長谷川平蔵の自己PRパワー
石井良助先生編集になる『江戸町方の制度』(新人物往来社 1968.4.15---奇しくも、『鬼平犯科帳』の連載が『オール讀物』誌で始まった年)は、明治25年(1892)4月から翌26年7月まで、『朝野新聞』に連載されたコラムを、項目別に整理・編集した貴重な資料である。
その[人足寄場創立の由来]のところに「長谷川平蔵の逸事」と小見出しした文章があり、驚かされる(現代文風に手直しして引用)。
寄場創立のことを建議したのは長谷川平蔵という人物で、当時、腐れ果てていた官海の中にあって、不染の操を堅持していた循吏(注・志の高い役人)であった。(少略)
火付盗賊改メとしての平蔵は、微服(簡素な着流し)でしばしば市中を徘徊して民情を見もし、聞きもするとともに、組の配下たちの勤怠を監査していた。
ある夜、その手の組同心某が麹町9丁目(いまのJR四谷駅あたり)を巡行していると、たまたま編笠を眼深にかむって通りすぎようとする者浪人風の者がいた。
風体がいささか怪しげなので、誰何(すいか)して「待て」と呼びかけたが、その者は聞こえぬていで行きすぎようとする。
こやつ、間違いなく賊なりと、追いついて編笠に手をかけ、面(おもて)を覗いてみると、これなん、長官の平蔵ではないか。
某は大いに驚き、恐縮・拝伏して謝ると、平蔵は声色をやわらげ、「やれやれご大儀、ご大儀。よくぞ心づかれた」と労をいたわり、悠々と立ち去った。
これのどこに驚いたか。
じつは、この顛末は、老中首座・松平定信方の隠密のリポート『よしの册子(ぞうし)』に、そっくりそのまま書かれている---ということは、微行している長谷川平蔵を、定信側の隠密が尾行して経緯を報告したことを示している。
隠密のリポート『よしの册子』は、その後、厳封されて、桑名藩に保存され、昭和の初期に森銑三さんが写しの一部を公表するまで、秘されていた。
したがって、『朝野新聞』の筆者は、このエピソードを、定信ルートでなく、長谷川平蔵ルートから流れた(正確にいうと、流された)ものに拠っている。
平蔵は、隠密が尾行していることを知っていて、その裏をかき、自分の側から、己れと己れの組下がいかに入念に務めを果たしているかを、定信方と世間に広めるために、情報を流しているのである。
つぶやき:
その自己PRパワーの強さは、戦国期の武士たちのそれにまさるとも劣らない。徳川後期の役人のものとはいいがたい。
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