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2006.04.24

平蔵のすばやい裁決

長年の疑問が解消するのではないか…そんな期待をもたせてくれたのが、[鬼平]熱愛倶楽部の新貝氏が探してきてくれた『千葉県史料近世編・伊能忠敬書状』だった。

伊能とは、日本を測量してまわり地図をつくったご仁。
いや、地図の小むずかしい話ではない。長谷川平蔵組の屋敷についての疑問だ。

江戸の幕臣の屋敷割りを描いている尾張屋板切絵図はたいてい、「先手組の組屋敷」と地面を一括しているのに、『音羽・雑司が谷図』にかぎって、目白台の該当区域(文京区目白台2、3丁目)を与力・同心名儀の各戸標記にしているのだ。

ここにあった3組の先手弓の組屋敷のうち、どれが長谷川組のものか。組下の与力の氏名でもわかれば特定できそうだと考えていた。
『鬼平犯科帳』の佐嶋忠介や木村忠吾はすべて池波さん創作の与力・同心だから論外。

実在者の1人は、老中首座・松平定信方の隠密の報告書『よしの冊子』に吉岡左市とあるが、家が絶えたか、平蔵の時代から半世紀ほどあとの尾張屋板には載っていない。

そこで『伊能忠敬書状』となる。寛政5年(1793)8月11日付で、佐原市(千葉県)の忠敬が家業の米屋の江戸店をまかされていた娘婿・盛右衛門へあてたもの。

「昨9日、長谷川平蔵さま組の杉浦庄八さま、中山弥左衛門さま、高橋源右衛門さまが村方へお出張りになり…」質入れ盗品の吟味があった。盗賊に頼まれて質入れした男の行方がしれないので、母親と五人組に江戸へ出頭して事情聴取をうけろと申しわたされた。いずれも律義者ゆえ、内々に長谷川さまへお願いしてなるべく早く一件落着にしてもらえ、というのがそれ。

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目白台の先手組組屋敷。右上に中山家(尾張屋板 部分)

単なる証人調べだが、縁をたよっての内々の依頼はむかしから行われていたのだ。

平蔵との関係だが、長谷川家の400石の知行地のうち180石余が片貝(千葉県九十九里町)にあり、盛右衛門の伯父がそこの村役人だった。

このエピソードを紹介した数年前の朝日新聞は、杉浦、中山、高橋の3人とも同心としていたが、史料はそうは記していない。身分は不明。

くだんの切絵図をあたってみた。中山姓の家は、東大病院分院前を南へ2、3軒入ったところにあった。ただし中山は中山でも、弥左衛門でなく文次郎。書簡も切絵図も諱(いみな)でないので確証はないが、長谷川組の与力の屋敷はとりあえず目白台図書館の前としてよさそうだ。

さて、伊能家の懇望をうけた平蔵が吟味を早めたかどうかも記録にないが、長びく公事(くじ)で庶民の生活(たつき)にさしさわりがでることを嫌っていた平蔵のこと、懇望されなくても早めに決着をつけたはず。

平蔵には点が辛めの『よしの冊子』も、「長谷川さまだと公事が早くすむので助かる」と喜んでいる町人たちを報告せざるをえなかった。

つぶやき:
長谷川平蔵と同時代に書かれた人物月旦『よしの冊子(ぞうし)』の、現代語訳は、
http://homepage1.nifty.com/shimizumon/yoshino_zoushi/index.html

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