長谷川平蔵の気ばたらき
この5月15日に引用した『よしの冊子(ぞうし)』が、長谷川平蔵のことを「利口者」「謀計者」ときめつけているのは、次の行為をいっているのであろう。
一. 先年、神田御門にあった田沼屋敷の近くで火事があったとき
長谷川平蔵は御城へ断って登城せず、自宅からじかに田沼
屋敷へ行き、風の方角がよくないから、御奥向きはお立ちの
きになられたほうがよろしいと存じます、私がご案内いたしま
しょう、と下屋敷まで案内したよし。
自宅を出がけに本町の鈴木越後方で餅菓子をあつらえさせ、
下屋敷へ到着する頃あいに届くように申しつけておき、早速
右の菓子を差しだしたよし。
自宅の者へも、もし火事が大火になった時には夜食をつくっ
て田沼の下屋敷へ持参するようにいい残しておいたので、
右の夜食も届き、つづいてふるまったそうな。
じつに気くばりの行きとどいたことだと、田沼も感心したとの
こと。
他からは一件もまだ届いていないところへ、平蔵からの鈴木
越後の餅、自宅からの夜食が届いたように、すべてかくのご
とく奇妙に手や気がまわるご仁らしい。
「先年の火事」とは、天明4年(1784)1月23日の早暁、神田鍛冶町2丁目から出火した件を指しているらしい。風の具合で、神田御門内の田沼の官舎へも飛び火することもありうる。
長谷川平蔵は西丸の書院番士だった。40歳の分別ざかり。
この気くばりを田沼老中に認められたか、同年12月8日に西丸の徒頭(かちのかしら)に栄進した。
徒頭は1000石格なので、家禄400石の平蔵には600石足高(たしだか)がつき、実収150パーセント増の出世である。
鈴木越後店の餅菓子は江戸一番の銘柄なので、田沼の中屋敷へ届けさせた分を5両とみても、徒頭を射止めたとすればお釣りがくる---というのが世評であったろう。
世評はあたっていない。
長谷川家は、亡父・宣雄のときから、役付になる家柄となっている。
宣雄以前は、両番の家柄とはいっても、みんな平の書院番士で終わっていた。
それが、宣雄のときから、1000石格の小十人頭をふりだしに、1500石格の先手組頭、京都町奉行と、出世コースの道がついた。
平蔵宣以も、息子の辰蔵(家督ののちは平蔵宣義---のぶのり)も、番方(武官系)としては終着点ともいえる先手組頭にまで達している。
したがって、鈴木越後の餅菓子で徒頭を釣り上げたといういい方は、ためにする言辞である。
ついでだか、平蔵の政敵---森山源五郎孝盛のエッセイによると、組頭などの役に新任したら、先輩の同役たちを料亭へ招いてもてなし、帰るときに鈴木越後の1両の菓子折を持たさないと、あとで意地悪をされたと。
(1両はいまの金に換算して10万円というのが常識。池波さんは『鬼平犯科帳』の末期には20万円と換算)。
もっとも、田沼時代とわざわざ書いているところから類推、田沼誹謗のための作為がないでもない。
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コメント
出る釘は打たれる。
封建時代はお互いに分を超えなければ良しとされた。
長谷川平蔵は400石の旗本で当時とすれば際だった
存在のため上司や同僚に目の敵にされたのでしょう。
鳥羽伏見の戦いの際、下級武士ながら西郷隆盛を総大
将で一手に全軍を掌握の官軍に対し、幕府側はそれ
ぞれ格式を重んじる家柄の大将を配置したので統制が
とれなかったらしいですね。 封建時代は能力よりも
家柄を重んじたからでしょう。
に対し、
投稿: edoaruki | 2006.05.18 09:34