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2006.04.25

長谷川平蔵家の出自

『鬼平犯科帳』各篇のほとんどは、江戸とその近郊を舞台にしているから、話の経緯を入念にたどると、期せずして江戸案内にもなる。

板橋宿(板橋区)不動通り商店街(旧中山道)のバッグ店「シモカワ」の店主・榎田さんも、そんな読み方をしているひとり。

榎田店主によると、文庫巻8収録の[流星]で、板橋宿へ入った鬼平が、平尾町と仲宿の境にある道を左へとり、川越街道へ向ったのは、「シモカワ」と一軒おいた「肉の上原」のあいだ…いまは「島田屋」が建っているところがかつては道だった…と。

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中仙道・板橋仲宿から川越への枝道
(幕府道中奉行製作『中山道分間延絵図』部分)

地元の人が丹念に考証した末の結論だから、われわれとしてはすなおに受けとるべきだろう。

ついでだから紹介しておくと[流星]は、佳品[大川の隠居]で鬼平と親しくなった船宿〔加賀屋〕の船頭・友五郎とっつぁんが災難にあう物語で、鬼平も上方から派遣されてきた刺客に精神的に苦しめられもする。

さて、榎田さん流の読み方をすると、こちらも板橋宿が舞台になっている文庫13所載[-本眉]に登場する、相生杉と女男松で知られた名刹・乗蓮寺は、白山通りの拡張にひっかかって同区・赤塚5丁目へ引っ越したが、仲宿商店街の銘茶店「林園」と家電製品店「ミヨシヤ」のあいだの横町がかつての参道だ。

その先に、盗賊〔倉淵〕の佐喜蔵一味の盗人宿があった。

板橋宿でとく興味をひくのは、真言宗の2寺…不動通りの観明寺と仲宿の文珠院が奈良県桜井市初瀬(はせ)の長谷寺(はせでら)の流れであること。

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長谷寺・五重塔(絵葉書より)

長谷寺がこんなところへまで進出していたということからの推察だが、長谷川平蔵の先祖も初瀬を出て焼津市の小川(こがわ)に定着している。布教みたいなことで長谷寺に関係していた家ではなかったろうか。

これ、じつは発想トレーニングの手順の説明のつもりでやっている。
ビジネスの場であれば、長期、中期、短期ごとの目標をいくつも立てる(いまの場合は長谷川平蔵を調べる)。

目標に関連する情報が磁石に吸いよせられた砂鉄のように集まってくる(観明寺と文珠院の案内銘板の記述の初瀬の文字に目がいく。文珠院は音羽・護国寺の流れでもあるらしい)。

さらに情報を集める(桜井市の長谷寺から資料を送ってもらったり、護国寺とコンタクトをとる)。
集まった情報をしばらく暖めておく(無意識の領域でただよわせる)

ひらめいたものを現実にてらしあわせて検証する(長谷寺関係説を焼津市の郷土史家へ伝えてみる)。

このような順序で、仮説の是非があきらかになるわけだが、今日の段階では最後の詰めをまだやっていない。

つぶやき:
静岡県焼津市小川(こがわ)には、法栄(ほうえい)長者(没後、法永)と呼ばれた長谷川家の祖として記録にのこっている人が建立した林叟院と、今川から徳川へ寄属して三方ケ原の合戦で戦死した長谷川紀伊守(きのかみ)正長の墓のある信光寺があるが、どちらも曹洞宗。

林叟院については、SBS学苑パルシェ[鬼平]クラスの中林正隆さんの探索記が、
http://homepage1.nifty.com/shimizumon/dig/index.html
にある。

長谷川平蔵家の菩提寺の戒行寺(新宿区須賀町9)は日蓮宗。

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