〔鹿留(しかどめ)]の又八
『鬼平犯科帳』文庫巻8に収録の[あきれた奴]の一人。
〔蓑火〕の喜之助の下で修行をつみ、3カ条を守りながらのひとりばたらききののち、足を洗い、浅草六軒町・裏道で数珠師として生計をたて、女房・子もいる。
(参照:〔蓑火(みのひ)〕の喜之助の項)
年齢・容姿:42歳。ずんぐりとした体格だが、動作はきびきびしている。
生国:甲斐国南都留郡鹿留村(現・山梨県都留市鹿留(ししどめ))
探索の発端:谷中を夜廻りしていた同心・小柳安五郎が、古門前町の正林寺(架空)の塀から飛び降りた2人組の賊に出会い、峰打ちにして〔鹿留〕の又八だけを捕らえた。
その後、子ども連れで両国橋から身投げしようとしている又八の女房に行きあわせて、助けた。
相棒の名前を吐かない又八を、小柳は、女房に会わせてやろうといって牢から出し、けっきょくは逃がした形をとり、自分が身替わりりとなって、半年間入牢する。
半年後、〔鹿留〕の又八は、義理で助(す)けてやったのに僧2人を殺した〔雨畑〕の紋三郎を探しだして捉え、火盗改メの役宅へ帰ってきた
(参照: 〔雨畑〕の紋三郎の項)
結末:七年の遠島。女房おたかはその帰りを待つ。
つぶやき:せっかく足を洗い、女房ももらい、子もなしながら雨畑〕の紋三郎の助(す)け働きをしたのは、ひとり働きを時代に知り合い、心を許しあった、〔夜兎〕の角右衛門一味にいたことのある〔八町山〕の清五郎への義理がからんでいたからである。〔雨畑〕の紋三郎は清五郎の甥だった。
義理を重んじ、受けた恩をいつまでも忘れない---たとえ、それが自分の身の破滅を招くとわかっていても、恩義を返さないではいられない---西洋風も日本風もない、きちんとした人間の基本である。
山梨県都留市産業観光課 小宮さんからのリポート
あの『鬼平犯科帳』に、都留市鹿留出身の人物(鹿留の又八)が登場していたことに、驚きと喜びでいっぱいです。お教えいただきありがとうございます。
その鹿留ですが、明治8年(1875)1月に、ほかの8か村と合併して桂村となり、その後、鹿留を含む東桂村と西桂村に分離。東桂村は昭和29年(1954)4月29日に1町4か村が合併して都留市となりました。
かつての鹿留村ですが、文化3年(1806)は 222戸、 862人、天保12年(1841)は 177戸、 619人との記録にあります。昭和55年(1980)では 415世帯 1,704人でした。
鹿留渓谷(都留市のリーフレットより転載)
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コメント
〔鹿留〕の又八って、〔蓑火〕のお頭ゆずりのお盗めの3カ条をきちんと守っていたんでしょ。
そういう人物が地元の出身だとわかったときの、都留市役所の産業観光課の方のおよろこび、わかるような気がします。
でも、〔鹿留〕の又八が小説に登場してから30年もたっています。その間、都留市の鬼平ファンの方たちは、又八のことを観光課へ告げていなかったのでしょうか?
都留市には、もっともっと、貴重なな観光資源があるのですね、きっと。
投稿: 加代子 | 2005.01.07 10:56
〔鹿留〕の又八さんは、盗みを助けただけでょ?
寺僧を殺したのは〔雨畑〕の紋三郎でしょ?
しかも、足を洗っている。
鬼平さんの「調書」にそのことも記してあった?
---なのに、遠島7年?
どこへ、「調書」を出したのですか?
どこが、遠島7年ときめたのですか?
火盗改メって、裁判権をもっていたのではないのですか?
投稿: 裏店のおこん | 2005.01.07 11:10
>おこんさん
きびしいご質問ですね。
まず、裁判権---たしかに、裁判権は与えられてはいました。
しかし、捕らえた盗人を町奉行方へ渡すことも少なくはなかったようです。
幕府での職制は、長谷川平蔵の頃は若年寄支配でしたから、「調書」と下した「裁決文」は若年寄勝手方(目付)へ届けたのではないでしょうか。
さらに、判決が難しい事例は、幕府の最高裁判所ともいえる「評定所」へ判決を伺いました。
『御仕置(裁判)例類集』という本を見ると、長谷川平蔵宣以は、在任中に200件伺い書をあげています。
それによると、平蔵は寛政4年(1792)まで----
人足寄場取締を解任されるまで---は、1ランク軽い裁決で伺う傾向があったようです。
まあ、あちこちへ「調書」を届けたことは間違いありません。
それで、〔鹿留〕の又八の刑期短縮ですが、手順を踏めば申請が可能だったようですから、小柳安五郎が佐嶋忠介を通じて浅草六軒町の名主などへ頼んで、短縮申請をしたでしょうね。
で、7年のところを3年か4年で島帰りをしたのでは。
3年ならおたかはまだ29歳ですから、それから女として開花していったとしても、おかしくはありませんね。
投稿: ちゅうすけ | 2005.01.07 12:33
ほお、火盗改メの裁判とは、そういうものだったのですか。
軍制の名残り---などと書かれているので、もっと荒っぽいものとおもっていました。
いや、仕置(裁判--法)と年貢(税)は、治政の根幹ですからね。
そこが公平でないと、不満がおきます。
公平だと、みんな納得して従うわけです。
いまの自民党政治は、票集めできるところに厚く、そうでないところに薄いくて公平でないから、不満がたまるのですね。
投稿: 文くばり丈太 | 2005.01.07 13:07
〔鹿留〕の又八が山梨県都留市鹿留の生まれ、相方で寺僧2人を無益な殺害した〔雨畑〕の紋三郎は山梨県南巨摩郡早川町雨畑の生まれ---となると、同郷とはいえないまでも、同じ甲斐国---同国生まれといえませんか。
地図で確かめたら、県東部の都留市と県西部の早川町とでは、100キロメートル以上もへだたっており、私は山梨県に住んだことがないのではっきりとはいえませんが、同じ甲斐人といっても、県東と県西では気質が異なるのかも知れませんね。
甲斐生まれ・山梨県育ちの方のご意見を承りたいところです。
2人が甲斐国の生まれということだと、2人を引き合わせた〔八町山〕の清五郎爺つぁんも同国の出身?
これも山梨県の方にお教えいただきたいのですが、「八町山」という地名、山梨県にあったのでしょうか。
そうそう、〔八町山〕の清五郎爺つぁんが仕えた〔夜兎〕の角右衛門も甲斐の生まれかしらん?
投稿: 横浜のムー | 2005.01.08 04:01
>ムーさん
いつも鋭いコメントを、ありがとうございます。
大盗〔夜兎〕の角右衛門の生国ですが、『鬼平犯科帳』の連載がはじまる2年半前の『別冊小説新潮』に発表された[白浪看板](のち文庫収録時に[看板]と改題)には、浜松の旅籠〔なべや〕三郎兵衛方に捨て子されていた1歳児、とあります。
したがって、生国は不明です。
この捨て子を引きとったのが、先代の〔夜兎〕の角右衛門で、60歳で畳の上で大往生をとげました。
[白浪看板]は、火盗改メ方の長谷川平蔵がチラッと顔を見せる2作目の単独短篇です。1作目は葵小僧が初顔見せする[江戸怪盗伝]です。[妖盗葵小僧]はそのふくらまし版といえます。
[白浪看板]には、配下の〔前砂〕の捨蔵もすでに「隠居」と呼ばれて、顔を見せています。
投稿: ちゅうすけ | 2005.01.08 08:51
ADSLからSOーNETのBフレッツへの切り替えで少し休みました。
さて[鹿留]の又八は遠島になりましたが行き先は比較的罪が軽いから大島だったのでしょうか。
流罪先は江戸では
大島、八丈島、三宅島、新島、神津島、御蔵島、利島で
京大阪西国中国の流罪先は
薩摩、五島之島々、隠岐国、壱岐国、天草郡
ときめられていたそうですが、期間が短いと近い島になったのでしょうね。
待ってるおたかに早く会わせてあげたい。
投稿: 靖酔 | 2005.01.10 09:27
昨年11月まで都留市に20年暮らしていました。
「鹿留(しかどめ)の又八」という人が
いたんですね・・・・。
ちょっと疑問ですが昔「鹿留」は「しかどめ」
って言ったんですか?
今は「ししどめ」というのですが…
投稿: つるりん | 2005.01.21 17:42