« 役宅の庭の花木 | トップページ | [大川の隠居]のモデル »

2006.07.08

上への情報ルート

「捕物の名人」――が長谷川平蔵に与えられた当時の世評だ。

たしかに犯人逮捕の実績はは群を抜いていたし、大泥棒といわれていた真刀(進藤、神道、新稲とも書く)小僧、葵小僧、大松五郎、善奴、早飛の彦ら、名だたる首領も捕らえた。
しかし、平蔵の事蹟が後世で高く評価されているのは、隅田川河口の石川島に無宿人を収容した人足寄場の起立と成功した運営のほうだ。

052
手前は湊稲荷。右向い・石川島の手前の林が人足寄場
左手の長い橋は、隅田川に架かる永代橋
(『江戸名所図会』 塗り絵師:西尾 忠久)

心学者として著名だった中沢道二(どうに)を寛政2年(1790)から人足寄場へ月3回招き、収容者たちに講話を聞かせもした。
寄場から神田川・筋違橋(現・万世橋)の東北詰の薪河岸まで、迎えの専用舟を出したという。

道二の人選は老中・本多弾正少弼(しょうひつ 陸奥国泉藩主。2万石)。このとき52歳の本弾は、定信少壮内閣では異例の年配者で、それだけに老獪(ろうかい)だし、顔もひろかった。

心学者の道二も60歳をはるかに越えていたし、京都の商人の出だったから気ぐらいは高かったが如才ない。なにかというと権力者:松平定信の名を口にした。

「越中(定信)さまのお屋敷に伺ったとき……」
ああだった、こうだった……といっては聴衆の尊敬を集めようとした。道二が松平家へ参上したのは1,2回なのだったが……。一度会っただけの有名企業のトップや政治家の名刺をいつも名刺入れにしのばせていて、ことあるごとにひけらかしているご仁のすようなものかも。

とにかく、道二の定信びいきに目をつけた平蔵が、入れ知恵をした。
「寄場では使えないテだが、町では効果のある妙案があるよ」
「と、おっしゃいますと?」
「先生の講話を聞いた者たちのことを、越中どのが知りたがっておられるといって、帳面に名前を書かせる」
「越中さまがご覧になりますかねえ?」
「聴衆には、ご覧に入れるつもりだといっとくのさ。それで先生の株はいっそう上がるし、名簿づくりもできて、一石二鳥というもの」

平蔵のねらいは、道二の口から「人足寄場の名簿はございませんが……」と寄場の受講者の様子を定信の耳へ入れることだった。
新聞のない時代だから人の口だけが頼り。いまでいう逆リーク。ボスの耳へはこっちの働きぶりが直接、間接にとどくように気を配っておくのが中間管理者のパフォーマンス……情報操作術といえる。

いや、じじつ寄場には道二の講話を聞いて涙を流している収容者もいたのだ。道二招聘の成果は顕著だったといってもいい。

だが、「平蔵は山師」といちど決めこん老中首座・定信の平蔵にまつわる印象は容易に変らなかった。それでも平蔵はあきらめない。

定信側の隠密が聞いているところで、
「1年やっただけで家産がかたむくといわれている火盗改メを、3年もやっていると首をくくりたくなるほど借金がふえるが、越中どのが、市中から無宿人が目に見えて減った、平蔵はよくやっているとおっしゃってくださっているお言葉が励まし」
と声高に話したりしている。

こういった史料を目にすると、平蔵の肩を抱いて、
「分かりの悪いボスを持つと、お互い苦労するね」
といってやりたくなる。

平蔵は、幕府の役人としては珍しく民意のあり場所、その反応……つまり情報の収集と伝播について理解がおよび、それをソフトに活用していた仁(じん)だった。

|

« 役宅の庭の花木 | トップページ | [大川の隠居]のモデル »

001長谷川平蔵 」カテゴリの記事

コメント

人の価値は情報によって決まると言われています。
平蔵の毀誉褒貶は同僚や上司に如何に印象づけるか
によって決まるので、虚々実々の噂話がもたらされ
たのでしょうが、殿さまの松平定信が自分の持って
いる知識から隠密たちの話を取捨選択して定信は
彼自身の「長谷川平蔵像」を描いていたのでしょう。
要するに改革を称える保守主義者である定信には
現場の苦しみを知らず平蔵は山師としての先入観か
ら判断せざるを得なかったのではないでしょうか。

投稿: edoaruki | 2006.07.08 13:56

>edoarukiさん

松平定信は、幕閣の隠密たちの初期の報告書---定信側へのゴマすり的な「よしの冊子」だけ読んで、平蔵のイメージをきめたみたいです。

アンチ田沼意次の定信側を取材していますから、田沼派---あるいは田沼的開発型---の長谷川平蔵は、とうぜん、よくいわれません。

そこでできたファースト・インプレッションを、あとあとまで
持ち続けたようです。

隠密たちも、2,3年経って、取材方法が平静になると、平蔵の評価は上がっているのに、定信が報告書に興味をうしなってしまっていて、もう、読まなくなったみたいなのです。

投稿: ちゅうすけ | 2006.07.10 10:42

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 役宅の庭の花木 | トップページ | [大川の隠居]のモデル »