ちゅうすけのひとり言(38)
きのう、掲示した下(しも)の禁裏付・水原(みはら)摂津守保明(やすあきら 50歳=安永元年(1772) 200俵)の[個人譜]を眺めていて、合点がいかないことが発生した。
ご同意を容易にしていただくために、その[個人譜]の一部を再掲示。
長谷川平蔵家の史的l理解のために、どうしても解明しておかなければならない疑問である。
水原保明は、幸田善太夫高成(たかなり 享年56歳 飛騨・高山の代官 150俵)の次男である。
水原家に養子にはいり、先妻は家つきの長女であったが、子をさずかることなく歿したらしい。
というのは、家督が許されることなく、罰せられて遠流になった長男の保興(やすおき)の母は後妻・「宣雄が女」となっていることからの推察である。
長谷川平蔵宣雄(のぶお)の個人譜では、仮に多可と名づけたこの女性は、銕三郎(てつさぶろう)の第一妹のところに記されている。
(鬼平こと平蔵宣以(のふため)の息・辰蔵が幕府へ提出した[先祖書]でも、養女・多可は、銕三郎の次---すなわち、妹と記載されている)
ここまでの経緯には、なんの疑念もおきない。
いろいろの状況から、当ブログ[多可がきた](2)で、彼女の年齢を銕三郎と同じにした。ただ、生まれたのは、わずかに多可のほうが遅れていたために、妹扱いとなった。
疑問は、ここからである。
多可が水原保明(40歳=当時)に嫁いだのは、宝暦11年(1761)、16歳なら平仄(ひょうそく)があうような気がして、[多可の嫁入り](1)にそう書いた。
さて、水原の長男・保興は、博打(ばくち)に手をだしたが、戒められて一応は遠のいたものの、胴元をした者にかかわりのある者に住まいを貸したということで、天明8年(1788)に島流しの刑に処(しょ)されている。
多可が後妻になった年に保興を産んだとすると、受刑のときの保興は27歳のはず。
(この年、父・保明はまだ京府iにあって禁裏付をつとめている。多可はもちろん病死してしまっており、保明は三人目の妻を迎えていた)
保興は、いわゆる軽輩御家人の家が密集している本所・南割下水の屋敷に、妻子とともに留守をまもっていて、博打にかかわりのある里見庄左衛門をとめた。
ここまではよくある話である。
2人の息子たちの幼名は、万之助と徳之助。
解せないのは万之助が、追放されていること。
一族の罪のとばっちりを息子がかぶる場合、たしか15歳になるまでは執行されなかったはず---とすると、万之助は15歳か、こえていたのかな?
15歳だったとすると、父・保興が27歳だったとして、12歳のときの子になるが---。
こういう疑問が、おいそれと解決するとはおもえないが、こうして記録しておくことで、いつか、奇特などなたかが、追跡・解釈してくださるかも。
ところで、2人の息子の母---つまり保興の後妻---は、朽木市左衛門寛総(ひろのぶ)の許へ、幼い徳之助をつれて身を寄せたとおもうが、『寛政譜』に朽木寛総の名はない。
織田信長が越前の戦線から遁走するとき、京への山あいの道を領していた朽木家に救われている。
朽木はそれほどの家柄なのに寛総が『寛政譜』に収録されていないということは、この仁、お目見(みえ)以下の家格だったか、大名家の家臣てげあったか。
ところで、息・保興と孫たちが処分されたとき、禁裏付・摂津守保明はどうしたろう。
京にとどまって職務を遂行しており、保興の不始末を憤っていただけでであろうか。
非番月を利用していそぎ帰府、あちこちに手くばりをしたか。
とにかく、天眼鏡で覗いて仔細をたしかめると、一族にはこうした悩みのタネをつくる仁が一人ほどはいるのが、人の世ともいえそうである。
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