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2006年6月の記事

2006.06.30

美質だけを見る

本コラムに登場させる幕臣でもっとも愛着を感じているのは、平蔵の同僚で、鉄砲組16番手の組頭・佐野豊前守政親(1100石)だ。

Sanokanon

経歴は堺町奉行や大坂町奉行を経ており平蔵の先輩で、15歳年長なのに、火盗改メ・助役(すけやく)という立場を忘れず、謙虚に教えを乞う姿勢をとった。
(←佐野家の表家紋 丸に剣木瓜)

欧米流パフォーマンスとかで、「おれが、おれが……」と自分を売りこむのが今日風と思われている。平蔵にもその嫌いがあった。だから同僚たちが敬遠しもした。

この国には、「能あるタカは爪を隠す」といって佐野豊前式のひかえ目を美徳とする暗黙の評価基準がある。
人望は、どちらかといえば平蔵流より豊前守式のほうへあつまる。

平蔵と豊前守は性格がまるで対照的なのにもかかわらず互いに敬意をもって親交をつづけえたのは、人を見るときは美質だけ、との豊前守の信条によるところが大きい。

豊前守の組の者が神田の岡っ引きの勘太を捕らえた。長谷川組の同心たちが所轄ちがいの所業といきまくのを、平蔵は「豊前どののやりようを学ぶよい機会(おり)だわ」ととりあわない。所轄ちがい---火盗改メ・本役の所轄は日本橋から北、助役は日本橋の南を担当、と決まっており、神田は本役の管轄内。

長年岡っ引きをやっていた勘太は、商店をむしった金で米屋株を買ったり、素行の悪い男たちを中間として番所や見付へ入れるなどの悪評が立っていた。平蔵もいずれ引っ捕らえるつもりだった。

佐野組はまず、中間の1人を博奕の現行犯で捕らえ、その身元引受人というふれこみで勘太が偽の名主や大家をこしらえて出頭してきたところを入牢させてしまった。

「あれで終わらせるような豊前どのではあるまい」
平蔵が与力同心たちへいった3日とたたないうちに、佐野組は勘太を放免した。

(うちのお頭も焼きがまわったか)組下たちがささやいたとき、佐野組は中間に化けてあちこちの見付へもぐりこんでいる盗賊たちを引きたてはじめた。勘太の密告(さし)だった。
「かの仁の悪(わる)の使いようは、おれ以上よ」と笑う平蔵から、長谷川組配下の者たちは敬意のささげ方をおぼえた。

ここで佐野豊前守のもう一つの顔を紹介しておきたい。
天明4年(1784)春、殿中で若年寄・田沼山城守意知に斬りつけた佐野善左衛門(500石)は、切腹を申しつけられて家は断絶。
人びとは彼を「世なおし善左衛門」とほめそやして墓前に紫煙がたえなかった。
本家すじの豊前守は大伯父にあたる。

善左衛門のことはほとんど話題にしない豊前守だったが、平蔵には洩らした。
「あの者は、とり柄の正義感が強すぎたがために扇動に乗りやす質(たち)で、父親が50をすぎてからの子なので諸事甘く育てられました。産んだのは美人自慢の、自分が中心になりたがる芸者……それを継いでいたのを反田沼派にたくみに利用され……」

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2006.06.29

長谷川平蔵の自己PRパワー

Machikata_1
石井良助先生編集になる『江戸町方の制度』(新人物往来社 1968.4.15---奇しくも、『鬼平犯科帳』の連載が『オール讀物』誌で始まった年)は、明治25年(1892)4月から翌26年7月まで、『朝野新聞』に連載されたコラムを、項目別に整理・編集した貴重な資料である。

その[人足寄場創立の由来]のところに「長谷川平蔵の逸事」と小見出しした文章があり、驚かされる(現代文風に手直しして引用)。

寄場創立のことを建議したのは長谷川平蔵という人物で、当時、腐れ果てていた官海の中にあって、不染の操を堅持していた循吏(注・志の高い役人)であった。(少略)

火付盗賊改メとしての平蔵は、微服(簡素な着流し)でしばしば市中を徘徊して民情を見もし、聞きもするとともに、組の配下たちの勤怠を監査していた。

ある夜、その手の組同心某が麹町9丁目(いまのJR四谷駅あたり)を巡行していると、たまたま編笠を眼深にかむって通りすぎようとする者浪人風の者がいた。
風体がいささか怪しげなので、誰何(すいか)して「待て」と呼びかけたが、その者は聞こえぬていで行きすぎようとする。
こやつ、間違いなく賊なりと、追いついて編笠に手をかけ、面(おもて)を覗いてみると、これなん、長官平蔵ではないか。
某は大いに驚き、恐縮・拝伏して謝ると、平蔵は声色をやわらげ、「やれやれご大儀、ご大儀。よくぞ心づかれた」と労をいたわり、悠々と立ち去った。

これのどこに驚いたか。
じつは、この顛末は、老中首座・松平定信方の隠密のリポート『よしの册子(ぞうし)』に、そっくりそのまま書かれている---ということは、微行している長谷川平蔵を、定信側の隠密が尾行して経緯を報告したことを示している。

隠密のリポート『よしの册子』は、その後、厳封されて、桑名藩に保存され、昭和の初期に森銑三さんが写しの一部を公表するまで、秘されていた。

したがって、『朝野新聞』の筆者は、このエピソードを、定信ルートでなく、長谷川平蔵ルートから流れた(正確にいうと、流された)ものに拠っている。

平蔵は、隠密が尾行していることを知っていて、その裏をかき、自分の側から、己れと己れの組下がいかに入念に務めを果たしているかを、定信方と世間に広めるために、情報を流しているのである。

つぶやき:
その自己PRパワーの強さは、戦国期の武士たちのそれにまさるとも劣らない。徳川後期の役人のものとはいいがたい。

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2006.06.28

『御仕置例類集』より(5)

長谷川平蔵名で、幕府評定所量刑をうかがった伺い状を、『御仕置例類集』から順次、紹介している。

○盗み   (寛政元年) 十六番
 上野国佐位郡国定村 百姓 大助
                       町中引き廻しの上、死罪

上記のもの、同類と馴れ合い、上州村々の百姓家の土台下を鎌で掘り抜いたり、締まっている戸をこじ開けたり、壁を切り破ったり、懸け鉄をはずしたりして侵入し、穀物を盗んで売り払い、その銭を配分、己は酒食・博打に散財。あわせて5カ所へ夜盗にはいったほか、広沢河原で新六の倅・彦助を絞め殺し、死骸を川に流して礼金を受け取ったのは、不届き至極につき、頭書の刑にいたしたい。
裁決---人殺しの件は、火盗改メ加役(助役)・松平左金吾からの伺いで、勘定方・根岸肥前守が取り調べたが、関与していないとわかったが、5件の盗みで、町中引き廻しの上、死罪に相当。

つぶやき:
町中引き廻しのコースは、磔(はりつけ)・火あぶりが行われる刑場が小塚原か鈴ヶ森で分異なるが、犯人が犯罪を犯した場所を、見せしめのためにコースに入れたようである。
もうひとつの引き廻しは、斬罪が小伝馬町牢屋敷で施行されるとき。裏門(俗に地獄門という)から出て、鉄砲町、本石町2丁目、十軒店、室町、日本橋、四日市、江戸橋、親父橋、新材木町、田所町、人形町通りより牢屋敷へ裏門から戻った。

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町中引き廻し(『風俗画報』より)

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2006.06.27

『御仕置例類集』より(4)

長谷川平蔵に関する、信憑性のある史料はきわめてすくない。
まずは、この、『御仕置例類集』の伺い状
つぎは、『徳川実紀』
そして、『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』(ただし、辰蔵が書き上げたものに、幕府の学者のテが入っている)。
あとは、風評伝承で、にわかには信じがたい。

で、長谷川平蔵名で、幕府評定所量刑をうかがった伺い状、『御仕置例類集』から順次、紹介している。

○盗み   (天明八年) 三十五番
 千住四丁目 百姓 又四郎
                入墨・敲きの上、村役人へ引渡し

右のもの、無宿・吉五郎に頼まれ、盗物と知りながら、二度まで衣類を質入し、質代金のうちから謝礼を貰い受けた。
また、吉五郎が盗んだことを知って強請り同然に衣類や銭を借りたのは、配分同様といえるので、上記の刑といたしたい。
裁決---盗物と知りながら代わりに両度も質入して礼金をとったも者は、御定書(おさだめがき)によると死罪である。しかし、このたびは宝暦6年の判例のほうにしたがい、
入墨の上、重追放

Irezumizu
入墨の図(『風俗画報』より)

○盗み   (天明八年) 三十五番
 千住小塚原町 安兵衛店 平次郎
             代銭をもって損失を償う      
上記のもの、盗物とは知らなかったとはいえ、氏名も住所も聞かず、出所も糺さないで松板を買い取り、店売りしたのは不埒につき上の刑。
裁決---持ち主・善右衛門へ、伺いの通り償う

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2006.06.26

火盗改メの役宅

6月10日から12日まで3回にわたって本欄に掲載した[現代語訳 『江戸時代制度の研究』]で、火盗改メの役宅は、原則としてお頭(かしら)の屋敷があてられる---と書いた。

池波さん松平太郎さんの名著『江戸時代制度の研究』を文庫巻3の[あとがきに代えて]で引用しているから、このことは熟知していたはずである。

その証拠に、1965年に発表した短篇[白浪看板](『別冊小説新潮』.夏号)に、物語の主人公・〔夜兎〕の角右衛門が、

  本所二ッ目にある火付盗賊改方頭取・長谷川平蔵の役宅へ
  自首して出た。

としている。

1
[白浪看板]を収録の『にっぽん怪盗伝』(角川文庫)

ところが、[白浪看板]から1年半後から連載が始まった『鬼平犯科帳』では、長谷川平蔵の屋敷目白台とし、そこでは不便すぎるからと、清水門外に役宅を置いて物語をすすめている。

池波さんの意識の中で、1年半のうちに、長谷川平蔵の屋敷が三ッ目通り(墨田区菊川2丁目)から目白台(文京区)へ移した経緯を推しはかりかねていた。

いや、目白台と誤解した根拠は、8年ほど前につきとめていた。昭和10年代に刊行された岡本博編『大武鑑』を台東図書館の加藤館長(当時)のご好意で、コピーさせていただいていたからである。

『大武鑑』は、江戸時代に毎年、サイズやページ数が異なる版が幾種類も刊行されていた『武鑑』を、ほぼ10年間隔でピックアップしてまとめた簡易版である。

コピーしたのは、たまたま長谷川平蔵の名が出ている、寛政3年(1791)の先手組頭のリスト。

Daibukan5

  長谷川平蔵 天六 七(注・天明6年7月に組頭に着任の意)
  与十同三十△目白だい
  (注・与十は、与力10騎、同三十は、同心30人の意。
  △は、与力同心の組屋敷の意)。

この組み屋敷の「目白だい」を、池波さんは長谷川家の拝領屋敷と早のみこみしたと推量したものの、もし、昭和10年代に出た『大武鑑』を、池波さんが長谷川伸師の書庫で見ていたとすると、[白浪看板]でも、役宅を「目白台」としたはずである。

で、このことはこの数年来の池波不思議の一つとして、気にかかっていた。

まさに、不勉強のいたり---行きつけの文京区・真砂図書館の開架棚に、『大武鑑』3冊を認めた。

Daibukan0

(はて。台東図書館でコピーしたのは、たしか2冊本だったが---)
手にとってみたら『改定復刻大武鑑』(1965.5,10 名著刊行会刊)。

ということは、池波さんは、[白浪看板]執筆と『鬼平犯科帳』連載スタートのあいだに、改定復刻『大武鑑』を入手し、「目白台」説に傾いたとみれば、疑問は氷解する。

つぶやき:
もちろん、『鬼平犯科帳』は小説である。長谷川平蔵邸が南本所であろうと目白台であろうと、読み手とすればいっこうにかまわない。
うん、目白台に置いたために、雑司ヶ谷や高田あたりが舞台になっただけ、物語とロケーション設定にふくらみがでているともいえようか。南本所や深川は、それでなくても登場しきりだ。

池波さんの「目白台」説の根拠は、亡父・宣雄の京都西町奉行への栄転にともない、南本所の屋敷は返上、京都から帰府したときに、目白台に新しく屋敷を賜ったとする解釈による。
遠国奉行へ転じても、江戸の屋敷はそのまま置いておくのが通例である。

〔夜兎〕の角右衛門

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2006.06.25

寛政7年(1795)5月6日の長谷川家

その日---寛政7年(1795)5月6日(旧暦)。

辰蔵
(たつぞう)が、呉服橋内(中央区大手町2丁目)にある側衆・加納遠江守久周(ひさのり 伊勢・八田藩。1万石)の上屋敷から、南本所三ッ目(墨田区菊川2丁目)の自邸へ戻ってきたのは七ッ(午後4時)をすこしまわっていた。

加納遠江守から辰蔵へ渡されたのは、将軍・家斉(いえなり)が、
平蔵(へいぞう)へ、つかわす」
と下賜した渡来の超高貴秘薬・〔瓊玉膏(けいぎょくこう)〕だった。

朝鮮産の薬剤を主に、明国で調製された将軍だけが服用したと伝えられている不老長寿の秘薬は、青白磁の壺に入れられ、葵の紋をあしらった濃紺の絹布に包まれていた。

辰蔵が〔瓊玉膏〕を病間へ捧げ入るまえに平蔵は、奥方の久栄(ひさえ)に、
「起こせ」
と命じた。

体調を気づかってためらう久栄に、
「いそげ」
支えられて半身が起きると、ゆっくりと正座し、辰蔵を待った。

「お上から、一日も早い快癒を、とのお言葉とともに賜ったと、遠江さまからのご伝言でございました」
辰蔵が告げると、平蔵は、西へ向かってふかぶかと遥拝し、
豊千代ぎみ……」
口中でつぶやいた。

この年、家斉23歳の青年将軍であったが、かつて西丸書院番士として仕えていた平蔵には、天明元年(1781)に9歳で一橋家から西丸入りしたときの幼な顔が眼前をよぎっていた。

添えられている黒漆の柄に皿部が朱塗りの小匙に黒みがかった憲法色の練り薬をすくった久栄が、涙ぐんでいる平蔵の口へ捧げて、
「お水を……」
「いらぬ」

Keigyoku
〔瓊玉膏〕

平蔵は、将軍の深い慈愛をかみしめるように、舌にのこる〔瓊玉膏〕の淡い甘みを味わった。

Kenpou
最上段が[憲法色]。京の吉岡道場の憲法が好んだ小袖の色とか。

辰蔵がいった。
遠江さまから内々のお言葉があり、拙めを書院番へお召しくださるとのご沙汰でございました」
「む」

当主が現役中にその息が召されると、給付される臨時の300俵はダブルインカムとなるから、長谷川家にとっては重ねがさねの恩寵となった。

ちなみに、『寛政重修諸家譜』収録の幕臣5千余家の記録を調べても、将軍家から病気見舞いとして〔瓊玉膏〕を下賜された例は見あたらない。

この5日ほど、平蔵の病状がおもわしくないというので、おまさは南本所三ッ目の長谷川邸へつめきり、久栄をはげまし、助けていた。
平蔵が西方の城に向かって伏せたときには病間の隅にいて、涙をぬぐいもせずに平蔵の姿に見入った。

平蔵が横になると、にじり寄り、
長谷川さま。お上のみ心が通じ、まもなくご回復でございますよ」
真意のこもったその声に、枕にのせた平蔵の頭がうなずいた。

「そうそう。彦十(ひこじゅう)のおじさんから芋酒を預かってまいりました。おじさんが申しますには、長谷川さまは、これが大の好物とか……」
、め……せっかくなれど、こんなざまでは、芋酒も無用だわ」
その台詞に、おまさは涙顔のまま笑った。

平蔵にはわかっていた。彦十のことゆえ、神田豊島町1丁目、柳原土手に面したところで、〔芋酒・加賀や〕の店を出している鷺原(さぎはら)の九平(くへえ)に、
っつぁん……いや、長谷川さまの具合があんまりよくねえのだ」
とかなんとか持ちかけて、どうせ、せしめてきた芋酒にちがいないと。

が、その思いはおまさには明かさなかった。
彦十のこころづかいがうれしかった。

慶事が二つ訪れたこの日の夜――。
長谷川家では、不幸もあった。
長く臥せっていた平蔵の生母がみまかったのである。

知行地のひとつ---上総・寺崎(成東町)で、平蔵の父・宣雄は、新田干拓の監督として滞在中になにくれと世話をしてくれた庄屋のむすめに手をつけ、銕三郎(てつさぶろう)が生まれた。

3年後、もともと病気がちだった長谷川家の当主・修理(35歳)が、もういけないというまぎわに、従弟の宣雄婿養子という形に して、こちらも病身で婚期を逸していた修理の妹の波津(はつ)と娶(めあわ)せた。

波津は妻としてのほとんどのことを果たせない体だったので、平蔵の生母が長谷川家の奥向きのことをすべて取り仕切った。

ちなみに、継母・波津は、銕三郎(家督後、平蔵)が5歳のときに赤坂の自邸で逝った。
そこは長谷川家の先祖が幕府から拝領した屋敷であったが、日当たりと水はけが悪く、修理や波津が病気がちだったのは、そのせいともおもえる。

気分を一新するために宣雄は、大川河口の、潮風と陽光がふんだんな築地へ転居した。
南本所へ越すまでの14年間、築地の家で実母とともにあった銕三郎はすこやかに育った。

その実母がみまかったのである。

寝たきりの平蔵ぬきの葬儀に、病床から辰蔵へ、平蔵が短く念を押した。
「戒名は父上と同格に……な」

従五位下、備中守であった宣雄のそれは、
  泰雲院殿夏山日晴大居士
実母は、
  興徳院殿妙雲日省大姉

 これから推察するに、実母の名は「とく」か「たえ」ででもあったろうか。

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2006.06.23

池波さんの盗賊用語(50音順)

池波さん『鬼平犯科帳』のために、数多くの盗賊用語新しく考案した。
その手練はまことにあざやかで、感心させられる。
多くの読み手は、新造語と気がつかず、江戸ことばと信じているようだ。
(---)内は、池波さんがふったルビ。
p00は、旧版文庫の当該ページ 新p00は、新装版のそれ。
[0-0]の前の0、文庫の巻数、[-0]は、その巻中での篇の順番

あ行
盗金(あがり)    [5-3 女賊]p108 新p113
密偵(いぬ)     [1-1 唖の十蔵]p10 新p10
現役(いきばたらき) [7-3 はさみ撃ち]p84 新p89
急ぎ仕事       [1-3 血頭の丹兵衛]p106 新p111
急ぎ盗(ばたらき)  [1-3 血頭の丹兵衛]p90 新p95
急ぎばたらき     [16-1影法師]p12 新p12
色事(いろごと)さわぎ[1-7 座頭と猿]p239 新p253
隠居金(いんきょがね)[7-1 隠居金七百両]p58 新p60
おさめ金(ヽヽヽ)  [5-1 深川・千鳥橋]p13 新p13
押し込み       [5-4 おしゃべり源八]p145 新p152
お盗(つとめ)    [1-3 血頭の丹兵衛]p106 新p112
盗(おつとめ)    [1-5 老盗の夢]p178 新p188
お目あて細見     [3-2 盗法秘伝]p52 新p71
遠国盗(おんごくづとめ)[1-5 老盗の夢]p169 新装p179
女だまし(ヽヽヽ)  [7-2 はさみ撃ち]p81 新p85

か行
鍵師(かぎし)    [15-1赤い空p50 新装p51
貸しばたらき     [1-7 座頭と猿]p235  新p249
首領(かしら)    [3-2 盗法秘伝]p52 新p55
かための盃      [1-3 血頭の丹兵衛]p113 新p118
 かため(ヽヽヽ)の盃[14-6さむらい松五郎]p264 新p
 固めの盃(さかずき)[14-2尻毛の長右衛門]p48 新p
勘ばたらき      [1-1 唖の十蔵]p21 新p22
ききこみ       [7-3 掻堀のおけい]p116 新p122
狐火札        [6-4 狐火]p121  新p128
急場の盗(つとめ)  [1-5 老盗の夢]p170 新p180
口合人(くちあいにん)[14-2尻毛の長右衛門]p50 新p
こそこそ(ヽヽヽヽ)盗(つと)め
           [10-5むかしなじみ]p181 新p191

さ行
支度金(したくがね) [5-2 乞食坊主]p53 新p56
泥棒稼業(しらなみかぎょう)[1-5 老盗の夢]p175 新p185
助(すけ)ばたらき  [7-2 はさみ撃ち]p80 新p85

た行
たらしこみ      [7-3 掻堀のおけい]p115 新p121
畜生ばたらき     [15-1赤い空]p50 新p52
仕事(つとめ)    [1-4 浅草・御厩河岸]p139 新p147
盗金(つとめがね)  [1-5 老盗の夢]p180 新p191
盗(つと)めざかり  [6-4 狐火]p138 新p176
盗(つと)め人(にん)[21-2瓶割り小僧]p52 新p54
盗(つと)めばたらき [10-1犬神の権三]p27 新p29
つとめやすみ     [1-5 老盗の夢]p174  新p184
つなぎ(ヽヽ)    [14-2尻毛の長右衛門]p46 新p
密偵(てのもの)   [10-1犬神の権三]p28 新p30
手びき        [1-1 唖の十蔵]p22 新p23
盗賊宿        [1-5 老盗の夢]p170 新p167

な行
ながれづとめ     [14-2尻毛の長右衛門]p46 新p47
流れづとめ(ヽヽヽヽ)[16-1影法師]p12 新p12
流れ盗(づと)め   [7-2 はさみ撃ち]p85 新p90
嘗帳(なめちょう)  [16-3白根の万左衛門]p114 新p
嘗役(なめやく)   [12-7二人女房]p308 新p
 ならび頭(がしら) [4-7 敵]p241 新p253
 女盗(にょとう)  [3-3 艶婦の毒]p106 新p112
 盗人稼業の真(まこと)の芸
  一、盗まれて難儀するものへは、手を出さぬこと。
  一、つとめ(ヽヽヽ)をするとき、人を殺傷せぬこと。
  一、女を手ごめ(ヽヽヽ)にせぬこと。
盗人宿        [2-5 密偵]p198 新p209
盗人宿(ぬすっとやど)[3-2 盗法秘伝]p66 新p69
盗金(ぬすみがね)  [16-1影法師]p12 新p13
盗み細工       [7-5 泥鰌の和助始末]p155 新p165
盗みばたらき     [16-1影法師]p12 新p12
鼠盗(ねずみばたらき)[1-5 老盗の夢]p174 新p177

は行
引退金(ひきがね)  [21-5春の淡雪]p176 新p181
引きこみ       [4-2 五年目の客]p51 新p53
引き込み(ヽヽヽヽ) [19-6引き込み女]p 269 新p277
一人盗(づと)め   [18-2馴馬の三蔵]p67 新p70
ひとりばたらき    [5-5 兇賊]p159 新p167
一人ばたらき     [18-2馴馬の三蔵]p46 新p50
独(ひと)りばたらき [10-1犬神の権三]p16 新p

ま行
真(まこと)の盗賊のモラル
 一、盗まれて難儀するものへは、手を出さぬこと。
 一、つとめ(ヽヽヽ)をするとき、人を殺傷せぬこと。
 一、女を手ごめ(ヽヽヽ)にせぬこと。
          [1-4 浅草・御厩河岸]p131 新p138

ら行
蝋型(ろうがた)金蔵 [15-6落ち鱸]p269 新p279
        錠前 [6-4 狐火]p166 新装p175


つぶやき:
さらに、用語を巻順に並べかえると、池波さんの造語の手順が分かる。
その順序は、後日、掲出。

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2006.06.22

『御仕置例類集』より(3)

長谷川平蔵名で、幕府評定所へ量刑をうかがった伺い状を紹介している。

○盗み    (天明八年) 三番
 浅草平右衛門町 幸七店 清六    きっと叱り

清六は、義母と同郷というよしみだけで、素性もたしかめずに無宿・新蔵と岩蔵から頼まれたので両人を止宿させた。そのとき、両人が衣類3品を盗んで質入したことを聞きながら、届け出ず、内々に取り戻してすましてしまったのは不埒であるから、きっと叱りの処分にいたしたい。
裁決---伺いのとおり

○盗み    (天明八年) 三番
 浅草復井町一丁目 幸七店 清兵衛後家 くら きっと叱り

くらは、新蔵と岩蔵のもっていたものを盗品の出所もたださずに、同店の新助に頼んで質入してやったが、同所ニ丁目・兵助店(?)・清六が盗品と気づいて返したとはいえ、届け出なかったのは不埒、きっと叱りとしたい。
裁決---質入れについては伺いどおりの量刑でいいが、無宿・岩蔵に見張りもつけないで取りにがしたことは、過料銭三百文

つぶやき:
どちらも不注意の結果とみたい。
罰金の300文は、1文を25円とみると7500円前後。くらの1日分の稼ぎ高かなあ。
注目したいのは、盗みの張本人の岩蔵は巧みに逃げて、タイトルには「無宿岩蔵、盗みいたし候一件」とあるのに、主犯の訴状・裁決文がないこと。長谷川組にも疎漏はあるのである。

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2006.06.21

『御仕置例類集』より(2)

○盗み    (天明七年) 三十五番
 板橋無宿・三之助坊主    死罪

三之助坊主は、板橋宿・豆腐屋で木綿反物一つをかたりとり、護国寺裏門の番所脇で竿にかかっていた木綿袷を拾った。、本郷新町屋の茶店では茶釜にかかっていた薬缶を、また湯横町では町屋の表庇の下に積んであった醤油を1樽をぬすんで売りはらった。
芝口3丁目では同類が馴れあって、飯釜・茶釜・銅壺蓋を盗みとったときは見張りに立って分け前を受け取った。
上野山下では銀入りのサイフを抜きとり、本郷3丁目では銭の入りのサイフを切りとった。
このほかにも、人ごみの場所で、腰銭、たもと銭や懐中の銭、を抜きとったのは不届きにつき、入墨の上。重敲き・門前払いといたしたい。
裁決---芝口3丁目では、無宿・伊勢乙が小屋がけ住居の板囲いを乗り越え、戸口の鉄錠前をこじあけて侵入しているのを外で見張った。自分は中へ入らずともこれは死罪

○盗み    (天明七年) 三十五番
 本所無宿・政次    入墨の上、重敲き・門前払い

政次は身持ち不埒で無宿となり、本所南割下水屋敷・門番所の戸が開いていたので侵入し、布子や引解を盗みんで売り払った。
石原町の辻番所でも質物代銭をとってにげている。
林町2丁目の屋敷稲荷で鉄灯篭・真鍮幣・木綿幟を盗んで隠しおいた。不届きなので上記の処分といたしたい。
入墨の上、重敲き・門前払い

Irezumis
『風俗画報』より

つぶやき:
政次の件がおなじ事件番号で、しかも頭書に「板橋無宿・三之助坊主、盗みいたし候一件」とあるから、三之助とどこかの盗みでかかわりあったのであろう。

天明7年の長谷川平蔵名義の伺い事件は、昨日紹介した分とこの分の2事件のみである。
もちろん、火盗改メは裁判権を持っているから、評定所へ伺いをあげるまでもなく独自で裁決した簡明な事件もあろうし、町奉行所送りとした事件も多かったろう。

また、三之助の犯罪伺いであきらかなように、ある時期まで、長谷川組の伺いは、評定所の裁決よりも1ランク軽い量刑を書いて伺う傾向があった。 

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2006.06.20

『御仕置例類集』より(1)

しばらく、幕府の評定所へ、火盗改メ長谷川平蔵名裁許を伺った『御仕置例類集』から、いくばくかの事例を現代語訳してみたい。
叙述の形式は、森永種夫さんの『犯科帳---長崎奉行の記録』(岩波新書)に準ずる。ちなみに、同書のタイトルから、『鬼平犯科帳』のシリーズ・タイトルが生まれた。

○盗み    (天明七年) 三十ニ番
 三河無宿・久蔵   入墨の上、重敲き・門前払い

久蔵は、無宿・巳之助と馴れ合い、神田明神下同朋町・卯右衛門の軒下に矢来で囲って積んである真木、湯島横町河岸でも真木を、たびたび盗んで売り払い、その代金を卯之助と配分した。不届きなので、上記の処分といたしたい。
裁決---伺いのとおり。

○故買    (天明七年) 三十ニ番
  下谷茅町ニ丁目 久兵衛店 半兵衛  代銭をもって損失を償う

半兵衛は、盗品と知らないで久蔵らから真木を買いとり、売り払った。「御定書(おつだめがき)」にあるとおり、被害金額分を弁償させたい。
裁決---伺いのとおり。

つぶやき:

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『御定書』を収録した『徳川禁令考』


吉宗の時代に成文化された『御定書百ケ条』の、故買・売の条には、
〔享保6年 1721・元文5年 1740極〕
(一 盗品と知らないで買い取り、売り払ったときは、売り先から買い戻させて被害者へ返還してやり、その損金は、盗人から最初に買い取った者が負担すること)

参照:
http://homepage1.nifty.com/shimizumon/sanko/index.html
[御定書(おさだめがき)百箇条』を読む]の2004年08月12日(木)の第57条。

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2006.06.19

超ロングセラー、一つの条件

ミリオン・セラーという。大ヒットして100万部以上も売れた本やレコードのことだ。ひとくちに100万というが、書籍では3年に1冊でるかどうかだ。

文庫が2000万部以上売れているシリーズを二つ知っている。司馬遼太郎さん『竜馬が行く』全8巻と、池波正太郎さん『鬼平犯科帳』全24巻。

後者は第1巻だけでも累計で150万部以上刷られている。
しかも、池波さんの生前にほぼ50万部、作家が逝ってから100万部、増刷頻度も早くなった。
池波さんの没後も鬼平ファンは着実に広がっているということだ。
朝日カルチャーセンターほかの「鬼平」教室で講じているが、土曜日午後のクラスには年配者にまじって、若い女性の受講者が目立つ。
鬼平ファンは新陳代謝の時期に入っているようだ。

年配の受講者には、『鬼平犯科帳』は雑誌に連載中から愛読していて、鬼平のことならすべてに通じていると自負している人もいる。

そういう人に、『老盗の夢』で簑火の喜之助が京都の一乗寺村で出会った山端(やまはな)の茶汲み大女・おとよの茶屋は、『都名所図会(ずえ)』に絵が載っていて、実際にあった店だね…というと、目をパチクリ。

722c
山端(やまはな)(『都名所図会』より)

722b
山端の麦飯茶屋(上の絵の部分拡大)

67歳の隠居老盗に勃然(ぼつぜん)たるきざし……つまりバイアグラ並みの効果をもたらした大女の巨乳は思いだしても、池波さんの創作の手の内までは推察していなかった。

鬼平は小説に登場後は、奥方専一主義をつらぬいている。
フランスのメグレ警視が鬼平のその主義のモデルだ。
ひろく女性読者を獲得してミリオン・ロングセラーになるには、細君のほかには目もくれない主人公でないといけなくなってきている。
『愛の流刑地』や『失楽園』はいっときはベストセラーになるかもしれないが……。なんだ、つまらない---などといわない。

史実の長谷川平蔵が奥方専一主義を守ったかどうかは記録にない。
とはいえ、平蔵まで八代におよぶ長谷川家の当主で正妻の腹から生まれたのは一人だけだ。むろん平蔵ではなく、辰蔵である。

鬼平の母親は、行儀見習いにきていた巣鴨村の大百姓・三沢家の次女ということになっており、冷や飯者の宣雄が手をつけた。

ところが、平蔵夫人……久栄(小説での名)さんはえらい。長谷川家の悪習を断ち切り、平蔵にも長男・辰蔵にも脇腹に子を生ませなかった。

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2006.06.18

余禄 池波さん激賞の江戸の味

『鬼平犯科帳』読むたのしみのひとつに、作中にでてくる食べ物…料理なり甘いものを賞味することをあげる池波ファンも少なくない。

こころえた編集者や番組制作者が、それらの料理のつくり方を絵解きしたり、池波さんが贔屓(ひいき)にしていた店を訪問した番組をつくって、それらがまたそれなりの人気を呼んでいる。

が、あの人たちがまったく気づいておらず、一度も書かれたりブラウン管に紹介されたことのない店……といってはいけない、そこはふつうの料理屋ではなく仕出し屋さんだ……をバラそう。

なに、バラしたところで好き者が殺到、味が落ちるということにはならない。というのは、ふつうでは食べに行くわけにはいかないのだから(いや、いまだからいうと、閉店してしまっているのだ)。

店名は〔若出雲〕、所在は北品川(だった)。池波さんがあるところに、こう書いている。

 折箱(おりばこ)の蓋(ふた)を開けて見たとき、私はもう、
 この弁当の旨さが半分はわかったようなおもいがした。
 折箱の料理というものは、まことに、むずかしい。調理をして
 数時間後に人の口へ入ることになるのだから、材料の選択(せ
 んたく)、調理の仕方、客筋の種類などを、よくよく考え、時
 間をはからなくてはならぬし、これを良心的につくろうとする
 と、他の料理にくらべて数倍の神経をつかうことになる。
 そして、食べる人が蓋をあけたときに、料理が、いかにも新鮮
 に見え、食欲をそそるように仕あがってなくてはならない。

Wakaizumo

 〔若出雲〕の仕出し弁当は、先ず、鮪(まぐろ)の刺身の切り
 ようからして東京ふうだった。他の料理の味つけにも丹精(た
 んせい)がこもっている。

長谷川平蔵が現代に生きていたら、大盗賊を召し捕った祝いの日や亡父の法事にはここへ弁当を注文したろうな、と思い、2代目のご当主だった森田弘康さんに懇望した。

玄関脇の部屋には池波さんが料理素材を描いた色紙が2枚かかっている。池波文学の研究をしているというと、キビキビした身のこなしのご当主が受けてくれた。池波夫人もご贔屓だとか。

[鬼平]クラスが品川宿跡を探訪した帰路、2階の座敷でご内儀のサービスで賞味。季節の素材を微妙に按配した膳だった。

翻訳家の相原真理子佐々田雅子山本やよいさんらを誘って会食したときには、ワイン研究の大家・山本博さんがひと口するなり「このごろは失われている、東京ふうの濃いめの味付け」と嘆声。
森田弘康さんを「2代目ご当主だった」と書いたのは、20002年ごろの秋に60歳という若さで急逝されたからだ。合掌。あとをご内儀と3代目の息子の弘さんが引きついでやっておられた。

あるとき、電話をしたら息子さんが「いろいろお世話にんなりましたが、ついにダメでした。なにしろ、親父がつくった借金がおおきすぎました」
借金の理由は聞かなかったが、材料を吟味しすぎたのだと推察している。

とにかく、一度もマスコミに紹介されることなく消えた、池波さん激賞の店である。

つぶやき:
ご主人・故森田弘康さんとのご縁は、こうして始まった。
〔鬼平〕クラスの品川ウォーキングのあとの懇親会食の場として、交渉に行った。
1人前15,000円といわれて、あきらめたとき、森田さんが、「なんのグループなんだ?」と聞いてくれたので、「池波さんの『鬼平犯科帳』の史跡を歩くグループで---」というと、「どうしてそれを先にいわない。池波先生のグループなら、予算でやってあげるよ」
予算は7,000円だった。それで、15,000円の膳がでた。
だから、店をつぶした責任の一端はぼくにもある。

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2006.06.17

町々へ触れを出したとき

長谷川平蔵組頭に着任した先手弓の2番手は、34組の先手のうちで、火盗改メとして過去に豊富な実績をもつ最優秀の組だが、それでも問題はあった。

見廻り同心の中には、市中の自身番屋へ顔をだしたときに鼻紙や煙草、草履などを暗にねだる手合いがいたのだ。

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町の自身番所(『近世風俗志-守貞漫稿-岩波文庫(一))

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鼻紙や草履といった些少の日用消耗品というところがいかにもつましく、下級官吏らしい。
先手組同心の俸給20俵2人扶持ていど。換算すると年30両どまり(池波さんは『鬼平犯科帳』末期には1両を20万円に換算)。

長谷川組同心:鈴木某はとりわけ遊び好きでとおっていた。
新宿の岡場所へしけこむ前に自身番屋へ寄っては娼妓への手みやげを用意させ、遊んでの帰りには家人への心づけまで受けとる不心得ぶりだった。

天明7年(1787)初冬から翌春へかけて、平蔵が冬場だけの火盗改メ:助役(すけやく)在任中も、鈴木同心は隠れてせびっていた。

渡すほうとすれば、なにせ相手はその名もこわい火盗改メ、断って仕返しされるのを恐れた。鈴木はそこへつけいった。

この年の夏、老中首座についた少壮:松平越中守定信賄賂(わいろ)禁止令は、下部まではまだ徹底していなかった。

天明8年の秋、火盗改メの年中とおしての本役へ任じられた平蔵は、綱紀粛正の改革令を発する。
一切の付けとどけを禁じたのもその一つ。町々へも、飲食を強要したり金銭を無心する組の者がいたら長谷川屋敷へ注進するようにとの触れをまわした。

町方から喜ばれなければ、町方からの有益な情報は持ちこまれない、与力10人同心30人ぽっちで広い江戸市中を監察するには、町方がもたらしてくれる情報がなによりの宝……そうふんでいたのだ。

そうそう、例の鈴木某、平蔵の禁令で手も足もでなくなったとしきりに嘆いたことが史料にのこっている。

禁じるばかりでは部下の不満も高まる。ものの本はこう伝える。

平蔵気取り(工夫)、気功者(気くばりができる)で人の気をよくのみこみ、借金がふえていることはいっかな気にしないで、組の与力同心へは酒食をふるまっている

火盗改メの役料――職務手当は50人扶持。これは1日玄米2斗……舂きべり2割とみて1斗6升。精米1升100文試算で月額10両前後
役務を遂行するための諸経費牢番の手当て、入牢者の食事費などもこれでまかなうから、決して多い額ではない。

平蔵が本役のときに冬場の助役についた佐野豊前守政親(1100石。59歳)は、半年間に借金を400両もつくっている。火盗改メを真面目に勤めると家産が傾くとまでいわれた。

部下たちにしっかり働いてもらうために、平蔵は悠然と身ゼニを切りつづけた。
長谷川家家計が逼迫していることを知っている与力同心たちは、
(このお頭のためなら)
固く心にきめた。

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2006.06.16

老人力に目をつけた

「かねがね、機会をみてお手前がたに教えてもらいたいと考えていたことがござってな。いや、はや、はずかしながら、身どもが大どら(放蕩)だった若き日には、お手前がたの店へたびたびお世話になったものだ」

江戸には2千軒と定められている質屋の、当番の世話役……月行事(がちぎょうじ)の20人などを、役宅となっている三ッ目通り(墨田区南部)の自邸へ呼んだときにも、長谷川平蔵はいつものくだけた口調ではじめた。

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斉藤 博『質屋史の研究』(新評論 1989.4.10 \20,000)

厳父の目をかすめて持ちこんだ伝来の腰のものを、お手前がたは刀装…こしらえばかり値ぶみして、刀剣の生命である刀身はいっかな評価しないのは、どういった次第からかな」

「申しあげます」と切りだしたのは南鍋町2丁目裏(中央区銀座6丁目)の〔近江屋質店〕の当主。この業種に特有の青白い顔をしている。

「お武家さまが腰のものを質入れなされたら…」と解説した。刀剣は柄(つか)の先端の縁頭の細工と材質、目貫(めぬき)の形、柄糸(つかいと)の色、鍔(つば)元の止め金のさばきと中央の切羽(せっぱ)の材質、鞘(さや)と下緒(さげを)の色模様を書きひかえるが、刀身は寸法のみで銘は見ないきまりになっているのだ、と。

「武士の魂もお手前がたにかかっては算盤の玉のひとつでしかないということか」
平蔵の皮肉を冗談につつんだいいようを、代表たちは笑声でうけとめた。

「ところで足労させたは、刀剣を質入れするためではない。賊どもの跳梁(ちょうりょう)は承知のとおりだ。奴らが頼りにしているのが故買屋とお手前がた…」

で、その齢でもないのに隠居している仁は、火盗改メにしばらく手を貸してほしい。20人ばかりでいい、なに、公儀のご用といっても、組の同心と連れだって質商をまわり不審な入質品の有無を聞いてまわるだけだ。

「のう、〔近江屋〕。その方のおやじどのも隠居の身と聞く。お天道(てんとう)さまの陽の下を歩けば、これまでの日陰での半生も日焼けで帳消しになるだろうよ」

隠居した〔近江屋〕彦兵衛が盗品をひそかに買い入れていたことを皮肉ってもいる。

平蔵はこうもいった。
武士の身上が胆力なら、質屋のそれは眼力であろう。ご隠居どのたちは長年、その眼力を鍛えぬいている。それを借りたい」

一同に異論はないばかりか平蔵の柔らかな人あしらいぶりが、あっという間に江戸中の質商へ伝わり、緻密な情報網となった。

また、眼力を認めているといわれた隠居たちは、もうひと花咲かせる気になり、すすんで日焼けした。

当節は、今日の市場の売れ筋をPOSで吸いあげているが、1か月先、半年先の、まだ顕在化していないマーケットの動向は、第一線で販売に従事している生身の目と勘でなければとらえられまい。平蔵の狙いもそれだった。

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2006.06.15

出来る男の隠しポケット

長谷川平蔵が捕らえた3巨盗として真刀小僧、葵小僧、大松五郎をあげたら、ある鬼平ファンから、
 〔早飛〕ノ彦はどうなっているのだ」
と指摘された(彦の逮捕の顛末は6月3日に記述)。

いわれてみるとたしかに彼もたいした泥棒だが、ちょっと見えっぱりのところがあって好きになれない。いや、葵小僧や真刀小僧に好感をおぼえているわけではない。

〔早飛〕ノ彦のどこが気にいらないか……捕らえられて平蔵に尋問されたとき、
「手下どもはお構いくださるな。手前が、今夜は四谷へ行け、お
前は浅草へ行けと指図していたのであって、連中はろくな奴らで
はありませぬ。私めがこうして捕らえられたからには、今後は酒
屋で酒代をふみ倒すていどのことしかできますまい。うっちゃっ
てお置きなさい」
ぬけぬけとたたいた大口がいかにも小物を思わせる。

『よしの冊子』によると、〔早飛〕 が起居していたのは赤坂門外定火消屋敷のがえん(火消人足)部屋。
何十人もが大部屋で起臥し、丸太棒を枕にして寝、いざ火事となると不寝番がこの丸太を槌でたたいて起こした。

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枕の丸太棒を槌で打って起こされたがえん部屋
(『風俗画報』明治31年12月25日号より)

フンドシひとつで火がかりをしたから、みごとな刺青(いれずみ)が目立ち、それだけ無法者の巣窟にもなりやすかった。

早飛が巣くっていた赤坂の役屋敷の主は松平隼人(4500石)。22歳という若さで持ち出しの多いこの役職を命じられたのは、裕福と見なされたからだ。

寛政3年(1791)、平蔵はがえん部屋を探れ、と指令した。
泥棒の頭目・早飛がそこにいる、と差した者がいたのである。

察したは、吉原へ隠れ、さらに板橋宿の食売旅籠へ移ったが、長谷川組の捕方がやってくると聞き、駕籠で逃げようとしたところを捕らえられた。駕籠だと顔は隠せるが行動の自由がきかない。

赤坂では早飛のほかに2人、駿河台堀田主膳(4200石)方でも2人、小川町米津小大夫(4000石)の部屋でも2人、御茶ノ水中根内膳(6000石)の役屋敷でも2人あげられた。

手下は150人ほどもいると早飛が豪語していたにしては実勢はいたって少ない。

がえん部屋を狙ってみよとの平蔵の指示には、出来る男は隠しポケットをもっておくべきだという教訓が含まれている。
たとえば営業畑なら、いざとなったらある金額なら仕入れてくれる先を保持しておけということだし、広報担当なら頼めば間ちがいなく記事にしてもらえる記者をつくっておくべきだなのだ。

そのころ、
「長谷川平蔵は無宿人を取りこむ人足寄場にかかりきりで、盗賊
対策が手薄になっている」
との陰口がささやかれ、
「そんなことはない」
と実績を示して見せる必要に迫られていた。
で、大身旗本が就任している足もと---定火消のがえん部屋を狙った。

ほんとうは、がえん部屋などはいつさらっても2人や3人はひっかかる猟場だ。

〔早飛〕ノ彦の大盗賊あつかいも、じつは平蔵の意図的な情報操作だったような気がすること、しきりだ。

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2006.06.14

信用は美徳

『鬼平犯科帳』はキャラクターのデパートだ。
社会生活で出会うほとんどのタイプの人物―善人も悪人も、そしてあるときは善人で別のときには悪人になる者も―が描かれている。
「人間学」の教科書ともよばれるゆえん。

そんな中で、人間にとってもっとも大切なのが、信用され信頼されることであることを示唆する。

同心・小柳安五郎信用という美徳に加えて誠実という美質もかね備えている。
さらに組きっての美男(テレビ化ではこれが隘路に。美男で演技力のある男優は売れっ子になるから撮影スケジュールがとりにくい。そのためにテレビでは安五郎は存在感がほとんど希薄になっていた)。

こんな安五郎に女性が惚れなかったらどうかしている、といいたいところだが、役目で出動中に細君が初産の赤子ともども逝ってしまったことを自責、わき目もふらずに公務に精をだして自分をごまかしている。

同僚の木村忠吾より早く、[1-3 血頭の丹兵衛]から名前がでているが、寛政5年(1793)の[あきれた奴]まで印象がはっきりしない。妻子が逝ったことがあかされるのもこの篇で…。

亡妻と赤子は浅草・安倍川町(現・台東区元浅草3丁目)の竜源寺(架空)に葬られている。
安倍川町の一部は永住町へ変わり、さらに現在の元浅草3丁目となった。

永住町池波少年が育ったところで、同地には浄土宗・了源寺がある。池波さんにとっては遊び場所のひとつだった。

了源寺の住職は、至近のところにある真言宗・竜福院と、2寺をあわせた命名だろうといたって無欲だが、ぼくの推察は、了源寺をそのまま記さなかったのは池波さん流のテレ隠しだと。

Photo_21
蔵前から安倍川町近辺(近江屋板・部分)

Photo_22
上図の部分拡大。緑点=左から竜福院、了源寺

小柳安五郎の人品が、盗賊 〔鹿留〕の又八との心の交流を通して描かれた[8-2 あきれた奴]は、ぼくのベスト5の1篇だが、この中の鬼平の安五郎評……、

「小柳も今年、30を一つこえたな。男をみがくのはこれからだ
部下にいってみたい台詞だし、男ならもちろん銘記してしかるべき金言。
男のみがき砂はこの世にはそれこそいくつもある。が、最優先すべきは、約束を守ることだ。人の信用は約束を守りつづけることによって生まれる。

約束した本人は忘れやすくて相手は絶対にわすれないのも約束だ。だから自分のなにかを犠牲にしても守る。守れない約束は最初からすべきでないし、なにかの事情で守れなくなりそうだったら、早めに率直にあやまる。相手が部下であっても、事態は変わらない。

約束と信頼の大切さを学ぶためにも[あきれた奴]の熟読をおすすめする。

仲よしの同僚・木村忠吾の安五郎評も傑作――
「小柳さんは、寒い日にぬるま湯からあがって燗冷ざましの酒でもよろこんでのむような」
人物なのだそうな。自分にはきびしく、他人への点は甘くしている、ということだが、じつに妙、いいえている。

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2006.06.13

業績をたどる

『鬼平犯科帳』を読む視点はいろいろだ。奥方・久栄とのやりとりから夫婦の親しいあり方や子育て法をさぐる女性読者もいれば、鬼平好みの料理を再現してたのしんでいるグルメもいる。

講じている文化センターの〔鬼平〕クラスでは、鬼平のころの江戸をより深く知る手段の一として、池波さんが『鬼平犯科帳』執筆時に机辺に置いてつねにひらいていた『江戸名所図会』の絵を彩色(ぬりえ)し、適宜展示している。

さらに、商店の記述があると、これも池波さんが身辺から手ばなさなかった資料『江戸買物独案内』で検証している。

ファンなら、第1話『唖の十蔵』に、盗賊〔野槌〕の弥平が隠れ簑として経営している王子稲荷社裏参道の料理屋〔乳熊屋(ちくまや)〕を記憶していよう。

〔乳熊屋〕とは、またずいぶん変わった屋号だが、これにはじつはタネがあるのだ。深川・佐賀町(江東区佐賀町16。永代橋東北詰)に〔乳熊(ちくま)〕という屋号の味噌問屋が前掲の『買物独案内』に載っており、池波さんはこれを借用した。

Photo_20
『江戸買物独案内』(文政7年 1824刊)

〔乳熊〕は紀州・熊野出身の店で、吉良邸襲撃をして泉岳寺へ引きあげる赤穂浪士たちへねぎらい酒をふるまった。店主が大高源五と交流があったからだ。㈱ちくま食品(tel.03・3641・5101)はいまでも風味ゆたか味噌をつくっている。

『鬼平犯科帳』を起点とした深川案内の一端を披露したが、じつは『唖の十蔵』の1話だけでも、塗り絵した『名所図会』や『独案内』や江戸の切絵図を按配して絵とき・解説すると、40景前後の画面になる。

画面……そう、鬼平ファンへ公開すべく、『鬼平犯科帳』文庫何巻の何ページの場面に使われているかも添えた、もう一つのブログ[ラ空間 大人の塗絵『江戸名所図会』を立ちあげた。
http://otonanonurie.image.coocan.jp/

都営地下鉄・馬喰横山駅「ギャラリー・コーナー」も年に数回借りて掲示しているから、関東エリアの人にはじかにお目にしていただける。

Bakuros
馬喰横山駅ギャラリーの塗り絵展と塗り絵師たち

手間ひまのかかるようなことに、なぜ手を染めたか? 池波さんは、画を描いてばかりいる少年時代をおくり、祖父から「鏑木清方へ弟子入りさせてやる」といわれて本気にしていた、とエッセーで告白している。

作家になってからも、『名所図会』をひもとくと、長谷川雪旦の絵を頭の中で彩色して観賞していたろう、とおもい、それなら愛読者であるぼくたちも塗り絵して、一歩でも池波さんの世界へ近づこうというわけ。

先達の行跡をたどるのは、なにも絵や芸の世界だけではない。文章がうまくなろうとおもったら好きな作家のそれを原稿用紙に写してみることだといわれている。

サラリーマンなら、尊敬する先輩の口ぶりや思考法をたどってみる。長谷川平蔵も、亡父・宣雄の吟味ぶりや人あしらいを学び、歴代中随一の火盗改メになった。

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2006.06.12

現代語訳『江戸時代制度の研究』火附盗賊改(1)

松平太郎さんは幕府の陸軍総監として、榎本武揚とともに函館五稜郭<に立てこもり、降伏後、榎本武揚は明治政府に仕えたが、松平太郎さんは忌避、野に下った。
『江戸時代制度の研究』(大正8年)は、その長子で同名を継いだ太郎さんの名著。実業でなした財をすべて、史料の収集・整理・研究へつぎ込み、前半部をやっと刊行した(後半部は空爆で焼失---極めて無念!)。
同著の[町奉行と其所管]「第六節 火附盗賊改」は、池波さんも『鬼平犯科帳』の執筆にあたり熟読した項なので、現代語訳を試みた。

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松平太郎著『江戸時代制度の研究』(復刻版)

  第六節 火附盗賊改

火附盗賊改メは市中を巡回して、火災を予防し、盗賊を逮捕し、博徒の考察(探索)をつかさどる。

この職は、初め、盗賊改メと火附改メとに分かれていた。
盗賊改メは寛文5年(1665)10月に先手頭の水野小左衛門守正が初めて兼務で任命された。
それから下って天和3年(1683)正月に火附改メが設けられ、これも先手頭の中山勘解由直守に兼務させた。

元禄12年(1699)12月、両職を廃し、その仕事は、寺社領内の事件は寺社奉行へ、町方の事件は町奉行へ、幕府直轄領内で起きた事件の処理は代官をつうじて勘定奉行へ、知行地の場合は地頭からおのおのの支配へ訴えでるようにふられた。

しかし、3年後の元禄15年(1702)4月、ふたたび、盗賊改メを置き、先手頭の徳山五兵衛重俊を任じた。
ついで翌16年11月、佐野与八郎政信に火附改メを命じた。

宝永6年(1709)3月にいたって、持頭(もちがしら)の中坊長左衛門秀広に盗賊火附の両役のことを兼務させ、享保3年(1718)12月には、元禄15年(1702)閏8月から先手頭・赤井七郎兵衛正幸が兼務していた博徒改メの職掌も中坊に兼掌させた。

以後、この職は、先手頭から選ばれた者が兼職するきまりとなり、毎冬---すなわち、火事の多い10月から3月の間は、もう一人の先手頭を任命して補助させ、これを加役と呼んだ。で、年間をとおして勤めている者を本役と称した。したがって、世間で火盗改メのことを加役と呼んでい.るのは間違いである。

この職は、本来は町奉行管轄の事件を代行するものだったから、非違の検挙と糾弾、科刑の裁定、そのほか一切の規格はみんな、町奉行所が定めているところに準ずるように決められていた。

安永2年(1773)11月、日本橋以北・以南に分けて巡邏地域の分担を定めた。

以北---神田、浜町、矢の倉、浅草、下谷、本郷、駒込、巣鴨、大塚、雑司ヶ谷、大久保とその近辺は本役の組の担当

以南---通町筋、八丁堀、鉄砲洲、築地、芝、三田、目黒、麻布、赤坂、青山、渋谷、麹町、深川、本所、番町とその近辺は助役の組の担当

神田橋外、一ツ橋外、昌平橋外、上野、桜田用屋敷、書替所、御厩2カ所と溜池などの定火消屋敷のあるところは定火消にまかせることとなった。(つづく)


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2006.06.11

現代語訳『江戸時代制度の研究』火附盗賊改(2)

  第六節 火附盗賊改 (承前)

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爾来、火盗改メ本役と加役(助役)の2人が任じられているときの地域分担は、おおむね上記(注・昨日の分担記述)を準拠とした。

とはいえ、通勤途上などで強窃盗や放火犯、博徒に出くわした場合は、制外の地区であっても、ただちに捕縛すること。

また、火盗改メのお頭が巡邏しているときの逮捕は、「御馬先召捕り」といい、もっとも名誉とされていたが、のちになって弊習を生じてきた。
すなわち、配下も者があらかじめ逮捕した刑徒を自身番屋へ縛しおき、お頭の巡視をまって、あたかもその馬先で捕らえたかのように差し出すようになったからである。

火盗改メはまた、犯人を捜査するとき、目明しを使って耳目とし(目明しは弊害をうんだこともあり、幕府は制令を下して時にこれを停禁した)、あるいは軽科の囚徒に因果を含めて獄舎に入れ、同居の罪囚の素行・言動を密偵させることもやった。
巡街に密偵をともない、彼らが目にした犯罪者を告知させて逮捕したりしたこともあった。
これらを、検非違使の放囚といった。

火盗改メが犯人を検挙するのに、場所を気にする必要はなかったが、いくつかの場所では捕縛が禁じられてもいた。たとえば上野山内、池の端、増上寺山内、三家(注・尾張、紀伊、未水戸家)の屋敷前で。犯人を見つけたら別の場所まで導いてから縄をかけた。

犯人の量刑は、罪科の種類にしたがって町奉行へ移すこともあったが、多くは火盗改メ自身で裁き、管轄事務に関する訴願は一切、その役宅で受理した>

役宅天保14年(1843)の頃清水門外(内藤伝十郎屋敷跡)にあり、その敷地内に仮牢(詰子小屋という)、白洲、長屋下腰掛、内腰掛、訴所などを設けることは奉行役宅と異ならなかったし、配下の与力・同心も事務を分掌してお頭を補助した。その人数は、与力は5,6騎から10騎、同心は30人から50人が通例であった。

とはいえ、時によっては例外もあった。
とくに幕末の多端の時期には、しばしば例外を設けたりやめたりした。
一例をあげると、万延元年(1860)3月、2人役のとき、与力14人、同心90人を隷属させ、そのうち、神奈川表御用地iなして与力2人、同心20人あてを派遣した。(少略)(つづく)

つぶやき:
火盗改メの役宅は、お頭の屋敷をあてるのが通例だが、天保14年(1843)に、臨時に清水門外(内藤伝十郎屋敷跡)におかれたと、松平太郎著『江戸時代制度の研究』は記す。
池波さんが『鬼平犯科帳』で、長谷川平蔵の役宅を清水門外にしたのも、上記書に拠ったのであろう。
手元の近江屋板「駿河台小川町図」は弘化5年(1848)---平蔵死後50数年後の版で、天保14年はその5年前だが、内藤伝十郎の屋敷はすでに「幕府ご用地となっている。

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近江屋板切絵図 弘化5年の清水門外。上が北。

そこで、手持ちの宝暦7年(1757)江戸大絵図の複製版を見てみた。やはり、内藤家は見当たらなかった。

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宝暦7年(1757)江戸大絵図の複製版


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2006.06.10

現代語訳『江戸時代制度の研究』火附盗賊改(3)

  第六節 火附盗賊改 (承前)

(与力・同心の職掌について)
・頭付-----組頭の秘書役
・役所詰
・召捕方・廻方
        (注・与力と同心で10人ほど)
・雑物掛---雑品一切の保管と処分、過料の取調べとその処分、
        その帳簿つけ。
・書役-----記録・報告書づくり。
・溜勘定掛-会計をつかさどる。
・差紙使---呼出状づくりと配布手配。
・届廻-----権門勢家やそのほか依頼されている家宅を日々分担し
                    て巡回。

召捕方・廻方は、与力・同心ともに平素は袴をつけることなく、着流しでその巡察に携わったという。
(注・町奉行所の定町廻り同心は、黄八丈の着流しに黒羽織の裾を巻きこんでいたが、火盗改メの廻方は、テリレビの鬼平=中村吉右衛門丈の町廻り姿のように、袴も羽織もなしの着流し)。

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廻方は、この巡回を「先訊(さきたずね)」といい、市中の人びとがとかく群がり集まる場所を臨監し、あるいはまた広く関八州を巡行して、盗賊考察の任にあたった。

火盗改メのお頭はもとより、与力・同心は、毎年の大晦日には、とくに終夜を警戒し、市内の保安に備え、初日の出を高輪や深川の海で迎えてから帰宅するのを常としたので、お頭の年頭賀正のための登城は、二日と定められていた。

火盗改メは、本役・加役ともに、当初は役料はなかったが、享保4年(1719)以降、役扶秩40口を支給されるようになった。
文久2年(1862)に専職としたときに役高1500俵、役扶秩60口とした。
翌3年7月、さらに役扶持を100口とした。
(注・専職の役高1500俵は、先手組頭の格が1500石なので、これは実質1500俵なので、従前と大差ない。役扶秩の1口は1日に玄米5合。米1升が100文なら、40口は2000文。1両は正規には4000文なので、1日2分=半両にあたるが、これで捕らえて仮牢へ入れた容疑者・犯人の食事や牢番の小者の給金までもまかなった)。

火盗改メの官位は先手の組頭が叙される布衣(ほい)だが、先手組頭の上席に座し、初めは若年寄の所管であったが、のち(幕末には)、老中に所属し、持頭の上席に列した。

火盗改メを勤め終わるとその多くは、遠国(おんごく)奉行、下三奉行、持頭、西丸留守居などに栄転した。
(注・下三奉行については未詳。要するに、番方(ばんかた 武官系)から役方(やくかた 行政官系)へ転じて出世する)。

与力は秩禄200石より現米80石で、享保4年(1719)2月以降、役扶秩20口を支給されるようになったが、文久2年12月からはさらに10人扶秩を増された。
(注・長谷川平蔵のころは、役扶秩20口。1口を50文とすると、与力1人あたり1日1000文。月に6両2分)。

同心は30俵2人扶秩であったが、享保4年から役扶秩3口を支給されるようになった。(少略)。

この職、町奉行に次いで市民の上に威権があった。
この職に任じられて英才をもってその著名が伝わっているもの、
長谷川平蔵宣以(のぶため)
中山勘解由直---(長谷川平蔵の約150年前、寛永15年
           (1638)から正保2年(1645)まで任にあ
            った)。
太田運八郎資統(すけのり)---3000石。太田道潅の支流。
            父・資同(すけあつ)は、平蔵が本役の時
            に助役を勤め、平蔵の人柄を上に誹誹し
            たが、この仁の事跡は未詳。
            また、当書は資経としているが、諸資料
            から、資統の誤記と推察)。

警視総監岡喜七郎(民権家として知られた前報知新聞主筆岡敬孝の養子)は、この組同心の家系から出ている。
(了)。

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2006.06.09

ノン・キャリを心服させる

「鬼平」人気にあやかり、史実の長谷川平蔵小説やテレビの鬼平を語った本がいくつもでている。

史料としてや学問的に価値の高いものもあるが、感動となると原作『鬼平犯科帳』におよばない。

一口にいって、長谷川平蔵のおもしろさは器量の大きさにある。
火盗改メの長官として名をあげたのも、いってみれば、キャリア官僚ノンキャリ集団の上に着任して心服させた結果なのだ。

先手組与力や同心は代々、御目見(おめみえ)以下のままだ。身分があがることは、まず、ない。

そこへキャリアの組頭が新任してくる。下手をすると命令しても面従腹背(ふくはい)されかねない。

そこのところをこころえた平蔵の着任時の訓示は、
「なにしろ、はじめての職務で勝手がわからぬゆえ、おぬしたちに教えてもらわねばならぬ。よろしくたのむ」

これは歴代の組頭のあいさつ並み。が、じっさいに手をつけたことはほかのリーダーとはちがっていた。

頭付き同心(秘書役)に命じて組の与力10人、同心30人の家庭事情をくわしく補記させた。
それまでの家族の氏名、年齢ていどの調書に、顔の特徴、背丈や体格、武芸の深浅、当人や家族の趣味や病歴、借金をしていれば借り先と金額、妻の実家の詳細、養子は彼の実家のあれこれ、下男や飯炊き女をあつかった口入れ屋まで記したものを、3日のうちに提出させた。

そのとき、筆文字の大きさをこれまでの半分に縮めるようにと念をおした。秘書役同心の、
「………」
と問いかける表情に平蔵は、
「なに、紙を節約するまでのことよ。おれはこれまでの組頭より若いし目の筋もいいから、小さな字でも読める。先へいって老眼になっても、いまは眼鏡のいいのができているからな」

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『江戸買物独案内』(文政7年 1824刊)、眼鏡所の広告

以後、長谷川組の紙の使用量は半減した。
そのころ、和紙の値段はばかにならなかった。浮いた予算を捜査費用へまわせた。

ちなみに前任の堀帯刀が火盗改メを命じられたのは49歳、その前の柴田某61歳のとき。平蔵42歳。

家庭調書が届けられると、こんどは組が火盗改メに就いていたときに手がけた事件簿を新しいものから順にもってこさせ、その事件に関係した与力・同心を呼び、ことの経緯と功績をあらためて説明させ、さも感心したような面もちで、
「ほう、おぬしがそ奴に縄をかけたのか。おぬしは竹内流捕縄の手練れであったな。秘伝の技をいずれ拝ませてもらいたい」

与力も同心も、大仰にほめられて照れはするが悪い気はしない。ついつい平蔵に心をひらいていく。

ときには、
「3人めが生まれるのは明けの2月とか。こんどは男の子であってほしかろう。女のほうが盛んなときに孕んだ子は男の子だというぞ。女房どのに頑張れ、と伝えてくれ」
下世話な言葉で笑わせた。

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2006.06.08

『鬼平犯科帳』のもう一つの効用

小説『鬼平犯科帳』が学術的な面へも功績をもたらした点をひとつあげる。

森山源五郎(300石と廩米100俵)という筆のたった幕臣がいた。長谷川平蔵が死の床にあったとき、火盗改メ代行をもぎとった仁だ。

そう、老中首座・松平定信へとりいり、文字どおり「もぎとった」のだ。

なぜそういえるか、って? せっかく火盗改メになったのに、1年ちょっとで塩入大三郎(100石と廩米100俵)にその役をもっていかれたときの大仰な残念がりようでわかる。

罷免された経緯を手をまわして調べあげ、老中の戸田侯(美濃大垣藩主。10万石)の存在をつきとめた。侯は館林藩主の五男で、大垣藩へ養子に入った人。

そこで森山のいい分……塩入は母親が館林藩の重職・松倉某のむすめだった縁をたくみに利用し、松倉から戸田侯へ働きかけて成果をえたというのだ。

自著『蜑(あま)の燒藻(たくも)』で、塩入大三郎を気が強いだけの総身に知恵がまわりかねる大男で無芸無学とこきおろす。
この部分だけ読むと、塩入というのは森山が書いているとおりの仁かな、とつい思いこむし、事実、これまで幾人もの学者が『蜑の燒藻』を珍重・引用してきた。

前任者の平蔵についても、火盗改メ在職8年のあいだに「さまざまの計りごとをめぐらした」と非難。

『鬼平犯科帳』ほかで平蔵の人柄と立派な業績をすでに知ってしまっているぼくたちとしたら、森山には自分の意にそまない者はバカとかよこしまなこころの持ち主とこきおろす習癖があるとしか考えられない。

『蜑の燒藻』で口ぎたなく罵詈雑言(ばりぞうごん)をあびせかけられている人たちについても、はたして森山のいうとおりの人物だったか、疑ってかかったほうがいい。

小説『鬼平犯科帳』が学術的にも貢献したとするのは、森山の記述内容、とりわけ人物評価の真偽をめぐり、平蔵がリトマス試験紙の役割を果たしたからだ。

人物論は立場立場で毀誉褒貶(きよほうへん)がわかれるのはいたしかたがないとはいうものの、森山のように自分だけが清廉潔白の士であるかのように主張するのはいかにもあざとい。

そういえば森山が火盗改メに任命されたのだって、和歌の縁を通じて定信に働きかけたからで、他人のコネ活用をとやかくいえた義理ではないはず。だいたい森山は人の長所を認めることができないようだ。先手組頭―中間管理職としてこれでは下がついていくまい。部下は長所を見てやってこそ慕ってくる。

和歌の縁といったのは、森山は冷泉家の門人で、中秋の名月の夜に定信が催す観月の歌詠みの会に、小禄の幕臣ではひとりだけ参加させてもらっているからだ。

平蔵に短歌づくりの素養がないからといって、それとは無関係の火盗改メの仕事ぶりにまで批判の矢を向けるのは見当ちがいもはなはだしい、というもの。

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2006.06.07

選抜基準は容姿と態度

中村吉右衛門丈=鬼平は100話以上がビデオ化されているから、その気になればいつでも観られる。知りあいの若いレディーも全巻買いこんで就寝前の精神安定剤として観ていると。

BS系では松本幸四郎(白鸚)=鬼平も放映している。が、鬼平といえばいまでは吉右衛門丈だ。池波夫人も、
「こんご、舞台の鬼平のことは吉右衛門さんにおまかせします」と宣言されたと高瀬昌弘監督から聞いた。

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テレフォンカード:鬼平=吉右衛門丈
となたから頂いたか忘却。ご免なさい。

監督は吉右衛門丈はもちろん、幸四郎(白鸚)、丹波哲郎、中村錦之介さんらの鬼平をずっと撮ってきた人。

自分の中にイメージした小説の「鬼平像」がこわれるからテレビは見ない、と頑張っている友人もいる。

鬼平像? うーん、史実の平蔵はどんな容姿をしていたか? もちろん写真も似顔絵ものこってはいない。が、類推する手がかりは平蔵の経歴のなかの、

安永3年(1774)
 西丸御書院番士(29歳)
同 4年(1775)
 進物番(30歳)

にひそんでいる。

進物番は、1組に50名ずついる書院番士小姓組番士のなかから1組から5名ずつ選出されるきまり。

五節や八朔などの祝日に300近い各藩が石高に応じておこなう時献上(ときけんじょう)――自国の特産物であったり刀剣や馬(実際はその太刀料や馬料としての金銭)を上納し、将軍家のほうも答礼品を下賜する、それらを「儀席に配置出納する任」と松平太郎『江戸時代制度の研究』にある。いまでいうと儀典係かしらん。

進物番にはもう一つ大事な仕事がある。城中での能楽で大夫にとらせる青染めの麻縄を通した一貫文の青緡(あおざし)を舞台の中央に井桁につみあげる。長袴をはいてのことなのでなかなかに技巧を要し、能楽の前になると出番の進物番は家でひそかに練習したものだ。

そんなこんなで人前にでることが多いから、人選にあたってはとくに容姿と態度に重きがおかれる。

つまり、平蔵は容姿も態度も人並み以上にすぐれていたわけだ。
どんな骨相の武士を容姿がいいといったか? いまの美男の基準とは違っていよう。侍だから役者顔ではなかろう。凛々(りり)しいという形容があるが、平蔵はそういう若者だっただろう。弓馬で鍛えた筋肉質の体型。まなざしや口跡(こうせき)も訓練でつくられる。

鏡をのぞく男をとやかくいう人生評論家もいるが、かつての陸軍の将校を養成する学校では1日に数回、全身がうつる大鏡の前に立って表情や姿勢を自分で矯正した。人づきあいの多い中間管理職も配慮したいところ。

いや、テレビカメラが正面からねらっているのに椅子で大股をひらいている国会議員へこそ、姿勢と態度を見習いなさいと吉右衛門丈の鬼平ビデオと大鏡と贈りたい。

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2006.06.06

嫡子・辰蔵への助言

功なった父親から見た成人前の息子は、友人選びまでふくめて、やることなすこと頼りなく、これで一家を立てていけるようになるだろうかと不安でもある。いや、あなたの家のことではなく、長谷川平蔵と息子の辰蔵……。

まあ、辰蔵の描かれ方に、(成長小説の要素もそなえているな)と思ったこともしばしば。

史実の辰蔵は、処世は父親の平蔵よりはるかに上手だったかもしれない。父親はついに授かることのなかった従五位下・山城守も手にしているし、番方(武官)では最高に近い先手弓・8番手の組頭(1500石高)にも就いている。二つは祖父と同じだ。

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寛政10年、『寛政重修諸家譜』編纂のために、辰蔵(平蔵宣義)が
呈した「先祖書」の表紙。西丸御小納戸 長谷川平蔵と署名。
(国立公文書館蔵)

また賢明にも、出費の多い火盗改メを回避している。平蔵が足かけ8年も火盗改メをつづけて家産を傾けてしまっているから、幕府のほうで気の毒がって命じなかったともとれる。

寛政7年(1795)5月8日(平蔵の死の2日前)『続徳川実紀』に、
 「先手弓組、長谷川平蔵宣以の子・辰蔵宣義(のぶより)、父
 のお蔭もて両番となる」
とある。

呼びだしによって急きょ登城すると、書院番入りを命じられた。

もともと番入りする武官の家柄だし、御目見(おめみえ)は父の平蔵が手をまわして7年前に19歳ですませた。もっとも若年寄による御目見前の下見分は、武芸は辞退、素読講釈だけで受けてはいるが……。
「父のお蔭もて」はいいすぎではないかと勘ぐってみた。

思いあたったのは、平蔵は死の床にあるとはいえ、先手組頭と火盗改メを辞していない。親が在職中に番入りすれば家禄とは別に、当人に廩米300俵が給され、ダブル・インカムになること。

が、親の七光(?)もここまで。あとは自身の才覚で出世を考えないといけない。留意したのは、父が名火盗改メの世評をとる一方で、役人にあるまじき、やりすぎ、目立ちすぎ、前例軽視の型破りで同僚の幕臣たちからは総スカンにちかい扱いをされていたこと。

辰蔵は母に、祖父・宣雄の人となりをきいた。

「軽率なそこもとには七代さま(宣雄)の真似は、とても無理。
ですが人前で黙っていれば、すこしは七代さまに似るでしょう。
口が堅いとの評判をとれば、人は秘密を打ちあけてきます。
季節の挨拶、祝儀不祝儀などは書状に託してぬかりなく届け
ること」

効果は1年もしないであらわれた。寛政8年、組から小納戸に2人選ばれた。辰蔵が就いたのは西の丸――若君づきの小納戸。若君はつぎの将軍なのだ。

さらに手紙をせっせと送った(いまならeメールか)。しだいに味方がふえ、人望もあがってきた。それでもあせらなかった。我慢すること29年――健康にも恵まれていたから57歳で小納戸頭取(役高1000石)へ。

一代かぎりの今の俸給生活者と、家に収入がついていた幕臣とは異なるが、父親の逆を行った寡黙、書簡……の辰蔵の生き方は参考になるはず。

つぶやき:
感心するのは、平蔵宣以の妻・久栄(小説での名)である。舅・宣雄は、嫁してきて3年そこそこで歿している。それなのに、番方(武官)の格とはいえヒラつづきでしかなかった長谷川を、舅・宣雄が従五位下・なんとかの守に叙されるまでに引きあげたやりようをちゃんと見ている。
しかも、それを夫には強制していない。

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2006.06.05

藤沢宿の本陣・蒔田源左衛門

藤沢宿旧・東海道筋は、鉄道駅舎が遊行坂からうんと南によった地点に設けられたため、結果的にさびれてしまい、いまでは歯抜けのように商店が並んでいるだけで、自動車が列をなしている埃っぽい通りになってしまっている。

そうした風景の中の一店---本陣とは縁もゆかりもない商店の前iの車道寄りに、
「蒔田本陣跡」と黒地に白文字で記された標柱を、藤沢市教育委員会が立てている。

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藤沢市教育委員会が立てた〔蒔田本陣跡〕の標柱

池波正太郎さんの『鬼平犯科帳』文庫巻15の長篇[雲竜剣]p208 新装版p216に、

 相州・藤沢宿〔前田源左衛門〕は、火付盗賊改方の連絡所にな
 っていて---

とある〔前田源左衛門〕は、じつは〔蒔田源左衛門〕を誤記したものであることがわかる。
誤記の<源(みなもと)> は、岸井良衛さん『五街道細見』(青蛙房)にあるようだ。

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岸井良衛編『五街道細見』(青蛙房)

同書はじつによくできた編著書で、時代小説家が重宝してしばしば利用している。が、千慮の一失であろうか、たった一字、藤沢宿の本陣<蒔田源左衛門>を、<前田>と誤植しているのである

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碩学のあの司馬遼太郎さんも、初期作品『風の武士』(1960 講談社文庫)上巻p242で、

 藤沢の宿(しゅく)は、江戸から十ニ里ある。昼夜を通してこ
 の宿まできた紀州隠密の一行は、ちのの乗物をかこんで、 
 本陣前田源左衛門屋敷の門をくぐった。

と、 同書にしたがって〔前田源左衛門〕としているのである。

引用されることはリファレンス本の著者にとっては名誉だが、校訂は入念にしておかないと、逆効果の場合もあるから、こわい。

つぶやき:
もしや---と、岸井良衛さん著『東海道五十三次』(中公新書 1964.9.30 手持ちは19版)の[藤沢]の項の本陣も、やはり、前田源左衛門と書かれていますね。


ちゅうすけ補言】『五街道細見』版元---青蛙房には、発見した2年ほど前に電話で誤植を伝えておいたから、その後に増刷されていれば訂正されているとおもいます。

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2006.06.04

裕福なふりをしてはいけない

火盗改メとして、長谷川平蔵の前任者だった堀帯刀(たてわき)秀隆という幕臣の造形には、池波さんもかなり手こずった形跡がある。
1500石の家禄を500石にしたのはご愛嬌としても、連載の最初のころは、

  堀帯刀は、長谷川平蔵の前任者で、なかなかの腕ききであった
  し……〉([密(いぬ)偵])

と持ちあげたり、堀組筆頭与力・佐嶋忠介を

  「……忠介で保(も)つ堀の帯刀」(同)

と書いたりもした。

ところが、連載5年目あたりの「狐雨」では、

  堀帯刀は無能のため……

盗賊改方・長官を解任された人物としている。

評価を変えたのはなんらかの史料が入手できたからではなく、単に平蔵の超人的な活躍を際だたせる目的だったようだ。

4,5年も連載がつづいていれば、編集者をはじめとする各方面から情報が寄せられてくる。

たとえば、天明7年(1787)の米屋の打ちこわし騒動のときの火盗改メは堀組だったが、暴徒が暴走するまえに鎮圧できなかったのは無能のかぎり、ともいえるし、いや、あれほど大規模な大衆の反乱は、わずか与力10人同心30人の堀組だけでの鎮圧はとても無理、げんに幕府は先手組を10組も出動させたではないか、との弁護論もなりたつ。

帯刀がさほどのはたらき手ではなかったという史実が公けになったのは、老中・松平定信派の隠密たちが書き上げた報告書『よしの冊子』が1980年末から81年初頭にかけて中央公論社から「随筆百花苑」の第8,9巻として活字化されたときだ。

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本邦で初めて『よしの冊子』を収録した『随筆百花苑』

『鬼平犯科帳』でいうと、文庫巻21収録の諸篇が執筆されていたころだから、先にあげた[狐雨]などよりうんと後年。

隠密たちの目線が低いきらいはあるし、反定信派には容赦のない『よしの冊子』だが、それでも堀帯刀の具体像があるていどはうかがえるのはうれしい。火盗改メを平蔵と交替して、先手の組頭から持鎗頭(もちやりがしら)へ昇進したときの帯刀を、隠密はこう報告している。

「栄転先が御鎗持だと、先手組頭より席順はすこし上がるが、役料は同じ1500石、しかもわが家は家禄が1500石なので足高(たしだか)は1石もつかない。だからお役ご免で無役でいるよりもかえって物入りで迷惑、といっている。数年間も火盗改メを勤めて極貧になったのに、同じ役料のポストへ仰せつけられるとはむごすぎる。お役しくじりと同様のご処置なのはどういうわけか、と愚痴っているよし」

新しく召しかかえられた用人によると、先手組頭の前にやった目付も持ち出しの多い職とのこと。堀家はよほどに裕福と見られていたらしい。

堀帯刀を調べていて、役人は裕福なふりをしてはいけないとつくづく思った。いや、役人にかぎらない。人からよくおもわれようとおっている仁すべてにあてはまる。

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2006.06.03

長谷川組、がえんを召し捕る

寛政3年(1791)4月21日からの『よしの冊子(ぞうし)』に、こうある。『よしの冊子』は、松平定信が老中首座となった日から、腹心・水野為永が諸方に放った隠密の報告書である。

 一 長谷川組の手の者が、赤坂火消屋敷所属のがえん3人、
    駿河台で2人、小川町で2人お茶の水で2人を召し捕ら
    えたよし。
    いずれもがえん。赤坂の3人のうちで〔早飛〕の彦という
    のは大盗賊の頭目だったとか。
    隠れていた吉原から板橋へ立ちわったが、隠密廻りが廻
    ってくると聞き、駕籠で立ち去ろうとしたところを召し捕ら
    えられたのだと。
    手下が150人ほどもいて、町方の諸々へ押し入っていた
    よし。
    ほかのがえんも5,60人ずつ手下を従えていたそうな。
   〔 早飛〕の彦が吟味にあったとき、「手下どもはお構いく
    ださるな。みな手前が、今夜は四谷へ行け、お前は浅草
   へ行け、と指図していたもので、連中はろくな奴らではあり
    ませぬ。
   こうして私めが召し捕らえられたからには、たかが酒屋で
   酒代をふみ倒すていどのことしかできますまい。うっちゃ
   ってお置きなさい」と大言を吐いたそうな。

〔がえん〕とは、定火消がやとっている火消人足である。
褌(ふんどし)一つに定火消の定紋を染め出した木綿半纏(はんてん)1枚で消火にあたる輩(やから)なので気が荒く、乱暴者も少なくなく、町方からは蛇蝎(だかつ)のごとく恐れられ、嫌われてもいた。

定火消は、3000石以上の寄合格の中でも、裕福とみられる幕臣が任じられ、役宅に入った。
平蔵のころには役宅は、前記の駿河台、小川町、赤坂など、全部で10か所あった。いずれも武家屋敷の多いところである。ということは、町方の火事に出動するというより、武家屋敷への類焼を防ぐために働くことのほうが多かった。

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定火消の提灯の柄

一か所の定火消の役宅は300人のがえんを常雇いし、役宅内で起居させるきまりになっていた。そのために300人扶持を幕府から給された。1人扶持は1日に玄米5合。
がえんは、口入屋から雇いいれるので、素姓の知れない者もまじっていた。〔早飛〕の彦のような大泥棒がもぐりこめたわけである。

それにしても、長谷川組は、どこから〔早飛〕の彦の情報を得たか? がえんの中に密偵をもぐりこませていたのであろう。
潜入した密偵は、長谷川平蔵のためならとそれこそ、命がけの覚悟であったといえる。

つぶやき:
『旧高旧領』では、〔早飛〕という地名は検索できなかった。
相撲の幕下に〔安早飛〕というしこ名の人がいるが、命名の由来を聞いてみたい。

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2006.06.02

火事場への出役の衣装

父の長谷川平蔵宣雄の、目黒・行人坂の放火犯逮捕の項に引用した『風俗画報』(明治32年1月25日号)の前号---明治31年12月25日号[江戸の花・上編]の表紙絵は、もしかしたら、火事場へ出ばった火盗改メの組頭かしらん、とおもってみた。

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『風俗画報』明治31年12月25号表紙

平蔵宣以(のぶため)はしかし、松平左金吾定寅との議論で、「火事場への出役のときは陣笠」といいきっている。
事件現場へ出役している陣笠姿の中村吉右衛門丈は、しょっちゅう目にしている。

表紙絵の騎馬の幕臣は火事頭巾である。これは、町奉行の火事装束。
九耀の紋所というと、田沼意次もそうだったが、かれは町奉行はしていない。安政5年(1858)から5年間、北の町奉行を勤めた石谷(いしがい)因幡守穆清かなあ。

火事場の整理にあたる火盗改メが、家紋を描いた高張提灯を掲げる姿だけでも、この表紙絵から連想していただきたい。
平蔵宣以の高張提灯のことは、
https://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=11760179&blog_id=75545
に紹介している。

『風俗画報』には、火事についてのいろいろな記事が載っている。
池波さんは、「ぼくは火事が嫌いでね。火事の描写って、むずかしいんだよ」といったが、たしかに、この絵の状況を文章で表現するのはむずかしい。

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『風俗画報』明治31年12月25日号

風のうなり、火炎の響き、逃げ惑う群集の阿鼻叫喚、火消したちの勇み声、制止する役人たちの叱声---音だけでもこれだ。さらには色の描写や時の経過と、よほどの筆力でないと描ききれまい。

火事は江戸の花であり、火盗改メは、町火消しとともに、火事場の主役でもあったのだ。

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2006.06.01

目黒・行人坂の火事

江戸の3大火事にかぞえられている、明和9年(1772)2月、目黒・行人坂の大円寺から出火した火事は、長谷川家に関連がある。

『風俗画報』(明治32年 -1899- 1月25日号)の[江戸の華]特集号中編の当該記事を現代文に代えて読んでみる。

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『風俗画報 江戸の華 中編』表紙

(安永元年---とあるのは、火事の後、改元したため。人びとは明和9年をもじって「迷惑な年」と呼んだ)。

安永元年(旧暦)2月28日 乾(北西)より西南の風がはげしく、土煙は天を覆い、日光は朦朧としていた。
午の刻(正午)、目黒・行人坂の天台の名刹・大円寺より発火。

永峰町通り白金在町から麻布辺一円(善福寺本堂と開山堂は残った)、三田新網町辺・狸穴(まみあな)・飯倉市兵衛町・なだれ坂・霊南坂、一筋は西久保・桜田・霞ヶ関・虎ノ門・日比谷門・馬場先門・桜田門・和田倉門・常盤橋門・神田橋門など焼失。この道筋の諸侯藩邸も灰燼。

日本橋南は、通3,4丁目西側・元四日市・万町・西河岸辺より南伝馬町・中橋をかぎり上槙町まで。
北は本町・石町辺・東西神田町・と武家方一円。小川町入口・駿河台・昌平橋・筋違門・外神田町より神田神社・聖堂・湯島天神社と同所近辺一円。

上野仁王門・山王社下寺・残らず。車坂・下谷広小路・御徒町(おかちまち)・三味線堀辺・坂本・入谷・金杉・箕輪(みのわ)・小塚原・吉原・千住大橋・向掃部宿(かもんじゅく)。

浅草筋は、下谷広徳寺前通り・新堀・阿部川町・鳥越・本願寺御堂・浅草(本堂は残る)伝法院ならびに寺中・馬道・田町・新鳥越・橋場にいたる。

また同日。日暮れ六つ時(午後6時ごろ)、本郷丸山より出火、森川宿・追分・駒込・白山・傾城ヶ窪入口まで。
うなぎ縄手・土物店(つちものだな)・千駄木入口・根津・谷中感応寺・芋坂・根岸・にいたる(翌日未の刻このところで鎮火)。
(以下省略。 上記の町順は、鬼平ウォーキングで踏破しているので、すべて脳中に地図がえがける)。

明和9年は「めいわくの歳」なりと、雑説がさまざまにいわれていたが、はたして、この大火である。

大円寺の所化(しょけ 修行中の僧)・長五郎坊主と異名された悪僧(18歳)が、師の僧にいささか恨みがあったので、物置に放火したと、いまも巷説につたわっている。

このとき、長谷川平蔵宣雄(鬼平の父)は、火盗改メ・助役を勤めていたが、本役の中野監物清方(廩米300俵)が安永元年3月4日に死亡退免したので、そのまま本役を勤めることになった。

組の者が市中を見廻っていて、若いくせに高位の僧衣をまい、しかも踵がひびわれている不審の者を見つけ、逮捕してみたら、放火犯の長五郎坊主であった。

火盗改メ・長官の長谷川宣雄の取調べが、充分に理にかなっていたので、幕府は、報奨の意味で、宣雄を従五位下・備前守に爵位し、京都西町奉行へ栄転させた。
長谷川家では、初めての爵位の下賜であった。子の平蔵宣以(のぶため)は従六位に相当する布衣(ほい)どまりで終わったが、息子の辰蔵宣義(のぶのり)は、従五位下・山城守に叙される道筋をつけたいえる。

京都町奉行の役料は、先手の組頭と同じ1500石だが、つけ届けの高が格段にちがったという。

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