建部甚右衛門、禁裏付に(2)
「口向(くちむけ)役人たちの不正を摘発したのは、長谷川備中(守宣雄 のぶお 享年55歳)どの後任の山村信濃(守良旺 よしあきら)どのということになっておるが、われは、そうはおもっておらぬのじゃ」
「は----」
【参照】2009年8月10日[ちゅうすけのひとり言] (36)
新任の禁裏付ととして発令された建部大和(守広殷 (ひろかず 58歳 1000石)を叙爵名で記したのは、京へのぼって禁裏・公家を看視・応対する幕臣の叙爵は、京都西町奉行に任じられた長谷川備中守宣雄の例でみたとおり、発令からのお礼挨拶まわりのほぼ1ヶ月のうちに受爵してから上京していた。
(恒例の一括叙爵は、毎年12月の上旬であった)
建部広殷が江戸を発(た)つゆるしを得たのは、発令から34日後と『実記』に記載されているが、受爵日は欠落している。
しかし、34日内いずれかの日に拝受しているはずなので、以後は大和守でとおしたい。
「備中どのにも内々にも密命があったものと見ておる。その証拠に、おことが先に上京しておる。ふつうは、家族は同行しないものじゃ」
「恐れいました」
「隠密まわりの結果はいかがであったの?」
町方にも口向(くちむけ 宮廷)役人と縁故のある者が少なくないので、ことを隠密裡にすすめる必要があった。
お勝(かつ 31歳=当時)という旧知のおんなを容疑の役人の家へ入れ込ませようと図った。
【参照】2009年8月4日~[お勝、潜入] (1) (2) (3) (4)
禁裏は奥が淵のように深く暗いので、次は役人の内証たちのほうから釣り針に喰らいついてくるように化粧指南所をお勝に開かせた。
【参照】2009年8月24日~[化粧(けわい)指南師のお勝] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)
御所役人の購入代金ごまかとし解決の糸口は、あっけない形で見つかった。
【参照】2009年9月23日[『幕末の宮廷』 因幡薬師]
役人の内証たちを釣り針にかける方策として刷りはじめた〔:化粧(けわい)読みうり〕が縁で、誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼と親しくなったことも、尼がすでにこの世の人ではなく、建部大和守にはかかわりがないことなので伏せた。
【参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] (1) (2) (3) (4)(5) (6) (7)
2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)
| 固定リンク
「018先手組頭」カテゴリの記事
- 佐野与八郎政親(2007.06.05)
- 鎮圧出動令の解除の怪(2012.05.18)
- 佐野大学為成(2007.06.07)
- 先手・弓の6番手と革たんぽ棒(2012.04.27)
- 先手・弓の6番手と革たんぽ棒(5)(2012.05.01)
コメント