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2009.09.10

ちゅうすけのひとり言(39)

長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳 400石)の、京都・西町奉行(1500石格 役料600俵)の着任あいさつまわり先のひとつに、禁裏付をいれた。

三田村鳶魚[御所役人に働きかける女スパイ]をたどりながら、3人の禁裏付(1000石格 役料1500俵)の名をあげておいた。
天野近江守正景(まさかげ 70歳 300俵)
高力土佐守長昌(ながまさ 54歳 3000石)
水原摂津守保昌(やすまさ 50歳 200俵)
 (年齢は安永元年(1772)現在)

職務は、鳶魚翁の解説を引用すると、

秀忠将軍の時、朝廷からのお請求によって設けられた皇居警察官ともみ申すべき役柄)

とある。

与力各5騎、同心各20人。ほとんど京都生まれ、同じく育ちだから、御所役人と縁つづき、顔なじみが多い。
したがって、口向(くちむき 天皇の諸事に仕える地下)宮人の不正の探索のことは、逮捕の時まで、与力・同心には洩らされなかった。
月番で隔月に交替で勤務し、与力・同心の何人かずつが禁裏の3門を警備に向けられた。

明治期の後年に宮廷人・下橋敬I長(けいしょう)氏が口述した『幕末の宮廷』(東洋文庫)から、宮廷人側から見た「(禁裏)御付武家」の項を引いておく。

御附武家(おつきぶけ)衆ニ人、徳川家の旗本御附人、上(かみ 北)の御附は、相国(しょうこく)寺門前町が今日(明治期)の官宅、その時分の役宅でございますが、其処(そこ)におりまして、下(しも)の御附は、今日でいう高等女学校(現鴨沂 おうき 高校)になっております寺町荒神口の角が役宅。

それが月番です。七月が下の御附が月番ですと、八月は上の御附が月番。そうして、すべて御用を取り扱いますのは月番の職掌でございます。

非番の方は相談はむろんでございますが、役宅におきまして御用は取り扱いませぬ。
御用を取り扱うのは、すべて当番でございます。

これはなかなか見識にものでございまして、此処(ここ)に御附ニ人と申します者が、御内儀(御所まわり)の口向を総括し、取次以下士分に残らず、口向および仕丁(じちょう)に至るまでの進退ちっ陟(ちょく 官の任免)をつかさどる。

すべてご用談は(公家側の)伝奏(てんそう)と相談をし、(公家側の)武家伝奏も、徳川家への御用談の筋は、御附の詰所(祗候間 しこうのま)へ天奏が罷(まかり)り出て、御附武家と相談をする。

御附の参内行列 それから、御附が役宅から朝廷へ向けて参上いたします時には、なかなかに偉い勢いなものです。
先徒士(せんかち)三人、次に槍(持 もち)、それから駕篭(かご)に乗りまして、舁夫(かごかき)が四人で、近習(きんじゅう)ニ人両側に召し連れまして、後には草履取と傘持、その後に押(おさえ)と申しまして、羽織を着まして一本差した下部(しもべ)がニ人ほどございます。


大げさな---といってはいけない。
失業救済とわりきっておこう。
合理主義だけがいいとはかぎらないのである。


案内同心 そうして、先へ向けて案内同心を一人ずつつけてゆきます。
案内の同心は、京都に常住居(つねずまい 父子代々京住みで、交替で赴任して来る上司の武家に仕える)ですが、徳川さんの御家来です。

その同心というものが、不都合のないように、先徒士三人の先に立ちまして羽織袴で、そうして案内をいたします。

そういたしませぬと、御附は徳川さんから来た人でございますので、どれがお公卿(公家)さんで、どういう身分の人やら、どれが宮さんで、あるいは、どれが五摂家だということは、区別が分かりませぬから、案内同心と申して、京都に常住で、御附こそ東京(江戸)から交代しまして、京都へ出て来て、御附から出世して町奉行になる。
その上にまだ出世すると東京(江戸)へ帰りまして、徳川さんの旗本の御用をいたします。

旦那(上司の御附武家)は始終代わりますが、与力同心は代わることはない、京都のことは黒人(くろうと)でございます。
その案内同心が先へついて、五摂家なり、宮さんなり、大臣、堂上(どうしょう)方がお出になってもも不都合のないようにいたします。(後略)


いくら町方だから禁裏とは縁がうすいはずとはいえ、それをかさに着たもめごとも持ちこまれようから、、この先の平蔵宣雄の苦労がおもいやられるというもの。

それはそうと、「禁裏付から町奉行への出世」ということだと、宣雄の着任は、ケタはずれであったことが、よく分かる。


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コメント

たびたびの書き込み失礼します。
この中に出てくる天野近江守はこの事件におけるもう一人のキーパーソンだと思います。
彼は二十年の代官勤務の後、勘定吟味役から佐渡奉行、持筒頭を経て禁裏付になっている、どちらかというと叩き上げノンキャリア官僚に近い経歴の持ち主です。家筋は大番のようですが、番士(書院番、小姓組などの両番筋に代表される)から御徒頭や御使番を経て目付になり奉行になるというい比較的家柄のよいエリートキャリア組とは違う出世コースを経ています。
二十年の代官経験と勘定吟味役経験があるなら、経理が多少わかっているのではないでしょうか?
御所の経費は、禁裏付の署名のある文書を京都代官所に持っていき、そこで支払を受ける仕組みのようですから、もし御所の経費がかさむなら、所司代から禁裏付に「最近、御所からの請求が多くて困るから気をつけるように」という指示くらいあっても不思議ではないのでは?
もし天野近江がマメな人なら、日記にその日目を通した文書で署名した金額についてメモくらいするのでは?
例「八月一日、賄頭より十貫目の請求に署名」とか。
それでも所司代から「経費が増え続けている」と言われたら「自分は八月分はいくらしか署名していないからおかしい」と答えるのでは?
そして京都代官の元にある伝票に査察が入り、禁裏付の署名のない文書に支払いが行われていることが発覚する、という流れがあったのではないか?と推測します。
中井清太夫がこの件に絡んでいるとしたら、彼の仕事はおそらくは京都代官所から差し押さえた伝票類のチェックだったのかもしれない、という気がします。

投稿: asou | 2010.01.05 12:56

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