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2006.06.30

美質だけを見る

本コラムに登場させる幕臣でもっとも愛着を感じているのは、平蔵の同僚で、鉄砲組16番手の組頭・佐野豊前守政親(1100石)だ。

Sanokanon

経歴は堺町奉行や大坂町奉行を経ており平蔵の先輩で、15歳年長なのに、火盗改メ・助役(すけやく)という立場を忘れず、謙虚に教えを乞う姿勢をとった。
(←佐野家の表家紋 丸に剣木瓜)

欧米流パフォーマンスとかで、「おれが、おれが……」と自分を売りこむのが今日風と思われている。平蔵にもその嫌いがあった。だから同僚たちが敬遠しもした。

この国には、「能あるタカは爪を隠す」といって佐野豊前式のひかえ目を美徳とする暗黙の評価基準がある。
人望は、どちらかといえば平蔵流より豊前守式のほうへあつまる。

平蔵と豊前守は性格がまるで対照的なのにもかかわらず互いに敬意をもって親交をつづけえたのは、人を見るときは美質だけ、との豊前守の信条によるところが大きい。

豊前守の組の者が神田の岡っ引きの勘太を捕らえた。長谷川組の同心たちが所轄ちがいの所業といきまくのを、平蔵は「豊前どののやりようを学ぶよい機会(おり)だわ」ととりあわない。所轄ちがい---火盗改メ・本役の所轄は日本橋から北、助役は日本橋の南を担当、と決まっており、神田は本役の管轄内。

長年岡っ引きをやっていた勘太は、商店をむしった金で米屋株を買ったり、素行の悪い男たちを中間として番所や見付へ入れるなどの悪評が立っていた。平蔵もいずれ引っ捕らえるつもりだった。

佐野組はまず、中間の1人を博奕の現行犯で捕らえ、その身元引受人というふれこみで勘太が偽の名主や大家をこしらえて出頭してきたところを入牢させてしまった。

「あれで終わらせるような豊前どのではあるまい」
平蔵が与力同心たちへいった3日とたたないうちに、佐野組は勘太を放免した。

(うちのお頭も焼きがまわったか)組下たちがささやいたとき、佐野組は中間に化けてあちこちの見付へもぐりこんでいる盗賊たちを引きたてはじめた。勘太の密告(さし)だった。
「かの仁の悪(わる)の使いようは、おれ以上よ」と笑う平蔵から、長谷川組配下の者たちは敬意のささげ方をおぼえた。

ここで佐野豊前守のもう一つの顔を紹介しておきたい。
天明4年(1784)春、殿中で若年寄・田沼山城守意知に斬りつけた佐野善左衛門(500石)は、切腹を申しつけられて家は断絶。
人びとは彼を「世なおし善左衛門」とほめそやして墓前に紫煙がたえなかった。
本家すじの豊前守は大伯父にあたる。

善左衛門のことはほとんど話題にしない豊前守だったが、平蔵には洩らした。
「あの者は、とり柄の正義感が強すぎたがために扇動に乗りやす質(たち)で、父親が50をすぎてからの子なので諸事甘く育てられました。産んだのは美人自慢の、自分が中心になりたがる芸者……それを継いでいたのを反田沼派にたくみに利用され……」

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