実を誤認した事項。
3.『鬼平犯科帳』によって長谷川平蔵が注目され、明らかにされた事項。

1は、火盗改メの清水門外の役宅。お頭(火盗改メを命じられた先手組の組頭)の屋敷が、役宅として使われるのが通例で、そこに白洲や仮牢が設けられたことは、池波さんも承知していた。
が、鬼平の屋敷を目白台としたため、市中から遠すぎて不便というので、『鬼平犯科帳』では切絵図の清水門外に「幕府御用地」とある所に役宅を置いた。

2.池波さんが鬼平の屋敷を目白台としたのは、毎年刊行された武鑑から、約20年ごとに抜粋した『大武鑑』の寛政3年(1791)の先手組頭の長谷川平蔵の項に付記されている「△目白だい」の△は組屋敷の略号であるのに、拝領屋敷と理解したことによる。
じつは、『鬼平犯科帳』の連載1年半前に発表された[白浪看板](のち「看板」と改題されて文庫収録)では、屋敷すなわち役宅を本所三ッ目としており、目白台でなかったことは承知したていたふしもある。

その後、「△目白だい」を鬼平の屋敷とおもいこんだのは、父・備中守宣雄が京都西町奉行への赴任で、それまでの三ッ目の屋敷を返納、その後帰府したときに新たな屋敷をもらったと思慮したことによる。

これにより、三ッ目の前屋敷を切絵図で捜していて、入江町の鐘撞堂の前に「長谷川」とあるのを見つけ、鬼平の青少年期の住居とした。そこは家禄はおなじ400石でも伊勢国出身の長谷川荒次郎貞幹の屋敷であった。

3.平蔵が19歳から住み、50歳で歿した菊川(都営地下鉄菊川駅の真上)の屋敷は、平蔵の孫の代に売られ、池波さん愛用していた切絵図には、桜花の刺青の遠山金四郎の下屋敷として記されていたのを、池波さんは連載時には気づいていかなかったようだ。

2に関連することでいうと、鬼平の前任者の堀帯刀秀隆の解任時期についても、『徳川実紀』の誤解があるが、ここでは言及しないでおく。

史実の長谷川平蔵ということだが、『鬼平犯科帳』とのかかわりでいうと、ごくごく少ないし、小説との違いをあれこれいいたてるほどのこともない。

ぼくが注目しているのは、『徳川実紀』の次の条々である。
・天明7年(1787)9月19日、先手筒(注・弓の誤記)頭長谷川平蔵宣以捕盗の事命ぜらる。(平蔵はこのとき42歳で、火付盗賊改メの冬場の[助役]を命じられた。[本役]は引きつづき堀帯刀秀隆) *注:堀帯刀の項を参照

・天明8年(1787)4月28日、先手弓頭長谷川平蔵宣以(のぶため)火賊捕盗の事ゆるさる(春になったので[助役]を解かれた)。
(同年9月28日の項に、「先手弓頭堀帯刀秀隆は持筒頭」とあり、堀が火盗改メを解かれたことを示しているが、池波さんはこれを無視)。

・天明8年10月2日、先手頭長谷川平蔵宣以盗賊捕獲命ぜらる(「本役」に就任)。

・寛政2年(1790)10月16日、先手弓頭長谷川平蔵宣以捕盗の事その侭に勤むべしと命ぜらる。

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『続徳川実紀』寛政2年10月16日付

・寛政3年(1791)10月21日、先手弓頭長谷川平蔵宣以火賊捕盗期日といへど明(あけ)の年十月まで勤よと命ぜらる。

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『続徳川実紀』寛政3年10月21日付

・寛政4年(1792)10月19日、先手弓頭長谷川平蔵宣以捕盗加役の事。明の三月まで勤むべしと命ぜらる。

(寛政5年3月には記述がない)。

・寛政5年(1793)10月12日、先手弓頭長谷川平蔵宣以火賊捕盗の事。明の年十月まで勤むべしと命ぜらる。

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『続徳川実紀』寛政5年10月12日付

・寛政6年(1794)10月13日、先手弓頭長谷川平蔵宣以火賊捕盗命ぜらる。

・寛政7年(1795)5月16日、先手弓頭長谷川平蔵宣以病により捕盗の事ゆるされ久々勤務により金三枚。時ふく二賞賜あり。
病死をもって足かけ9年におよぶ火盗改メから開放されるのだが、五度にわたる職務延長の記述の意味をなんと解すればいいか。

平蔵の長期に次ぎ、安永8年(1779)正月から天明4年(1784)年7月まで足かけ6年も火盗改メの職にあったのが贄(にえ)安芸守正寿だが、任期再延長の記述はまったくない。ほかの4、5人も検したが、平蔵のような記述は見あたらなかった。

『実紀』の寛政期を担当した者が長谷川平蔵に特別に肩入れして記述を増やしたか、あるいは幕府側からの火盗改メ続投諾否についての下問とその答弁書の記録に拠ったか。

平蔵が5度も継続を受諾した理由を、筆者はこう推理している。平蔵が組頭として着任した先手弓の第2組は平蔵以前の50年間に、通算で144か月と、もっとも長く火盗改メを経験している組である。

組頭が火盗改メを命ぜられると組下全員に手当が支給される。その手当をあてこんで生活がふくれていなかったろうか。平蔵はそのことを察していて、配下のために任期の延長を自ら受諾したのではなかったかと。

池波さん以上に小説的思考をしすぎたようだ。

つぶやき:
『徳川実紀』での、長谷川平蔵宣以関連の記載は第10篇と、{『続』の第1篇。

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2006.04.20

長谷川平蔵の後ろ楯

鬼平の後ろ楯として『鬼平犯科帳』に登場するのは、若年寄の京極備前守高久のほか、亡父・宣雄と親交があって鬼平がいまなお交誼を絶やしていない何人かだ。

組織づとめには数人の後ろ楯が必要、と池波さんが考えていたのだろう。

ひとりは表御番医の井上立泉(りゅうせん)。ちなみに立泉の住まいになっている芝・新銭座の井上という切絵図の屋敷は、医師とおぼしい井上因碩(200俵)が拝領していたもの。

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芝・新銭座あたり。尾張屋板

3201
同近江屋板

つぎが細井彦右衛門。先代・光重は少青年時代の銕(てつ)三郎に自信と信頼を植えつけてくれた恩人。

 平蔵が、父と義母の間に在って義母に疎まれ、父の屋敷を出て、 放蕩無頼の日々を送るようになってからも、細井光重の屋敷へ はよく出かけて行き、ときには半月も泊めてもらったりした。
 光重は、そうした平蔵に意見がましいことを一言もいわず、平 蔵が屋敷を去るときは、
 「ほれ、小遣いをやろう」と、きまって金二分を紙に包み、平 蔵へくれてよこした。([15―1 赤い空])

かつての恩義に報いるために鬼平は、井上立泉が調合した肺結核の薬を療養している嫡男へ持参するのをつねとしている。

細井邸がなぜ二本榎なのかは、文芸の師だった長谷川伸師の家が二本榎にあったからと推理。

若年寄の京極備前守はほんとうに平蔵の後ろ楯だったのか、史料をあたってみた。

この仁は丹後・峰山藩(1万1100余石)の藩主で、少壮の幕閣のなかに最年長。60歳で入閣。[鬼火]に40そこそことあるのはなにかのまちがい。

定信好みの理論家で、幕臣の上訴にはよく耳を傾けた。ぼくは首をかしげる。峰山町の人たちには悪いが平蔵の後ろ楯説はちょっと。

先日、平蔵の政敵で火盗改メの後任者だった森山源五郎孝盛の自伝的エッセイ『蜑(あま)の燒藻(たくも)』を引いて京極備前守が「平蔵は覇道、森山は王道」と評したと紹介した。

京極備前守にはいささかかたくなところもあり、内閣の方針に気にそまないことがあったとき、登城の駕籠の中にわざと刀を忘れ、前例をひきあいにだして辞職を願った。定信側はその手のうちを読んで、辞表をにぎりつぶしてしまった。

京極備前守は後ろ楯ではなかったとなると、別の仁を探すしかない。小説では、麹町に屋敷のある側衆の小出内蔵(2000石)の名もあがっている。

側衆とはいい線だ。重松一義教授『鬼平・長谷川平蔵の生涯』(新人物往来社)は側衆の加納遠江守久周(ひさのり。伊勢・八田藩主。1万石)をあげているが、石高がちがいすぎる。

つぶやき:
池波さんは、切絵図は、ふだんは近江屋板を愛用していたが、井上立泉を設定するにあたっては、尾張屋板から見つけたらしい。

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2006.04.19

堀 帯刀の家系と職歴

家系:
祖:美濃において斎藤道三に仕え、のち、織田信長、つづいて豊臣秀吉、関ヶ原では徳川方として春日山を守った秀治が祖である。
ただし、秀治の嫡孫・忠俊は、仕置よからずと所領45万石を収公、鳥居忠政に預けられ陸奥国へ配流。のち加賀国に蟄居して逝去。享年26。
秀隆の堀家の始祖・成令(なりよし)は、この忠俊の男と。
成令の嫡男が桂昌院(綱吉の母)付として仕え、のち、1500石。妹も桂昌院の侍女となる。

家禄:
下野国において1500石。

家紋:
0914
三亀甲

屋敷:
小川町裏猿楽町。1400余坪。

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尾張屋板

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部分拡大。八郎右衛門は嫡孫。

生年と歿年:
元文2年(1737)生
寛政5年(1793)3月9日(57歳)卒

御目見:
宝暦10年(1760)11月25日(24歳)、家治に御目見。

職歴:
宝暦12年(1762)4月19日、小姓組として出仕。
安永3年(1774)6月15日、徒頭(38歳)。
天明1年(1781)8月20日、先手筒組頭(45歳)。3回組替え。
天明8年(1788)9月28日、持筒頭。

先手組頭のとき、火盗改メ助役1回、本役を足かけ4年勤める。

(年齢は当時の習慣にしたがつて、すべて数え齢)。

つぶやき:
長谷川平蔵宣以は、前任者の堀帯刀を敬して、その娘を、自分の細君の姻戚である万年家へ嫁がせるべく骨折ったが、これが裏目にで、帯刀から愚痴られて辟易した。
というのは、万年家の舅が、50を過ぎてから芸者ぐるいをはじめ、「4つ(午後4時)すぎの雨は上がらない。40すぎての色恋はとまらない」のたとえを地で行ったからである。


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2006.04.18

堀 帯刀の本役発令

池波さんが、『鬼平犯科帳』で、長谷川平蔵宣以の火盗改メの前任者に、堀 帯刀秀隆を据えたのは、史実として正しい。

推察するに池波さんは、『徳川実紀』の下に掲げた天明5年11月15日の記述を見て、そうしたのであろう。

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「また先手頭掘帯刀秀隆盗賊考察の事奉る。」とある。
堀 帯刀は、このとき49歳。それから足かけ4年---天明8年(1788)9月28日に持筒頭を拝命するまで、火盗改メの本役を勤めたことは、すでに記した。

しかし、池波さんは、『続徳川実紀』の天明7年(1787)9月19日の項---「先手筒(弓の誤記)頭長谷川平蔵宣以捕盗の事命ぜらる。」を目にしたとき、長谷川平蔵が後任に選ばれたとおもった。 

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まあそれまで、平蔵についての研究がまったくといっていいほど開拓されていなかったのだから、いたし方がなかったともいえる。

ところで、堀 帯刀だが、天明5年11月15日の発令時は、先手筒の第16組の組頭であった。
ところが、火盗改メ発令と同時に、先手弓の第7組へ組替えをしている。
うわさによると、組頭が火盗改メに任じられると、組の与力・同心にも別手当がつくので、それを狙って弓の第7組の与力・同心たちが合計80両を出しあって、堀の用人へとどけて組替えを策したのだという。

そのことを知った弓の第1組も、ほぼ1年後に100両の金を出しあって用人へ渡し、組替えをしてもらつたという。与力1人が7両ずつ拠出しても、3カ月ほどの役手当でもとはとれたらしい。

弓の第1組は、別称「駿河組第1組」ともよばれているほど伝統のある組なのに、組下がそのような利に走る時代になっていたのであろうか。

また、組替えそんなに簡単にできるものかどうか、不明にして知らないが、堀 帯刀その人は、任期中に組を3回も変わった風変わりな仁ということで、評判になったことは事実である。

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2006.04.17

堀 帯刀の任期

『鬼平犯科帳』では、第1話[唖の十Z蔵]で、長谷川平蔵は、天明7年(1787)10月に、前任の堀 帯刀の後任として火盗改メの任についたようになっている。

史実は、このときも、堀 帯刀は、まだ、本役を勤めており、平蔵は火事の多い冬場の助役(すけやく)として発令され、春には、きまりどおり解任されたのである。

池波さんは、どうして、平蔵を本役のように書いたか。
解釈は2通りできる。

本役・助役などといっては、読み手が混乱すとる判断したというのが、まず第一。

も一つの見方は、図版を掲げた『続徳川実紀』の記録を読み損なったという見方。
3101

掲げたのは、徳川幕府の正史ともいえる、『続徳川実紀』寛政8年9月から10月へかけてのページである。
上の段、9月28日の項に、「先手弓組堀帯刀秀隆は持筒頭」とあるものの、「火盗改メを解く」が省略されている。
(持筒頭は、先手組頭から選抜される、終着駅的な名誉職であるが、格は先手組頭と同じ1500石格)。

下の段、10月2日の項には、「先手頭長谷川平蔵宣以盗賊捕獲命ぜらる」とある。
これをこのまま読むと、平蔵が再任されたようにもとれる。

ところが、10月6日の項に、「先手弓(筒の誤記)頭松平左金吾定寅火賊捕盗の事。明の3月まで勤めよと命ぜらる」とあり、左金吾がずっと助役というか、副役をしてきており、平蔵が本役になっても続投していることがうかがえる。

松平左金吾は、姓や名からもわかるように、老中筆頭の松平定信の久松松平の一族であり、定信と相計って、長谷川平蔵の看視をする役目を果たしたというふうに睨んでいるが、その経緯はいずれ。

それよりも、解任のことより、昇進のことのほうを優先させる『徳川実紀』の記述のくせを読み取る術を身につけたい。

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2006.04.16

堀 帯刀秀隆

長谷川平蔵の前任の火盗改メは堀 帯刀秀隆( 1,500石 小説は500石)だった。
この仁を『鬼平犯科帳』の後半は、

なにしろ、堀帯刀は、盗賊改方の特別手当として幕府が支給する役料までも、「あわよくば……」おのれのふところへ仕まいこもうという人物であったから…[消えた男]

と悪者扱い。

帯刀が経済的に困窮していたのは事実だが、それも妾までかこって私腹ごやしに精をだした用人のせい。

「堀帯刀は先手の組頭たちの中でも一体に正直者だが、用人が悪いから自然と世評も悪くなっている。解任されても仕方がないのに、お役をつづけていられるのはありがたいことと思わねば、との評判が立っているよし」
「帯刀は人物はいたってよろしく、馬鹿にする者もいるくらい気もいいよし。だから用人や組下の者にもいいように利用されているよし」(老中首座・松平定信派の隠密の報告書)。

同情したくなるほど邪気のない仁(じん)みたいだが、用人がわいろを取りこんでいるのが世間で評判になっているのに気がまわらないのだから管理職としては落第。

火盗改メから持筒頭に昇進してからもこんなことを書かれている。
「堀帯刀は、組下が差しだした願い書なども上へ取りつがない。とにかく世話をやくのが嫌いらしい。与力たちが頭へ願いを差しだしても上へ進達しないので、この三、四年が間、与力たちは帯刀をうらんでいる」(同前)

ただ、家庭事情には同情すべきところがないでもない。
徳川の一門……宮石松平の一族・若狭守正淳(まさあつ。 2,500石)の次女だった最初の夫人は、1女1男を産んで逝った。

後室には、やはり徳川一門の形原松平の権之助氏盛(うじもり。 2,000石)の次女で出戻りを娶ったが間もなく死去。

三番目の夫人もはやばやと死別。

四人目は、離別。持筒頭に栄達した帯刀が組下の者の願い書をにぎりつぶすようになったのは、夫人運に恵まれなくて人生に絶望していたからとも思える。

五人目は、武田系の室賀下総守正普(まさひろ。 5,500石)の四女。初婚。菩提寺の喜運寺(文京区白山 2-10 曹洞宗)の、「秀隆院殿前武衛校尉雄高賢英大居士」と麗々しく刻まれた帯刀の墓石に並んで「円智院殿慧海秀和大姉」とあるのがこの女性。
夫は寛政5年(1793)に57歳で逝ったが、この人は60歳代まで生きて文化8年(1811)に没した。貧窮していた堀家へ嫁いだときには30歳半ばになっていたが、それにはなんらかの事情があったようだ。

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堀帯刀と夫人の法号が刻まれた墓石

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2006.04.15

同心・竹内孫四郎

初出の篇
 [1-1 唖の十蔵]p32 新装p33
  柳島の妙見堂門前の蕎麦やで〔小川や〕梅吉を待ち伏せ。

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その後18篇に登場
 [1-2 本所・桜屋敷]p49 新装p52
  御家人・服部家の捕物に先発組を指揮。
 [1-3 血頭の丹兵衛]p110 新装p115
  東海道・島田宿へ出張って〔血頭〕一味の捕物を小柳同心と指揮。
 [2-6 お雪の乳房]p256 新装p269
  〔鈴鹿〕の又兵衛の逮捕に酒井・佐藤とともに。
 [3-6 むかしの男]p279 新装p292
  佐嶋与力の指揮で山田・酒井・小柳らとともに。
 [4-3 密通]p103 新装p107
  旗本・天野の用人を、鬼平の命で尾行。
 [4-4 血闘]p157 新装p165
  おまさを救いに潜行した鬼平の援軍として。
 [4-6 おみね徳次郎]p232 新装p243
  〔網切〕一味の動きを大坂町奉行所へ伝えに。
 [4-7 敵]p269 新装p283
  〔大滝〕の五郎蔵を裏切った者たちを逮捕に。
 [5-1 深川・千鳥橋]p21 新装p22
  〔大滝〕の五郎蔵の破牢の真相を知らされた1人。
 [5-4 おしゃべり源八]p130 新装p136
  中目黒の百姓家で失踪した同心・久保田源八を発見。
 [5-5 兇賊]p214 新装p226
  〔網切〕の甚五郎を長官・酒井・沢田と三国峠で待ち伏せ
 [5-7 鈍牛]p254 新装p267
  「酒井、竹内、山田、小柳などの腕きき」と評価が高い。
 [6-1 礼金二百両]p12 新装p12
  酒井らと宿直。
 [6-3 剣客]p95 新装p102
  酒井とともに深川の藍玉問屋〔大坂屋〕を見張る。
 [6-6 盗賊人相書]p216 新装p226
  襲われた蕎麦屋〔東玉庵〕を酒井・木村と検証。
 [7-1 雨乞い庄右衛門] p34 新装p35
  阿部川町の妾・お照の家を密偵・伊三次と監視。
 [9-5 浅草・鳥越橋]p204 新装p214
  小間物屋〔三好屋〕を酒井・小柳と見張る。
 [14-1 あごひげの三十両]p8 新装p9
  木挽町〔酔月楼〕で某藩の武士を殺傷した高田与力の組下。
3011
 『江戸買物独案内 飲食店之部』(1824刊)

『鬼平犯科帳』ではレギュラー同心ともいえる酒井祐助や小柳安五郎とともに、シリーズ前半ではかなりの役どころをあてられている。

ところが、[14-1 あごひげの三十両] 以後、ぷっつりと名前が出てこなくなった。この篇では姓も、竹中孫四郎となっている。
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また、[9-5 浅草・鳥越橋]では竹内孫次郎。

新装版でも、どちらも訂正されていないのはどうしたことか。

年齢・家族構成
どちらも記述がない。

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2006.04.14

同心筆頭・酒井祐助

初出の篇
 [1-2 本所・桜屋敷]p71 新装p76
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その後の登場篇
 163話中86話(登場率51%)

肩書き
 同心筆頭
 [9-5 浅草・鳥越橋]p186 新装p194から「筆頭」と明記
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特技
 柳剛流の免許もち

老中首座・松平定信側の隠密の秘密リポートは、長谷川組の与力・同心は「まえまえから火盗改メをつとめてきており、その仕事ぶりで名を知られている者が多いし、功績もこの上ない者たち」とほめたたえている。

『鬼平犯科帳』の同心たちで「この上ない者たち」といえば筆頭の酒井祐介、一刀流の免許皆伝の沢田小平次、亡妻のことを忘れない組きっての美男の小柳安五郎、そして「この上ない」のは道化役としての木村忠吾あたりが登場率が高い。

それぞれ一話以上に主役をふられている…といいたいが酒井祐助だけは別。
163話中83話(登場率51パーセント)に名前がでるのに、一度も主役を演じていない。不思議だ。

不思議といえば、年齢もはっきり書かれない。初登場のとき木村忠吾は24歳、沢田小平次は[兇賊]で27歳、小柳安五郎は[血頭の丹兵衛]で23歳。

しかるに酒井同心は家族のことはさっぱり。
いや、[1-2 本所・桜屋敷]で、鬼平が引き取って養育することにしたお順に、酒井の女房からもらい乳をしているから、子どももいたらしいが、3年半後の第36話[鈍牛(のろうし)]には独身とあり、子どものことも書かれないし妻帯の気配もない。

しかし第13話[密偵(いぬ)]では、底冷えの中を張り込みをしている平蔵へ温めた酒と煮しめを入れた岡持ちを配慮し、山田同心へ「酒井を見習えよ」と平蔵にいわせる。

[鈍牛]でも、放火犯を挙げた同僚は見込みちがいをしているのではないかと平蔵へ進言。当時、放火犯の誤認逮捕がわかると、火盗改メの長官は罷免になるどころか閉門さえ命じられかねない失態だった。それはそうだろう、放火犯は捕まると火刑だから、捜査側も相応の責めをおうのが道理。

いつも冷静で、深慮遠謀、しかも統率力もあり、気配りも十分な酒井祐助は、ミニ中間管理職としてはほとんど満点がつけられる。それなのになぜ池波さんは彼に主役をふった物語を書かなかったかを推理してみた。

酒井同心は、欠点がなさすぎる。短所のない人間なんていっこない。ダメ部分がかえって愛嬌になっていることもある。部下をもったら短所の矯正に努めはする。が、隠しはしない。
むしろ下の者へは「自分はこういうマイナス点がもっている。君たちも欠点を認めた上で行動するように」と短所を男の磨き砂とすることをすすめる。


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2006.04.13

同心・木村忠吾と〔うさぎ饅頭〕

文庫巻2[谷中・いろ茶屋]で同心・木村忠吾が初登場する。寛政3年(1791)晩夏の事件で、忠吾23歳---それはいいとして、初登場の場が谷中のいろは茶屋の娼婦・お松とのベッドシーンというのだから、いかにもコメディー・リリーフにふさわしい。

この忠吾の綽名(あだな)が「兎忠」。
芝・神明の菓子舗〔まつむら〕で売り出している〔うさぎ饅頭(まんじゅう)〕そっくりだというのである。

そこで、各〔鬼平〕クラスに依頼するとともに製菓の業界誌にも記事を書いてもらって、全国から〔うさぎ饅頭(まんじゅう)〕をもとめた。27点集まったが、さて、忠吾にもっとも似ているのは?

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2010年の歳末に、セブン・イレブンで買った[うさぎ団子] 100円。
2011年が卯年ということでつくられたのであろう。

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1,2. 〔茶寮 風花〕(鎌倉・明月院門前)の〔うさぎ饅頭〕 栗餡の蒸し饅頭。1個200円
    新兵衛さん(学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラスOB)投稿

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3. 〔三日月堂 花仙〕(鎌倉・建長寺の手前)のうさぎ饅頭。1個158円
   新兵衛さん投稿

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4. 〔塩瀬本舗〕 (東京・中央区)の月見饅頭 小豆、山芋、米粉など。発売時期は9月。三越限定。9個893円

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5. 〔塩瀬本舗〕のお月見和盆糖 発売時期同上。1箱893円

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6. 〔信濃路うさぎや〕 (長野県上田市) うさぎ最中 ごまあん。 5個入りパック525円

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7. 〔餅屋伝助〕 (長野県上田市) うさぎ餅 カスタードクリーム入り(白)と、チョコクリーム入り(薄茶)。1個115円

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8. 〔阿佐ヶ谷うさぎや〕 (東京・杉並区)のうさぎ饅頭 分家らしく小ぶり。1個140円
   小金井の住人さん(朝日CC〔鬼平〕クラスOB)投稿

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9. 〔花園万頭〕 (東京・新宿区)のうさぎ饅頭 紅白あり。1個160円
   町娘さん(学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラスOG)投稿

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10. 〔みずの〕 (東京・豊島区)のこうさぎ饅頭 砂糖、大和芋、米粉、小豆、小麦粉、寒天、天然色素。
   吉川さん(学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラスOG)投稿

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11. 〔みずの〕 (東京・豊島区)の月見(練切)
   吉川さん投稿

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12. 〔みずの〕 (東京・豊島区)のうきうき(缶入りらくがん)
   吉川さん投稿

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13. 〔日本橋うさぎや〕 (東京・中央区)のうさぎ饅頭 黒門町の〔うさぎや〕の分家。
   名無しさん(森下文化センター〔鬼平〕クラスOG)投稿


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14. 〔喜田屋〕 (東京・足立区)のまちやうさぎ 10個入り800円
田口社長投稿

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16,17 〔喜田屋〕 (東京・足立区)の饅頭うさぎうさぎ 小麦粉をじょうよ(芋)でつなぐ。漉し餡。4個入り6005y 
田口社長投稿

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18. 〔宮雀〕 (岡山市)のうさぎ饅頭 十勝産小豆、伊勢いも、上用粉。1個190円
    従業員・坂本ひとみさん投稿

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19. 〔松木屋〕 (静岡市)のうさぎ餅 太田蜀山人も賞したと。 満月を模した羽二重外皮にうさぎの焼印。1個100円
    八木忠由さん(SBS学苑パルシェ〔鬼平〕クラス)投稿

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20.  〔壺屋〕 (東京・文京区)のうさぎ饅頭 新粉と砂糖を山芋でつないだ皮。小豆餡。注文生産のみ。
   入倉さん(店主)投稿

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21,22. 〔三原堂〕 (東京・中央区)のうさぎ饅頭 1個200円
   三楽亭靖酔さん(鬼平熱愛倶楽部)投稿

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23. 本家〔うさぎや〕 (東京・千代田区)のうさぎ饅頭 卯歳のうまれの創業者を偲んで製作。 1個160円
    町娘さん(学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラスOG)投稿 

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24. 〔虎屋〕 (東京。港区)のうさぎ饅 カタログに薯蕷饅頭で作ったと。 1個370円
      深谷さん(学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラスOG)投稿

Usagi_27
27.  〔中村軒〕 (京都市・桂)のうさぎ薯蕷 秋のみ 1個220円。冬は雪うさぎ 1個200円
     ご店主投稿

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28.   〔鞠子の宿本舗 月ヶ瀬〕のうさぎ饅頭 皮はとろろ芋とじょうねん粉 餡は白味噌と白餡 1個120円
     青山陽子さん(SBS学苑パルシェ〔鬼平〕クラス)投稿

 

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2006.04.12

佐嶋忠介の真の功績

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リストは、38年前の1967年(昭和42年)、池波さんがその年に発表した、長篇と短篇とその媒体である。

当時、中堅作家の地歩確かなものにしていた池波さんは、この年、大衆小説の最高の舞台である『オール讀物』から4篇も依頼されるほど、力量を認められていた。

新年号に載った[正月四日の客]は、忍者もの、仇討ちものから白浪ものへ転じようとしている池波さんの心がまえを示していたが、編集者たちは、それが『鬼平犯科帳』の足ならしとは、まだ気づいていなかったようである。

12月号のための[浅草・御厩河岸]を受け取りにいったのは、『オール讀物』に配属されてまだ2年目の花田紀凱さんだった。
原稿を読み終えた花田さんに、池波さんがいった。
「そこへ出した長谷川平蔵は、面白い男でねえ。火付盗賊改方の長官で、人足寄場なんかもつくったんだよ」

これは、その3年前の『週刊新潮』の[江戸怪盗記]、さらには2年前の『別冊小説新潮』の[白浪看板]で長谷川平蔵をちらっと登場させたのに、反響がなかったために、じれていた池波さんが、ふと、好青年の花田さんにコナをかけたと見る。

社へ戻った花田さんが杉村友一編集長へ報告すると、「その、長谷川平蔵で連載を頼もう」となり、いろいろあって、なんと、翌月の新年号から『鬼平犯科帳』シリーズが始まった。

[浅草・御厩河岸]の主人公は密偵・豆岩だし、長谷川平蔵はほんの申しわけていどに顔をだすだけ。火盗改メとしての主役は佐嶋忠介である。

杉村ベテラン編集長は、[浅草・御厩河岸]での佐嶋忠介の描かれ方に着目、即座に連載を決定したのではあるまいか。
とすると、佐嶋忠介こそ、『鬼平犯科帳』誕生の真の功労者といってよかろう。

つぶ゜やき:
シリーズの3年前の[江戸怪盗記]は、その後、[妖盗・葵小僧]にリメイクされたが、この[江戸怪盗記]では、佐島という同心が葵小僧一味の逮捕のときに殉職しているのは、なぜか、あまり指摘されていない。

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2006.04.11

若年寄・京極備前守高久

長谷川平蔵のうしろ楯だったと『鬼平犯科帳』に書かれている丹後峰山藩主・京極備前守高久(1万千余石)には、不明なところが多い。

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京極備前守高久 若年寄のころ(下戸明夫氏提供)

というのも、城下町の峰山町が1927年の丹後大震災による火災で全町が焦土と化したとき、郷土史編纂中だった郷土史家が集めていた貴重な史料もろとも焼死、その後の郷土史編纂事業がきわめて困難な状態になったからだ。

そんな状況のもとで編纂された『峰山郷土史』は、高久が天明8年(1788)6月に60歳で若年寄に召されて政務に参与することになったことを告げたあと、

「寛政2年(1790)11月22日になって、急に病気を口実に、若年寄の職を辞退してしまった。将軍家斎は、高久の実直を惜しんで、侍医に命じて診断させたが、出仕にさしつかえる程ではなかったので、同職の堀田摂津守(近江堅田藩主。1万石。33歳)をして内々様子をさぐらせたところ、いつかの登城の際、何か重大な落度があって、幕府の重職にいては武士道が立たぬという事情がわかった(詳細は不明)」

 と書いている。
『峰山郷土史』が不明としている高久の辞職願いの真相を、彼を若年寄に抜擢した老中筆頭・定信の隠密の報告書『よしの冊子』が、同年8月20日の大嵐の日に登城時、下乗のところで定信の駕籠がやってきたので、あわてて桐油合羽のまま駕籠を降りたが中に刀を忘れた。

かつて三浦志摩侯(下野壬生藩主。2万5千石。寛永期の若年寄)が自邸に刀を忘れて辞職した前例があり、ことが表立てば辞職しなければすまないと考えたとする説と、10月14日に定信が何ごとかを評議するために若年寄を召集したとき、京極高久へは声がかけられなかったことを不服とした仮病説がある。

後者とすると、そのふてくされは筋ちがいといえそう。この日の議題は、書院番頭・石川大隅守(4千石。37歳)の与頭(くみがしら)の欠員補充に鵜飼左京(不明)をあてるか、瀬名孫助(廩米 300俵。40歳)か、だった。

孫助は高久の実弟だったので定信があえて高久に召集をかけなかったのだ。

病気を表向きの理由にした高久の逼塞のことを聞いた長谷川平蔵がかたわらの与力へもらした。

「いったいに峰山侯(高久)は若年寄の地位をかさに、身内の立身におこだわりになりすぎる。大岡家(千石)へ養子に入られたご次弟・次郎兵衛直往(なおみち)どのの息・直孝(34歳)どのを放鷹のお供へ推薦したり、ご舎弟で池田新兵衛(廩米 300俵)方へ養子にお入りになった富郷(とみさと。39歳)どのを大番へ押しこんだり…。まわりの目は予想以上にこのことにこだわるものだから、身内びいきはほどほどにしておかないと、な」

小企業主で一族は雇わないと公約、従業員の信頼をえている友人もいる。彼らがやる気をなくするのは、同族がポストを独占しているときだ。

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2006.04.10

同心・沢田小平次

初出の篇
 [5-5 兇賊]
 長谷川平蔵に随行、三国峠で〔網切〕の甚五郎を待ち伏せ

その後の登場篇
 99話中75話に(登場率 75.8%)

容姿
 額が出ばって、その下に細い眼

特技
 一刀流の免許皆伝。師は松尾喜兵衛
 「まともに斬りあったら、おれもかなうまい(平蔵評)」
 で、斬合いが予想されるときは指名される。

差し料
 河内守国助 2尺 4寸余。亡師ゆずり銘刀。

家族
 [誘拐]まで独身。組屋敷で老母と2人暮らし。

年譜
明和2年 生  小柳安五郎より2歳年少
 (1765)    木村忠吾より3歳年長

天明6年 22歳 長谷川平蔵が組頭に着任
 (1786)
天明7年 23歳 組が火盗改メ助役
 (1787)
天明8年 24歳 組が火盗改メ本役
 (1788)
寛政元年 25歳
 (1789)
寛政元年 26歳 長官に随行し三国峠へ[5-5 兇賊]
 (1790)   
寛政3年 27歳 剣の師を失い、敵を討つ[6-3 剣客]
 (1791)
寛政7年 31歳 津山薫と勝負[12-6 白蝮]
 (1795)

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2006.04.09

同心・木村忠吾の年譜

30俵2人扶持

 亡母:あさ。父親の名は記述がない
 叔父:中山茂兵衛。
 下女:お杉([影法師])

明和5年 誕生 先手同心の長男。兄弟姉妹は不明
 (1968)
天明5年 18歳 亡父の後継者として家督
 (1785)       入組 [2-2谷中・いろは茶屋]
天明6年 19歳 長谷川平蔵、組頭に着任
 (1786)
天明7年 20歳 長谷川組、米騒動の鎮圧に
 (1787)     長谷川組、火盗改メに従事(助役)
天明8年 21歳 長谷川組、火盗改メ・本役に
 (1788)
寛政3年 24歳 荒川で釣人に化けて見張る[6-4  剣客]
 (1791)      いろは茶屋〔菱屋〕:お松
                    [2-2  谷中・いろは茶屋]
寛政4年 25歳 龍宝寺門前町〔松月庵〕でお雪を抱く
 (1792)                 [2-6  お雪の乳房]
寛政5年 26歳 長官・長谷川平蔵のお供で京へ
 (1793)    [3-2  盗法秘伝][3-3  艶婦の毒]など
寛政6年 27歳 鬼平の供で二本榎・細井邸へ
 (1794)                  [9-4  本門寺暮雪]
  〃      男色浪人に誘拐される[11-1 男色一本饂飩]
寛政7年 28歳 長谷川平蔵病死
 (1795)
寛政8年 29歳 一本眉事件[13-6 一本眉]
 (1796)     伊三次が刺殺される[14-5 五月闇]
  〃       伊三次の墓へ墓参[14-6 さむらい松五郎]
  〃       同心:吉田藤七の四女おたかと結婚
                  [15-5 雲竜剣 急変の日]
寛政9年 30歳 藤田彦八の妻の事件[19-4 逃げた妻]
 (1797)
寛政10年 31歳 上記事件の続篇[19-5 雪の果て]
 (1800)    市口又十郎とお弓の事件[21-3 麻布一本松]

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2006.04.08

佐嶋忠介の登場篇リスト

(p=その篇に登場の最初のページ)
134 話/164 話(登場率:0.817 )

 [1-1 唖の十蔵]p10 新装p10
 [1-2 本所・桜屋敷]p49 新装p52
 [1-4 浅草・御厩河岸]p142 新装p145
 [2-1 蛇の眼]p29 新装p31
 [2-4 妖盗葵小僧]p157 新装p166
 [2-5 密偵]p199 新装p210
 [2-6 お雪の乳房]p256 新装p269
 [2-7 埋蔵金千両]p298 新装p315
 [3-6 むかしの男]p274 新装p287
 [4-2 五年目の客]p46 新装p48
 [4-3 密通]p84 新装p88
 [4-4 血闘]p139 新装p146
 [4-5 あばたの新助]p165 新装p173
 [4-6 おみね徳次郎]p218 新装p229
 [5-1 深川・千鳥橋]p21 新装p22
 [5-5 兇賊]p174 新装p183
 [5-6 山吹屋お勝]p247 新装p251
 [5-7 鈍牛]p246 新装p268
 [6-1 礼金二百両]p12 新装p12
 [6-3 剣客]p104 新装p110
 [6-4 狐火]p129 新装p136
 [6-5 大川の隠居]p201 新装p212
 [6-7 のっそり医者]p278 新装p290
 [7-1 雨乞い庄右衛門]p34 新装p34
 [7-2 隠居金七百両]p72 新装p75
 [7-3 はさみ撃ち]p107 新装p113
 [7-4 掻堀のおけい]p134 新装p140
 [7-5 泥鰌の和助始末]p183 新装p191
 [7-7 盗賊婚礼]p251 新装p263
 [8-1 用心棒]p34 新装p35
 [8-2 あきれた奴]p50 新装p52
 [8-4 流星]p141 新装p148
 [8-5 白と黒]p219 新装p221
 [9-1 雨引の文五郎]p20 新装p21
 [9-2 鯉肝のお里]p69 新装p72
 [9-3 泥亀]p114 新装p119
 [9-4 本門寺暮雪]p129 新装p136
 [9-5 浅草・鳥越橋]p205 新装p214
 [9-6 白い粉]p240 新装p251
 [9-7 狐雨]p249 新装p260
 [10-1 犬神の権三]p7 新装p7
 [10-3 追跡]p97 新装p102
 [10-4 五月雨坊主]p131 新装p138
 [10-6 消えた男]p216 新装p227
 [10-7 お熊と茂平]p270 新装p283
 [11-1 男色一本饂飩]p35 新装p36
 [11-2 土蜘蛛の金五郎]p54 新装p56
 [11-3 穴]p92 新装p96
 [11-4 泣き味噌屋]p130 新装p135
 [11-5 密告]p178 新装p185
 [11-6 毒]p230 新装p240
 [12-1 いろおとこ]p40 新装p41
 [12-2 高杉道場・三羽烏]p89 新装p93
 [12-3 見張りの見張り]p153 新装p161
 [12-4 密偵たちの宴]p171 新装p180
 [12-5 二つの顔]p224 新装p236
 [12-6 白蝮]p236 新装p275
 [12-7 二人女房]p332新装p347
 [13-1 熱海みやげの宝物]p43 新装p45
 [13-2 殺しの波紋]p63 新装p65
 [13-3 夜針の音松]p126 新装p131
 [13-4 墨つぼの孫八]p152 新装p159
 [13-5 春雪]p200 新装p208
 [13-6 一本眉]p247 新装p258
 [14-1 あごひげ三十両]p9 新装p9
 [14-2 尻毛の長右衛門]p66 新装p68
 [14-3 殿さま栄五郎]p111 新装p113
 [14-4 浮世の顔]p148 新装p153
 [14-5 五月闇]p205 新装p212
 [14-6 むらい松五郎]p247 新装p254
 [15 雲竜剣-1 赤い空]p11 新装p11
 [15 雲竜剣-2 剣客医者]p61 新装p63
 [15 雲竜剣-3 闇]p119 新装p123
 [15 雲竜剣-4 流れ星]p166 新装p172
 [15 雲竜剣-5 急変の日]p208 新装p208
 [15 雲竜剣-6 落ち鱸]p248 新装p257
 [15-雲竜剣-7 秋天晴々]p293 新装p305
 [16-1 影法師]p40 新装p42
 [16-2 網虫のお吉]p68 新装p71
 [16-3 白根の万左衛門]p116 新装p122
 [16-4 火つけ船頭]p166 新装p173
 [16-5 見張りの糸]p205 新装p213
 [16-6 霜夜]p285 新装p295
 [17 鬼火-1 権兵衛酒屋]p20 新装p21
 [17 鬼火-2 危急の夜]p55 新装p58
 [17 鬼火-3 旧友]p103 新装p107
 [17 鬼火-4 闇討ち]p148 新装p156
 [17 鬼火-5 丹波守下屋敷]p192 新装p197
 [17 鬼火-6 見張りの日々]p235 新装p242
 [17 鬼火-7 汚れ道]p274 新装p284
 [18-1 俄か雨]p17 新装p17
 [18-2 馴馬の三蔵]p77 新装p80
 [18-3 蛇苺]p82 新装p85
 [18-4 一寸の虫]p148 新装p153
 [18-5 おれの弟]p181 新装p187
 [18-6 草雲雀]p218 新装p226
 [19-1 霧の朝]p23 新装p24
 [19-2 妙義の團右衛門]p75 新装p78
 [19-5 雪の果て]p188 新装p194
 [19-6 引き込み女]p271 新装p280
 [20-1 おしま金三郎]p11 新装p12
 [20-2 二度あることは]p74 新装p77
 [20-3 顔]p123 新装p128
 [20-5 高萩の捨五郎]p203 新装p210
 [20-6 助太刀]p247 新装p256
 [20-7 寺尾の治兵衛]p260 新装p270
 [21-1 泣き男]p17 新装p17
 [21-2 瓶割り小僧]p49 新装p49
 [21-3 麻布一本松]p95 新装p98
 [21-4 討ち入り市兵衛]p123 新装p127
 [21-5 春の淡雪]p179 新装p184
 [21-6 男の隠れ家]p230 新装p238
 [22 迷路-1 豆甚にいた女]p11 新装p11
 [22 迷路-2 夜鴉]p44 新装p42
 [22 迷路-3 逢魔が時]77新装p73
 [22 迷路-4 人相書二枚] p117 新装p106
 [22 迷路-5 法妙寺の九十郎]p145 新装p138
 [22 迷路-6 梅雨の毒]p159 新装p151
 [22 迷路-7 座頭・徳の市]p195 新装p185
 [22 迷路-8 托鉢坊主]p229 新装p217
 [22 迷路-9 麻布・暗闇坂]p254 新装p241
 [22 迷路-10高潮]p280 新装p265
 [22 迷路-11引鶴]p350 新装p304
 [23 炎の色-1 夜鴉の声]p59 新装p56
 [23 炎の色-2 囮]p107 新装p104
 [23 炎の色-3 荒神のお夏]p151 新装p146
 [23 炎の色-4 おまさとお園]p182 新装p177
 [23 炎の色-5 盗みの季節]p215 新装p208
 [23 炎の色6 押し込みの夜]p237 新装p230
 [24-1 女密偵女賊]p39 新装p37
 [24-1 ふたり五郎蔵]p54 新装p52
 [24 誘拐-1 相川の虎次郎]p128 新装p122
 [24 誘拐-2 お熊の茶店]p156 新装p148
 [24 誘拐-3 浪人・神谷勝平]p179 新装p169

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2006.04.07

同心・小柳安五郎

初出の篇
 [1-3 血頭の丹兵衛]p110 新装p115
丹兵衛一味を追って、島田へ出張る。

その後の登場篇
  162話中、69話に登場(登場率43%)

年齢:
  寛政5年(1793)年の[8-2 あきれた奴]の時が31歳。
  宝暦13年(1763)年生まれ。

家族:
[8-2 あきれた奴]の事件の2年前、初産で妻・みつが赤子とも
ども逝く。
  菩提寺は、阿部川町の竜源寺。
  亡妻みつの実家は、本所・亀沢町の御家人・井上友之助
(50俵2人扶持)。
差料:
  近江守助直 2尺5寸 [9-7 狐雨]p287 新装p300
この寸法の太刀を帯ていると、身長は1m65cmほど?

仲間の木村忠吾による小柳評
  「寒い日にぬるま湯からあがって燗冷ましの酒でもよろこんで
のむような---」

鬼平熱愛倶楽部の聡庵さんが、「部下に持つなら、小柳安五郎と澤田小平次のどちら」の発表時につくった資料から、小柳の項を以下に適宜、抜粋。

●能力
 〇得意分野
  1.町人への変装が得意 [14-6 さむらい松五郎]
  2.思慮深い行動 [16-2 網虫のお吉]
           [18-5 おれの弟]
           [20-1 おしま金三郎]
  3.自白させるに能力 [17 鬼火]

 〇指揮・指示
  1.竹内とともに川越役所応援50名を指揮
           [1-3 血頭の丹兵衛]

 〇職務能力・臨機応変・直観力・配慮
  1.情味を兼ね備えた取り扱い [8-2 あきれた奴]
  2.鬼平の食事が済むのを待つ気ばたらき 
           [12-2 高杉道場三羽烏]
  3.(こやつ、松五郎)と直感
           [14-6 さむらい松五郎]
  4.相手が相手なれば---と、平蔵へ報告
           [20-1 おしま金三郎]
  5.平蔵は小柳を役宅詰とした
           [22 迷路]

  6.佐嶋につぐ相談相手[24 誘拐]

●性格・感情
  1.事件が起きると非番も当番もなく働く
    われから危機に立ち向かう
           [8-2 あきれた奴]
  2.兎忠と仲がよい [11-男色一本饂飩]
  3.黒沢同心とお吉の後をつけて報告。
    平蔵は、小柳が讒訴しないことを知っている 
            [16-2 網虫のお吉]
  4.いざとなると純真な直情をむきだす[同]
  5.松波を推挙する友情 [20-1 おしま金三郎]

●容姿
  1.組きっての美男  

つぶやき:
小柳家の菩提寺のある阿部川町(現・元浅草3丁目)には、了源寺と竜福寺が並んでいる。
了源寺のご住職の言。「2つの寺号を合成して、架空の竜源寺をおつくりになったのでしょう。
池波さんは、少年時代をここらで過ごした人だから」

1401_1
架空の寺号の源の一つ---了源寺

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2006.04.06

佐嶋忠介のキーワード

各文化センター〔鬼平〕クラスの受講者に、佐嶋忠介を象徴するキーワードを挙げてもらった。

●人柄
 真面目。信頼できる。人柄抜群。実直。人情味豊か。懐が深い

●性格
 温厚。沈着冷静。思慮深い。慎重。

●能力
 能吏。忠実なベテラン官僚。難事件も解決。判断力。切れ味。老巧
 な腕のふるいかた

●管理者として
 筆頭与力としての力量。力量抜群。仕事をしっかりこなす。組まと
 め役。理想的な中間管理者。統率力。頼りがいのある上司。あこ
 がれの男性。筆頭与力としての識見抜群。筆頭与力にふさわし
 い行動力。臨機応変の決断力。老巧。苦労人

●補佐役として
 名補佐役。陰の力に徹する。長官をたてていつも控え目。激務を
 代行。名参謀。なくてはならぬ相談役。的確な意見具申。完璧なナ
 ンバー2。もっとも信頼のおける部下。信頼に応える努力

●仕事ぶり
 寡黙に働く。精勤。

●ロイヤリティ
 長官と一心同体。長官を心から尊敬。長官に全身全霊をささげてい
 る

●私生活
 酒好き

●作品関連
 シリーズののっけからの活躍。全編で活躍。シリーズに不可欠の
 人物

つぶやき:
『鬼平犯科帳』の長編の各章を1話とみたてると、文庫24巻は164話で構成されている勘定になる。うち、佐嶋忠介が登場しているのは134話(81.7%)におよび、トップクラス。
それほど、物語になくてはならないキャラクターということであろう。

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2006.04.05

佐嶋忠介の印象の形成(その2)

(つづき)

204_1

佐嶋忠介を通じて、おまさに手当をあたえ、連絡(つなぎ)の方法もめんみつに打ち合せさせた。[4―4 血闘]p139 新装p146

「長官(おかしら)!」
捕手をひきいて、与力・佐嶋忠介が駈け寄った。
「佐嶋か……よく間に合うた」
「はっ……」
「それにしても、おそすぎる。いま一歩、おくれたら、おれはこの世にいなかったぞ」
「おそり入り……」[血闘]p157 新装p165

(おまさがおみねのお目こぼしを願ったので)すぐさま平蔵は、与力・佐嶋忠介をよびよせ、おまさを加えて策を練った。[4―6 おみね徳次郎]p218 新装p229

或朝。居間の庭に咲いている木槿(むくげ)の花をながめつつ、長谷川平蔵が茶を喫していると、庭へ、佐嶋忠介が入ってきた。
「お、佐嶋。おみねはどうしている?」
「あきらめきっております故か、元気も出てまいりました」
「気をつけるのだな、佐嶋」
「は……?」
「元気が出るとあの女、取調べのおぬしへ色目をつかうやも知れぬ」
「御冗談を……」[おみね徳次郎]p234 新装p245

「女という生きものは、みな一色(ひといろ)のようでいて、これがちがう。女に男なみの仕事をさせたときにちがってくるのだ。もっとも盗みの仕事ではないがな」
「はい」
「老巧なおぬしも、只ひとつ、女には疎(うと)いなぁ」
「おそれ入りました。まったく、その通りで……」[おみね徳次郎]p235 新装p246

205_1

捕らえた五郎蔵をわざと逃亡させたのは、ほかならぬ平蔵で、このことを知るものは与力(よりき)の佐嶋忠介、同心・酒井、竹内など、ふだんから密偵たちとの交渉が多い人びとにかぎられた。[5―1 深川・千鳥橋]p21 新装p21

(木村忠吾につかみかかった田中貞四郎を)与力・佐嶋忠介がなだめた。[5-7 鈍牛]p255 新装p268

平蔵の手紙を南町奉行・池田筑後守長恵へ届ける。[鈍牛]p264 新装p278

「まことにもって、このたびは、われら一同の……」
 与力・佐嶋忠介が一同を代表して両手をつき、わびをいいかけると、長谷川平蔵は佐嶋の声を、
「よせ」
 とさえぎり、
「辞めずにすんだよ」[鈍牛]p285 新装p299

206

「長谷川様も私も、どのようなことを耳にしたとて、決して他(ほか)へもらすようなことはありませぬゆえ、申されにくいことも、はっきりといっていただきたい」[6―1 礼金二百両]p26 新装p27

「女の移り香というものは、なかなか落ちぬものだな」
謹厳な佐嶋が、冗談をいったのは、はじめて。[礼金二百両]p26 新装p27

佐嶋が、ずっしりと重い二百両の包みをさし出すと、
「よし。これで当分は、泥棒どもをつかまえるための費用(ついえ)に困らぬな」
「はい」
「このようなことを、あえてするおれを……おぬしの御頭を、おぬしは何とおもうな?」
「は……」
佐嶋忠介は、ついにたまりかね、両手で顔をおおやった。
「泣くな、佐嶋……」[礼金二百両]p38 新装p40

与力・佐嶋忠介が指揮する一隊が千住・荒川岸の足袋師・留吉の家を包囲。[6―3 剣客]p104 新装p110

「もしやして、その女巡礼なるものは、狐火一味の引き込みをつとめたのではございますまいか。行き倒れの身を一夜、山田屋の世話になり、夜ふけに起き出し、内から戸を開けて一味を誘いこむという……」
と、与力の佐嶋忠介がいうのへ、平蔵はうなずいて見せ、
「おまさをさがしてまいれ。忠吾が行け」[6―4 狐火]p129 新装p136

粂八が帰って行くのと入れちがいに、与力・佐嶋忠介が何かの報告にあらわれ、
「粂八が、よくまいりますが、何か特別な探索でも?」[6―5 大川の隠居]p201 新装p212

「馬を飛ばして大宮へ行け。萩原宗順とおよしをつれもどせ」
すぐさま、与力・佐嶋に、沢田小平次をつけ、大宮の油屋へ急行せしめた。[6―7 のっそり医者]p278 新装p290

207

寝所から起きあらわれた長谷川平蔵が、いきなり、当直の与力・佐嶋忠介を呼びよせ、
「雑司ヶ谷の鬼子母神の本堂の床下を洗って見よ。もしやすると、白峰の太四郎の隠居金が見つかるやも知れぬ」
というではないか。
おどろいた佐嶋が、
「あの、去年の……?」
「そうだ」
「ようおわかりになりましてございますな」
「うむ……ま、行って見よ」
そこで佐嶋忠介が配下を引きつれ、鬼子母神へおもむき、二日にわたって本堂の床下をさぐってみたところ、なんと、本堂・北端の床下の敷石のずれた箇所を発見し、この下を掘り起こして見ると、鉄ぶちの木箱があらわれた。
ふたを叩きこわすと、中には、蝋で密封されたもう一つの木箱が出て来て、この中に七百両の小判がおさめられたいたのである。これには、平蔵のやり口に馴れている佐嶋忠介も、
「いやどうも、御頭は、おそろしい御方だ」
おもわず、身ぶるいが出たという。[7―2 隠居金七百両]p72 新装p75

そのころ……。
長谷川平蔵は、老巧のの与力・佐嶋忠介を居間へまねき、酒の相手をさせている。
庭に夕闇が淡くたちこめ、生垣の枸橘(からたち)が白い花をつけて、その香りが居間にまでただよってくるかのようであった。
「佐嶋。あの万屋小兵衛をなんとおもうな?」
「いえ、みなみなとも語り合うて、おどろいております」
「どのようにおどろいた?」
「常の商人(あきんど)とはおもえぬ肝のふとさにて、よう、あれだけのはたらきを……」
「それは、常の商人ではないからだ」
「なんとおせられます?」
「あの爺いが、まともに友蔵と打ち合えるものか。つまり、前々からしかるべく、友蔵を見張り、じゅうぶんの支度をととのえていたのさ」
「ははあ……?」
「ふ、ふふ……おれがにらんだところ、あの小兵衛も、たたけば埃が出ようよ」[7―3 はさみ撃ち]p107 新装p113

平蔵は沢田同心を、報告に来た伊三次につけて砂村新田へやり、すぐさま、手配にかかり、みずから与力・佐嶋忠介と密偵・相模の彦十をつれ、これも密偵の小房の粂八が経営する舟宿〔鶴や〕へ、日暮れ前から、出張(*でば)っていたのである。[7―4 掻堀のおけい]p133 新装p140

南新堀町一帯へも平蔵自身が微行巡回したり、与力・佐嶋忠介をはじめ、粂八・伊三次・おまさなど選(よ)りすぐった密偵の眼を絶えず光らせているのだけれども、どうにもこうにも、雲をつかむようなことになってしまっていた。[7―5 泥鰌の和助始末]p183 新装p191

「ふうむ……近ごろ、めずらしく、本格の盗(つと)めをしたようだな」
すぐには、何の手がかりもつかめぬと知ったとき、長谷川平蔵は、与力の佐嶋忠介へ、
「こうなれば、由松・お粂の父娘(おやこ)を洗うよりほかに道はあるまい。もっとも、その二人、まことの父娘ともおもえぬが、な」
と、いった。
佐嶋も同感である。
(これはもう、どうにも仕方がございませんな)
といった表情が、佐嶋の面上にただよっていた。[7―7 盗賊婚礼]p251 新装p263

208

ここでまた平蔵は、粂八と二人きりで、ひそひそと相談をかわし、
「このことは、佐嶋忠介とお前のみに知らせておく。なればくれぐれも、隠密の連絡(つなぎ)にぬかりのないようにな」
「はい。合点(がってん)でございます」
この夜、平蔵は駕籠(かご)をよんでもらい、清水門外の役宅へ帰って行った。
翌朝。
平蔵は、与力、佐嶋忠介を居間へよび、二人だけで、かなり長い間語り合っていた。[8―1 用心棒]p34 新装p36

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2006.04.04

佐嶋忠介の印象の形成

池波さんは、筆頭与力・佐嶋忠介の印象をどのように造りあげていったか、関連箇所を抜粋して並べてみた。
読みすすむだけで、自分の中に佐嶋像が浮きあがってくるはず。

201

長官が堀帯刀から長谷川平蔵に代ったとき「おれは堀様がはなさぬので、おぬしを残しておくようにはからった」と小野十蔵へ告げた。[1-1 唖の十蔵]p28 新装p29
*この篇で小野十蔵は、〔野槌〕の弥平一味の〔下総無宿〕の助次郎を追っていた。

老巧の人物[1―4 浅草・御厩河岸]p141 新装p148

五十二歳にしては若々しく見える温顔。[浅草・御厩河岸]p142 新装p149

平蔵が役目についたのは二年ほど前からで、その前は堀帯刀(ほりたてわき)がつとめていた。
ちなみにいうと、佐嶋忠介は堀帯刀に属する与力であって、堀が盗賊改メのときはこれをたすけ、縦横に活躍した男で、
「忠介で保(も)つ堀の帯刀」
などと、うわさをされたほどであった。[浅草・御厩河岸]p142 新装p150

敏腕の前警吏[浅草・御厩河岸]p143 新装p150

「昨日から、おれは長谷川様御役宅内の長屋へ移っている」[浅草・御厩河岸]p143 新装p151

誠意をこめた火のような舌鋒をもって説きすすめる佐嶋の情熱に、
(御公儀のお役人にも、このようなお人がいたのか……)[浅草・御厩河岸]p145 新装p153

202

平蔵の代行を与力の佐嶋忠介がつとめるかたち。[2―1 蛇の眼]p29 新装p31

長官がいいださぬことを訊き出そうとするような男ではない。[蛇の眼]p30 新装p31

与力の佐嶋忠介が、
(この男なら、やれる)
と、(〔ぬのや〕の弥市に)目をつけたからである。
一年後。佐嶋与力によって感化された弥市は〔密偵〕の役目をおびて牢から出され、[2―5 密偵]p199 新装p210

そこで佐嶋与力は、はじめて和やかな表情となり、
「ま、久しぶりだ。一緒に蕎麦でもやろう。ここの天ぷらはうまいぞ」[密偵]p205 新装p216

佐嶋の声には真心がこもっている。うわべだけのものでないことは、この五年間のつきあいで、弥市はしみじみと思い知っている。[密偵]p205 新装p217

あわただしく駈けわたって来た彼の人生において、佐嶋忠介と出会ったことが、仲間への裏切りを決意させ、皮肉なことに、生まれてはじめての〔家庭の人〕となり得たのである。[密偵]p206 新装p217

「独身(ひとりみ)では却(かえ)って怪しまれようし、それに、お前を一生、この仕事にしばっておくつもりはないのだよ」
[密偵]p207 新装p218

「私の密偵です。あのぬのやにいる者の顔はすべて見とどけてあります」[密偵]p217 新装p228

「ともあれ、この役目は佐嶋にしてもらわねばなるまい。佐嶋も厭な役だが……」[密偵]p231 新装p243

203

(四谷の)組屋敷から与力の佐嶋忠介が先ず、馬を飛ばして駈けつけてきた。[3―6 むかしの男]p274 新装p287

久栄は、老巧の佐嶋与力のみをわが部屋へ招き、近藤勘四郎のことをさしさわりのない程度に打ちあけた。[むかしの男]p275 新装p287

佐嶋忠介の命令一下、山田市太郎と酒井祐助、小柳安五郎、竹内孫四郎の四同心が身支度をととのえた。[むかしの男]p279 新装p292

「悪党どもを捕らえるのでございます。何のしんしゃくが要りましようや」[むかしの男]p280 新装p293

「かまわぬ。火をつけろ」
と佐嶋かいいはなったものだ。
「よ、よいのですか?」
これには、山田同心もびっくりしたらしい。
「荒っぽいのが火盗改メの名物よ」
いつになく、佐嶋は興奮している。[むかしの男]p282 新装p296

近藤勘四郎をはじめとする曲者四人は、長谷川邸内の土蔵の中へ押しこめられ、かたく縛りつけられたまま、取り調べもされずにおかれてあった。
これは佐嶋忠介の命令によるもので、[むかしの男]p286 新装p299

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2006.04.02

木村忠吾を演じた志ん朝師匠の朗読

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(掲載誌2006年4月)

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志ん朝師匠の朗読CDセット

「おあとは、ご自分で……」

使命感に燃えた部下を働かせるリーダーとしての要諦、生きがいの持ち方、人情の機微、悪が生まれる根源--『鬼平犯科帳』は、池波正太郎さんが小説の形にしてぼくたちへ残してくださった豊潤な世界である。

いや、人によっては失われた季節感の再現を試みようし、気どらない江戸人の暮らしぶりにひたるであろうし、今夜の食卓にはこれをと舌なめりずりをしながら読んでもいよう。

『鬼平犯科帳』はそれほど多面的な楽しみを読み手に与えてくれるからこそ、文庫だけで二、三〇〇万部以上も刷られ、いまや国民文学の一方の雄となっている。

そう、国民文学--つまり大人の国語教科書なのである。しかも楽しく読める、というより自らすすんで読みたくなる国語読本。

含蓄に富んだ会話も、達意の表現も、心底からの笑いや泣かせ方も、すべて教えてくれる。

国語教科書なんだから小学生のときにやったように『鬼平犯科帳』は声をだして読んでみるべきだといおう。

黙読よりも音読のほうが適している小説がある、と喝破したのは池波さんと親しかった司馬遼太郎さんだが、教わるまでもなく、池波さんは文章を戯曲できたえぬいているから、一章書き上げるたびに自分で音読してはリズムを按配していたとしか思えないほど音感的なのである。

音読のお手本には、松本白鴎丈=鬼平のテレビで、木村忠吾を好演した志ん朝師匠の朗読四編がある。

間合いのとり方、会話の使いわけ、音声の高低--『鬼平犯科帳』の新しい次元が目の前に、いや、違った、耳のそばに広がるとは、このことであろう。

さすが、『鬼平犯科帳』に惚れこみ、生まれた息子さんを忠吾と名づけたご仁だけのことはある。

なのに、四編しかないのは、志ん朝さんとしては、
「おあとは、ご自分で……」
といいたかったのだと推察する。お手本としてはとびきり豪勢すぎるが。

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2006.04.01

長谷川平蔵宣以・年譜

長谷川平蔵宣以年譜

延享3年(1746)生   赤坂築地中之町(現・港区赤坂 6-11)
                 547坪。新国際ビルの辺
寛延元年(1748)
 ( 3歳)         (伯父:宣尹死)
               父:宣雄家督
寛延3年(1750)
 ( 5歳)         (継母死)
              築地湊町鉄砲洲へ(現・中央区湊 2-12)
                479坪。
明和元年(1764)
 (19歳)         本所三ッ目へ。(現・墨田区菊川 3-16)
                 1,238坪。
明和5年(1768)12月 5日
 (23歳)         家治に拝謁。
明和6年(1769)ごろ
 (24歳)         嫁を迎える。
明和7年(1770)
 (25歳)         長男:辰蔵誕生。
安永元年(1772)10月15日
 (27歳)         父:宣雄、京都奉行。
 〃2年(1773) 6月22日
 (28歳)         父:没(享年55歳)
 〃   9月 8日 遺跡を継ぐ。
 〃3年(1774)11月11日
 (29歳)         西丸書院番士(水谷伊勢守組)
               この時仕えた家基は安永8年急死。
 〃4年(1775)11月11日
 (30歳)         進物の徒。
天明元年(1781)
  (35歳)         次男:銕五郎誕生
 〃4年(1784)12月 8日
 (39歳)          西丸徒頭
 〃      12月16日 布衣を許さる
 〃6年(1786) 7月26日
 (41歳)          先手弓組頭
 〃7年(1787) 9月19日
 (42歳)          火付盗賊改メ(助役)
 〃8年(1788) 4月28日
 (43歳)          火付盗賊改メ(助役)免
 〃      10月 2日
                再び火付盗賊改メ(本役)
 〃       12月23日
                長男:辰蔵、御目見
寛政2年(1790)10月16日
 (45歳)           捕盗そのまま勤むべし
 〃      11月14日
                 人足寄場発議の件で時服2領、黄金
3枚賜る
 〃3年(1791)10月21日
 (46歳)           捕盗、明10月まで勤めよ
 〃4年(1792) 6月 4日
 (47歳)           人足寄場免。捕盗はそのまま。
                 黄金5枚。
 〃        10月19日捕盗加役、明3月まで勤めよ。
 〃5年(1793)10月12日
 (48歳)捕盗、        明10月まで勤めよ。
 〃6年(1794)10月13日
 (49歳)            火賊捕盗命ぜらる。
 〃 10月29日        時服3領を賜る。
 〃7年(1795) 4月
 (50歳)            病に倒れる。
          5月 6日家斉、側衆加納遠江守を経て高貴薬・瓊玉膏を賜る。
                  辰蔵が受領に加納屋敷へ。
                  実母死。
          5月 8日     辰蔵、父のお蔭もて両番となる。
          5月10日    薨じたが喪を秘す。
       海雲院殿光遠日耀居士。
  5月14日  同役彦坂九兵衛と岩本石見守を名代としてお役御免
を願う。
  5月16日  勤続を賞して黄金3枚と時服1領を賜る。
  5月19日  喪を発する。


つぶやき:
平蔵宣以(幼名・銕三郎)の生年について、長年、延享2年説が流布していた。出所は瀧川政次郎先生の『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(朝日選書 のち中公文庫)である。
平蔵の時代は生まれた年が1歳---の慣習をふまえ、寛政7年没・享年50歳という『寛政重修諸家譜』の記述を信じて逆算すると、何回やっても延享3年になってしまう。
そのことを拙著『鬼平犯科帳を助太刀いたす』(ワニ選書)に書いたら、墨田区教育委員会がまず認めてくれた。

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