松平定信『宇下人言』
岩波文庫にも誤植があることを知り、「ふーん。なるほど」とおもった。。
松平定信著『宇下人言・修行録』(2004.2.24 第9刷)
書き手は、いわずと知れた、田沼意次を政権の座から引きずりおとして、門閥家柄派の保守内閣を組閣した老中・首座の定信(白河藩主)である。
タイトルの「宇下人言(うげのひとこと)」は、定をウカンムリと下、信をニンベンと言にわけたほどの自意識過多気味の自伝といってもいい。
[人足寄場]について述べたp118に、享保のころより(農村を捨てて江戸へ流れ込んできた)無宿人がふえていたので、その対策を---、
志ある人に尋ねしに、盗賊改をつとめし長谷川何がしこころみ
んといふ。
その「長谷川何がし」に(宣雄・火付盗賊改)と注が附されているが、これは鬼平の父親のイミナで、鬼平のほうは宣以(のぶため)。
宣雄は冷や飯・厄介者組だったのに、長谷川家の当主で従兄・宣尹(のぶただ)が若くして病没したので、急遽、子(銕三郎、のちの平蔵宣以)連れで入り婿・養子となった。
それにしても、長谷川平蔵のことを「長谷川何がし」として、きちんと名を附さないのは失礼きわまる。
この自伝で「何がし」呼ばわりしているのは、ここだけなのである。
定信の田沼意次系ぎらいの心情のあらわれか。
問題の箇所の前後を引用しておく。
享保之比(ころ)よりしてこの無宿てふもの、さまざまの悪業
をなすが故に、その無宿を一囲に入れ置侍(はべ)らばしかる
べしなんど建議もありけれど果さず。
その後養育所てふもの。安永の比にかありけん、出で来にけれ
どこれも果さず。
ここによって志ある人に尋ねしに、盗賊改をつとめし長谷川何
がしここめみんといふ。
つくだ島にとなりてしまあり。これを補理して無宿を置、或は
縄ない、又は米などつきてその産をなし、尤(もっとも)公用
とし、米金一ヶ年にいかほどと定めて給せらる。
これによて今はけ無宿てふ者至て稀也。巳前は町々の橋
ある処へは、その橋の左右につらなりて居しが、今はなし。
ということは、人足寄場は長谷川平蔵の手腕によって大きな成果をあげたわけである。その功績アル仁を、「長谷川何がし」と記す定信の神経はなんなんだろう。
上の文章のあと
いずれ長谷川の功になりけるが、この人功利をむさぼるが故
に、山師などいう姦なることもあるよしにて、人々あしくいふ。
山師とか姦物という言葉を老中・定信に吹き込んだのは『よしの册子(ぞうし)』に収録されているリポートを書いた隠密たちである。
そのころ、隠密たちは、定信が喜びそうな話を提供するアンチ田沼派での取材をもっぱらとしていた。
そうでなければ、定信のヨイショ組のところ。
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