火盗改メ本役・堀 帯刀秀隆の組替え(2)
(堀 帯刀どののお人がらを聴こうにも、贄(にえ) 越前(守)どのは堺、建部(たけべ)大和(守)どのは京都だ)
平蔵(へいぞう 40歳)は、なぜか火盗改メ・本役になった堀 帯刀秀隆(ひでたか 50歳 1500石)の用人の無愛想な振るまいにこだわった。
帯刀の火盗改メ・助役(すけやく)時代の働きぶりを話してくれそうな贄 越前守正寿(まさとし 45歳 300石)は奈良奉行として赴任したままだし、建部大和守広殷((ひろかず 58歳 1000石)はこの夏の初めに禁裏付となって京都へのぼってしまっていた。
(建部どのを高輪の大木戸でお見送りしたのは、つい昨日のことにのようにおもえるが、かれこれ半年がすぎている。歳月は光陰のごとしとは、よういうたものよ)
【参照】2011117~[建部甚右衛門、禁裏付に] (1) (2) (3)
瞬時、感慨にふけったが、立ち戻るのも早かった。
(そうだ、転任したばかりの先手・弓の7番手の与力・高遠(たかとう)弥之助(やのすけ 43歳)という手があった)
高遠弥之助は、平蔵(へいぞう)が銕三郎(てつさぶろう)時代に親しくしていた同組の、次席与力・高遠弥大夫(やだゆう)の職席を継いでいる。
松造(よしぞう 35歳)にいいふくめ、裏猿楽町の堀の屋敷へ走らせ、こっそり本所二ノ橋北詰のしゃも鍋〔五鉄〕の2階で待っていると耳打ちさせた。
弓の7番手の組屋敷は資料により、麻布竜土町としているものと麻布我前坊谷(がぜんぼうだに)と記しているものがあるが、とりあえず竜土町説をとっておく。
どちらにしても帰りの送り舟は、赤羽橋下となる。
弥之助は約束の時刻---七ッ半(午後5時)きっかりに〔五鉄〕にあらわれた。
「近くでともおもったが、ご存じのとおり、すぐそこの両国橋東詰には鶏肉市場があり、ここらあたりはしゃも料理の本場ゆえ、放俗(ぼうぞく)の味が楽しめるので、わざにお越しをいただいた」
高遠は恐縮し、
「生まれて初めて口にいたします」
堀帯刀秀隆と河野勝左衛門通哲(みちやす 62歳 600石)が相互組替えになったわけを訊いた。
河野家は四国の名門・越智氏つながりで、血筋も悪くはない。
「河野さまが同日(天明5年 1785 11月15日)に、留守番からとりあえず弓の7番手の組頭に発令なされたのは、上ッ方のほうで越智ご一族のお顔を立て、しかしご病気がちなので火盗改メは無理といいふくめられ、鉄砲(つつ)の16番手への組替えをのまされたと聴いております。手前どもとしますと、たびたび火盗改メのお頭をいただいてきておりますので、この同日組替えは、のぞむところでした」
鍋を仕込みながら、2人に酌をしていた三次郎(さんじろう 36歳)が、
「煮あがりました。どうぞ、ごゆっくり---」と降りていった。
「すると、河野うじは、一度も7番手の組へはお顔を見せにならなかったということかな?」
「はい」
(河野勝左衛門通哲の個人譜)
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