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2006.04.17

堀 帯刀の任期

『鬼平犯科帳』では、第1話[唖の十Z蔵]で、長谷川平蔵は、天明7年(1787)10月に、前任の堀 帯刀の後任として火盗改メの任についたようになっている。

史実は、このときも、堀 帯刀は、まだ、本役を勤めており、平蔵は火事の多い冬場の助役(すけやく)として発令され、春には、きまりどおり解任されたのである。

池波さんは、どうして、平蔵を本役のように書いたか。
解釈は2通りできる。

本役・助役などといっては、読み手が混乱すとる判断したというのが、まず第一。

も一つの見方は、図版を掲げた『続徳川実紀』の記録を読み損なったという見方。
3101

掲げたのは、徳川幕府の正史ともいえる、『続徳川実紀』寛政8年9月から10月へかけてのページである。
上の段、9月28日の項に、「先手弓組堀帯刀秀隆は持筒頭」とあるものの、「火盗改メを解く」が省略されている。
(持筒頭は、先手組頭から選抜される、終着駅的な名誉職であるが、格は先手組頭と同じ1500石格)。

下の段、10月2日の項には、「先手頭長谷川平蔵宣以盗賊捕獲命ぜらる」とある。
これをこのまま読むと、平蔵が再任されたようにもとれる。

ところが、10月6日の項に、「先手弓(筒の誤記)頭松平左金吾定寅火賊捕盗の事。明の3月まで勤めよと命ぜらる」とあり、左金吾がずっと助役というか、副役をしてきており、平蔵が本役になっても続投していることがうかがえる。

松平左金吾は、姓や名からもわかるように、老中筆頭の松平定信の久松松平の一族であり、定信と相計って、長谷川平蔵の看視をする役目を果たしたというふうに睨んでいるが、その経緯はいずれ。

それよりも、解任のことより、昇進のことのほうを優先させる『徳川実紀』の記述のくせを読み取る術を身につけたい。

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コメント

私は読みてが混乱しないように、本役、助役の区別を書かなかったと思います。

投稿: みやこのお豊 | 2006.04.17 23:51

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