ちゅうすけのひとり言(79)
上(かみ)と下(しも)、両方の禁裏付が長谷川家にかかわりがあった幕臣というのもなにかの縁である。
禁裏付の職務を『江戸幕府大辞典』(吉川弘文館 2009刊)から写しておく。
禁裏付(きんりづき)
天皇の住まう禁裏御所の警衛や同御所内の様子、公家衆の素行を調査・監察するなどした江戸幕府の役職。
寛永20年(1643)、江戸幕府は明正天皇の譲位と後光明天皇の即位にあわせ、はじめて旗本2名を同職に任じ、以後、原則定員は2名で、勤務は当番制となった。
禁裏付の就任者は、従五位下に叙され、その職務の必要上、毎日参内し、御所内の御用部屋に詰めた。
禁裏付の参内する様子は、下橋敬長(しもはしゆきおさ)の談話速記録『幕末の宮廷』に詳しく、「なかなかに偉い勢い」と表現されている。
参内後の禁裏付は、武家伝奏(ぶけてんそう)と折衝したり、京都所司代からの書状を武家伝奏らに回付したりし、また武家伝奏らを通じて出される公家衆からの要望などを京都所司代に取り次ぐなどの仕事をこなした。
また、禁裏付の職務の一つに、天皇以下の日常生活を支える口向(くちむけ)を幕府の立場から監督することがあった。
その口向で働く口向諸役人の統括者は執次(とりつぎ)はと呼ばれる地下官人であった。 その地下官人は長橋局(ながはしのつぼね)に付属していたが、禁裏付は幕府から派遣された旗本として金銭の流れや口向諸役人の職務の状況を監督した。
この監督の結果、安永2年(1773)には口向の諸経費などをめぐる不正流用・架空発注事件が発覚するなどしており、同事件では大量の処分者を出し、口向を監督する機構改革も行われた。
なお、禁裏付は慶応3年(1867)に廃止されるまで存続した。
引用されている下橋敬長『幕末の宮廷』(ワイド東洋文庫 2007)は、当ブログの不正事件の探索の項で紹介している。
【参照】2009年9月23日[『幕末の宮廷』 因幡薬師]
同書から、禁裏付についての説明を転写する。
口向(くちむけ)諸役人
それから、今度は口向諸役人を申します。これは本をお控えおきを願います(講述の際刷物を配ってあったと思われる)。
御附武家(禁裏付) 口向、御附武家(オツキブケ)衆2人、徳川家の旗本御附人、上(カミ 北)の御附は、相国寺門前町が今日の官宅、その時分の役宅でございますが、其処におりまして、下(シモ)の御附は、今日で言う高等女学校(現鴨浙高校)になっております寺町荒神口の角が役宅。
それが月番です。
7月が下の御附が月番ですと、8月は上の御附が月番。
そうして、すべて御用を取り扱いますのは月番の職掌でございます。
非番の方は相談はむろんでございますが、役宅におきまして
御用は取り扱いませぬ、御用を取り扱うのは、すべて当番でございます。
これはなかなか見識なものでございまして、此処に御附2人と申します者が、御内儀の口向を総括し、取次以
下士分残らず、口向及び仕丁に至るまでの進退(官の任免)を掌る。
すべて御用談は、武家の伝奏(てんそう 伝奏に武家伝奏と寺社伝奏がある)と相談をし、武家伝奏も、徳川家へ御用談の筋は、御附の詰所(祇候 しこうの間)へ伝奏が罷り出て、御附武家(禁裏付)と相談する。
御附(禁裏付)の参内行列 それから、御附が役宅から朝廷へ向けて参上いたします時には、なかなか偉い勢いなものです。
先徒士(せんかち)3人、次に槍(持)、それから駕籠に乗りまして、昇夫(かごかき)が4人で、近習2人両側に召し連れまして、後に草履取と傘持、その後に押(オサエ)と申して、羽織を着まして一本差した下(しもべ)が2人ほどございます。
朝廷・公家衆に対する幕府の威光の虚勢でもあったろいう。
【ちゅうすけ注】左兵衛佐さんのコメントで触れられている平蔵宣雄の心くばりは、2009年9月9日~[宣雄、着任] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
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コメント
建部老、たいへんなときに禁裏付として赴任しましたね。着任から3年後の天明8年の正月29日の京都大火で御所も公家の家、二条城も焼けてしまいます。上の禁裏付の役宅も焼失したんではないですか?
それから、3年ほど前でしたか、長谷川平蔵宣雄が京都西町奉行への着任のあいさつまわりで東町奉行だか禁裏付だかに江戸の名工の手になる釣竿を心くばりしていました。あれは勉強になりました。相手の欲しがっている物を贈ってこそ心のこもったプレゼントと改めて学びました。
投稿: 左兵衛佐 | 2011.11.20 06:03
>左兵衛佐 さん
そうでした、この火事で御所復旧のために老中首座だった松平定信が公卿方の鷹司関白と交渉するために京へ上りました。
建部甚右衛門の禁裏附解任・持弓の頭への栄転は寛政元年7月28日です。
投稿: ちゅうすけ | 2011.11.20 07:14