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2006年7月の記事

2006.07.29

ハードボイルド

 「鬼の平蔵さまにお会いなされたか?」
 と、佐野倉の主人が、
 「どんなお人でしたかねえ。私も、ぜひ一度、お顔を見たいと
 おもっているのだが……」(略)
 役宅の門を出て行きながら高木軍兵衛は、こういった。
 「なんともいえぬお人だ。怖くて、やさしくて、おもいやりが 
 あって、あたたかくて……そして、やはり、怖いお人だよ」

この鬼平像を、ハードボイルド的人物にみたてたのは、朝日カルチャーセンター[鬼平]クラスに在籍していた尾澤 肇一さんだ。
若い時代にハードボイルド小説に凝っていた仁なのだろう。

S_8ハードボイルド小説から、すぐにおもい出されるのが、その道の古典ともいわれるレイモンド・チャンドラーの私立探偵フィリップ・マーロウが活躍するシリーズである。
映画好き、推理小説好きの池波さんの意識の中にあって、鬼平マーロウを重ねて見ていたか、この私立探偵を超えたものにしようとおもっていたにちがいない。
このフィリップ・マーロウのシリーズ『プレイバック』 (ハヤカワ文庫 清水俊二訳)の名セリフから。謎の婦人ペティが探偵マーロウに、

 「あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなにやさし
 くなれるの?」
  と彼女は信じられないというように訊ねた。
 「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしく
 なれなかったら生きている資格がない」
 私は彼女に外套を着せて……。

このセリフはあまりにも有名で、何とおりもの訳が存在するが、ここは鬼平風に。
小鷹伸光訳をとると、

 「情に流されていたんじゃ、いのちがいくつあっても、もた
 ねえんだよ。だがよ、情けのひとつもかけられねえようじゃ
 あ、生きていたってはじまらねえ」

作者レイ・チャンドラー本人が映画の仕事(脚本)もしているし、作品も映画化されている。

レイ・チャンドラーの作品が劇作家であり映画通の池波さんの意識下にあったことはまずまちがいないとおもわれるし、『鬼平犯科帳』自体、池波ハードボイルドとして、チャンドラーを超えるものとして創作されたものと読むことが出来るのである。

『鬼平犯科帳』シリーズを、日本版ハードボイルドととらえている評者は少なくない。

自分の中に自分で一つの規範をつくり、それをかたくなに守っていく美学を実践している男を、ハードボイルドな生き方をしている……と定義すると、小説の中の長谷川平蔵はたしかにそうといえる。

いっぽうで、

 一、盗まれて難儀するものへは、手を出さぬこと。
 一、つとめ(ヽヽヽ)をするとき、人を殺傷せぬこと。
 一、女を手ごめ(ヽヽヽ)にせぬこと。
   (ヽヽヽ)は傍点
        [1-4 浅草・御厩河岸]p131 新p138

この3ヶ条を厳しく守っている盗賊の首領たちもハードボイルドに生きているといいたい。

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2006.07.28

トップの情報源

営業所長に命令するのは営業本部長か担当常務だ。
よほど小さな企業は別として、一営業所長が社長からじかに評価されることはない。

徳川幕府では、老中大目付国政と諸藩に関与し、若年寄と目付は幕臣を監督・監察した。

長谷川平蔵番方(武官)系の先手組頭兼火盗改メだから、組織図的には老中とは直接にはつながらない。

しかし老中首座松平越中守定信長谷川平蔵の関係は異例だった。
定信平蔵評価をくだしたのだ。

両人は人足寄場の創設・運営でつながった。
老中が焦眉の急の案件―江戸市中にはびこっている無籍人対策をもとめたとき、無宿人などにかかわっては家名に傷がつくとばかりに、幕臣たちは聞かぬふりをきめこんだ。

ちょっと解説を加える。幕臣の監察は目付の仕事、江戸町人は町奉行の管轄、僧侶や神職は寺社奉行、農民は勘定奉行がさばく……のがきまり。のこるは無宿人――これは火盗改メの範疇。
だから平蔵が応じざるをえなかった。

平蔵は人足寄場の建議書を老中へ呈出し、定信が受諾。創設を命じた。

Photo_33
隅田川河口の石川島の人足寄場跡の標識板

P6190027
再開発して高層マンションが建ちならぶ人足寄場跡

このあたりの経緯を、〔定信〕の二字をバラして表題とした半自伝『宇下人言』 (岩波文庫)にこう書いている。

  無宿人対策をもとめたところ、盗賊改メの長谷川なにがし
 がやりますと申しでた。石川島の葦地を埋め立て、そこに無
 宿人を収容、手に職をつけさせて社会へ戻すという。
  できてみると、たしかに無宿人や盗賊が減った。
  長谷川の功績だが、彼は功利をむさぼるがゆえに山師との
 評もあった。それを承知でまかせたのは、そういわれるほど
 の者でなければ創設はおぼつかないと思案したから。

ねらいとしていた無宿人や盗賊が減ったのだから、平蔵は大功績だ。
それを「長谷川なにがし」などととぼけた表現でいうのは失礼千万。『宇下人言』の中で名前をぼかした記述はここだけだ。
「山師」も定信側の隠密の報告書の評を鵜呑みにしたもの。

これまでの歴史家には定信びいきが多いが、ぼくは下情(かじょう)がわかっていない理想家肌のお坊っちゃん政治家と断じている。鬼平ファンゆえの極言だとしても。

隠密たちは当初、田沼時代に職についた人たちのアラをさがすべく、定信側――すなわち家柄派から取材した。

平蔵は、むしろ実力派。官吏としては並みはずれすぎるほどにアイデアが豊かだが、杓子定規派の口にかかるとその言動は「山師」「謀計者」「姦物」となってしまう。

もっとも、2年、3年とたつにつれて平蔵を見る目がたしかになった隠密もでてき、プラス評価へと変った。

が、そのころには定信のほうが隠密のずさんな聞き込みに興味を失い、レポートを読まなくなっていた。

平蔵と定信のケースは、第一印象のこわさの反面、トップがたしかな情報源を持つ重要さを示唆する。

つぶやき:
講じている各文化センターの[鬼平]クラスで、田沼意次の政策の革新性と、定信内閣の凡庸さを説くと、学校ではそうは習わなかったと、困惑される。
S_5革新派の次には保守派が権力をにぎるのは、古今東西の通例ともいえようか。
定信政治を、冷静に評価したのが、藤田 覚教授『松平定信』(中公新書 1993.7.25)である。
鬼平ファンを自認している方に、一読をおすすめする。

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2006.07.27

「今大岡」とはやされたが

「町奉行は檜(ひのき)舞台。火盗改メは田舎芝居」といわれた。
(当時のいい方では、火盗改メはおんでこ芝居……小屋がけ芝居)。

火盗改メがあつかうのは罪状が明らかな盗賊や博徒(ばくと)などの刑事犯だから、判決も手っとり早い。

南北の町奉行所は、それらしく広大な役所を構ええていたから、お頭(かしら)の自宅に取調べ室や法廷や留置場を併設している火盗改メは、くらべられるとどうしても貧弱にうつる。
白洲も三メートルに五メートルあるかなし。「田舎芝居」の評は仕方がなかった。
(小説の清水門外の役宅はあくまで、池波さんの便法だった)。

巨盗をつぎつぎに捕らえ、江戸庶民から「今大岡」とはやされていたといわれる長谷川組の与力・同心たちの組下には、それが憤懣(ふんまん)のタネでもあった。

「大岡」とは、いうまでもなくテレビトラマなどで知られている大岡越前守忠相(ただすけ)のことで、平蔵から70年ほど前の町奉行。
吉宗の享保の改革を補佐した官僚としてより、明察・頓知の名裁判官の名のほうが高い。その「大岡」の再来というわけ。

「次の町奉行は平蔵さま」と触れてあるく者もいた。いまでいう新聞辞令。これで持ちあげられた仁はたいてい失脚する。大望をつつみかくしている高級官僚や大物重役は、新聞辞令を巧みにかわす術にも通じている。

よくいえば天衣無縫、見方を変えると中間管理職の必須のこころえ……面従腹非が平蔵はできない。町奉行の椅子を強く望んでいることをかくそうとしなかった。

火盗改メ本役について2年目の寛政元年(1789)に、親しいと思っていた人へ洩らした。「おれは書物こそそれほど読んではいないが、町奉行火盗改メのことは、生まれつきのように悉知している。ちかごろの町奉行のやり方は見ていて歯がゆい」

先手組頭1500石高町奉行3000石高。が、平蔵とすれば収入の倍増をねらっての弁ではなく、桧舞台で腕をふるってみたかったのだ。

北の奉行は初鹿野(はじかの)河内守信興(のぶおき 1200石)、南は山村信濃守良旺(たかあきら 500石)だった。

Photo_31山村信濃守は、平蔵の父:宣雄京都西町奉行に在職中に病没したときの後任者で、後始末をして江戸へ帰る平蔵の面倒をなにかとみてくれた人。
平蔵町奉行誹謗(ひぼう)を耳へ入れると、赤坂築地中ノ町(現・港区赤坂6丁目)の屋敷へ招いた。(山村家家紋=j丸の内一文字)
信濃守61歳、平蔵44歳。

「わたしは遠からず別の職へ移るでしょう。あとは平蔵どの、との声も城中にはあります。くれぐれもご留意を」
「うけたまわりました。したが、あれは南のことをいったのではありません。北も河内守どののご着任で面目一新と拝察」
「火盗と異なり、町奉行所にはしきたりやしがらみが多すぎましてな」

城中で「町奉行目付を経験していて家禄500石以上、爵位・従五位下がしきたり」との反対がでたことを、信濃守はあえて口にしなかった。
「瑕瑾(かきん)なきは人材にあらず」と信じていたからだ。

長谷川家400石、そして平蔵は目付の経験なし、従五位下より一ランク下の布衣(ほい)、しょせん町奉行の目はなかった。

つぶやき:
Tenkanki_1大岡忠相の政策企画者としての業績については、大石慎三郎先生の『大岡越前守忠相』(岩波新書)がもつともすくれているが、最近再読したばかりなのにいま手元にみつからない。
これにかわる著述てとして、同じく大石先生の『江戸転換期の群像』(東京新聞出版局 1982.4.23)の[大岡忠相と徳川光圀]をあげておく。

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2006.07.26

失敗した部下--佐々木新助の処置

_4_1

「文庫巻4に収録の[あばたの新助]、『鬼平犯科帳』の中では珍しくサクセスストーリーではなく、鬼平が部下のあつかいにミスをおかす物語で、きわめて教訓に富んでいます」

こう前置きして感想をのべはじめたのは、江東区の文化センター・鬼平熱愛倶楽部のメンバーのN氏。
円座になっての意見発表のクラスで。

サラリーマン歴は50年近く、小さかった会社をそこそこの規模にまでのしあげた自負とともに退職……誇り高き上席中間管理職だった仁。

[あばたの新助]のストーリーを簡単に紹介する。

長谷川組の同心・佐々木新助(29歳)は、鬼平の仲人で筆頭与力の姪と結婚して3歳になるむすめもいる。
ところが富岡八幡宮境内(江東区)の甘酒屋でさそいかけてきた茶汲女・お才の色香と大胆な性技にやすやすとおぼれた。
それほどウブだったのだ。

大泥棒〔網切〕の甚五郎の愛人だった彼女の役は、色じかけで新助を籠絡、火盗改メの見まわりスケジュールを聞きだすこと。

Photo_28
正源寺裏の小料理屋〔ふじや〕へ連れこまれた新助は、お才の
大胆な性技に---(近江屋板・深川の部分)

鬼平は偶然に、新助同心と お才が連れだっているところを目にして、
(おかしい……)
と気づいてはいた。

「が、フォローが足りなかった。自分が仲人をした部下なので贔屓目(ひいきめ)に見てしまっていたのです」

物語の結末は小説にまかせて、N氏の主張…。

「中間管理者にとってもっともむずかしいのは、失敗した部下の処置……立ち直らせ方です。
徹底的にいじめるのが上司としての安全策だが、その代わりに人望を失います。
逆にかばうと、マイナス点がつきます。ずるい人はなにもしない。
鬼平ほどのすぐれたリーダーでも、新助を見殺しにするしかありませんでした。
もいちど機会をあたえ、見守っていてやるのがいいのですが、それだって結局のところは運否天賦(うんぷてんぷ)ですからね」

いわれるとたしかに[あばたの新助]アンハッピー・エンドの物語だ。
が、艶女のワナに陥ちて身を滅ぼしてしまうのは、なにも新助同心にかぎらない。
手練手管(てれんてくだ)にたけたお才のような女性にさそいをかけられたら、ウブな新助でなくてもコロリと参ってしまう。

若いころをふり返ると、似たような危険区域をなんども通過していたことにおもいたる。
修羅場(しゅらば)になるかどうかは、それこそ運否天賦だ。

鬼平自身、放埒な青春時代を送ったことになっているから、若者が恥多い所行を経て一人前になっていくことはとくと承知。

「新助は、なにか大物をねらって探(さぐ)りを入れていたらしい。おれにもそのことを話さなかったのは、よほどに、自信をもっていたのであろう」

組の者へはこう釈明してかばってやった。
が、それは、新助の失敗を未然に防いでやれなかった自分へのいいわけでもあったろう。

つぶやき:
鬼平は、新助がワナに落ちていることに、じつは、うすうす気づいていた。
しかし、適切な手をうたなかった。
N氏が指摘したように、贔屓目にみてしまっていた。
人間だれしも、人に対する好悪の気持ちをもつ。イザというときに、それを、どれだけ制御できるかだ。

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2006.07.25

盛り立て役---伊三次

密偵 伊三次 が、いまは中央通りと呼ばれる下谷(したや)御成道(おなりみち)、鳥居丹波守(下野国壬生藩。3万石)の藩邸前(台東区上野3丁目)で刺される痛恨の物語が[五月闇]

Toriitanba
伊三次が刺された鳥居丹波守上屋敷前(尾張屋板・人文社)

刺したのは〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵

連載がはじまって8年と5か月目、鬼平ファミリーにすっかりなじんでいた読み手の中には、伊三次の通夜をした仁もいたという。

 細身の引きしまった躰がきびきびとうごき、ちかごろは密偵
 として一分(いちぶ)の隙もなくなり、することなすことが
 いちいち長谷川平蔵の「腑(ふ)に落ちる……」ようになっ
 てきていた。

  密偵の翳(かげ)りがいささかもない。役目を遂行する火
 改方の人びとの緊張をときほぐし、笑いをさそうのは、同心
 ・木村忠吾と密偵・伊三次の、たくまぬ諧謔(かいぎゃく)
 であるといえよう。

  困難な探索が重苦しくつづけられているときでも、伊三次
 は双眸をかがやかせて、
 「なあに、もう一息だ。いま少しでござんす」
 かえって同心たちをはげますのである。

同心・木村忠吾とならべられているが、忠吾がさそいだすのは笑い手が優越感をこめた笑声だ。
伊三次のは、提灯店(ちょうちんだな)の娼妓とのやりとりを話して笑わせるときでも人生の重みを思いださせる。やはり、生得の人柄だろう。

ふんい気をもり立て、乗せてやる気にさせるのはリーダーの大切な役目でもあるが、アシスタントに伊三次のような男がいると助かる。伊三次もそのことをわきまえて平蔵を補っている。

リーダーが応援団出身の部下を重宝するのも似た理由からだ。

伊三次の初顔見せ……というと、[猫じゃらしの女]との答えが返ってこよう。捨て子されての〔丹後屋〕の宿場女郎衆に10歳まで育てられたという過去が肉づけされるのは、たしかに[猫じゃらしの女]だ。寛政2年(1790)1月末の事件だった。

Chochindana
伊三次のなじみ、〔みよしや〕のあった提灯店は赤○(近江屋板)

が、その2年前の[あばたの新助]、同じ年の夏のおみね徳次郎 、秋の[夜鷹殺し]の3篇でも 〔小房〕の粂八 とともにちらっと名前がでている。

もっとも、上記の3篇とも伊三次をまったく肉づけしないから、通りすがりの人物なみの印象でしかない。

鬼平ファミリーの一員として認められるのは、ひとつの話の主役になってから……ということで、正式のファミリー入りはやはり[猫じゃらしの女]ということか。

念をいれておくと、[猫じゃらし…]のときの伊三次31歳>[五月闇]37歳……というと、若い女性読者は「もっと若いと思っていたのにぃ」と叫ぶ。ひそかに恋人代わりの位置を与えていたのだろう。

そうそう、葬られた目黒の黄檗派・威得寺は明治20年に廃寺となり、瑞聖寺(港区白金台3丁目)へ合祀されたが、伊三次の墓がどうなったかは不明。

つぶやき:
岡場所〔みよしや〕のあった提灯店(ちょうちんだな)の俗称のゆらいは、「生池院(しょうちいん)店」がなまったものというから、寺の持ち地だったのであろう。
現在は台東区東上野2丁目。

すぐ上の切絵図---不忍池のに突き出た中島、弁財天の横に生池院が鎮座。

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2006.07.24

実母の影響

  長谷川平蔵は、父・宣雄の妾腹の子に生まれた。
 生母・お園(その)は、巣鴨(すがも)村の裕福な大百姓・
 三沢仙右衛門の次女に生まれ、長谷川家へ行儀(ぎょうぎ)
 見ならいがてらの奉公にあがり、宣雄と、
 「わりなき仲……」
  になってしまったのである。([霜夜])

池波さんは、御目見(おめみえ)以上の幕臣の家譜をあつめた『寛政重修諸家譜』に平蔵の実母が「某氏」とあったので、「妾腹」とした。

Nobutamekafu_1
『寛政重修諸家譜』の平蔵宣以の項

その女性とのあいだに、銕(てつ)三郎(平蔵の幼名)をもうけていた宣雄が、長谷川家の六代目当主で、甥(史実は従兄)の修理(しゅり)の死の床からの懇望に負けて末期養子となり、これも修理の養女になった姪(史実は宣雄の従妹。修理の実妹)の波津(はつ)と結婚、家督した経緯は小説でいくども語られる。
:系図は2006年5月26日に。
     ↑(クリックし、スローダウン)

宣雄30歳、平蔵3歳。
お園は銕三郎とともに実家へ帰され、悲嘆のあまりに病死、銕三郎は17歳まで三沢家で育てられる。

平蔵の母親がだれかを問題にするのは、平蔵におよぼした精神的な影響を類推するからだ。

小説ではお園は早死するから、平蔵は三沢夫婦から多大の影響をうけたはず。庄屋をつとめるほどの家柄だから格式は問題ない。が、なんのかんのといっても番方(武官)の家の嫡子だ、そこらの農家の子なみに育てるわけにはいかない。

銕三郎が17歳になるまで三沢家はどんな教育をほどこしたろう。小説はそこのところをぼかしている。

平蔵の幼時に病死したとされている実母「某氏」は、研究家の釣洋一さんが菩提寺・戒行寺(新宿区須賀町)の霊位簿で、平蔵が病死した寛政7(1795)年まで生存していたことを発見した。

はやばやと死去したのは継母の波津(はつ)のほうで、平蔵が歳5の時に世を去っている。享年30歳前後か。
実兄同様に病身だったので婚期がおくれていた。

平蔵が家出して不逞(ふてい)の輩(やから)の仲間へ入ったのは継母との折りあいが悪かったからとした池波説は史実からはなりたたない。

滝川政次郎博士『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(中公文庫)は、戒行寺の霊位簿の長谷川家の項に、

 延享二年一〇月二一日
 守玄覚成 長谷川権十郎知 行地
   戸村品左衛門

とある仁は、平蔵の実母の父ではないかという。

千葉県成東町の文化財保護委員長(当時)の長谷川常夫氏が調べてくださった結果、知行地の庄屋だった戸村家は五左衛門か権左衛門を代々伝承し、品左衛門なる仁はいない、と。

品左衛門探しはふりだしにもどったわけだが、それはおいて、仕事のできる男性としては(いや、男性とはかぎらないが)、子どもにおよぼした母親の影響も推察しておきたい。

部下とくつろいで話す機会がもてたら、さりげなく母親のことを話題にのせてみると、彼の言動を深いところから理解できることもある

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2006.07.23

長谷川平蔵の屋敷跡

長谷川平蔵屋敷は、『鬼平犯科帳』では目白台となっている。
池波さんがそう決めた
経緯は、すでに2006年6月26日の項で明らかにした。
        ↑(これをクリックし、26日までスローダウン)

史実での屋敷跡は、
墨田区菊川2丁目16
にあり、区が都営新宿線菊川駅のA3を出たところに銘板を立てている。

Kikukawa

記載はこうである。

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長谷川平蔵住居跡
              所在       墨田区菊川三丁目十六番
長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享三年(一七四六)赤坂に生まれました。

平蔵十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三の橋通り菊川の、一二三八坪の邸に移りました。

長谷川家は三方ヶ原(みかたがはら)の合戦以来の旗本で、家禄四〇〇石でしたが、将軍近習(きんじゅう)の御書院番(ごしょいんばん)の家として続いてきました。

天明六年(一七八六)には、かつて父もその職にあった役高(やくだか)一五〇〇石の御先手弓頭(おさきてゆみがしら)に昇進し、加役(かやく)である火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)につきました。

火附盗賊改役のことは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、通例二、三年のところを、没するまでの八年間もその職にありました。

また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の「人足寄場(にんそくよせば)」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職業訓練をもって、社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。 

寛政七年(一七九五)、病を得てこの地に没しました。この地は孫の四代目平蔵の時、江戸町奉行遠山金四郎の下屋敷ともなりました。

 平成九年三月               墨田区教育委員会

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じつは、この銘板の文章は、2か所のミスが、改められたものである。

以前の銘文は次のとおり。

-------------------------------------------------

長谷川平蔵住居跡
              所在       墨田区菊川三丁目十六番
長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享二年(一七四五)築地に生まれ、明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄(のぶお)の屋敷替えによって、この本所三之橋通り菊川の、一二三八坪の邸に移った。

長谷川家は三方ヶ原(みかたがはら)の合戦以来の最古参の旗本で、家禄は四〇〇石であったが、将軍近侍(きんじ)の御書院番組の家として続いた。

天明六年(一七八六)、父もその職にあった役高一五〇〇石の御先手弓組に昇進し、加役(かやく)で火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)にもついた。

火付盗賊改のことは池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でもよく知られ、この活躍は「いま大岡(いまおおおか)」とも評せられ、通例二、三年のところを、没するまでの八年間もその職にあった。

また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の人足寄場(にんそくよせば)作りである。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職業訓練をもって、社会復帰を目的とするもので、日本刑法史上独自の制度を創始したといえる。

寛政七年(一七九五)年、病を得て没した。この地はその後江戸町奉行遠山金四郎の下屋敷となっている。

    平成元年三月               墨田区


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生年延享2年でなく、3年であることを指摘したのは、ぼくの著作[『鬼平犯科帳』を助太刀いたす](KKベストセラーズ 1996.10.5)であった。

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2006.07.22

長谷川平蔵の手ぬかり

とてつもない史料を目にした。

丸山雍成博士『近世宿駅の基礎的研究』がそれ。
B_2蕨(わらび)宿(埼玉県蕨市)の子細の研究書だが、中に長谷川平蔵に触れた部分があるのだ。

寛政4年(1792)4月上旬、長谷川組に捕らえられた盗賊の自白により、蕨宿の若者4人が土地の岡っ引きの案内で縛られ、江戸の平蔵の屋敷への引きたてられた。

幸七というのがとりわけきびしく責められて二度三度と気絶するのを見た、と同道した五人組の者が帰村して報告した。

幸七はのちに遠島となっているから、共犯者に間ちがいなかったのだろう。
が、平蔵自身は平生、「おれは拷問はしない」と広言している。まあ、平蔵はやらなくても吟味方与力や同心が拷問することはあったかも。

が、推理していくと、報告に誇張があったフシがある。というのは報告者は、幸七が気絶するところを腰掛(こしかけ。待合所)で見ていたといっている。
白洲での尋問なら腰掛からうかがえても、拷問部屋までは見えまい。
見てきたようななんとか…の例ではなかろうか。

ついでに記すと、幸七とともに引きたてられた甘酒屋のせがれ・熊五郎は打ち首になっているから、彼らが盗みに荷担したか、首謀したことははっきりしているのだ。

ところが、幸七らが処刑されたことを逆うらみした村人が、2年後の寛政6年に事件をおこした。
酒に酔った湯上がりの男が、茶屋で休んでいた代官・野田文蔵の小者2人にからんだために、
「無礼なり、長谷川平蔵、野田文蔵」
といってなぐりかかったというのだ。

通りがかりの住職が詫びているすきにからんだ男は逃げた。脇差を抜いて追いかけようとする小者を、若者たちが梯子(はしご)で抜身をたたきおとして縛り、宿役人へ引きわたした。結果は村方が2人へ薬代の名目で3両渡してケリ。

丸山博士は、
「長谷川平蔵などの名が、若者たちを刺激した面も無視できない」
と付記する。

出所は地元有力者の日記とのこと。
「無礼なり、長谷川平蔵、野田文蔵」
の文意を、
「無礼者め。おれたちは長谷川平蔵どの、野田文蔵どのの手の者ぞ」
といったのだと受けとっておきたい。

江戸の平蔵の名が、中山道の二つ目の宿場・蕨あたりへまでひびいていた証拠だ。

が、平蔵が罪人たちへそそいでいた慈悲深さまでは、日記記録者へ伝わっておらず、引きたて方の問答無用ぶりだけを記憶にのこしていたらしい。

寛政4年の件は、手先をつとめた地元の岡っ引きの手荒さが長谷川組のものとして印象づけられたと推察。

事件の少ない地方(じかた)では、一度きりの出来ごとをくり返し話題にするし、身びいきもひときわ強いから、言動にはよほど気をくばらないといけない。

長谷川組の与力・同心はそこをぬかったようだ。
同時に、長官・長谷川平蔵のさすがの手ぬかりともいえようか。

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2006.07.21

竹内孫四郎の怪

同心・竹内孫四郎は、[1-1 唖の十蔵]p32 新装p33 に初顔見せしてから[14-1 あごひげの三十両]p8 新装p8 にチラッと名前が出たきり、その後はまったく姿を見せていない。

[唖の十蔵]での捕り物で小川や梅吉に斬られた手首の傷がもとで、病死した気配もない---(冗談)。

そればかりか[あごひげの三十両]までに登場した19話中に、年齢、風貌、家族構成などの属性にまったく触れられていないように思える。

あまつさえ、[9-5 浅草・鳥越橋]p205 新装p214 では竹内孫郎となっている。
また[あごひげの三十両]p8 新装p8 では竹孫四郎となっている。

Taisei_2もっとも『完本 池波正太郎 大成』(講談社)では[浅草・鳥越橋]の竹内孫郎は孫郎へ、[あごひげの三十両]の竹孫四郎は竹へ訂正されていた。


そこで疑問噴出。

Taisei_1 『完本…大成』は作家歿後の刊行だが、訂正許可したのはだれなのか? 
文春文庫はなぜ訂正しないのだろう? 

つけたり:
[浅草・鳥越橋]収録『完本…大成5』1998.07.20刊。

[あごひげの三十両]収録『…大成6』1998.08.20刊)

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2006.07.20

盗人用語(50音順)

(50音順)


盗金(あがり)   [5-3 女賊]p108 新p113
現役(いきばたらき)[7-2 はさみ撃ち]p84 新p89
急ぎ仕事      [1-3 血頭の丹兵衛]p106 新p111
急ぎ盗(ばたらき) [1-3 血頭の丹兵衛]p90 新p95
急ぎばたらき    [16-1影法師]p12 新p12
密偵(いぬ)    [1-1 唖の十蔵]p10 新p10
現役(いまばたらき)[7-3 はさみ撃ち]p84 新p89
色事(いろごと)さわぎ[1-7 座頭と猿]p239 新p253
隠居金(いんきょがね)[7-1 隠居金七百両]p58 新p60
おさめ金(ヽヽヽ) [5-1 深川・千鳥橋]p13 新p13
押し込み      [5-4 おしゃべり源八]p145 新p152
お盗(つとめ)   [1-3 血頭の丹兵衛]p106 新p112
盗(おつとめ)   [1-5 老盗の夢]p178 新p188
お目あて細見    [3-2 盗法秘伝]p52 新p71
遠国盗(おんごくづとめ)1-5 老盗の夢]p169 新装p179
女だまし(ヽヽヽ) [7-2 はさみ撃ち]p81 新p85


鍵師(かぎし)   [15-1赤い空p50 新装p51
貸しばたらき    [1-7 座頭と猿]p235  新p249
首領(かしら)   [3-2 盗法秘伝]p52 新p55
かための盃     [1-3 血頭の丹兵衛]p113 新p118
 かため(ヽヽヽ)の盃[14-6さむらい松五郎]p264 新p
 固めの盃(さかずき)[14-2尻毛の長右衛門]p48 新p49
勘ばたらき     [1-1 唖の十蔵]p21 新p22
ききこみ      [7-3 掻堀のおけい]p116 新p122
狐火札       [6-4 狐火]p121  新p128
急場の盗(つとめ) [1-5 老盗の夢]p170 新p180
口合人(くちあいにん)[14-2尻毛の長右衛門]p50 新p
こそこそ(ヽヽヽヽ)盗(つと)め
          [10-5むかしなじみ]p181 新p191


支度金(したくがね)[5-2 乞食坊主]p53 新p56
泥棒稼業(しらなみかぎょう)
          [1-5 老盗の夢]p175 新p185
助(すけ)ばたらき [7-2 はさみ撃ち]p80 新p85


たらしこみ     [7-3 掻堀のおけい]p115 新p121
畜生ばたらき    [15-1赤い空]p50 新p52
仕事(つとめ)   [1-4 浅草・御厩河岸]p139 新p147
盗金(つとめがね) [1-5 老盗の夢]p180 新p191
盗(つと)めざかり [6-4 狐火]p138 新p176
盗(つと)め人(にん)[21-2瓶割り小僧]p52 新p54
盗(つと)めばたらき[10-1犬神の権三]p27 新p29
つとめやすみ    [1-5 老盗の夢]p174  新p184
つなぎ(ヽヽ)   [14-2尻毛の長右衛門]p46 新p57
密偵(てのもの)  [10-1犬神の権三]p28 新p30
手びき       [1-1 唖の十蔵]p22 新p23
盗賊宿       [1-5 老盗の夢]p170 新p167


ながれづとめ    [14-2尻毛の長右衛門]p46 新p47
流れづとめ(ヽヽヽヽヽ)[16-1影法師]p12 新p12
 流れ盗(づと)め [7-2 はさみ撃ち]p85 新p90
嘗帳(なめちょう) [16-3白根の万左衛門]p114 新p
嘗役(なめやく)  [12-7二人女房]p308 新p322
ならび頭(がしら) [4-7 敵]p241 新p253
女盗(にょとう)  [3-3 艶婦の毒]p106 新p112
盗人稼業の真(まこと)の芸
 一、盗まれて難儀するものへは、手を出さぬこと。
 一、つとめ(ヽヽヽ)をするとき、人を殺傷せぬこと。
 一、女を手ごめ(ヽヽヽ)にせぬこと。
盗人宿       [2-5 密偵]p198 新p209
盗人宿(ぬすっとやど)[3-2 盗法秘伝]p66 新p69
盗金(ぬすみがね) [16-1影法師]p12 新p13
盗み細工      [7-5 泥鰌の和助始末]p155 新p165
盗みばたらき    [16-1影法師]p12 新p12
鼠盗(ねずみばたらき)[1-5 老盗の夢]p174 新p177


引退金(ひきがね) [21-5春の淡雪]p176 新p181
引きこみ      [4-2 五年目の客]p51 新p53
引き込み(ヽヽヽヽ)[19-6引き込み女]p 269 新p277
一人盗(づと)め  [18-2馴馬の三蔵]p67 新p70
ひとりばたらき   [5-5 兇賊]p159 新p167
一人ばたらき    [18-2馴馬の三蔵]p46 新p50
独(ひと)りばたらき[10-1犬神の権三]p16 新p


真(まこと)の盗賊のモラル
 一、盗まれて難儀するものへは、手を出さぬこと。
 一、つとめ(ヽヽヽ)をするとき、人を殺傷せぬこと。
 一、女を手ごめ(ヽヽヽ)にせぬこと。
          [1-4 浅草・御厩河岸]p131 新p138


蝋型(ろうがた)金蔵[15-6落ち鱸]p269 新p279
        錠前[6-4 狐火]p166 新装p175

つぶやき:
きのうの、初出(掲載)順もご参考に---。
もし、こほれがあったらご教示を願います。

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2006.07.19

盗人用語

(篇順)

用語が執筆順につくられていった過程を並べて、考察・推理してみるのも、ファンとすれば『鬼平犯科帳』研究の一つの楽しみであろう。


真(まこと)の盗賊のモラル
 一、盗まれて難儀するものへは、手を出さぬこと。
 一、つとめ(ヽヽヽ)をするとき、人を殺傷せぬこと。
 一、女を手ごめ(ヽヽヽ)にせぬこと。
           [1-4 浅草・御厩河岸]p131 新p138
仕事(つとめ)   [1-4 浅草・御厩河岸]p139 新p147

狗 (いぬ)      [1-1 唖の十蔵]p10 新p10
勘ばたらき     [1-1 唖の十蔵]p21 新p22
手びき        [1-1 唖の十蔵]p22 新p23
急ぎ盗 (ばたらき) [1-3 血頭の丹兵衛]p90 新p95
急ぎ仕事      [1-3 血頭の丹兵衛]p106 新p111
お盗(つとめ)    [1-3 血頭の丹兵衛]p106 新p112
かための盃     [1-3 血頭の丹兵衛]p113 新p118
盗賊宿       [1-5 老盗の夢]p157 新p167
(つとめ)ざかり [1-5 老盗の夢]p166 新p176
鼠盗(ねずみばたらき)[1-5 老盗の夢]p168 新p177
遠国盗 (おんごくづとめ)[1-5 老盗の夢]p169 新p179
急場の盗(つとめ) [1-5 老盗の夢]p170 新p180
つとめやすみ    [1-5 老盗の夢]p174 新p184
お盗 (おつとめ)   [1-5 老盗の夢]p174 新p184
泥棒稼業 (しらなみ)[1-5 老盗の夢]p175 新p185
(おつとめ)    [1-5 老盗の夢]p178 新p188
盗金 (つとめがね)  [1-5 老盗の夢]p180 新p191
貸しばたらき     [1-7 座頭と猿]p235 新p249
色事(いろごと)さわぎ[1-7 座頭と猿]p239 新p253

おさめ金(がね))  [2-6 お雪の乳房]p235 新p247
(いそ)ぎ盗(ばたらき)[2-6 お雪の乳房]p236 新p249

首領(かしら)    [3-2 盗法秘伝]p52 新p55
盗人宿(ぬすっとやど)[3-2 盗法秘伝]p66 新p69
お目あて細見    [3-2 盗法秘伝]p67 新p71
女盗(にょとう)   [3-3 艶婦の毒]p106 新p112

引きこみ       [4-2 五年目の客]p51 新p53
ならび頭(がしら)  [4-7 敵]p241 新p253

おさめ金(ヽヽヽ)  [5-1 深川・千鳥橋]p13 新p13
支度金(したくがね)[5-2 乞食坊主]p53 新p56
盗金(あがり)    [5-3 女賊]p108 新p113
押し込み       [5-4 おしゃべり源八]p145 新p152
ひとりばたらき    [5-5 兇賊]p159 新p167

狐火札        [6-4 狐火]p121 新p128
連絡(つなぎ)    [6-4 狐火]p145 新p
蝋型(ろうがた)錠前[6-4 狐火]p166 新p175

隠居金(いんきょがね)[7-2 隠居金七百両]p58 新p60
(すけ)ばたらき [7-3 はさみ撃ち]p80 新p85
女だまし(ヽヽヽ) [7-3 はさみ撃ち]p81 新p85
現役(いきばたらき)[7-3 はさみ撃ち]p84 新p89
流れ盗(づと)め  [7-3 はさみ撃ち]p85 新p90
たらしこみ      [7-4 掻堀のおけい]p115 新p121
ききこみ       [7-4 掻堀のおけい]p116 新p122
盗み細工      [7-5 泥鰌の和助始末]p155 新p165

(ひと)りばたらき[10-1犬神の権三]p16 新p17
(つと)めばたらき[10-1犬神の権三]p27 新p29
密偵(てのもの)  [10-1犬神の権三]p28 新p30
こそこそ盗(つと)  [10-5むかしなじみ]p181 新p191

嘗役(なめやく)  [12-7二人女房]p308 新p322

ながれづとめ    [14-2尻毛の長右衛門]p46 新p47
つなぎ(ヽヽ)    [14-2尻毛の長右衛門]p46 新p47
固めの盃(さかずき)[14-2尻毛の長右衛門]p48 新p49
口合人(くちあい) [14-2尻毛の長右衛門]p50 新p52
かため(ヽヽ)の盃 [14-6さむらい松五郎]p264 新p272

鍵師(かぎし)    [15-1赤い空]p50 新p51
畜生ばたらき    [15-1赤い空]p50 新p52
蝋型(ろうがた)金蔵[15-1赤い空]p50 新p52

急ぎばたらき    [16-1影法師]p12 新p12
流れづとめ(ヽヽヽ) [16-1影法師]p12 新p12
盗みばたらき    [16-1影法師]p12 新p12
盗金(ぬすみがね) [16-1影法師]p12 新p13
嘗帳(なめちょう)  [16-3白根の万左衛門]p114 新p119

一人ばたらき    [18-2馴馬の三蔵]p46 新p50
ひとり盗(づと)  [18-2馴馬の三蔵]p67 新p70

引き込み(ヽヽヽヽ)[19-6引き込み女]p269 新p277

引退金(ひきがね) [21-5春の淡雪]p176 新p181
(つと)め人(にん)[21-2瓶割り小僧]p52 新装p54

つぶやき:
池波さん には『鬼平犯科帳』シリーズを連載する以前から、白浪もの幾篇かがあり、 『鬼平犯科帳』の習作になっているとともに、盗賊用語の試作にもなっている。
熊五郎の顔  「推理ストーリー」1962年02月号 目明し
盗賊の宿   「小説倶楽部」  1962年05月号  盗人宿
白浪看板   「別冊小説新潮」 1965年07夏号  戒律

また、上記の用語を、盗人の流儀、職種、技術用語などにも分類すれば、 『盗賊マニュアル』ともなろう。

明日は、50音順に並べ替えよう。

問い:
以上の中で、あなたが感心しているのは?
3つほど指定して、書きこんでほしい。

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2006.07.18

辰蔵の年賦

長谷川平蔵宣義(辰蔵)の年譜

Hidarifujiss_1
長谷川家紋[左藤巴]

明和7年(1770)生       (宣以25歳、宣雄52歳)

天明8年(1788)12月23日(19歳)お目見(宣以43歳)

寛政5年(1793)ごろ      結婚 (24歳)
                   石浜神社の神官の
                   永井亀次郎安清の養女

〃 6年(1794)         男子:宣茂が誕生
〃 7年(1795)4月  (26歳)宣以50歳。病に倒れる
〃        5月8日     書院番士に(廩米 300俵)
                   (松井松平支族)の
                   松平内匠頭康休組
〃 8年(1796)    (27歳)若君の小納戸

享和2年(1802)7月12日(33歳)西丸の小納戸

文政9年(1826)12月15日(57歳)西城の小納戸頭取、
                   山城守、従五位下
天保2年(1831)6月8日(62歳)先手8番手の弓組頭

天保7年(1836)歿    (67歳)

こうしてみると、父・宣以のおかげで父の生存中に書院番士に召された幸運は別として、あとの順当ともいえる昇進は、当人自身の精進の結果であろう。
火盗改メとして功績をあげた父・宣以が果たせなかった山城守、従五位下に、祖父・宣雄(備中守・従五位下)同様に叙爵されたのもなかなかのものといえる。
もっとも、その時は57歳、父・宣以は50歳で病歿しているから、いちがいに比較はできないが。
ま、史実の辰蔵は、小説に書かれているほど凡庸ではなかった。
いや、父・宣以の死による家督後、隠れていた資質を発揮したともいえる。

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2006.07.17

一本うどん

「友人たちも、一本うどん なら食べてみたい、としきりにいうんですよ」
一本うどん を試食した[鬼平]クラスの受講者から、よくいわれる。

池波さん の筆の力もあり、 『鬼平犯科帳』に出てくる料理はみんな旨そうで、いたく食欲をそそられる。「白魚と豆腐の小鍋立て」も「こんにゃくの白和(あ)え」「わけぎと木くらげの白味噌和え」も、多くの読者によって試されている。

「軍鶏(しゃも)なべ」や「豆腐の田楽」は、それを売りものにしている店で、財布と相談のうえで口にできる。
どうにもならないのが話題にでている「一本うどん」だった。

  五寸四方の蒸籠(せいろう)ふうの入れ物へ、親指ほどの
 太さの一本うどんが白蛇のようにとぐろを巻いて盛られたの
 を、冬はあたため、夏は冷やし、これを箸でちぎりながら、
 好みによって柚子(ゆず)や摺胡麻(すりごま)、ねぎをあ
 しらった濃目の汁(つゆ)をつけて食べる。

海福寺 (江東区深川2丁目から目黒区下目黒3丁目へ移転。跡は明治小学校)の門前にあったうどん屋〔豊島屋〕の名代ということだが、もちろん池波さんの創作とみた。
といって、あきらめるのも癪(しゃく)だし…。

近所の手打ちうどんの〔高田屋〕のご主人をけしかけたら、一か月近くもの研究の末についに出来上がった。

Ipponudon
〔高田屋〕の一本うどん 2人前

30分以上も茹でられたうどんの香りと風味が豊かで、歯ごたえも十分。いける。
もっとも「おれが、本所・深川で悪さをしていた若いころは、三日にあげず…」食いに行ったと鬼平が告白するほどに入れあげるつもりはないが。

で、 [鬼平]クラスの受講者に呼びかけて試食会を開いた。

Ipponnetsuai
予約は前日までに。4人以上。

なにせ親指ほどの太さなので腰がありすぎて、あごがだるくなるといいだす仁もいることはいたが、そこは鬼平ファン、大好評。

「日本中でお宅1軒でしか食べられないのだから、店の名物に……」と〔高田屋〕さんをそそのかしたら、返ってきたのは「仕込みに時間と手間はかかるし、30分も茹でるんでは商売になりません」との返事。

なるほど……とは合点したが、せっかくのアイデアなので口をきわめてすすめ、「まあ、前日までに予約してもらい、4人前以上ということならなんとか」ということで、池波・食のワールドをひとつ実現させることができた。

なぜ一本うどん にこだわるのかって?
一本うどん そのものに……ではなく、部下をもったら必須の能力……アイデアを実現させることに力をそそいでみたのだ。
数を重ねることによって、うちのボスは口先だけでなく実行力もある、と部下の信頼度もちがってくるはず。

〔高田屋〕は文京区本郷2丁目の大横町商店街の中。
(丸の内線・大江戸線とも[本郷3丁目]下車徒歩3分)
電話 〇3・3815・5659。
午前11時半から営業。日曜・祝日は休み。
(一本うどん:週日は夕5時以降。土曜は昼も可か)。
1人前1000円。こじんまりした店だ。

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2006.07.16

〔五鉄〕の位置

『鬼平犯科帳』ファンには、本所の竪川(たてかわ)にかかる二ッ目橋の北詰の軍鶏(しゃも)なべ屋〔五鉄〕はおなじみの店。

橋の北詰はわかった。
それが西側(墨田区両国4丁目)なのか、東側(同区緑1丁目)なのかは明らかにされていない。

熱烈ファンとしては気になるから、現在は二之橋と改称されている橋の北詰へ立ち、あっちかな、こっちかな、と思案する。

手がかりは文庫巻10に所載の[むかしなじみ]の一節。

  二ッ目橋の、五鉄とは竪川をへだてた南詰の林町1丁目
 (立川1丁目)に〔瓢箪屋利助〕という釣道具の店がある。

竪川の対岸が立川1丁目なら〔五鉄〕は二ッ目橋の東側と見ていい。西側の対岸は松井町2丁目(千歳3丁目)となる。

Gotetsu
ニッ目北詰東の〔五鉄〕の位置 赤○(近江屋板)

推理の別の手がかり。文庫巻7所載[寒月六間堀]に、鬼平が飲みすぎて〔五鉄〕二階奥のおまさの部屋へ泊まった翌朝、

  目ざめたときは、もう五ツ(午前8時)をまわっていて、
 窓障子に陽射しがあかるかった。

陽射しが朝日なら、二階奥の部屋は東を向いていることになり、やはり、二之橋北詰の東側でいい。

どうしてこんな些事にこだわるか。人の上に立つ者は、どんなことにも好奇心を持ち、話題をためこみ、勘ばたらきを磨いておく必要があるからだ。

たとえば『江戸名所図会』で亀戸天満宮祭礼の御輿(みこし)行列の絵。

592
592togyor
上・牛車がニッ目の橋に。橋南詰の幟には「本所林町氏子中」
下・幟には「本所ニッ目氏子中」。左上は小浜某の武家屋敷
(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久)

2本立っている(のぼり)に「本所林町氏子中」「本所二ツ目氏子中」と記されている。
だから、行列がわたっているのは明らかに二ツ目橋だ。

諸書がこの橋を天神橋としてきたのは誤り、との学術的新発見にもつながる。
左手奥の武家屋敷は鬼平がときどき身をひそめる旗本・小浜某(四千石)邸。

もっとも絵の二ッ目橋北詰の東側に〔五鉄〕はなく、あるのは町会詰所ふうの建物だが。

こんなふうに『鬼平犯科帳』の記述と、池波さんが執筆にあたって座右に置いていた江戸の切絵図『江戸名所図会』を携えての鬼平ワールド探索のコースを70ほど設計、[鬼平]教室のメンバーと散策している。

読者の中で、鬼平もどきに市中を微行してみたいと希望される向きは、鬼平熱愛倶楽部の西坂代表へ、ファクス(〇3-3640-7094)で連絡先をご一報を。

〔五鉄〕 の近くには 〔舟形〕の宗平 〔大滝〕の五郎蔵 の煙草店もある。入江町(墨田区緑4丁目)へは500メートル。

高杉銀平道場のあった法恩寺西の出村町(同区太平2丁目)も5分ほどの距離。

つぶやき:
江戸をかぎりなく愛していた池波さんが読者に望んだことのひとつは、鬼平とともに東京を歩いて江戸を自分のものにしてほしい、だろう。

大きな亀戸天満宮御輿渡御の絵

〔五鉄〕の間取り図

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2006.07.15

健康は健脚から

Photo_30このコラムの読み手は鬼平ファンであるとともに『剣客商売』ファンでもあろう。とっておきの秘話を二つ。

東京の台東区清川1丁目の本性寺には、秋山小兵衛の亡妻で大治郎の実母・お貞と、同門の剣客・嶋岡礼蔵があることになっている。

法華宗の当山がなぜ秋山家の菩提寺になったか。

S_6
痔疾で苦しんだ秋山(しゅうざん)自雲(じうん)の墓所・本性寺

お貞が逝ったころの小兵衛は、四谷仲町(新宿区若葉3丁目)……竜谷寺(二葉幼稚園)の向いの、故郷・秋山郷の実兄に買ってもらった土地に道場をかまえていた。本性寺へはほぼ8キロ、あまりにも遠い。

S_7小兵衛の青年時代。悪質の痔疾に苦しんだ酒問屋の主の岡田某が、剃髪して当山で唱題修行にはげんだがその甲斐なく遷化、法号を「秋山(しゅうざん)自雲」とした。
」を「」にかけたものか。
池波さん がこの自雲の掲示に目をとめ、
「おや、秋山(あきやま)。これもなにかの縁」
と痔主(じぬし)ではなかったお貞を葬った。

冗談……痔という字は寺に入るまで治らない病いと書く。
秋山小兵衛ファンへ呼びかけ、お貞嶋岡剣客法会(ほうえ)をいつか、としゃれっ気のある住職と話している。

根岸3丁目の西光寺は臨済宗の名刹としてより、江戸時代から藤寺として有名。

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根岸小学校裏の藤の円光寺
(『江戸名所図会』 塗り絵師:西尾 忠久)

浦和へ震災疎開していた池波家が東京へ帰ってき、正太郎少年新1年生で入学した根岸小学校は当山の向かい。
佐々木三冬が起居していた書物問屋〔和泉屋〕がここ。

Photo_29
図版解説:五条天神門前の〔花屋〕に、寺町通りにあった〔和泉屋〕を置いた。(『江戸買物独案内』より 文政7年 1824刊)
Photo_32

『剣客商売』でも『鬼平犯科帳』でも、池波さんは江戸切絵図を座右において登場人物を動かしているから、あと追いすれば、休日に池波ワールド安上がり散策ができる。

そんな鬼平・剣客史跡めぐり70コースほど設計して[鬼平]教室のメンバーと歩き、打ち上げを池波さん好みの店で会食している。

中間管理職は体力勝負。ゴルフの1ラウンドの1万歩で脚力増強もいいが史跡めぐりのほうは経済的。
とはいえ1万歩はちょっときつい。6000歩あたりのコースが適当。

1万歩なら、長谷川組の史実上の組屋敷――文京区・目白台図書館前から台東区・菊川の長谷川邸跡までが1万と1千歩。
組の与力・同心は片道でそれだけの距離を通勤していた。
健脚になるわけだ。
小説の中の与力・同心はあまり病欠しない。

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ただ、立っていよ

長谷川平蔵信仰心の篤い人だった。宗派にこだわることなく、いくつかの寺の住職と親しくしており、火盗改メとして死罪にした罪人の供養もたのんだ。

幕府焔硝倉(えんしょうぐら)が千駄ヶ谷にあったが、その南の、「遊女の松」で有名な天台宗の寂光院もそうだ。

Photo_27
遊女の松。近江屋板の切絵図では境妙寺と表記

遠くからの目じるしとなっていた大きな松樹は、もと「霞の松」とよばれていた。
改称したのは放鷹(ほうよう)に来た三代将軍・家光が、いっとき鷹の姿を見失ったが、霞の松に止まっていたので、呼んで家光の腕へ帰らせた。その鷹の名遊女

293yujo
寂光寺と遊女の松(中央のやや下)
(『江戸名所図会』部分 塗り絵師:西尾 忠久)

白昼、行きちがいざまに顔をなぐられて立ちすくんでいる女性からカンザシや風呂敷包みを奪いとる常習犯の中間を死罪にした。その供養を頼みがてら寂光院を訪ねた平蔵へ住職がいった。

「ホトケをお召しかかえになっていたご書院番・稲葉喜太郎
まにはおとがめなしということで…」
「さよう。ご一族のご奏者番・淀侯(稲葉丹後守。10万20
00石)が諸方へ手をおまわしになり申した」

奏者番は幕府の煩瑣なものになっている典礼を執行、諸大名から一目おかれている要職で、つぎには大坂城代とか京都所司代の高職が待っている。

「娑婆にあったときのホトケに往来で狼藉されたおなご衆の悲
鳴に、助けに駆けつける者はなかったのですか」
「ご坊にもご記憶おきねがいたいのは、無法者には逆らわず、
人相を見とどけ、できうれば尾行して寝ぐらをつきとめること
です」

平蔵のこの忠告が役に立った。旬日をでずして寂光院へ抜き身を手にした5,6人の賊が侵入してきたのだ。
住職のいいつけどおりに全員がタヌキ寝入りきめこんで根こそぎ盗ませておき、帰りを尾行して四谷の旗本屋敷へ入るのを見とどけた。

翌日、平蔵がさし向けた長谷川組の同心とともに使僧が旗本・山崎某の家へ。
「難儀しているので、昨夜持ち去った諸道具と衣類をお返しね
がいたい」
「一向に知らぬこと……」
「尾行してご門に印をつけておいたゆえ、このお屋敷であるこ
とにまちがいなし。すんなりお返しくださるなら昨夜のことは
なかったことにしてお屋敷の名もだしませぬ。が、知らないと
いいはるなら、ご一緒していただいている火盗改メのお役人さ
まへ、いまここで訴えるまでのこと」

老中首座・松平定信による借金棒引きの義捐令(きえんれい)にもかかわらず、この時期、困窮する幕臣があとをたたず、寛政前までは考えられなかった盗賊まがいの悪業に走る者も。
わずかばかりの減税ぐらいでは暮らし向きが一向にラクにならない今のサラリーマンに似ていなくもない。

旗本の監督は若年寄目付の仕事と考えている平蔵は、寂光院の住職の訴えに、同心には、
「ただ、立っているだけでよろしい」
との策をさずけて同行させた。実話である。

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2006.07.14

できる部下

剣の達人が出てこない時代小説は魅力が一欠け、といわれる。時代小説には裏長屋人情もの、艶もの、妖怪ものもあったりするから、必須の条件ではないが…。

火盗改メ・長谷川組の同心30人(小説では殉職した7人をふくめて44人登場)の中で、存在感で5指にはいるのが沢田小平次だ。

5初登場は遅くて、寛政2年(1790)の事件 [兇賊]で、老母と2人暮らし。26歳で独身だった。

その後は99話中68話に登場しているから登場率は約70パーセント。小数点3ケタのところで木村忠吾におくれをとっているものの、トップクラス。

「まともに斬りあったら、おれもかなうまい」
と鬼平が太鼓判をおす一刀流の免許皆伝
それだけに修羅場では平蔵も深く頼りにしており、強力な助っ人が必要とふんだときには彼を指名する。
小平次もこころえていて、長官(おかしら)の期待に応える。

ついでだが、もうひとり剣が強いのは同心筆頭の酒井祐助柳剛流の免許持ち。
ただこの人には印象にのこるほどのチャンバラ場面がない。
小平次 [剣客] [白蝮]で1対1の真剣勝負で冴えを披露する。

[兇賊]から寛政7年春の[白蝮]まで足かけ6年、小平次に許婚や結婚の気配はない。テレビでの真田真一郎さんだと、子どもの3,4人もいる感じだが…。

酒井同心小柳安五郎が文庫巻1[血頭の丹兵衛]から顔を見せているのに、小平次が出おくれたのは、最初のうち、鬼平の剣の強さを薄めてはいけないと池波さんが考えていたからかもしれない。
もっとも鬼平が剣技の冴えを見せるのも第6話[暗剣白梅香]からだが。

連載が長期化してくるにつれて鬼平ひとり、あるいは岸井左馬之助とふたりだけの剣技では飽きられると危惧(きぐ)したのだろう。

さて、小平次鬼平が「かなうまい」というほどの腕の持ち主であっても、鬼平の1500石高の地位をおびやかす存在にはぜったいならない。
江戸幕府――中央官庁では、同心はいつまでたっても30俵2人扶持の同心なのだ。
安心して腕前をほめていられる。
そこがいまの中間管理職と異なる。

できる部下はほしい、が、自分の地位をおびやかすほどに力量があっては困る。
もちろんパソコンのシステム構築とかインターネットによる情報収集ではむこうのほうが上ということはある。

上に立っている者の第一の職務は人事管理――これなら負けないはず。
できすぎる部下には持てる力をこころおきなく発揮させる、ほめあげる、それで心服させる。

そういうのにかぎって自惚れが強い?
小平次の人柄を一言でいうと「控え目」
できる部下に『鬼平犯科帳』を読ませ、酒場で読後感談義にことよせた小平次論で、いい添える。
「女性は、強くて控え目な小平次に好感をもつのだと」

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2006.07.13

視覚的な説得力

[『鬼平犯科帳』の彩色(ぬりえ)『江戸名所図会』] なるホームページ、開設して5年を経過した。

このごろは、400 /日アクセスを維持。累積アクセス数は間もなく、540,000に。

『鬼平犯科帳』を執筆するにあたり、作者の池波さんがいつも座右においていた主要な史料は3つ……
『江戸名所図会』
「江戸の切絵図」
『江戸買物独案内』

各文化センターの[鬼平]クラスでの講義でこの3史料を援用して物語の内容を絵解きしてみたら手ごたえ十分で、受講者の反応が高かった。

いける! 関東エリア外の鬼平ファンもインターネットで見られるようにしなければと思いたち、プロのデザイナーの力を借りてホームページづくりに挑戦したのだ。

アクセスしてくれた某紙パソコン欄担当のS記者は「個人のホームページでこんなに美しいのは初めて」と。

『ダカーポ』誌のE編集長も「鬼平ファンならよだれものの情報がつまっている」と激賞メールをくれた。

点の辛い玄人(くろうと)の採点に勇気百倍。

すでにアップしていたものをバージョンアップ(?)の形で、2つのブログ、立ち上げた。
1つがこの [『鬼平犯科帳 who's Who]

もう1つ……  [大人の塗絵 『江戸名所図会』]

『名所図会』の彩色に各[鬼平]クラスの受講者の有志の手をわずらわしたものを加えた。これが意外な効果をあげることになった。

『図会』からとった白黒の同じ元絵でも塗り絵師(?)の個性や色彩感覚によって大きく異なった印象の絵に仕上がっているからだ。

「塗り絵師」を、特別な教課をへなければもらえないタイトルと思いこんでいる人もいるらしいが、この試みのために考案した新語で、『名所図会』の彩色をした人はすべて自称「塗り絵師」。
『名所図会』には江戸後期の名絵師・長谷川雪旦の挿絵が670景ばかり収録されている。
電子紙芝居『鬼平犯科帳』とでも名づけてもよかったが、紙芝居なんてもう実体がなさそうなので、「大人の塗り絵」。

うち『鬼平犯科帳』に登場したり関連がある景色は200景前後だ。

おいおい、リーダーはどうなっているのだ? とおとがめにならないで。
リーダーの必須能力のひとつに、ポンチ絵……つまり、簡単な素描を描いて説明できること、というのがある。
塗り絵のほうはは素描(デッサン力)ではなく色彩感覚に属するが、描くという点では似たようなものだろう。

絵といえば、池波さんは子どものときから絵を描くことが大好きで、後年はそちらでも腕をふるった。
『鬼平犯科帳』でも視覚的な文章になっている。
[本門寺暮雪]の雪の降る石段での〔凄い奴〕との、映像的な死闘シーン。

つまり、『鬼平犯科帳』を深読みするためには絵画的・映像的な理解力が必要なような気がするのだ。あながち我田引水とはいえまい。

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2006.07.12

山本伊予守組の失態

天災や飢饉が多いのは天明(1781~88)という元号がよくないせい、と松平定信内閣は朝廷から下賜された寛政(1789)に改めたが、盗賊による被害は一向に減らない。

プロ集団に加え、養子の口もない閉塞感から旗本の次男三男などで強盗をおこなう者まででる始末。

幕府は奉行所を通じて四ツ(夜10時)以降は無用の夜行を禁止する触れをだした。
火盗改メの本役・助役を督励するとともに、非番の先手組へは夜廻りを命じた。

鬼平ファンのあなたなら先手組頭の山本伊予守という名におぼえがあるはず。
そう、文庫巻8所載の[流星]で、暗殺団から四谷坂町長谷川組組屋敷を警護してやるように、と若年寄・京極備前守に下命された仁。

実在の組頭で諱(いみな)は茂孫(もちざね)、家禄は1000石。『鬼平犯科帳』にもうひとり実名で記されている堀帯刀秀隆の後任として先手弓の1番手の組頭に36歳でなったほどだから、よほどにやり手だった。
屋敷は一ツ橋通り小川町。

池波さんが警護担当に、なぜ山本伊予守を当てたかは不明。というのは、山本組の組屋敷は牛込山伏町(新宿区弁天町)だ。

Iyogumi_1
牛込の弓の1番手の組屋敷=赤○

四谷坂町の長谷川組組屋敷(小説)へは1.5キロほどある。

四谷坂町の隣の伊賀町には市岡組市谷本村町小野組(小野派一刀流の宗家)、同鍋弦町土方組四谷左門横町松波組四谷船板横町柴田組組屋敷があった。

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四谷御門外の先手組屋敷。赤○=小説の長谷川組
                 緑○=ほかの組

この5組から臨時の警備組を選んだほうが距離的には理にあっていたはず……と考えたので、組頭の年齢をあたってみた。

[流星]は寛政5年(1793)の事件。
そのときの組頭の年齢を右記の順に並べると53、62、51、72、70歳。最年少の41歳で気力充溢の山本伊予がやはり正解だった。

51歳の土方宇源太だって現役ばりばり……と思うのは現代流の考え方。人生50年といわれた時代、長谷川平蔵50歳で没した。

さて、寛政3年5月、同心を従え、若さにものをいわせた山本伊予の夜廻り記録がのこっている。

牛込山伏町の組屋敷から神田川ぞいの外堀通りを加賀っ原(千代田区外神田一丁目)あたりまで夜半から巡回したがひとりも怪しい者を見かけない。

夜明けとともに同心たちを引きあげさせたところ、同夜近所の町屋2軒へ強盗が入ったと組屋敷で留守番をしていた者が報告。

事情を伝え聞いた平蔵は、
「あの組の与力・同心は火盗改メの役料ほしさに、伊予どのの前の頭・堀帯刀どのの用人へ100両もの袖の下を贈って移ってもらっている。そんな連中ゆえ、夜廻りの時刻や順路を賊方へ洩らした者がいても不思議はない。伊予どのもいずれ手をお打ちになろう」

つぶやき:
鬼平ファンにいわせると、
「弓の1番手・堀組から与力筆頭の佐嶋忠介を長谷川組へ引き抜いたために、組の統制がガタガタになったのだよ」

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2006.07.11

平蔵の剣の実力

『鬼平犯科帳』の中の長谷川平蔵こと……鬼平は、本所・三ッ目(墨田区菊川2丁目)へ越してきた19歳から、横川ぞいの出村町(墨田太平1丁目)の高杉銀平道場へ通い、一刀流の目録をさずかったことになっている。

605
本所・出村町の法恩寺。高杉道場は左下の藁屋根の農家。
(『江戸名所図会』 塗り絵師:i西尾 忠久)

605b
上の絵の高杉道場のあたりを部分拡大。

そう、強い
講じている文化センター〔鬼平〕クラスで受講生へお気に入りのチャンバラ場面を問い、まっ先にあげられるのが[妖剣白梅香]の、

  身を沈めざま、背後に迫る敵を、平蔵がなぎはらった。
  敵は、ほとんど平蔵の頭上を飛び越えるようにして、この
 逆襲をかわし、二人の位置が入れかわった転瞬(てんしゅ
 ん)、声もなく激烈な斬撃を平蔵へ送りこんできた。
  刀身と刀身が噛み合い、火花が散った。

この斬り合いだ。
ほかにも枚挙にいとまがないほど推挙される。

朝日カルチャーセンターの女性受講生の一人がいうとおり、 「法は完全ではない。運用する者のサジ加減ひとつ」……だから『鬼平犯科帳』はみごとな人情劇にもなる。一方では、爽快きわまるチャンバラ劇でもある。

武家ものは、主人公に剣技の冴えがなければおもしろくない。彼が強くなければ肩入れできない。殺陣(たて)に新味がなければ読むに価いしない。

が、史実の平蔵は、小説の鬼平ほどに剣技がすぐれていたか。番方(武官)系の家柄だから剣術のみでなく、弓術馬術水練もそこそこには鍛えてはいたろう。

が、手にあまれば斬って捨てることも、まま許されていた火盗改メの長官であっても、みずからが真刀を抜いて賊と直接に対決する機会は、テレビの鬼平=中村吉右衛門丈があざやかに決めているよりうんと少なかった。

むしろ、生かしたまま逮捕、共犯者余罪を白状させるほうを重視。

そのことはおき、平蔵の同時代に松平定信側の隠密の秘密リポート『よしの冊子』は当時、武芸が秀でていた幕臣を称賛口調で記録しているが平蔵の名前はない。

そればかりか、平蔵の息・辰蔵が、若年寄による御目見(おめみえ)前の下見分では武芸を辞退し、素読講釈だけで受けていたとも記す。

父と子が同じ能力ということはないにしても、もし、平蔵の剣技がすぐれていれば、その子の辰蔵が武芸を辞退することはなかったと思う。平蔵の剣技は当時の平均的幕臣なみだったと考えてもよさそうだ。

平蔵のころには、もう、づぬけた剣技よりも、先手組頭にはすぐれたリーダーシップのほうが求められていたと考えられる。

ところで、当時の武術をいまのビジネス社会に置きかえると、外国語会話、インターネットなどのパソコン操作、自家用機操縦、きき酒、ゴルフ、囲碁…のうちのどれだろう?
意外にも、女子社員とのデュエットのカラオケだったりして。

いや、やはり、企画力やプレゼンテーションの巧みさ、意思決定の方法、財務知識や部下の評価法などの正統派スキルのほうが最重要項目だ。

つぶやき:
剣にも義理にも強くない鬼平は、お呼びではない---が、ファンの本音であることは間ちがいない。

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2006.07.10

部下を信頼する

榎本武揚(たけあき)は、オランダで海陸兵制を学んで帰国、幕府の海軍奉行として五稜郭(ごりょうかく)に立てこもった人物として知られている。

武揚と行をともにした陸軍総裁・松平太郎のほうはさほど有名ではない。
五稜郭の開城後、東京へ護送・幽閉され、のち恩赦。
ものの本には「性格は豪放にして機知に富み、意表をつく企画を考え、ものごとにこだわらなかった」とある。

長谷川平蔵の再来みたいだと思っていたら、同名の息子・太郎が大正9年(1020)に出版した名著『江戸時代制度の研究』にこう書いた。

江戸幕府270年を通じて200人近くいた火付盗賊改メで「英才ぶりが広く知られているのは長谷川平蔵、中山勘解由(かげゆ)、太田運八郎」。
平蔵をいの一番に据えてたのだ。

中山勘解由(3500石)は平蔵より100年むかしの人。
エビ責めの拷問(ごうもん)を考案したり、不良旗本・白柄(しらつか)組と対抗した町奴(やっこ)組をこっぴどく取り締まった。

Ohtakamon_2
太田運八郎(3000石)のことは太田道潅の末、としか調べがついていない。
(丸に内桔梗は太田家の表家紋)

父親(30歳)が平蔵(47歳)の助役(すけやく)に発令され、教えを乞うたら、
「本役と助役とは競争しあってこそお役目が果たせるというもの。こっちはこっちでやるから、そっちはそっちでおやりになるんですな」
とけんもほろろにあしらわれ、火盗改メを管轄している若年寄へ泣き言を持ちこんだと記録にある。

記録だけを読むと、せっかく着任の挨拶をしにきた父のほうの運八郎平蔵がいじめているみたに思える。

が、事情がわかると平蔵の処置もうなずける。

その1。運八郎は若年寄の執務室へ呼ばれたとき、てっきり西の丸の目付(めつけ)に任命されるものと期待して行ったが、先手の組頭だったのでがっくりきた、とまわりへふれまわした。

目付は1000石高先手組頭は1500石高役職手当
ふつうなら後者に発令されるのを喜ぶのに、家禄が3000石で役職手当を超えているために1石もつかない。
そこで彼は、目付は出世コースとして先手組頭より優先させたのだ。先手組頭の平蔵にはカチンくる。

その2。運八郎が就任した先手鉄砲(つつ)11番の組は、それまでの50年(600か月)のあいだに火盗改メに104か月も従事しており、平蔵の組の144か月に次いで経験豊富な組下ぞろい。
盗人逮捕のコツは「おれに教えを乞うより、組の与力同心に聞いてやってこそ、彼らも働き甲斐を感じるというもの」と平蔵は言いたかった。

組の与力同心をやる気にさせるのが組頭の最大の仕事の一つだ。その仕事ぶりを認めてやり誉めあげ信頼されていると感じさせることだ。

Katoutsuki
赤○は長谷川組 緑○は太田運八郎組

つぶやき:
「自分が望んでいたポストはここではなかった」などと口にしていることを耳にした部下は、
「なんだ、こいつ」
と仕える気もなえ、
「長谷川どのはよくぞたしなめてくだされた」
と思う。

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2006.07.09

[大川の隠居]のモデル

『鬼平犯科帳』文庫巻6(第41話)[大川の隠居]を、多くの読み手がシリーズ中のもっとも好きな物語として推す。

池波さんは当初、このシリーズを1,2年で終えるつもりだった。
えんえん164話の読切シリーズ超巨作となったのは、出版社や読者の要請、テレビ側の懇望に応えざるをえなかったからだ。人気作家のつらいところでもある。

あるところで池波さんは、 [大川の隠居]を書いたことでらくになり、あとの物語づくりの筆がすすんだと告白する。
佳篇はユーモラスな味の人情劇。芝居の台本畑出身の池波さんらしい発言……とこれまで思っていた。

ところが、かつて『鬼平犯科帳』史跡さんぽをしていて、作家の告白には別の意味があったことを発見した。

その前に、 [大川の隠居]の簡単なおさらいを。

風邪で伏せっている長谷川平蔵の寝間へ、盗人が忍びこんで銀煙管をもち去る。その煙管は、亡父・宣雄が京都の名工・後藤兵左衛門に15両で造らせた逸品。

偶然のことから、盗んだのが日本橋川ぞい、思案橋たもとの船宿〔加賀や〕の船頭で元盗賊の友五郎とわかる。
そこで一計。
友五郎にもう一度侵入させ、煙管印籠を取り換えさせておき、彼の舟で浅草・今戸橋際の料亭まで大川(隅田川)をさかのぼる。

途中、船頭たちから大川の隠居と呼ばれている大鯉が舟と並泳。
「おう、隠居。もう帰るのか……じゃあまたな、さよなら、よ」
親しげに声をかける友五郎。

このあと今戸の座敷で悠然と兵左衛門作の銀煙管をふかす鬼平
見た友五郎の手から盃が音をたてて落ちる。
テレビの友五郎役・犬塚一さんが盃を落とすさまを、いたずらっぽい微笑で流し見る中村吉右衛門丈=鬼平。

上の地位にいる者は統御するだけでなく、さばけた裁きも必要……と教える。

さて、この佳篇についての新しい発見。

池波さんが少年時代を過ごしたのは台東区永住町(現・元浅草3丁目)だ。
東隣の寿1丁目21に竜宝寺なる浄土宗の名刹がある。

3101s
竜宝寺正面

3102_2

かつて山門が新堀川に面していたここの別号=鯉寺の由来がおもしろい。

嘉永期というから平蔵の死後半世紀。
隅田川で目の下が125センチもある大を捕らえて竜宝寺の池へ放したが、傷がもとで生命が絶えた。
それを食べた全員が高熱に苦しみ、昇天してしまった者も。
大鯉のたたりにちがいないと供養・祈念してやっと平癒したと。

3103s
竜宝寺前庭の鯉塚

当寺の鯉塚のゆえんである。

竜宝寺は少年時代の池波さんの遊び場所の一つでもあった。
大川の大鯉の史談はとうぜんご存じ。いつか芝居に……と想を練っていたろう。
そこへ鬼平という花も実もあるヒーローをえて、佳篇「大川の隠居」に結晶した。

つぶやき:
往時の京都ショッピングガイド――『都買物独案内』の煙管の項に広告している煙管師は、新竹屋町寺町西入ルの後藤兵左衛門のみ。
ほかは煙管問屋だ。池波さんとしては彼を煙管師の名人に仕立てるしかなかった。

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2006.07.08

上への情報ルート

「捕物の名人」――が長谷川平蔵に与えられた当時の世評だ。

たしかに犯人逮捕の実績はは群を抜いていたし、大泥棒といわれていた真刀(進藤、神道、新稲とも書く)小僧、葵小僧、大松五郎、善奴、早飛の彦ら、名だたる首領も捕らえた。
しかし、平蔵の事蹟が後世で高く評価されているのは、隅田川河口の石川島に無宿人を収容した人足寄場の起立と成功した運営のほうだ。

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手前は湊稲荷。右向い・石川島の手前の林が人足寄場
左手の長い橋は、隅田川に架かる永代橋
(『江戸名所図会』 塗り絵師:西尾 忠久)

心学者として著名だった中沢道二(どうに)を寛政2年(1790)から人足寄場へ月3回招き、収容者たちに講話を聞かせもした。
寄場から神田川・筋違橋(現・万世橋)の東北詰の薪河岸まで、迎えの専用舟を出したという。

道二の人選は老中・本多弾正少弼(しょうひつ 陸奥国泉藩主。2万石)。このとき52歳の本弾は、定信少壮内閣では異例の年配者で、それだけに老獪(ろうかい)だし、顔もひろかった。

心学者の道二も60歳をはるかに越えていたし、京都の商人の出だったから気ぐらいは高かったが如才ない。なにかというと権力者:松平定信の名を口にした。

「越中(定信)さまのお屋敷に伺ったとき……」
ああだった、こうだった……といっては聴衆の尊敬を集めようとした。道二が松平家へ参上したのは1,2回なのだったが……。一度会っただけの有名企業のトップや政治家の名刺をいつも名刺入れにしのばせていて、ことあるごとにひけらかしているご仁のすようなものかも。

とにかく、道二の定信びいきに目をつけた平蔵が、入れ知恵をした。
「寄場では使えないテだが、町では効果のある妙案があるよ」
「と、おっしゃいますと?」
「先生の講話を聞いた者たちのことを、越中どのが知りたがっておられるといって、帳面に名前を書かせる」
「越中さまがご覧になりますかねえ?」
「聴衆には、ご覧に入れるつもりだといっとくのさ。それで先生の株はいっそう上がるし、名簿づくりもできて、一石二鳥というもの」

平蔵のねらいは、道二の口から「人足寄場の名簿はございませんが……」と寄場の受講者の様子を定信の耳へ入れることだった。
新聞のない時代だから人の口だけが頼り。いまでいう逆リーク。ボスの耳へはこっちの働きぶりが直接、間接にとどくように気を配っておくのが中間管理者のパフォーマンス……情報操作術といえる。

いや、じじつ寄場には道二の講話を聞いて涙を流している収容者もいたのだ。道二招聘の成果は顕著だったといってもいい。

だが、「平蔵は山師」といちど決めこん老中首座・定信の平蔵にまつわる印象は容易に変らなかった。それでも平蔵はあきらめない。

定信側の隠密が聞いているところで、
「1年やっただけで家産がかたむくといわれている火盗改メを、3年もやっていると首をくくりたくなるほど借金がふえるが、越中どのが、市中から無宿人が目に見えて減った、平蔵はよくやっているとおっしゃってくださっているお言葉が励まし」
と声高に話したりしている。

こういった史料を目にすると、平蔵の肩を抱いて、
「分かりの悪いボスを持つと、お互い苦労するね」
といってやりたくなる。

平蔵は、幕府の役人としては珍しく民意のあり場所、その反応……つまり情報の収集と伝播について理解がおよび、それをソフトに活用していた仁(じん)だった。

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2006.07.07

役宅の庭の花木

Mukuge__1
ムクゲの白い花

梅雨があけるのを待ちかねていたように、マンションの前庭のムクゲが花開く。
もう、まもなくだ。

文庫巻4[おみね徳次郎]では、役宅の庭に咲いているのを鬼平が眺めていたとき、佐嶋忠介が入ってきて、おみねの処置をうかがう。(p234 新装p245)

つぎに掲げた季節の庭木は、鬼平が起居している清水門外の役宅(千代田区九段南一丁目2)の庭に咲いていると『鬼平犯科帳』に書かれた花たちだ。
鬼平夫人・久栄さんの丹精によっている。
なかでも梅擬(もどき)は鬼平が手ずから植えこんだもの。
その姿や実、花のかたちを思い描けるのは、いくつ?

…白梅、桜。

初夏…つつじ、からたち、花ざくろ、南天、山桜桃(ゆすら)うめ。

夏から秋…女郎花(おみなえし)、むくげ。

秋から初冬…菊、梅擬(もどき)の実。

冬から春…藪椿(やぶつばき)。

12のうち6つ以上できたら、あなたの自然を愛する気持ちはかなり強い。
(ほとんどの花の写真を、ガーデニング・スペシャリスト村上孝子さんが、下記サイト[『鬼平犯科帳』の彩色『江戸名所図会(ずえ)][有朋(UFO)]コーナーへあげてくださっている。

火盗改メの長官に就任してからこっち、鬼平は盗賊団の追跡・逮捕、尋問・裁決に寧日なく、庭の花木を賞(め)でることで観花(はなみ)にかえている。

  長谷川平蔵が、亡父遺愛の銀煙管を把って煙草をつめなが
 ら、
 「桜花(はな)は、まだ、残っているかえ?」
 「いいえ、もう……」
 と、おまさの声が落ちつきを取りもどし、
 「もう、散ってしまいました」
 「そうか……今年もまた、ゆっくりと桜花を見なんだわ」
       ( [14―2 尻毛の長右衛門]p88 新装p90)

いまの中間管理職に似たワーカホリック(働きすぎ症候群)の鬼平だが、おいしいものや珍しいものと美酒を口にするほかに、どんな楽しみごとをもっていたろう。

そこで、あのころの江戸人の遊びの情景を『江戸名所図会』から抽出したら観花(はなみ)、紅葉狩り、雪見、潮干狩り、蛍狩り、聴虫、滝見、水車見、観劇、祭礼、行楽、買い物、外食、乗馬、旅行などなんと百景近くもあった。

各文化センターの[鬼平]クラスのメンバーを塗り絵師に仕立て、モノクロのそれらの絵を絵彩色(塗り絵)してもらった。色をつけられた江戸風景は生命を得たかのように現代へよみがえった。

鬼平研究から派生した塗り絵だが、『犯科帳』のそれぞれの話を創作するにあたって池波さんは、就寝前に『名所図会』の長谷川雪旦の絵と江戸切絵図を熟視、物語の舞台をきめていたようなのだ。

翌日、散歩しながらその舞台に鬼平などの人物を配し、あとは彼らが自由に動きまわるのを記録した、とエッセイにある。『犯科帳』を深読みするのに『名所図会』は主要な一手がかり。

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2006.07.06

リーダーの指針

火盗改メ長谷川平蔵組が捕らえた3巨盗は、『鬼平犯科帳』に[妖盗葵小僧」として書かれているレイプ魔・葵小僧、関東から福島あたりまで荒らしまわった真刀(しんとう)徳次郎、江戸で神出鬼没の盗みを重ねた大松五郎につきる。

中でも知能犯大松だ。数十人の配下を何組かに編成、一晩のうちに計画的な時間差襲撃をやった。すなわち一組が日暮れて間もなく深川・佐賀町(江東区)の商店へ押し入る。まだ起きている家人をしばりあげた賊は、盗み装束の背中の松葉を見せて大松一味と確認させる。

届けを受けた火盗改メが深川へ着いたころ、別の組が芝口(港区)を襲う。つづいて別の一班が駒込片町(文京区)の寺院へ押し入る…といったぐあいだ。

その不敵な盗みっぷりは、老中首座・松平定信が自分の名を分解した自伝の『宇下人言(うげのひとこと)』に、江戸市民は風の音にもおびえて眠れない夜を送っていた、とわざわざ書きのこしているほどだった。

長谷川平蔵は寝ぼけているのか」
「賊は大松、手をこまねいて待つは平蔵、おれたちゃ末世」
と罵声(ばせい)が巷にあふれた。

そう、平蔵は、賊たちの行動パターンを記録して大松の作戦本部の所在地を推察しながら、逮捕時期をじっと待っていたのだ。

宵の口の初動と2番手の出動・引きあげにをつかっていることがわかった。3番手も目標に近い地点まで舟で移動している気配。

本拠は大川(隅田川)べりで、退(ひ)きあげどきには流れを利用して逃げ足を速めているから、本拠は河口の佃島……とあたりをつけた。

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隅田川河口の築地の海と対岸佃島の住吉神社
(『江戸)名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久)

佃島は閉鎖的な漁師町だから、他所者(よそもの)が住めばたちまち近隣の視線にさらされる。そこで、佃島を望む船松町の舟着き場のあたりからの見張りが強化された。

はたして月が欠けた夜、岸辺にあらわれた10数人が幾叟もの小舟に分乗した。
「あ奴らに間ちがいない」

さらに探りがいれられた。富山の薬売りの交代引きつぎ人や料理屋の仕入れ人の助手に化けた密偵が、佃島へ潜入してそれらしい家の内情をそれとなく聞きこんだ。

長谷川組が一斉に踏みこんだのは、府内3か所で盗みが行われた翌日の五ツ半(午前9時)だった。賊たちは昨夜の戦果に満足し、酒をくらってまだ寝ていたから、捕方側には手傷を負った者がほとんどいなかった。

一件落着のあと、平蔵が探索方の与力・同心へ語ったのは、
「装束の背中に松葉なんぞを染めぬいている稚気から、素人に近
い連中の仕業とにらんだ。
それで、舟が商売で、多人数で仕事をしていてもおかしくない…
…とくれば漁師。
だが、佃島深川の漁師町・熊井町(江東区)かで迷った」

与力・同心たちは、平蔵大川から一貫して目を離さなかったいつものゆるがない指揮ぶりに、あらためて感心したのだった。

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2006.07.05

『御仕置例類集』より(6)

長谷川平蔵名で、幕府評定所量刑をうかがった伺い状を、『御仕置例類集』から順次、紹介している。

○盗み   (寛政元年)  四十七番
 下総国葛飾郡 北方村百姓 彦八 品取り上・所払

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上記のもの、盗品と知りながら、夜具・衣類・その外の品々を安く買い取った上で、売り払ったり、埋めたり、質入れしたこと不埒につき、まだ所持している品を取り上げたうえ、所払。
裁決---上記の犯罪であれば、ふつうは入墨の上・敲きであろうが、盗人との関わりの程度によっては死罪の前例もある。吟味した結果、彦八は、当の盗人の下総無宿のやっこ久次郎こと清蔵とずっと関わりつづけているとはいえないが、無宿とわかっての者から、盗品と知りつつ買い取ったのは、盗人の同類と断じ、死罪

○盗み   (寛政元年) 
 五十ニ番
  小日向西古川町 吉兵衛店 つた倅・八五郎
                         外一人 叱り

上記のもの、母つたが盗んだ衣類をたびたび持参したのだから、怪しいとおもわなければならないのに、なおざりにしていたこと、不埒につき、叱り。
裁決---持参した衣類や帯を知人から借りたと母つたは偽ったか、盗品と気づかなかったのは不心得につき、伺いの通り叱り

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2006.07.04

北町奉行・初鹿野河内守信興

初鹿野(はじかの)河内守信興というと、『鬼平犯科帳』文庫巻5に所載[鈍牛(のろうし)]に、北町奉行として登場。

長谷川平蔵が火盗改メの本役になるよりほんの一ト足早く、天明8年(1798)9月10日、浦賀奉行から北町奉行へ抜擢された仁。時に45歳。
着任のときはまだ河内守に叙爵されていなくて、伝右衛門という名で『柳営補任』に記録されている。

しかし、出自は、武田系の名門・依田豊前守政次の三男。将来を大いに嘱目されて、これも武田系の初鹿野家の養子に迎えられた。

『鬼平犯科帳』には、 〔初鹿野〕の音松という盗賊が登場している。そう、〔舟形〕の宗平のお頭である。

盗賊のほうの〔初鹿野〕は、ご想像のとおり、山梨県東山梨郡大和町初鹿野の出身だが、町奉行のほうのは、河内守の初鹿野家は、村名とは関係がなく、武田の部門に古くからつたわる苗字を、信玄が加藤伝右衛門昌久に継がせたものという。

それはそれとして、池波さんは、

 北町奉行・初鹿野河内守と火盗改方とは、どうもうまくいっ
 てない。                p265 新装p279

史実は、そんなことは記していない。

平蔵が寛政2年に設立した人足寄場の維持費を、幕府が2年目になってケチったため、幕府の金蔵から3000両借り出した。
その3000両で、当時、値下がりがはなはだしかった銭を買ったあと、両替商たちを北町奉行所へ呼び出して、初鹿野奉行同席のものと「銭の値をあげよ」と命じた。

銭の値が上がったところで3000両分の銭を両替商たちに引きとらせて、寄場の維持費400両をひねりだした。

これが、平蔵が策士などといわれた経緯である。

もともと体調がすぐれなかった初鹿野河内守は、このことを苦に病んだかして、その年---寛政3年12月20日に身罷った、48歳であった。

初鹿野河内守にご登場ねがったのはほかでもない。
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山本一力さんの初期の作品『損料屋喜八郎始末控え』(文春文庫 2003.6.10)という、北町奉行所の米(こめ)方筆頭与力・秋山久蔵と、かつてその部下だった喜八郎が、蔵前の札差相手に活躍するアイデア時代劇の文庫の、文月信さんの手になるカヴァー絵が、『江戸名所図会』の雪旦の[鎧の渡]の部分アレンジで、おもしろいとおもったこと。

と同時に、秋山与力の上司が初鹿野奉行だったこともある。

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2006.07.03

〔蓑火〕の喜之助から

ブログを「日記」と訳すことに、違和感をもちつづけてきた。

「日記」というから、明日になると、昨日のコンテンツは読まれなくなる。

せっかくの記録なんだから、貴重なデータとして、その後も繰り返し呼び出して読み返されるように仕立てられないか。

その1例として、このブログの、巨盗〔蓑火〕の喜之助をあげたい。

Photo_25
VTR『鬼平犯科帳』[老盗の夢]ほか

〔蓑火〕の喜之助は、数十人の部下を育ててきた。
その名を並べて、リンクを張ったら、20人を越えた。

↑オレンジ文字の〔蓑火〕の喜之助をクリックすると、彼のコンテンツが現れる。その中のオレンジ色になっている盗賊たちに、それぞれリンクがはられているから、読みたい奴(の)をクリックする。

クリックして呼び出した1人の項に、さらにリンクが張られている盗賊たちをつぎつぎにクリックして読み、[戻る]をつづけてクリックで〔蓑火〕の喜之助へ戻り、つぎの盗人でもおなじことを繰り返していくと、100人を超える盗賊たちに出会えるはず。

つまり、〔蓑火〕の喜之助は、『鬼平犯科帳』の蔭のヒーローなのである。

つぶやき:
この『鬼平犯科帳』プロムナードを始めると、1時間や2時間はすぐにたってしまう。時間の余裕のあるときにゆっくりお楽しみを。

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2006.07.02

松平定信『宇下人言』

岩波文庫にも誤植があることを知り、「ふーん。なるほど」とおもった。。

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松平定信『宇下人言・修行録』(2004.2.24 第9刷)
書き手は、いわずと知れた、田沼意次を政権の座から引きずりおとして、門閥家柄派の保守内閣を組閣した老中・首座定信(白河藩主)である。

タイトルの「宇下人言(うげのひとこと)」は、をウカンムリと下、をニンベンと言にわけたほどの自意識過多気味の自伝といってもいい。

[人足寄場]について述べたp118に、享保のころより(農村を捨てて江戸へ流れ込んできた)無宿人がふえていたので、その対策を---、

 志ある人に尋ねしに、盗賊改をつとめし長谷川何がしこころみ
 んといふ。

その「長谷川何がし」に(宣雄・火付盗賊改)と注が附されているが、これは鬼平の父親のイミナで、鬼平のほうは宣以(のぶため)。

宣雄は冷や飯・厄介者組だったのに、長谷川家の当主で従兄・宣尹(のぶただ)が若くして病没したので、急遽、子(銕三郎、のちの平蔵宣以)連れで入り婿・養子となった。

それにしても、長谷川平蔵のことを「長谷川何がし」として、きちんと名を附さないのは失礼きわまる。
この自伝で「何がし」呼ばわりしているのは、ここだけなのである。
定信の田沼意次系ぎらいの心情のあらわれか。

問題の箇所の前後を引用しておく。

 享保之比(ころ)よりしてこの無宿てふもの、さまざまの悪業
 をなすが故に、その無宿を一囲に入れ置侍(はべ)らばしかる
 べしなんど建議もありけれど果さず。
 その後養育所てふもの。安永の比にかありけん、出で来にけれ
 どこれも果さず。

 ここによって志ある人に尋ねしに、盗賊改をつとめし長谷川何
 がしここめみんといふ。

 つくだ島にとなりてしまあり。これを補理して無宿を置、或は
 縄ない、又は米などつきてその産をなし、尤(もっとも)公用
 とし、米金一ヶ年にいかほどと定めて給せらる。

 これによて今はけ無宿てふ者至て稀也。巳前は町々の橋
 ある処へは、その橋の左右につらなりて居しが、今はなし。

ということは、人足寄場長谷川平蔵の手腕によって大きな成果をあげたわけである。その功績アル仁を、「長谷川何がし」と記す定信の神経はなんなんだろう。

上の文章のあと
 
 いずれ長谷川の功になりけるが、この人功利をむさぼるが故
 に、山師などいうなることもあるよしにて、人々あしくいふ。

山師とか姦物という言葉を老中・定信に吹き込んだのは『よしの册子(ぞうし)』に収録されているリポートを書いた隠密たちである。
そのころ、隠密たちは、定信が喜びそうな話を提供するアンチ田沼派での取材をもっぱらとしていた。
そうでなければ、定信のヨイショ組のところ。

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2006.07.01

武士には重罰を

「縁は遠いのですが、一族と申して頼られてきたのでは一概に断ることもできかねまして……」
きり出したのは、鉄砲(つつ)・16番手組頭の佐野豊前守政親(1100石)だ。

寛政2年(1790)。8月に組頭に発令された政親の就任祝いの席であいさつを交わしたときから、長谷川平蔵は15歳年長のこの仁に親しみを感じていた。

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政親には、20年前に200俵の旗本・弓削多(ゆげた)甚左衛門の後妻にはいった従妹(いとこ)がいた。
(←弓削多家の家紋)

弓削多家の家来・小山隼人が供をして西の丸へあがったとき、あろうことか、納戸部屋へしのびこんでつづらから衣類を盗みだし、1分(1両の4分の1)で質入れしたのだ。

質屋からの通報でご用となった隼人を、弓削多家は即刻に罷免、彼は無宿人に転落した。

「従妹が申しますには、甚左衛門は72歳ながら近く留守居役の内意もたまわっているとか。家来の不始末は昇進にさしつかえるゆえ、なにぶんの配慮がいただけないものか…と」
「身内の女どものいい分には、お互い手を焼きますな」
平蔵は笑って承知し、1両にもおよばない盗みのゆえ、入墨(いれずみ)とたたきの上で宿主へ引き渡しでよろしいか、と幕府の評定所へ伺った。

評定所からくだされた裁決は「死罪」。

理由は、道理もわきまえない市井人が1分程度の盗みをしたのであれば、伺いどおりの入墨とたたきでよいが、被告はかりにも両刀を帯している武士である。庶民の鑑(かがみ)とならねばならない存在なのに、城内で盗みをしたのは言語道断である。町人百姓よりとうぜん重く罰されるべきで、よって切腹。

江戸時代の武士は、人口のほんのひと握りの数でしかなかったが、人びとの上に立つ者としてきびしく裁かれたのだ。

国家公務員や地方公務員の不祥事にまつわる処分が甘すぎると、国民の多くがいきどおりをおぼえる。
税金から報酬を得ている公務員は、年貢から扶持を得ていた武士に匹敵するともいえようか。
その武士への罰は重かった。着物の2,3枚の盗みで武士だと死罪を申しわたされたのだ。

「豊前どの。お力になれなくて面目ない。したが、評定所のいう、武士の刑量は町人百姓より数倍重く---との建て前もうなずけます。まあ、武士が町人百姓の範となるような行動をいつもとっているか、公儀がいつも武士をきびしく裁いているかと問われると、忸怩(じくじ)たるものがありますが……」

「長谷川どの。いただいたおこころづかいのほどは十分に身にしみております。従妹も老妻といわれるほどの齢になっているのにせんないことを頼んできたものです。この上は、どうか、ご放念くださるよう」

甚左衛門はつつがなく、留守居役へ昇進した。

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