長谷川平蔵の手ぬかり
とてつもない史料を目にした。
丸山雍成博士『近世宿駅の基礎的研究』がそれ。
蕨(わらび)宿(埼玉県蕨市)の子細の研究書だが、中に長谷川平蔵に触れた部分があるのだ。
寛政4年(1792)4月上旬、長谷川組に捕らえられた盗賊の自白により、蕨宿の若者4人が土地の岡っ引きの案内で縛られ、江戸の平蔵の屋敷への引きたてられた。
幸七というのがとりわけきびしく責められて二度三度と気絶するのを見た、と同道した五人組の者が帰村して報告した。
幸七はのちに遠島となっているから、共犯者に間ちがいなかったのだろう。
が、平蔵自身は平生、「おれは拷問はしない」と広言している。まあ、平蔵はやらなくても吟味方与力や同心が拷問することはあったかも。
が、推理していくと、報告に誇張があったフシがある。というのは報告者は、幸七が気絶するところを腰掛(こしかけ。待合所)で見ていたといっている。
白洲での尋問なら腰掛からうかがえても、拷問部屋までは見えまい。
見てきたようななんとか…の例ではなかろうか。
ついでに記すと、幸七とともに引きたてられた甘酒屋のせがれ・熊五郎は打ち首になっているから、彼らが盗みに荷担したか、首謀したことははっきりしているのだ。
ところが、幸七らが処刑されたことを逆うらみした村人が、2年後の寛政6年に事件をおこした。
酒に酔った湯上がりの男が、茶屋で休んでいた代官・野田文蔵の小者2人にからんだために、
「無礼なり、長谷川平蔵、野田文蔵」
といってなぐりかかったというのだ。
通りがかりの住職が詫びているすきにからんだ男は逃げた。脇差を抜いて追いかけようとする小者を、若者たちが梯子(はしご)で抜身をたたきおとして縛り、宿役人へ引きわたした。結果は村方が2人へ薬代の名目で3両渡してケリ。
丸山博士は、
「長谷川平蔵などの名が、若者たちを刺激した面も無視できない」
と付記する。
出所は地元有力者の日記とのこと。
「無礼なり、長谷川平蔵、野田文蔵」
の文意を、
「無礼者め。おれたちは長谷川平蔵どの、野田文蔵どのの手の者ぞ」
といったのだと受けとっておきたい。
江戸の平蔵の名が、中山道の二つ目の宿場・蕨あたりへまでひびいていた証拠だ。
が、平蔵が罪人たちへそそいでいた慈悲深さまでは、日記記録者へ伝わっておらず、引きたて方の問答無用ぶりだけを記憶にのこしていたらしい。
寛政4年の件は、手先をつとめた地元の岡っ引きの手荒さが長谷川組のものとして印象づけられたと推察。
事件の少ない地方(じかた)では、一度きりの出来ごとをくり返し話題にするし、身びいきもひときわ強いから、言動にはよほど気をくばらないといけない。
長谷川組の与力・同心はそこをぬかったようだ。
同時に、長官・長谷川平蔵のさすがの手ぬかりともいえようか。
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