部下を信頼する
榎本武揚(たけあき)は、オランダで海陸兵制を学んで帰国、幕府の海軍奉行として五稜郭(ごりょうかく)に立てこもった人物として知られている。
武揚と行をともにした陸軍総裁・松平太郎のほうはさほど有名ではない。
五稜郭の開城後、東京へ護送・幽閉され、のち恩赦。
ものの本には「性格は豪放にして機知に富み、意表をつく企画を考え、ものごとにこだわらなかった」とある。
長谷川平蔵の再来みたいだと思っていたら、同名の息子・太郎が大正9年(1020)に出版した名著『江戸時代制度の研究』にこう書いた。
江戸幕府270年を通じて200人近くいた火付盗賊改メで「英才ぶりが広く知られているのは長谷川平蔵、中山勘解由(かげゆ)、太田運八郎」。
平蔵をいの一番に据えてたのだ。
中山勘解由(3500石)は平蔵より100年むかしの人。
エビ責めの拷問(ごうもん)を考案したり、不良旗本・白柄(しらつか)組と対抗した町奴(やっこ)組をこっぴどく取り締まった。
太田運八郎(3000石)のことは太田道潅の末、としか調べがついていない。
(丸に内桔梗は太田家の表家紋)
父親(30歳)が平蔵(47歳)の助役(すけやく)に発令され、教えを乞うたら、
「本役と助役とは競争しあってこそお役目が果たせるというもの。こっちはこっちでやるから、そっちはそっちでおやりになるんですな」
とけんもほろろにあしらわれ、火盗改メを管轄している若年寄へ泣き言を持ちこんだと記録にある。
記録だけを読むと、せっかく着任の挨拶をしにきた父のほうの運八郎を平蔵がいじめているみたに思える。
が、事情がわかると平蔵の処置もうなずける。
その1。運八郎は若年寄の執務室へ呼ばれたとき、てっきり西の丸の目付(めつけ)に任命されるものと期待して行ったが、先手の組頭だったのでがっくりきた、とまわりへふれまわした。
目付は1000石高、先手組頭は1500石高の役職手当。
ふつうなら後者に発令されるのを喜ぶのに、家禄が3000石で役職手当を超えているために1石もつかない。
そこで彼は、目付は出世コースとして先手組頭より優先させたのだ。先手組頭の平蔵にはカチンくる。
その2。運八郎が就任した先手鉄砲(つつ)11番の組は、それまでの50年(600か月)のあいだに火盗改メに104か月も従事しており、平蔵の組の144か月に次いで経験豊富な組下ぞろい。
盗人逮捕のコツは「おれに教えを乞うより、組の与力同心に聞いてやってこそ、彼らも働き甲斐を感じるというもの」と平蔵は言いたかった。
組の与力同心をやる気にさせるのが組頭の最大の仕事の一つだ。その仕事ぶりを認めてやり、誉めあげ、信頼されていると感じさせることだ。
赤○は長谷川組 緑○は太田運八郎組
つぶやき:
「自分が望んでいたポストはここではなかった」などと口にしていることを耳にした部下は、
「なんだ、こいつ」
と仕える気もなえ、
「長谷川どのはよくぞたしなめてくだされた」
と思う。
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