武士には重罰を
「縁は遠いのですが、一族と申して頼られてきたのでは一概に断ることもできかねまして……」
きり出したのは、鉄砲(つつ)・16番手組頭の佐野豊前守政親(1100石)だ。
寛政2年(1790)。8月に組頭に発令された政親の就任祝いの席であいさつを交わしたときから、長谷川平蔵は15歳年長のこの仁に親しみを感じていた。
政親には、20年前に200俵の旗本・弓削多(ゆげた)甚左衛門の後妻にはいった従妹(いとこ)がいた。
(←弓削多家の家紋)
弓削多家の家来・小山隼人が供をして西の丸へあがったとき、あろうことか、納戸部屋へしのびこんでつづらから衣類を盗みだし、1分(1両の4分の1)で質入れしたのだ。
質屋からの通報でご用となった隼人を、弓削多家は即刻に罷免、彼は無宿人に転落した。
「従妹が申しますには、甚左衛門は72歳ながら近く留守居役の内意もたまわっているとか。家来の不始末は昇進にさしつかえるゆえ、なにぶんの配慮がいただけないものか…と」
「身内の女どものいい分には、お互い手を焼きますな」
平蔵は笑って承知し、1両にもおよばない盗みのゆえ、入墨(いれずみ)とたたきの上で宿主へ引き渡しでよろしいか、と幕府の評定所へ伺った。
評定所からくだされた裁決は「死罪」。
理由は、道理もわきまえない市井人が1分程度の盗みをしたのであれば、伺いどおりの入墨とたたきでよいが、被告はかりにも両刀を帯している武士である。庶民の鑑(かがみ)とならねばならない存在なのに、城内で盗みをしたのは言語道断である。町人百姓よりとうぜん重く罰されるべきで、よって切腹。
江戸時代の武士は、人口のほんのひと握りの数でしかなかったが、人びとの上に立つ者としてきびしく裁かれたのだ。
国家公務員や地方公務員の不祥事にまつわる処分が甘すぎると、国民の多くがいきどおりをおぼえる。
税金から報酬を得ている公務員は、年貢から扶持を得ていた武士に匹敵するともいえようか。
その武士への罰は重かった。着物の2,3枚の盗みで武士だと死罪を申しわたされたのだ。
「豊前どの。お力になれなくて面目ない。したが、評定所のいう、武士の刑量は町人百姓より数倍重く---との建て前もうなずけます。まあ、武士が町人百姓の範となるような行動をいつもとっているか、公儀がいつも武士をきびしく裁いているかと問われると、忸怩(じくじ)たるものがありますが……」
「長谷川どの。いただいたおこころづかいのほどは十分に身にしみております。従妹も老妻といわれるほどの齢になっているのにせんないことを頼んできたものです。この上は、どうか、ご放念くださるよう」
甚左衛門はつつがなく、留守居役へ昇進した。
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