備中守宣雄、着任(3)
「ほとんどの家士を、帰してしまったので---」
明和元年(1764)閏12月15日---まる9年間、西町奉行を勤めた前任の太田播磨守正房(まさふさ 59歳 400石)は、1500石格の供ぞろえの半分しか人数がいないことの言い訳をした。
「お詫びをしなければならないのは身共のほうでございます。一生にいちどの機会と、上洛の途次、先祖の墓参りなどで日を浪費いたしまして、ご迷惑をおかけいたしました。あとになって反省いたしました。墓参りなぞ、帰任のときにいたせばよかったのです」
備中守宣雄(のぶお 54歳)が深ぶかと頭をさげた。
謝った宣雄も、今朝の供ぞろえは、播磨守にあわせ、半分近くに減らしている。
【ちゅうすけ注】宣雄は、「帰任のときにすれば」と言ったが、翌2年6月には病死し、帰路は遺骨であったから、着任時に墓参して正解だった。
こういうのを「虫がしらせる」というのであろう。
「曲渕(まがりぶち 勝十郎)与力。この供ぞろえのこと、土井(大炊頭 おおいのかみ 51歳 所司代)侯には通じてあるな」
播磨守は、まだこだわっている。
気はよくまわる仁だが、胆が大きいといえるほどではないようである。
徳川直参の中でも名門のひとつである水野の流れから、こちらも清康以来の家柄の太田家の一に16歳のときに養子に入っているから、引きは多い。
二条城北門前の所司代の上屋敷が、東西122間半と大げさなほど広いのは、徳川の実力を示すためと、公家衆に対する威圧もあってのこと---銕三郎(てつさぶろう 27歳)は、腹の底で笑った。
高い物見櫓が、さらに威圧感を強めている。
新旧の町奉行が土井侯と面談しているあいだに、銕三郎は別の小部屋の襖をすべて開けはして、公用人・矢作(やはぎ)喜兵衛(きへえ 38歳)と対していた。
化粧指南師を、なんとか手だてをつくし、御所の賄頭(jまかないがしら)か勘使(かんづかい)の口向(くちむけ)役人の家への出入りを図っているというと、矢作用人は、満足げな笑みをもらし、
「どえらい謀(はかりごと)をお立てになりましたな。ことがうまく運びますことをる念じておりますぞ。それにしても、長谷川お奉行は、よき息をお持ちです」
【ちゅうすけ注】賄方と勘使が禁裏の購入を取り仕切っている。このうち、事件解決後、賄頭は幕臣を江戸から派遣するように変わった(下橋敬長・述『幕末の宮廷』(東洋文庫)。
「ひとつ、お伺いいたしてもよろしいでしょうか?」
「なにか?」
「矢作どののご出自は、三河・岡崎領下の矢作川にゆかりが?」
「そのことなら、然り---とお答えします。祖が代々、土井侯の配下であったのです」
「土井侯の?」
「三河に、かつて土居(どい)と称する郷があり、土井家はそこの土豪でありました。長谷川どのは、なぜ、他家の祖のことにご興味を?」
「いえ。恥ずかしながら、長谷川の祖も、駿州・小川(こがわ)の土豪から今川家の重臣になりましたもので---」
「今川衆でしたか。それなれば、大権現さまも駿府に預けられておられたから---」
「駿府にも、小川の法栄の屋敷があったやに---」
そのとき、家士の桑島友之助(とものすけ 39歳)が廊下の向こうから、と声をかけた。
「銕三郎さま。殿がご帰館になります」、
「では、ご公用人さま。また、いつか---」
「吉報をお待ちしておりますぞ」
(所司代・土井大炊頭利里の個人譜)
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