堀 帯刀の家系と職歴
家系:
祖:美濃において斎藤道三に仕え、のち、織田信長、つづいて豊臣秀吉、関ヶ原では徳川方として春日山を守った秀治が祖である。
ただし、秀治の嫡孫・忠俊は、仕置よからずと所領45万石を収公、鳥居忠政に預けられ陸奥国へ配流。のち加賀国に蟄居して逝去。享年26。
秀隆の堀家の始祖・成令(なりよし)は、この忠俊の男と。
成令の嫡男が桂昌院(綱吉の母)付として仕え、のち、1500石。妹も桂昌院の侍女となる。
家禄:
下野国において1500石。
家紋:
三亀甲
屋敷:
小川町裏猿楽町。1400余坪。
尾張屋板
部分拡大。八郎右衛門は嫡孫。
生年と歿年:
元文2年(1737)生
寛政5年(1793)3月9日(57歳)卒
御目見:
宝暦10年(1760)11月25日(24歳)、家治に御目見。
職歴:
宝暦12年(1762)4月19日、小姓組として出仕。
安永3年(1774)6月15日、徒頭(38歳)。
天明1年(1781)8月20日、先手筒組頭(45歳)。3回組替え。
天明8年(1788)9月28日、持筒頭。
先手組頭のとき、火盗改メ助役1回、本役を足かけ4年勤める。
(年齢は当時の習慣にしたがつて、すべて数え齢)。
つぶやき:
長谷川平蔵宣以は、前任者の堀帯刀を敬して、その娘を、自分の細君の姻戚である万年家へ嫁がせるべく骨折ったが、これが裏目にで、帯刀から愚痴られて辟易した。
というのは、万年家の舅が、50を過ぎてから芸者ぐるいをはじめ、「4つ(午後4時)すぎの雨は上がらない。40すぎての色恋はとまらない」のたとえを地で行ったからである。
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コメント
本筋からそれてしまいますが、
人生50年の時代に、万年家の舅は50歳を過ぎてから
人生をリセットしたのですから、長生きされたのでしょうね。
投稿: みやこのお豊 | 2006.04.20 09:00
舅ドノは市左衛門頼意(よりもと)といい、寛政3年(1791)6月12日に73歳で薨じています。
堀帯刀の娘が嫁いだのは、嫡男・頼族(よりつぐ)で、3人目の妻としてです。
頼族が家督したのは、父・頼意がみまかった寛政3年で、時に49歳でした。つまり、堀の娘は、家督前に嫁いでいるから、暮らしぶりもたいへんだったでしょうね。
投稿: ちゅうすけ | 2006.04.20 09:47