化粧(けわい)指南師のお勝(8)
「つい先刻、戻りついたばっかりなんですよ。急のさしさわり事でも---?」
出てきたお勝(かつ 31歳)は、言葉のわりには、あっけらかんとした顔をしていた。
「夕餉(ゆうげ)は---?」
問いかけた銕三郎(てつさぶろう 27歳)に、急に声が甘えて、
「まだ。昼も抜いたんですよ。歩けないほどぺこぺこ---」
「よし。この近くで、食べさせてくれるところを探そう。松造。先に、どこぞで、食べて帰れ」
小粒を一つ、つかませた。
松造を見送ってから、1丁(109m)北の浄土宗西山深草派の総本山・誓願寺の境内にある料理茶屋〔五分五厘(ごぶごりん)屋〕へあがった。
(誓願寺境内の料理茶屋〔五分五厘屋 『商人買物独案内』)
【ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻3[艶婦の毒]で、この〔五分五厘屋〕の茶汲女をしていたお豊(40がらみ)を見初めて通いつめ、女房にしたのが絵具商〔柏屋〕の主人・四郎助である。p107 新装版p113 ここへ偶然にあがった銕三郎とお勝が夕餉をとったのも、因縁といえようか。
(誓願寺 『都名所図会』)
酒と膳を並べた女中を、呼ぶまで---と遠ざけ、お勝の盃に注いでやり、たがいに口へ運んでから、
「お勝に謝らなければならない」
坐りなおすと、両拳をついて、
「拙の身勝手で、お勝にとんでもないことを押しつけてしまったこと、反省しておる」
「あら、何事でしょう?」
声をひそめて、
「化粧(:けわい)指南師となって、禁裏役人に近づくことだ」
ほほえみながらお勝が、
「それを、なぜ、銕(てつ)さまがお謝りになるのですか? 私が好んでお請(う)けした生業(なりわい)ごとです」
「そういわれると、余計につらい。ほかに手だてはあったやにもおもう。軍者(ぐんしゃ 軍師)のお竜(りょう 享年33歳)どのであったら、別の案を練ったろう」
お勝が坐りなおした。
「銕(てつ)さま。私の前で、お竜お姉(,ねえ)さんの名は2度と出さないという約束でした」
「すまぬ」
「いまの化粧指南師の手職を、たのしみながらやってます。だから、昼餉(ひるげ)を抜いてでもこなしているのです。どうか、お気になさらないで、果報をお待ちになっていてください」
「ありがたい」
2人は重荷がおりたように、差しつ差されつ、料理に手をつけはじめ、お勝は、盛り合わせの百合根を、甲斐の香りがすると、銕三郎の皿にまで、箸をのばした。
勘定書を持ってきた女中に、お勝がさりげなく小粒を一つにぎらせて、
「近くに休ませてくれるところはあったかしら?」
「3丁ほど東へ行かはったら、高瀬川のへんに、ぎょうさん、おます」
高瀬川ぞいの出会茶屋で湯をいっしょに浴び、寝酒を酌みかわしながら、お勝は化粧指南師としての実入りのことを、笑みをまぜながら話した。
指南料の60文は〔延吉屋〕と折半、ほかに〔紅屋〕の紅を売りつけると6分4分で4分がお勝の手に、さらに〔中西〕の〔安三湯〕は3分7分で7分がふところへ。
「薬九層倍とはよくいったものですねえ」
「〔小町紅〕や〔延吉屋〕の白粉だって、似たようなものだろう」
「ほんと」
2人は笑い、
「銕さま。髪結(ゆ)いの亭主におさまりになりませんか。私の1日の揚がりを、いくらだとおおもいです?」
「さあ---」
「2分(8万円)ちょっと」
「なに? それでは、今夜のここの払いは、指南師どの持ちにしてもらおう」
「3日でも5夜でも、どうぞ。なんなら、先刻の〔五分五厘屋〕の分も持ちましょうか?」
「は、はははは」
「ふ、ふふふ」
「そういえば今日、私と同じ齢ごろの客に、立役(たちやく)にまちがいないとおもえるのがいました」
「わかるのか?」
「だって、紅をはいている手にさわってくるんですもの」
「禁裏のおんなか?」
「そうではなかったから、邪険に払いのけてやりました」
払いのけたふりをしてみせたお勝の手が、銕三郎の太腿へのびた。
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