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2011.11.19

建部甚右衛門、禁裏付に(3)

「われが赴任するのは上(かみ)の役宅だが、下(しも)の水原(みはら)摂津守保明 やすあきら 64歳 400俵)うじは、たしか、長谷川うじのご縁者と耳にした」
建部大和守広殷 (ひろかず 58歳 1000石)が、平蔵(へいぞう 40歳)の表情の変化をうかがいながら口にした。

「はい。拙と同(おな)い齢の妹が摂津さまののち添えとして嫁(か)しましたが、一児をなしてすぐに没しました」

平蔵が述べた同(おな)い齢の妹とは、於多可(たか 享年17歳)のことである。
水戸家支藩の守山藩(2万石)の家臣・三木家から養女として、亡父・宣雄(のぶお 41歳)が引きとった。
銕三郎(てつさぶろう)は14歳まで一人っ子として育ったから、突然妹ができたわけだが、その年、三島宿で若後家・お芙佐(ふさ 25歳)によって性の愉しみの門をくぐっていたから、多可をおんなとして見がちであった。

参照】2007年10月28日~[多可が来た] () () () () () () (

多可は16歳で水原善次郎保明(やすあきら 40歳=当時 200俵)へ後妻として嫁ぎ、嫡子を産んで卒した。
細々しい体躯に、出産は無理であったかもしれない。

2007年12月3日~[多可の嫁入り] () () () () () () (

善次郎保明はその後、3人目の妻を迎えた。
幼児の保育つということもあったろうが、妻は5児を産んでいるから、まんざらでもなかったのであろう。
長谷川家としては、疎遠にならざるをえなかった。

2008年1月6日~[与詩(よし)を迎えに] (16) (17) (18) (19) (20) 

平蔵は、水原善次郎保明にふくむところはなかったが、疎遠の人の話題に和することもできなかった。

察した苦労人の大和守広殷が、
長谷川うじは、京にはつづいている知己もござろう、言伝(ことづ)てでもあらば、うかがっておこう」
祇園の元締・〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛(かくべえ 50すぎ)の名をだすのもはばかられた。

「下(しも)の禁裏附どのの役宅は寺町荒神口と、かすかにおぼえております。その荒神口を呼び名にしておる〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 67歳)という盗人の噂がお耳に達しましたら、お報せいただきとうございます」
「なるほど。あくまでも火盗改メかかわりであることよ、な。は、ははは」

後日談を記すと、助太郎はすでに病死していたと、解散してから京都西町奉行所に捕縛・処分された一味の者の調書にあることを、問いあわせた禁裏附・建部大和守広殷へ返書してきたという。

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