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2009.10.28

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(10)

左阿弥(さあみ)〕父子がいるのを認めた与力・浦部源六朗(げんろくろう 51歳)が、
「元締は、どうしてここに?」

円造(えんぞう 60すぎ)が、貞妙尼(じょみょうに 25歳)の夫が病死前に祇園社の境内で蝦蟇(がま)の油売りをしていたこと、その死後に仏道へはいったお(てい 25歳)の後ろ盾になっていたことを手短に話した。

納得した浦部与力が、銕三郎(てつさぶろう 28歳)や奉行に対しては使わない京言葉で、
「〔左阿弥〕やのうて、〔めんどう見〕の円造・元締いうて呼ばれてはるわけが、よう、わかりました」
円造は、照れもせず、きつい顔で、
浦部はん。手ェをくだしよった悪党らに、早う天罰をくだしてやっくとくれやす」

「元締はん、法度(はっと 法律)は法度どす。けっして私怨をはらすような真似はせえへんことや」
浦部与力が念をおすと、元締は不満顔ながらうなづいたが、眸(め)で銕三郎をちらりと見た。

小者の一人に、中之町の本道(内科)の町医・玄泉先生を呼んでくるようにいいつけ、別の小者には、今熊野の先の本山へこのことを知らせてこいと命じた。

玄泉がきて、遺体をていねいにあらため、緊張のあまりに心の臓が突然に止まってしまったのだが、そういう衝撃を与えた者がいたとすると、犯罪がおこなわれたと見てよいと診(み)たてた。
和田 貢(みつぐ 23歳)同心がそれを書き取っている。

浦部与力は、寺男に坐棺を求めてくるようにいい、小者をつけていかせるとき、帰りにご用聞き・〔大文字町(だいもんじまち)〕の藤次(とうじ)に声をかけてこい、といい添えた。

玄泉医師が引きとったあと、銕三郎貞妙尼の右手の爪を示した。
「爪のあいだに灰がついています」
「それがなにか---?」

須弥壇の裏の房への通路に浦部与力を案内した。
なぜ、そんな通路を知っているのかといったことは、訊かない。
銕三郎貞妙尼の関係を察していたのである。

茶室の風炉(ふろ)を示し、懐から灰がついている紙入れと紙片をわたした。
読みおえて和田同心へまわす。
和田は、おどろいた目を銕三郎へ向けたが、なにも訊かないで、与力へ返した。

「与力どの。尼は、襲撃者たちが房の表戸を叩いたとき、部屋は家捜しされるとすぐに察し、これだけを灰の中に隠したのです。拙なら、きっとも、灰の中に気づくとおもったのでしょう。尼は、このほかに、〔左阿弥〕からの10両(160万円)もこの房のどこかに仕舞っていたはずですが、奴らが持ちさったにちがいありませぬ」

小者が〔大文字町藤次(50歳前後)が来たことと、坐棺が届いたと告げた。
通路へ戻るとき、銕三郎は、三衣筥(さんねばこ)から投げだされていた緋色の湯文字をすくいあげ、坐棺におさまる貞妙尼の腰にまき、内股を隠してやった。

棺の貞妙尼の肩を引いて、脊もおこした。
躰は固まりかけていたので、手をはなすと元のようにしゃがもうとする。
彦十(ひこじゅう)に、房から布団をとってこさせ、躰の前につめた。

人目がなければ、顔に頬ずりし、乳房が暖まるで、掌で覆ってやりたかった。

本山から小者が帰ってきて、尼からは還俗の届けがでており、本山も門派とも無縁の女性(にょしょう)につき、奉行所でどのようにお扱いになろうと口だしはしない---といわれたと。

「それが、仏の教えを説く比丘(びく 男僧)のいい草かい」
左阿弥」の元締が吐いて捨てた。

遺体はとりあえず、新居になるはずであった錦小路通り・室町通り上ルの家へ移すことになった。
棺桶は幕で覆って分別がつかないようにし、小者たちが尾行者を見張りって運び込んだ。

襲撃者たちが証拠隠滅のために寺男を襲うこともおもんぱかり、1ヶ月ほど、移り住むように銕三郎がすすめた。

参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () (
 

参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () ()() () (


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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079銕三郎・平蔵とおんなたち」カテゴリの記事

コメント

なんということでしょう、貞妙尼さんの自立しての新生活を期待していましたのに。
殺されてしまうなんて! それも、宗門の僧たちに! 許せません!
銕三郎、断固、復讐です!

投稿: tsuuko | 2009.10.28 05:58

>tsuuko さん
そうなんです、〔左阿弥〕の元締もそう言ってます。
しかし、法は法で、とくに銕三郎は奉行の嫡男ですか、法を無視はできません。解釈の融通はできますが。
それで、まったく法に触れない復讐をしなければならないので、アイデアが必要なのです。
アイデアマンの銕三郎のことゆえ、ちゃんと、うまくやるとはおもいますが---。

投稿: ちゅうすけ | 2009.10.28 07:32

悲しい事ですdespair

誠心院内で起こったことなのに寺社奉行でなく何故町奉行与力が手配しているのか不思議でした。

貞妙尼は既に本山から還俗の許可がおりていたのですね。

投稿: みやこのお豊 | 2009.10.28 09:21

>みやこのお豊 さん
ごもっともな疑問ですが、寺社奉行(10万前後の大名が中心)は江戸で勤務しています。
京都町奉行は、近畿(大坂町奉行の管轄地を除く)のほとんどのことを管轄---寺社奉行の代行もしています。とりわけ、西町奉行は、近畿の寺社の公事も扱うきまりになっています。
また、事件は殺人なので、これはとうぜん、町奉行所の職分とおもわれます。

投稿: ちゅうすけ | 2009.10.29 05:48

ありがとうございます。
そうなのですか 京都西町奉行はとりわけ重い任務があったのですね。

お蔭で又一つ江戸時代の知識が増えました。

投稿: みやこのお豊 | 2009.10.29 11:31

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