松平左金吾のその後
寛保2年(1742)生まれの松平左金吾(当初は金次郎)は、延享3年(1746)に庶子として生まれた長谷川平蔵(当初は銕三郎)より4歳年長である。
したがって、先手弓の2番手の組頭へ横すべりしてきたのは54歳であった。歿した平蔵は50歳。
着任してきた左金吾は、気ぜわしく、与力・同心に、密偵たちとの縁を絶つように厳達し、密偵のリストを提出するように命じた。
絶てといわれた与力・同心たちは、当初は腹の中で笑っていた。火盗改メの職を免じられれば、密偵たちに密偵仕事をいいつけることはなくなるのだから、あとは単に知友として付き合っていけばいいとおもっていた。
しかし、リストを出せといわれると、ことは面倒になる。密偵たちが旧悪をあばかれて処刑されるかもしれない。
そこで、弓の2番手の与力・同心---『鬼平犯科帳』の佐嶋忠介、小柳安五郎たちは、ひそかに談合して、3,4人連名で1人の密偵の名をあげ、その密偵には、なるべく早く江戸を離れ、時をおいてふただび江戸へもどってくるようにいいふくめ、そうとうな路銀を渡して、対処した。
だから、ほとんどの密偵たちは、公けの場へ現れることなく、闇の世界へ消えた。
もちろん、左金吾グループも幕府の隠密を使って長谷川組の密偵を探したが、徒労に帰したみたいだ。
弓の2番手の与力・同心たちへの面従腹背の態度は、左金吾も気づいてはいたが、どうなるものでもない。何人かの与力や同心を買収しよう試みたが、うくまくいかない。
毎日うっとうしい気分でいたために、左金吾はもともと奇矯なふるまいの人であったのが、気欝が嵩じて、出仕もままならなくなった。
翌寛政8年8月27日の『続徳川実紀』は、
「先手弓の頭松平左金吾定寅病免して寄合となる。」
と記している。
『続徳川実紀』寛政8年9月27日の項
先手の組頭は34人いる。2人や3人、長く病欠しても、泰平時にはどうってことはない。それなのに病気免職願を出したということは、すでに歿したか、再起不能の病状であったとおもえる。
事実、9月14日には公式に喪を発している(公式に喪を発したということは、寄合の辞席願も受理された後とみていい)。
享年55。
このあと、不思議なことが先手弓の2番手組におきた。
左金吾の後任の組頭は、家禄1500石の加藤玄蕃(げんば)則陳(のりのぶ)であった。着任時56歳。小十人頭からの栄転である。
寛政9年10月9日に、火盗改メ・冬場の助役(すけやく)として、玄番が発令されたのである。
長谷川平蔵の残影の強い弓の2番手には、二度と再び火盗改メをさせないというのが、松平左金吾の方針であった。しかるに、左金吾が歿して1年後に組が火盗改メに従事するとは---。
ぼくは、これをワナと観ずる。
というのは、ひそかに温存していた与力・同心たちと密偵たちとの糸を、それみたことかとあからさまにするワナだったのではないかと。
ワナは2度、しかけられた。
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