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2009.08.28

化粧(けわい)指南師のお勝(5)

〔化粧(けわい)読みうり〕が配布された翌日のことである。

「お(かつ 31歳)指南師からの言付(ことづ)けです」
連絡(つなぎ)役の松造(まつぞう 21歳)が白粉問屋〔延吉屋〕から戻ってきた。

「うむ。なんと---」
「丸顔の娘(こ)ばかり、朝からのべつ幕なしで、昼飯を摂ることもできねえって、愚痴ってやした」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)は声をひそめた。
「公家(くげ)町からの客のことは---?」
松造も、とつぜん、武家の下僕の言葉づかいで返した。
「さようなことは、お口から洩れませぬでした」

「大儀(たいぎ)であった。おにこっそりとしゃべらせる役は、でなければつとまらぬ」
「さいでやすか。えへっ---」
松造は、まんざらでもない顔つきになった。

浦部どのを訪ねる。先刻、小者が伝えてきた。供をしてくれ」
浦部源六郎(げんろくろう 50歳)は、西町奉行所の目付方の与力である。
この与力だけが、新しく着任する町奉行・長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳 400石)に先がけて、銕三郎が上洛していることをしっている。
だが、その目的がなんであるかは、打ち明けられていない。

というのも、打ち明けられないのである。
京の東・西の町奉行所の与力・同心は、世襲のごとくに代々、その職席にある。
公家方に縁者とか知り合いがあって、公儀の上層部が策している秘密が洩れないともかぎらないから、銕三郎としても、打ち明けるわけにはいかないのである。
父・宣雄からも、旅立ちまえに、厳に申し渡されている。

銕三郎の任務を、おぼろげながらしっているのは、松造とおだけである。

だから、浦部与力には、「初瀬(はつせ)」名義で押小路のしもた屋を借りていると打ち明けてあった。

参照】2007年8月8日[銕三郎、脱皮] (
2008年4月26日[〔耳より〕の紋次] (1

西町奉行所は、二条城の西南側(現・中京区西ノ京北聖(ほくせい)町 :現在の西京中学のあたり)にあった。

参照】2009年8月13日[与力・浦部源六郎] (

近くのうどん屋へ入り、松造を奉行所へやった。
松造とともにあらわれた浦部与力は、この寒さにもかかわらず、うっすらと額に汗をかいている。
そういう体質らしい。

羽織袴をきちんと着た風格ある浦部をみた店のおやじがあわてて、お茶を用意し、心配そうな表情をかくして引っ込んだ。

「〔津国屋〕気付けの定飛脚便が、まわってきまして---」
浦部与力が差し出した手紙のあて名は、たしから〔津国屋] 気付---初瀬銕どのとなっており、追手書きのように、当人不在ノ節ハ、西町奉行所気付---浦部与力殿、となったいた。

開いてみると、上洛を機に、途中、駿州・田中城にごあいさつに立ち寄り、ついでのことに小川村の信光寺、林臾院に香華したので、おんな連れの旅がさらに遅れ、京へ入るのは11月10日すぎになろう---とあった。

参照】2007年4月6日---信香寺---[寛政重修l諸家譜] (
2006年5月23日---林叟禅寺---[長谷川正以の養父]


到着の遅れのことは、奉行所にも報じてあったらしく、浦部与力が、
「掛川からお出しになっておられます。10日すぎにご入洛ということだと、7日後でございますな」
太田播磨守 正房 まさふさ 59歳 400石)さまが、お発ちになりますのは---?」
「引継ぎと申しても形式的なものです。おそろいでのごあいさつまわりは、所司代どのと武家伝奏(てんそう)どのですみましょうから、3日もあれば---」
「その間は、〔津国屋〕かな?」
「とんでもございませぬ。太田摂津さまは、ご家族を先発なされいおり、ほんの少しの方々とともに、二条城に仮住まいなされますから、新ご奉行は、お役屋敷のほうへは、その日からお入りになれます」
(ということは、拙も役宅住まいであろうから、お(かつ)が押小路のしもた屋へ移り住むのは、7日後だな)

「拙は、その日、役屋敷へ移っていればよろしいのかな」
「はい。そのように手配しておきます」

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