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2006.07.23

長谷川平蔵の屋敷跡

長谷川平蔵屋敷は、『鬼平犯科帳』では目白台となっている。
池波さんがそう決めた
経緯は、すでに2006年6月26日の項で明らかにした。
        ↑(これをクリックし、26日までスローダウン)

史実での屋敷跡は、
墨田区菊川2丁目16
にあり、区が都営新宿線菊川駅のA3を出たところに銘板を立てている。

Kikukawa

記載はこうである。

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長谷川平蔵住居跡
              所在       墨田区菊川三丁目十六番
長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享三年(一七四六)赤坂に生まれました。

平蔵十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三の橋通り菊川の、一二三八坪の邸に移りました。

長谷川家は三方ヶ原(みかたがはら)の合戦以来の旗本で、家禄四〇〇石でしたが、将軍近習(きんじゅう)の御書院番(ごしょいんばん)の家として続いてきました。

天明六年(一七八六)には、かつて父もその職にあった役高(やくだか)一五〇〇石の御先手弓頭(おさきてゆみがしら)に昇進し、加役(かやく)である火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)につきました。

火附盗賊改役のことは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、通例二、三年のところを、没するまでの八年間もその職にありました。

また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の「人足寄場(にんそくよせば)」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職業訓練をもって、社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。 

寛政七年(一七九五)、病を得てこの地に没しました。この地は孫の四代目平蔵の時、江戸町奉行遠山金四郎の下屋敷ともなりました。

 平成九年三月               墨田区教育委員会

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じつは、この銘板の文章は、2か所のミスが、改められたものである。

以前の銘文は次のとおり。

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長谷川平蔵住居跡
              所在       墨田区菊川三丁目十六番
長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享二年(一七四五)築地に生まれ、明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄(のぶお)の屋敷替えによって、この本所三之橋通り菊川の、一二三八坪の邸に移った。

長谷川家は三方ヶ原(みかたがはら)の合戦以来の最古参の旗本で、家禄は四〇〇石であったが、将軍近侍(きんじ)の御書院番組の家として続いた。

天明六年(一七八六)、父もその職にあった役高一五〇〇石の御先手弓組に昇進し、加役(かやく)で火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)にもついた。

火付盗賊改のことは池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でもよく知られ、この活躍は「いま大岡(いまおおおか)」とも評せられ、通例二、三年のところを、没するまでの八年間もその職にあった。

また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の人足寄場(にんそくよせば)作りである。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職業訓練をもって、社会復帰を目的とするもので、日本刑法史上独自の制度を創始したといえる。

寛政七年(一七九五)年、病を得て没した。この地はその後江戸町奉行遠山金四郎の下屋敷となっている。

    平成元年三月               墨田区


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生年延享2年でなく、3年であることを指摘したのは、ぼくの著作[『鬼平犯科帳』を助太刀いたす](KKベストセラーズ 1996.10.5)であった。

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コメント

私が見たのは、改訂される前の銘版だったような気がします。
語り口が優しくなってるんですね。

いま大岡と言うのが削除されてますね。

投稿: ぴーせん | 2006.07.23 11:32

>ぴーせんさん

平成元年の、前の分の文章は、瀧川政次郎先生一門の方の手になるものと推定しています。

瀧川先生一門が長谷川平蔵の研究---というより、法制史上からみた人足寄場の意義---の賞揚に目をつけられたのは早かったですから。

もつとも、瀧川政次郎著『長谷川平蔵---その生涯と人足寄場』(朝日選書)が出たのは、『鬼平犯科帳』シリーズが始まってしばらくたってからでした。

この著書が、2点のミスを冒しました。
すなわち、1は、隅田川河口の築地生まれとしたこと。
2は、生年を延享2年としたこと。

1は、その後、研究家の釣 洋一氏が『東京史稿』をもとに赤坂・築地を主張されました。
たしかに、宝暦以前の江戸大地図に、赤坂氷川神社の北に長谷川伊兵衛の屋敷地が描かれています。伊兵衛は、養子に入った宣雄が平蔵を名乗る前の代々の長谷川家の相名です。

その2は、寛政7年に没年が50歳だったとの『寛政重修諸家譜』の書き込みを手がかりに、当時は生まれた年が1歳というのを頭に置いて逆算し、延享3年を割り出しました。

「いま大岡」は、明治の朝野新聞に書かれた噂からとられたものです。長谷川平蔵は、松平定信派にきらわれましたから、史実の継承がほとんどなされていません。
それで、俗書の朝野新聞の記事を引用したのでしょうが、あとになってみると、学者として間が悪いと判断して、削除されたのでしょう。

投稿: ちゅうすけ | 2006.07.24 03:29

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