ちゅうすけのひとり言(80)
下(しも)の禁裏付(きんりづき)の水原(みはら)摂津守保明(やすあきら 64歳=天明5年 400俵 役高1000石 役料1500石)については、13,年前の安永元年(1772)に平蔵宣雄(のぶお 54歳)が京都西町奉行として着任したとき挨拶まわりのついでに、触れたことがあった。
【参照】2009年9月8日~[ちゅうすけのひとり言] (37) (38)
宣雄が着任したときには京都でなく江戸で腰物奉行であった。
25歳で小普組の与(くみ)頭となり、45歳で腰物奉行に引きあげられた。
家禄200俵から800石高の腰物奉行であるから、抜擢といってよい。
有能でもあり、こころがけもつくしていたのであろう。
さらに、公家衆を相手の禁裏付にまでのぼった。
【参照】2009年9月10日[ちゅうすけのひとり言] (39)
於多可が産んだ源之助保興(やすおき)は、父の手あてもあったのであろう、15歳で書院番士として出仕しながら、27歳のときに博打かかわりで遠流となった。
この処分は、天明8年(1788)8月9日にくだされている。
当ブログは、まだ、平蔵(へいぞう 40歳)---(従弟?)保興処分の3年も前の天明5年3月をうろちょろしている。
翌天明6年7月、平蔵は先手組頭に抜擢され、次の年の10月19日から8年4月28日まで、冬場の火盗改メ・助役をつとめ、同年10月2日から本役を勤めている。
火盗改メは、武家を捕縛することはほとんどないが、博打だとどうであろう?
まあ、源之助をあげたのは目付の下の徒目付あたりと推察してはいるが、処分を聴いた平蔵はどんな想いであったろう。
妹おもいの強かった平蔵のことである、仏間でひそかに於多可の霊を慰めていたであろう。
(保明の実家・幸田家)
(保明と保興の家譜)
| 固定リンク
「200ちゅうすけのひとり言」カテゴリの記事
- ちゅうすけのひとり言(95)(2012.06.17)
- ちゅうすけのひとり言(94)(2012.05.08)
- ちゅうすけのひとり言(88)(2012.03.27)
- ちゅうすけのひとり言(90)(2012.03.29)
- ちゅうすけのひとり言(91) (2012.03.30)
コメント
ちゅうすけさん、史料探偵のような探求ですね。長谷川平蔵家について、養女の嫁ぎ先まで調べたのは、ちゅうすけさんがはじめてとおもいます。
ここまで史料が提示されてあると、後学の鬼平ファンには道がそこそこ拓かれたものといっていいでしょう。
しかし、7年間でしたか、1日も休まずに史料を公開なさっている姿には、頭がさがります。きょうのブログも最高。
投稿: 左兵衛佐 | 2011.11.21 06:06
>左兵衛佐 さん
いつも変わらぬお励ましのコメント、ありがとうござまいます。
7年間2,600コンテンツを毎日書きつづけられたのは、左兵衛佐 さんのようなお目の高い鬼平ファンの方々のお励ましがあったればこそです。
鬼平ファンにもいろいろあっていいわけですが、鬼平という一人の幕臣の視線で江戸時代を見ていき、判断する読み方もあろうかとおもいます。
このブログをつづけたせいで、ぼく自身、これまでの歴史の見方がずいぶん変わりました。それも、左兵衛佐 さんをはじめ、多くの鬼平ファンの方々のお力添えのおかげです。あらためにおん礼の辞を記します。
投稿: ちゅうすけ | 2011.11.21 11:04